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マロンはもう一度、家に帰りたい  作者: 本沢マロン
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プロローグ1 マロンの仕事

 マロンが本沢家に来てから、十五年が経っていた。


 マロンは栗のような、あたたかい茶色の毛をしたゴールデンレトリバーだった。


 大きくて、ふわふわで、もふもふしていて、しーちゃんが抱きつくと、小さな顔が半分くらい毛の中に埋もれてしまう。


「マロン、もふもふ」


 しーちゃんは、そう言って今日もマロンの首にしがみついた。


 マロンは少し困った。


 しーちゃんは、まだ小学一年生だった。嬉しい時は力いっぱい抱きつくし、悲しい時も力いっぱい抱きつく。眠い時も、だいたい力いっぱい抱きつく。


 でも、マロンは怒らない。

 しーちゃんは、まだ小さいからだ。


「しーちゃん、それじゃマロン苦しいよ」


 台所から、阿澄さんの声がした。


 しーちゃんは、はっとした顔でマロンから離れた。


「ごめんね、マロン」


 マロンは尻尾を振った。

 大丈夫だよ、という意味だった。


 人間の言葉は話せない。けれど、尻尾を振ることはできる。鼻先を押しつけることはできる。そばに座って、じっと見上げることもできる。


 それだけで伝わることが、人間にはたくさんある。


 マロンは、それを知っていた。


 最初、マロンの主人は颯くんだけだった。

 けれど、阿澄さんが来て、しーちゃんが生まれて、気づけばマロンの主人は三人になっていた。


 三人とも、マロンの大切な主人だった。



 十五年前、颯くんはまだ制服を着ていた。小さな子供というほどではない。けれど、大人でもなかった。


 制服の袖が少し余っていて、声も今より高くて頼りなかった。子犬だったマロンを抱き上げる手つきも、どこかぎこちなかった。


「今日から、うちの子だからな」

 颯くんはそう言った。


 その言葉を、マロンは今でも覚えている。少し照れていて、少し緊張していて、それでもとても嬉しそうだった。


 マロンの母さんは、別れる前に教えてくれた。


 人間は、よく迷子になる。

 遠くに行かなくても、家の中にいても、心だけどこかへ行ってしまうことがある。


 だから、自分の主人をちゃんと見ていなさいと。


 吠えなくていい。

 噛まなくていい。


 ただ、その主人が帰ってこられる居場所になってあげなさいと。


 マロンは、その言葉を守った。


 颯くんが学校で嫌なことがあった日、マロンは隣に座った。


 颯くんが何も言わずに部屋へ入った日、マロンは扉の前でずっと待った。


 颯くんが泣いている時は、マロンはそっと近づいて、手や袖の匂いを嗅いだ。


 どこで何があったのか、全部は分からない。でも、颯くんが悲しいことだけは分かった。


 颯くんが大人になろうとして、うまくいかなくて、誰にも言えない顔をしていた時も、マロンはいつも傍らにいた。



 やがて颯くんは大人になった。阿澄さんと一緒になり、この家に阿澄さんを連れてきた。


 阿澄さんが初めて本沢家に来た日、マロンは玄関でじっと見ていた。


 知らない匂いの人だった。

 でも、颯くんが嬉しそうだった。

 だから、マロンははじめ、少しだけ警戒しながらも阿澄さんを受け入れた。


「よろしくね、マロン」


 阿澄さんは、少し緊張した手でマロンの頭を撫でてくれた。


 その手は、颯くんの手とは違った。


 細くて、やわらかくて、少しだけ洗剤の匂いがした。


 マロンは、やがてその手を好きになった。



 阿澄さんは、いつも忙しい。朝になると、台所と洗面所を何度も行ったり来たりする。  


 しーちゃんの朝ごはんを作って、颯くんのお弁当を用意して、洗濯物を抱えて、しーちゃんの靴下を探して、颯くんの忘れ物を見つける。


 人間は、どうしてこんなに物をなくすのだろう。マロンは不思議だった。


 自分の大事なものなら、匂いで分かる。けれど、人間はよく分からなくなるらしい。


 だから、マロンは手伝う。

 椅子の下にしーちゃんの靴下が落ちていれば、その前に座る。


 廊下にハンカチが落ちていれば、鼻先でつつく。


 しーちゃんがこっそり牛乳をこぼして固まっていれば、阿澄さんを呼ぶように小さく吠える。


「マロン、また教えてくれたの?」

 阿澄さんは、そう言って笑う。


「ありがとう」

 マロンは尻尾を振る。


 阿澄さんの役に立てた日は、少し誇らしい。



 しーちゃんが生まれてからは、マロンの仕事はもっと増えた。


 しーちゃんは初め、とても小さかった。

 赤ちゃんの頃、よく泣いた。


 泣き声がすると、マロンはすぐに阿澄さんのところへ行った。阿澄さんが疲れて座り込んでいる時でも、しーちゃんが泣けば、マロンは鼻先で知らせた。


 しーちゃんが歩き始めてからは、もっと大変だった。


 しーちゃんは、すぐ転ぶ。

 机の角へ向かって歩く。

 何もないところでもつまずく。


 そして、マロンの耳をつかむ。

 マロンは困った。

 とても困った。


 でも怒らなかった。

 しーちゃんは小さい。

 小さい子は、見ていなければならない。

 今でも、しーちゃんはまだ小さい。


 小学一年生になったけれど、まだまだ危なっかしい。


 ランドセルは背中より少し大きく見える。黄色い帽子はよく斜めになる。給食袋もよく忘れる。阿澄さんに「しーちゃん」と呼ばれてから、慌てて玄関へ戻ることも多い。


 だから、マロンは見ていなければならない。


 朝、しーちゃんが学校へ行く時、マロンは玄関までついていく。


「マロン、いってきます」

 しーちゃんが小さな手を振る。


 マロンは尻尾を振る。

 いってらっしゃい。

 転ばないようにね。


 知らない人についていってはいけないよ。

 給食袋を忘れているよ。

 そう思って、マロンは給食袋の方を見る。


「あっ、しーちゃん、給食袋」

 阿澄さんが気づく。


「わすれてた!」


 しーちゃんが慌てて戻る。

 マロンは満足した。

 やはり、見ていてよかった。


 時々、阿澄さんが気づく前に、しーちゃんが出ていってしまうこともあった。


 そういう時は、マロンの出番だった。


 玄関に残された給食袋をくわえて、マロンはしーちゃんの匂いを追いかける。 門のところで、しーちゃんが振り返った。


「あっ、マロン!」


 しーちゃんは、マロンの口元を見て目を丸くする。


「給食袋!」

 マロンは袋を渡した。


「ありがとうね、マロン!」


 しーちゃんがぎゅっと抱きついてくる。

 マロンは尻尾を振った。

 しーちゃんはまだ小さい。


 だから、やっぱりマロンが見ていなければならない。


 しーちゃんが帰ってくる時間になると、マロンは玄関の方を向いて待つ。


 家の前で、小さな足音がする。

 カタカタとランドセルの金具が揺れる音がする。


 マロンにはすぐ分かる。

 しーちゃんだ。


「ただいま、マロン!」


 玄関が開くと、しーちゃんが飛び込んでくる。


 マロンは尻尾を振る。

 本当は飛びつきたい。


 でも、マロンは大きい。

 しーちゃんは小さい。

 だからわくわくを我慢する。


 しーちゃんの方が飛びついてくるのを、しっかり受け止める。


「マロン、きょうね、さんすうできた」


 しーちゃんは、その日のことを話す。

 算数のこと。

 給食のこと。

 隣の席の子のこと。


 先生に褒められたこと。

 少しだけ嫌だったこと。

 マロンは黙って聞く。


 颯くんの話を聞いてきたように、しーちゃんの話も聞く。


 それも、マロンの仕事だった。

 夜になると、颯くんが帰ってくる。


 玄関の扉が開く前から、マロンには分かる。


 足音。

 鍵を出す金属音。

 扉を開ける前の、小さな息。


 元気な日もある。

 疲れている日もある。


 だが、家に入る前にため息をつく日は、颯くんが何かを我慢している日だ。これは昔から変わらない。


「ただいま」

 颯くんが言う。

 しーちゃんが走っていく。


「パパ、おかえり!」

「ただいま、しーちゃん」

 阿澄さんが台所から顔を出す。


「おかえりなさい」

 マロンも玄関まで行く。


「ただいま、マロン」


 颯くんの手が、マロンの頭を撫でる。

 その手は、昔よりずっと大きくなった。

 中学生だった颯くんの手ではない。


 でも、撫で方はあまり変わっていない。


 夜、しーちゃんが眠った後。


 阿澄さんが台所を片づけ終えて、家の中が少し静かになると、颯くんは時々マロンを優しく呼ぶ。


「マロン」


 その声で、マロンには分かる。

 今日の颯くんは、少し疲れている。


 マロンがそばへ行くと、颯くんはリビングの床に座り、マロンの首に腕を回した。


「今日さ、部長にまたいろいろ言われてさ」

 颯くんは、ぽつぽつと話す。


 会社のこと。

 うまく返事ができなかったこと。


 自分では頑張っているつもりなのに、足りないと言われたこと。


 阿澄さんに、少し余計な言い方をしてしまったこと。


 しーちゃんを叱った後、本当にあれでよかったのか分からなくなったこと。


 それから、少し間を置いて、もっと小さな声で言う。


「俺、ちゃんと父親できてるのかな」


 マロンは、その言葉の意味を全部分かるわけではない。


 会社も、部長も、父親というものの難しさも、犬のマロンにはよく分からない。


 でも、颯くんが不安なのは分かった。


 昔、制服を着ていた頃の颯くんも、同じような匂いをしていた。


 泣かないように我慢している時の匂い。


 誰にも言えないことを、胸の中にしまっている時の匂い。


 だからマロンは、颯くんの膝に鼻先を乗せた。


 颯くんは、しばらく黙ってマロンを撫でていた。


 それから、ふっと息を吐いて、マロンを抱きしめた。


「ありがとうな、マロン」


 その声は、少しだけ軽くなっていた。

 マロンは尻尾を振った。

 颯くんは、大人になった。


 阿澄さんの夫になって、しーちゃんの父親になった。


 けれど、時々まだ迷子になる。不安になる。だからマロンは、まだ颯くんのそばにいなければならない。


 颯くんが帰ってこられる居場所でいなければならない。


 颯くんは、マロンの最初の主人だった。


 そして今でも、マロンのことを一番よく分かってくれる人だった。たぶん颯くんも、マロンのことを一番の友人だと思っている。


 少なくともマロンは、そう思っていた。


 だから、マロンは今日も本沢家の真ん中にいる。


 颯くんのそばにいる。

 阿澄さんの足元にいる。

 しーちゃんの後ろを歩く。


 誰かが泣きそうなら、近くへ行く。

 誰かが怒っていたら、間に座る。

 誰かが帰ってきたら、迎える。


 家を守ることも大切だけど、それがマロンの一番の仕事だった。


 そしてマロンは、その仕事が好きだった。


 この家が好きだった。

 颯くんが好きだった。

 阿澄さんが好きだった。

 しーちゃんが好きだった。


 そんな日々が続いていた。


 颯くんの話を聞いて、阿澄さんを手伝って、しーちゃんを迎えに行く。


 朝になれば見送り、昼には家を見回り、夕方には玄関で待ち、夜には颯くんの隣に座る。


 明日も、明後日も、その次の日も。

 きっと同じように続いていく。

 マロンは、そう思っていた。


「マロン、あしたもおむかえきてね」


 眠る前、しーちゃんがそう言った。

 マロンは尻尾を振った。

 もちろんだよ。


 明日も迎えに行く。

 明日も見ている。

 明日も、ずっとこの家にいる。


 マロンはそう思いながら、しーちゃんのベッドのそばで丸くなった。


 栗色の大きな体を、ふわりと床に沈める。


 しーちゃんの寝息が聞こえる。


 遠くで、阿澄さんが食器を片づける音がする。リビングでは、颯くんが小さくあくびをしている。


 みんな、ここにいる。

 本沢家は、今日もちゃんと家だった。

 マロンは安心して、ゆっくり目を閉じた。


 だから、その翌朝。

 しーちゃんが玄関で「マロン、いってきます」と呼んだ時。


 マロンは立ち上がるのに、いつもより少しだけ時間がかかった。


 そのことに、マロン自身が一番驚いた。。

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