第16話 マロンはしばらく散歩に行けない
■鳴瀬家・真尋の部屋
翌日。
もちろん、マロンはまだ本沢家へ帰れていなかった。
しかも今日は、目を覚ましてもベッドから出してもらえなかった。
昨日の散歩で、マロンは知っている道を見つけた。
犬だった頃に歩いたことのある道。
本沢家へつながっているかもしれない道。
見覚えのある電信柱もあった。
知っている曲がり角もあった。
人間になった今の鼻では、匂いから確かめることはできなかった。
それでも、マロンには分かった。
あそこは、知っている道だった。
だから興奮した。
電信柱を確かめようとして、道の続きを見ようとして、真琴とお手伝いを心配させてしまった。
家へ戻ると、医者まで呼ばれた。
そして今日。
マロンは、強制的に休まされていた。
「昨日はずいぶん興奮していたから、今日はゆっくりしましょうね」
真琴はそう言った。
ゆっくり。
それは、何もできないという意味だった。
漢字ドリルも、書き取り帳も、手の届かないところへ置かれている。
絵本だけは近くにあったが、目も休ませた方がいいと言われた。
勉強もなし。
散歩もなし。
ただ、ベッドで休む。
これは、とても困る。
「べんきょう」
「今日はお休み」
真琴が優しく答えた。
「さんぽ」
散歩という言葉を口にしただけで、マロンの体は少し起き上がろうとした。
犬だった頃から、その言葉を聞くと、じっとしているのが難しくなる。
けれど、真琴はすぐにマロンの肩へ手を添えた。
「お散歩も、しばらくはお休みね」
しばらく。
マロンは固まった。
今日だけではないらしい。
それは、とてもよくない言葉だった。
「だいじょうぶ」
マロンは言った。
「からだ、だいじょうぶ」
「大丈夫かどうかは、今日はママが決めます」
真琴の声は穏やかだった。
けれど、こういう時の真琴は強い。
阿澄さんに少し似ていた。
阿澄さんも、マロンが食べてはいけない物へ近づいた時、優しい声で止めた。
声は優しい。
それでも、絶対に動かしてもらえない。
真琴の声も、それに近かった。
これ以上言っても無理だと、マロンには分かった。
分かったけれど、納得はしていない。
昨日の道。
あの電信柱。
あの曲がり角。
もう一度見たい。
けれど、行けない。
マロンは布団を握った。
昨日、あれほど興奮しなければよかった。
急に電信柱へ向かわず、しーちゃんの道だと大きな声で言わなければ、今日も散歩へ行けたかもしれない。
帰宅作戦では、興奮しすぎてはいけない。
これは大切な教訓だった。
その時、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。
「マー君、大丈夫なの?」
彩が部屋へ駆け込んできた。
声は大きかったが、いつもより心配そうな顔をしている。
「大丈夫よ。昨日、少し疲れたみたいだから、今日は休ませているだけ」
真琴が答えた。
「本当に?」
「お医者様も、大きな異常はないって言っていたでしょう」
「でも、昨日すごかったって聞いた」
彩はベッドのそばへ来ると、マロンの顔をのぞき込んだ。
「マー君、痛いところない?」
「ない」
「頭は?」
「いたくない」
「お腹は?」
「だいじょうぶ」
彩は、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった」
マロンは少し申し訳なくなった。
彩まで心配させてしまった。
マロンは本沢家へ帰るために頑張っている。
けれど、鳴瀬家の人たちを心配させたいわけではない。
神様と犬神様は、この家も大切にするように言った。
それなのに昨日は、真琴も、お手伝いも心配させた。
医者まで呼ばれた。
彩も不安そうにしている。
これは、とてもよくない。
「昨日、何があったの?」
彩が真琴を見上げた。
「お散歩の途中で、急に真尋が興奮してしまって」
「興奮?」
「知っている道だと言って、電信柱を見に行こうとしたの」
「電信柱?」
彩は首をかしげた。
真琴も少し困ったような顔をする。
「それに、しーちゃんの道だとも言っていたわ」
しーちゃん。
その名前に、マロンの体が少し固くなった。
「しーちゃんって、前にも言ってたよね」
彩が言った。
「髪を切りたくない時も、しーちゃんにもふもふしてもらうって言ってた」
「そうね」
「あと、もとざわも」
もとざわ。
マロンは黙った。
「何度か言っているわね」
真琴が小さく息を吐いた。
「しーちゃんって、誰なんだろう?」
「私にも分からないの。真尋に聞いても、なかなか教えてくれないし」
教えられない。
そう言いたかった。
けれど、言うことはできない。
自分が犬だったマロンだと話せば、大騒ぎになる。
神様と犬神様との約束もある。
マロンは、鳴瀬真尋として、この家で暮らさなければならない。
それでも、本沢家へ帰りたい。
しーちゃんに会いたい。
その両方を守るためには、簡単に話してはいけない。
マロンは、じっと布団を見つめた。
「じゃあ、しばらくお散歩も無理?」
彩が尋ねた。
「そうね。少し様子を見たいわ」
真琴が答えた。
「昨日みたいに興奮してしまうと危ないから」
マロンは、がっくりと肩を落とした。
知っている道を見つけたばかりなのに、しばらく散歩へ行けない。
あと少しで、本沢家へ近づけるかもしれないのに。
やはり、昨日の行動は失敗だった。
これからは、知っている道を見つけても急に走ってはいけない。
電信柱を次々に見て回ってはいけない。
しーちゃんの道だと、大きな声で言ってはいけない。
静かに見る。
落ち着いて覚える。
あとで考える。
帰宅作戦は、慎重に進めなければならない。
マロンは布団の中で、小さくうなずいた。




