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マロンはもう一度、家に帰りたい  作者: 本沢マロン
19/19

第15話 マロンは知っている道を見つけた

 一週間後、もちろんマロンはまだ本沢家に帰れていなかった。


 けれど、最近のマロンには楽しみがあった。午後の散歩である。


 犬だった頃のマロンは、毎日のように散歩をしていた。


 朝の散歩。

 夕方の散歩。


 颯くんが休みの日には、少し長い散歩。


 しーちゃんが一緒に来る時は、少し遅くて、少し賑やかな散歩。


 散歩は大事だった。


 道を確認する。

 近所を確認する。


 変な匂いがないか確かめる。

 知らない犬が通っていないか確かめる。


 しーちゃんが転ばないように見る。

 颯くんが疲れていないか見る。

 阿澄が荷物を持ちすぎていないか見る。


 それは、マロンの仕事だった。


 けれど今のマロンは、人間の子どもである。 


 一人では外へ出られない。


 上着がいる。

 靴がいる。

 帽子もいる。


 真琴か、お手伝いが一緒でなければならない。


 犬だった頃のように、玄関からすぐ外へ出ることはできない。


 それでも、最近は午後になると、真琴が散歩に連れて行ってくれることが増えた。


 お手伝いが一人つくこともある。

 真琴と手をつないで歩くこともある。


 ときどき抱っこされることもある。


 マロンとしては、ずっと自分の足で歩きたかった。しかし、人間の小さい足は疲れやすい。


 それに、歩くのが遅い。犬だった頃のマロンなら、少し走れば追いつけた距離も、今は時間がかかる。


 だから、抱っこされるのは少し悔しい。

 でも、外に出られるのは嬉しい。


 今日も、マロンは散歩を楽しみにしていた。


 漢字ドリルを閉じる。


 今日は「道」という字を練習していた。


 道。


 とても大事な字だ。

 本沢家へ帰るには、道がいる。


 道を知らなければ帰れない。道を覚えなければ、しーちゃんのところへ行けない。


 マロンは紙の上に、少し曲がった「道」を書いた。


「みち」


 小さく声に出す。


 その時、真琴が部屋に入ってきた。


「真尋、お散歩に行きましょうか」


 マロンは顔を上げた。


「いく」


 すぐに答えた。


 散歩だ。

 外へ出られる。

 道を確認できる。


 もしかすると、本沢家へつながる何かが見つかるかもしれない。


 マロンは、小さな手で漢字ドリルを閉じた。今日の勉強は、あとで続ける。


 今は、外の確認である。


 ■鳴瀬家・玄関


 上着を着せられた。

 帽子をかぶせられた。

 靴も履いた。


 人間の散歩は準備が多い。


 けれど、もうマロンは覚えた。

 外へ出るには、これが必要なのだ。


 玄関には、お手伝いも一人待っていた。


「奥様、準備できております」


「ありがとう。今日は少し公園の方へ行きましょうか」


 真琴が言う。


 公園。


 いつもの公園だ。


 本沢家の近くにあった公園とは違う。


 けれど、最近よく行くようになった場所である。


 マロンは小さくうなずいた。

 公園なら確認しなければならない。


 砂場。

 ベンチ。


 木。

 水飲み場。


 知らない人がいないか。

 危ないものが落ちていないか。


 犬だった頃なら、全部匂いで確かめられた。今は鼻があまり役に立たない。


 だから、目で見る。

 歩いて確認する。


 マロンは真琴と手をつないだ。


 玄関の扉が開く。


 冷たい空気が入ってくる。


 でも、今日は驚かない。


 上着がある。

 帽子がある。

 靴もある。


 これで寒くない。


 マロンは外へ出た。


 ■近所の道


 鳴瀬家の近くを歩いていると、よく声をかけられる。


「あら、奥様。お散歩ですか?」


「ええ、少しだけ」


 真琴は穏やかに微笑んで答える。

 その横で、マロンは真琴を見た。


 真琴が頭を下げる。


 なら、自分も下げるべきだ。

 マロンも、小さく頭を下げた。


「あらまあ」


 声をかけてきた女の人が目を丸くした。


「真尋くん、もうご挨拶できるの?」


「こんにちは」


 真琴が促す。


 マロンは言った。


「こんにちは」


 女の人はさらに驚いた。


「まあ、しっかりしてるわねえ。まだ一歳……でしたよね?」


「ええ」


 真琴は少し誇らしげに笑った。


「もうすぐ二歳になりますけど、最近は言葉もずいぶん増えて」


「すごいわねえ」


 マロンは真琴を見た。

 真琴は嬉しそうだった。


 自分が挨拶すると、真琴は嬉しそうになる。それは覚えた。


 鳴瀬家で役に立てることは、まだ少ない。


 でも、挨拶をすると真琴が嬉しそうになる。なら、これはきっと役に立っている。


 マロンは、もう一度頭を下げた。


 女の人は笑った。


「本当に賢いわね」


 賢い。


 また言われた。


 マロンは少し困った。


 賢くなりたいわけではない。

 本沢家へ帰りたいだけだ。


 けれど、真琴が嬉しそうなので、悪いことではないのだろう。


 散歩はその後も続いた。


 近所の道を歩く。

 知らない家の前を通る。


 知らない塀を見る。

 知らない木を見る。


 どれも本沢家ではない。


 どれも、マロンの知っている道ではない。

 それでも、外へ出られるだけで嬉しい。


 いつか、知っている道に出会えるかもしれない。マロンはそう思って、足を動かした。


 ■公園


 いつもの公園に着いた。


 マロンは真琴の手を離し、少しだけ歩いた。


 お手伝いがすぐ近くにいる。

 真琴も見ている。


 一人でどこかへ行くことはできない。


 でも、公園の中を少し歩くくらいは許されていた。マロンは、公園を確認した。


 砂場。

 異常なし。


 ベンチ。


 知らない男の人が一人座っている。


 ただし、新聞を読んでいるだけで危険はなさそうだ。


 木。

 葉が少ない。

 冬だからだ。


 水飲み場。


 濡れている。

 滑るかもしれない。


 これは注意が必要だ。


 マロンにとって、公園はすでに確認すべき場所になっていた。もちろん、犬だった頃のような縄張りではない。


 今は人間だ。

 公園で匂いをつけたりはしない。


 そんなことをしたら、大変な問題になる。

 医者どころでは済まないかもしれない。


 人間として、それはしてはいけない。


 けれど、確認はする。

 この公園に危ないものがないか。


 知らない人が悪いことをしないか。


 彩が来ても大丈夫か。

 真琴が歩いても大丈夫か。


 いつか、しーちゃんが来ても大丈夫か。


 守るべき場所を確認するのは、マロンの仕事だった。


「マー君、何をそんなに見てるの?」


 真琴が不思議そうに聞いた。


「かくにん」


「確認?」


「こうえん、だいじ」


 真琴は少し笑った。


「そうね。よく来る公園だものね」


 少し違う。

 ただ、説明は難しい。


 マロンはうなずいた。


 公園は確認した。

 今日も大きな異常はない。


 マロンは少し満足した。


 ■帰り道


 一通り公園を見て回ったあと、真琴が言った。


「今日は少し違う道で帰りましょうか?」


 違う道。


 マロンは顔を上げた。


 違う道は大事だ。

 知らない道を知れる。


 もしかすると、本沢家へ近づけるかもしれない。


「ちがうみち」


「ええ。少し遠回りになるけれど」


 真琴はお手伝いに目を向けた。


「こちらから回って帰りましょう」


「はい、奥様」


 マロンは真琴と手をつないだ。


 公園を出る。

 いつもなら、右へ曲がってまっすぐ帰る。


 けれど今日は違った。

 公園を出て、少し進む。


 十字路に出る。

 そこから、大きな通りへ向かう。


 車が何台か通っている。


 人も少し多い。

 いつもの静かな道とは違う。


 真琴はマロンの手をしっかり握った。


「車が来るから、手を離さないでね」


「うん」


 マロンはうなずいた。

 手を離してはいけない。


 それは分かる。


 今のマロンは、人間の小さい子どもだ。


 車に勝てない。

 犬だった頃でも、車は危なかった。


 颯くんも阿澄も、道路ではマロンのリードをしっかり持っていた。


 真琴が手を握るのも、それと同じなのだろう。


 大きな通りを少し左へ曲がる。

 景色が変わった。


 さっきまでの住宅地とは少し違う。


 少し古い塀。

 細い道。


 電信柱。

 曲がった角。


 マロンは足を止めた。


 胸の奥が、どくんと鳴った。


 知っている。


 マロンは、そう思った。

 鼻は効かない。


 匂いでは分からない。


 犬だった頃のように、遠くの匂いを追うこともできない。


 でも、分かった。

 ここを知っている。

 来たことがある。


 いや、今の真尋としては来たことがない。 鳴瀬家の子どもとしては、この道を歩いたことはないはずだ。


 でも、マロンは知っている。


 犬だった頃に、ここを歩いた。


 颯くんと歩いたかもしれない。

 阿澄と歩いたかもしれない。

 しーちゃんと歩いたかもしれない。


 この角。

 この電信柱。

 この少し傾いた塀。


 見覚えがある。


 マロンは震えた。


「ここ」


 真琴が足を止めた。


「どうしたの?」


「ここ、しってる」


「知ってる?」


 真琴は不思議そうに首をかしげた。


「来たことがあるの?」


 マロンは首を振った。


「きたこと、ない」


「来たことはないの?」


「でも、しってる」


 真琴は困ったようにお手伝いを見た。


 マロンはそれどころではなかった。


 見つけた。

 知っている道を見つけた。


 ついに。


 ついに、本沢家につながるかもしれない道を見つけた。マロンは真琴の手を離そうとした。


「マー君?」


 真琴が少し強く手を握る。


 マロンは電信柱を見た。


 あれだ。

 あの電信柱。


 犬だった頃、何度も通った場所。


 もしかすると、昔、マロンが匂いをつけた場所かもしれない。


 今は分からない。

 人間の鼻では、何も分からない。


 でも、見覚えがある。


 形。

 場所。


 道の曲がり方。

 電信柱の立ち方。


 間違いない。


 ここは知っている。

 マロンは興奮した。


「ここ、ここ」


「真尋?」


「ここ、しってる。ここ、しってる」


 マロンは電信柱へ近づこうとした。


 真琴が慌てて止める。


「だめよ、急に行かないで。車も通るから」


「でんしんばしら」


「電信柱?」


「ここ、しってる」


 マロンは次の電信柱を見た。

 あれも知っている気がする。


 その次も。


 あっちの角も。


 マロンは、あちこち見ようとした。


 真琴の手を引っ張る。


 右を見る。

 左を見る。


 前へ行こうとする。


 戻ろうとする。


 人間の体は小さい。


 なのに、気持ちだけが走っていた。


 早く確認しなければならない。

 この道がどこへ続いているのか。


 本沢家に続いているのか。


 しーちゃんの家に近いのか。

 颯くんと阿澄の家はどこなのか。


 見なければならない。


 覚えなければならない。


 でも、体が追いつかない。


 真琴が真剣な声になった。


「真尋、落ち着いて」


「ここ、しってる」


「うん、分かったから。まず落ち着いて」


「しってる、しってる」


 マロンは言い続けた。


 お手伝いが心配そうに近づいてくる。


「奥様、少し様子が……」


「ええ。戻りましょう」


 戻る。


 その言葉に、マロンははっとした。


 戻ってはいけない。


 まだ確認していない。

 道順も覚えていない。


 ここがどこなのかも分からない。


 せっかく知っている道に来たのに。


「だめ」


 マロンは言った。


「まだ」


「真尋」


「まだ、かくにん」


 真琴の顔が心配そうになった。


 お手伝いもしゃがんだ。


「真尋様、危ないですから」


「かくにん」


「帰りましょう」


 帰る。


 鳴瀬家へ帰る。


 違う。


 本沢家へ帰りたい。


 マロンは焦った。

 焦るほど、言葉がうまく出なくなる。


「ここ、しってる。しーちゃん、みち、ここ、たぶん」


 言ってしまってから、マロンは口を閉じた。


 しーちゃん。


 また言ってしまった。


 でも、今はそれどころではない。


 真琴の顔はさらに心配そうになっていた。


「しーちゃんの道?」


「……」


「真尋、今日は帰りましょう」


 真琴はマロンを抱き上げた。


 マロンは抵抗しようとした。けれど、人間の小さい体ではどうにもならない。


 抱き上げられると、足は地面から離れてしまう。


 歩けない。

 確認できない。

 電信柱が遠ざかる。


 知っている道が遠ざかる。


「まって」


 マロンは小さく言った。


「まって、まだ」


「大丈夫。お家に帰りましょうね」


 真琴の声は優しい。

 でも、戻る声だった。


 マロンは失敗したと思った。

 また、心配させてしまった。


 また、医者を呼ばれるかもしれない。


 それでも、胸の奥は震えていた。


 見つけた。

 知っている道を見つけた。


 本沢家へつながるかもしれない道を。


 ■鳴瀬家・居間


 マロンの予想は当たった。


 鳴瀬家に戻ると、すぐに医者が呼ばれた。


 かかりつけの医者は、慣れた様子でやって来た。前にも遠吠えのような声を出した時に来た医者である。


 マロンは少し気まずかった。


 医者はマロンの様子を見た。


 熱を測る。

 喉を見る。


 目を見る。

 胸の音を聞く。


 質問もされた。


「気持ち悪い?」


「ない」


「頭は痛い?」


「いたくない」


「どこか痛いところは?」


「ない」


 医者は真琴に向き直った。


「大きな異常はなさそうです。急に興奮したのかもしれませんね」


「興奮……」


 真琴はまだ心配そうだった。


「急に、ここを知っていると言って、電信柱を見て回ろうとして……」


「小さいお子さんには、急に何かが気になってしまうこともあります。疲れもあるかもしれません。今日は早めに休ませてあげてください」


 また休む。


 マロンは少し不満だった。

 でも、今回は仕方ない。


 マロンは確かに興奮していた。

 かなり興奮していた。


 そして、疲れてもいた。


 知っている道を見つけた。

 でも、道順は覚えられなかった。


 公園から出て、十字路に出て、大きな通りへ行って、左へ曲がった。


 その後、どこをどう歩いたのか。

 マロンは必死に思い出そうとした。


 でも、細かいところがぼやけている。


 電信柱。

 塀。

 角。


 知っている感覚。


 それだけが強く残っている。


 道順は、まだよく思い出せない。


 でも、分かったことがある。


 あの道は、いつもの公園からそんなに遠くない。少し遠回りした帰り道で見つけたのだ。


 つまり、本沢家へつながる記憶の場所は、鳴瀬家から行ける範囲にある。


 いつもの公園からも遠すぎない。

 これは大きな前進だった。


 とても大きな前進だった。


 医者が帰ったあと、真琴はマロンを抱いて言った。


「今日はもう休もうね」


「うん」


 マロンは素直にうなずいた。

 今は、休む。


 でも、忘れない。

 あの道を。


 電信柱を。

 曲がり角を。


 知っていると思った胸の震えを。


 ■鳴瀬家・真尋の部屋


 その夜。


 マロンはベッドの中で横になっていた。


 柵はもうない。


 けれど、真琴はしばらくそばにいてくれた。心配しているのだろう。


 マロンは、少し申し訳なかった。

 でも、今日の散歩は無駄ではなかった。


 むしろ、これまでで一番大きな前進かもしれない。


 文字を覚えた。

 漢字を覚えた。

 沢という字も見つけた。


 でも、今日は道を見つけた。


 知っている道。

 犬だった頃のマロンが歩いた道。


 本沢家へつながっているかもしれない道。


 まだ道順は覚えていない。

 まだ一人では行けない。


 また同じ道へ連れて行ってもらえるかも分からない。


 でも、そこはある。

 ちゃんとあった。


 マロンの記憶は間違っていなかった。

 知らない町ばかりではなかった。


 鳴瀬家の近くには、マロンの知っている場所があった。つまり、本沢家も近くにあるかもしれない。


 もうすぐ帰れるかもしれない。

 そう思うと、胸が熱くなった。


 颯くん。


 阿澄。


 しーちゃん。


 待っていてください。

 マロンは、知っている道を見つけました。


 まだ帰れません。

 まだ道順も覚えていません。


 でも、近くにあります。


 マロンが昔歩いた道が、ちゃんとありました。


 だから、きっと帰れます。

 もうすぐ帰ります。


 マロンは、そう心の中で何度も言った。


 真琴が布団を直してくれる。


「おやすみ、真尋」


「おやすみ」


 マロンは目を閉じた。


 夢の中で、電信柱が立っていた。

 その隣を、栗色の大きな犬が歩いていた。


 リードの先には、誰かの手があった。


 小さな手だった。

 しーちゃんかもしれない。


 マロンはその道を追いかけようとした。


 けれど夢の中でも、まだ少しだけ届かなかった。

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