第14話 マロンは役に立ちたい
年が明けても、もちろんマロンはまだ本沢家に帰れていなかった。
誠は仕事へ行った。
年末に帰ってきて、父だと分かって、お土産をたくさんくれて、あっという間にまた仕事へ連れて行かれた。
父というものは、まだよく分からない。けれど、仕事へ行く人は大変なのだと、マロンは少しだけ理解した。
颯くんも、毎朝仕事へ行っていた。
ただ、今のマロンは、あの玄関で帰りを待つことができない。だから、早く本沢家へ帰りたい。
そのために、マロンは今日も漢字ドリルを開いていた。
場所は、自分の部屋。
マロンの前には、小さなテーブルがある。少し前、栄が買ってくれた、マロン専用のテーブルだった。
最初、マロンはダイニングの大きなテーブルで勉強していた。
でも、大きすぎた。
椅子も高く、足が届かない。
足が宙に浮くと、どうにも落ち着かない。
犬だった頃は、四本の足でしっかり床を踏んでいた。だから、足がどこにもつかないというのは、少し不安だった。
学習机もまだ大きすぎる。
それを聞いた栄は、すぐに言った。
「なら、真尋専用の小さな机を買ってやろう」
そして本当に買ってきた。
机というより、小さなテーブルだった。
角は丸く、高さもちょうどいい。
床に座っても使えるし、小さな椅子を置けば、マロンでも何とか座れる。
真琴は「少し早い気もしますけど」と言っていたが、栄はとても満足そうだった。
「勉強したいというなら、机くらい必要だ」
そう言って、大きく笑っていた。
おかげで、マロンは自分の部屋で勉強できるようになった。
これは大きい。帰宅作戦のための拠点ができたのである。
それから、ベッドの柵もなくなった。
この前、マロンが柵を乗り越えて部屋を飛び出したところを見られたからだ。
真琴はかなり驚いた。
昭恵も顔を険しくした。
「柵を越えようとして落ちたら危ないですね」
そう言われた。
マロンとしては、柵を越えられるようになったことは前進だった。
けれど、人間の大人たちは違うらしい。柵があるのに越えるなら、柵は逆に危ない。
そういう結論になり、柵は取り払われた。
マロンは少し嬉しかった。
もちろん、部屋の外へ自由に出られるわけではない。真琴も、お手伝いも、昭恵も、ちゃんと見ている。
でも、柵がない。
視界が広い。
すぐそこに床がある。
部屋の中を、自分で少し移動できる。
犬だった頃ほどではない。
まだ体は小さい。
走るのも遅い。
それでも、閉じ込められている感じは少し減った。
マロンは、小さなテーブルの前で鉛筆を握った。今日の漢字ドリルは、二年生向けのものだった。
彩が少し悔しそうにしていた本である。
「マー君、もう二年生の漢字やるの?」
彩はそう言った。
少しだけ頬をふくらませていた。
マロンはうなずいた。
漢字はたくさんある。少しでも進まなければ、本沢家には近づけない。
マロンはドリルをめくった。
知らない字がたくさんある。
読めない字もある。
書けない字はもっとある。
それでも、ひとつずつ覚えるしかない。
そして、そのページで、マロンは止まった。
そこに、字があった。
沢。
マロンは、じっと見た。
さんずい。
横に、見たことのない形。
読み方のところには、ひらがなで「さわ」と書いてある。
さわ。
沢。
マロンは、息を止めた。
もとざわ。
マロンが探している家の音。
その中にあるかもしれない字。
もちろん、まだ分からない。
探している家の表札が、この字なのかどうか、マロンは知らない。
けれど、「さわ」という字に出会った。
それだけで、胸がどきどきした。
少しだけ、近づいた気がした。
マロンは鉛筆を握ったまま立ち上がった。
「まこと!」
思わず声が出た。
いや、今は真琴だ。
誠は仕事へ行った。
真琴は居間にいる。
マロンはドリルを両手で抱え、部屋の外へ向かった。
■鳴瀬家・居間
真琴は、居間で洗濯物を畳んでいた。
マロンがドリルを抱えてやってくると、すぐに顔を上げる。
「あら、真尋。どうしたの?」
「これ」
マロンはドリルを開いた。
沢。
その字を指さす。
「さわ」
真琴はドリルをのぞきこんだ。
「沢ね」
「さわ」
「うん。沢」
「もとざわ、これ?」
マロンは真剣だった。
真琴は少しだけ目を細めた。
マロンが何を言いたいのか、すぐに分かったらしい。
「そうね。その字かもしれないわね」
かもしれない。
まだ決まったわけではない。
でも、否定されなかった。
マロンは、もう一度ドリルを見た。
沢。
さわ。
これが本当に探している字なのかは分からない。それでも、覚えたい。
「これ、おぼえる」
「うん。覚えようね」
「かく」
「書く?」
「うん」
真琴は微笑んだ。
「じゃあ、紙を持ってきましょうか」
「うん」
マロンは大きくうなずいた。
真琴が紙を持ってきてくれる。
マロンは居間の低いテーブルの前に座った。
鉛筆を握る。
さんずい。
横の線。
少し曲がる。
もう一度。
また曲がる。
でも、書ける。
「さわ」
マロンは声に出した。
「沢」
真琴が言った。
「さわ」
マロンはもう一度言った。
その時、彩が学校から帰ってきた。
「ただいま」
ランドセルを置きながら、居間をのぞく。
「マー君、何してるの?」
「さわ」
「さわ?」
彩が近づいてきて、紙を見た。
そこには、マロンが書いた少し曲がった「沢」が並んでいる。
彩は目を丸くした。
「え、マー君、これ書いてるの?」
「うん」
「二年生の漢字じゃん」
「にねんせい」
「私もまだちゃんと覚えてないやつあるのに」
彩は少し悔しそうだった。
真琴が笑う。
「そのうち、マー君が彩の先生になるかもしれないわね」
「ならないもん!」
彩はすぐに言った。
けれど、少し焦っている。
「私、お姉ちゃんだし。私の方が先に覚えるし」
「彩も最近、前より勉強するようになったものね」
真琴がそう言うと、彩は少しだけ得意そうにした。
「だって、マー君がどんどん覚えるんだもん。負けられないし」
「いいことじゃない」
「でも、弟に負けるのは嫌なの」
彩はランドセルから自分のノートを取り出した。
「私もやる」
そう言って、マロンの近くに座る。
彩も鉛筆を持った。
マロンは少し驚いた。
彩が隣で勉強を始めた。
マロンが漢字を覚えているから。
それに負けたくないから。
マロンは、紙の上の「沢」を見た。
自分が勉強していることで、彩も勉強する。それは、役に立っているということだろうか。
マロンは、ほんの少し胸があたたかくなった。
■鳴瀬家・真尋の部屋
夕方、マロンは自分の部屋に戻った。
小さな専用テーブルの上には、ドリルと書き取り帳が置いてある。その横には、今日書いた「沢」の紙があった。
何度も書いた。
まだ曲がっている。
形も少しずつ違う。
でも、読める。
沢。
さわ。
マロンは、その紙を大事に見つめた。
今日、少しだけ本沢家に近づいた気がする。
これが正しい字かどうかは、まだ分からない。それでも、初めて「もとざわ」につながるかもしれない字を見つけた。
それは、マロンにとって大きなことだった。
それに、もうひとつ嬉しいことがあった。
彩が勉強した。
マロンが覚えているから、自分もやると言った。真琴も、彩が前より勉強に向かうようになったと言っていた。
もしかすると、マロンは鳴瀬家でも少し役に立てているのかもしれない。
マロンは、ずっと気になっていた。
鳴瀬家では、守られてばかりだ。
真琴に抱っこされる。
ごはんを用意してもらう。
服を着せてもらう。
靴を履かせてもらう。
転ばないように見てもらう。
漢字の本を買ってもらう。
机まで買ってもらう。
マロンは、してもらってばかりだった。
犬だった頃のマロンは、そうではなかった。
玄関を守った。
家族を迎えた。
忘れ物に気づいた。
泣き声に寄り添った。
話を聞いた。
そばにいた。
ちゃんと仕事をしていた。
でも、今のマロンは小さい。
人間の子どもだ。
鳴瀬家では、まだ何もできない。
それが少しつらかった。
けれど、今日、彩は勉強した。マロンが頑張っているから、自分もやると言った。
ほんの少しかもしれない。
でも、役に立てたのかもしれない。
マロンは、小さな手で紙を押さえた。
鳴瀬家でも、少し役に立てた。
なら、本沢家でも早く役に立ちたい。
泣いているなら、そばに行きたい。
困っているなら、助けたい。
疲れているなら、玄関で待ちたい。
そのために、帰らなければならない。
マロンは、もう一度「沢」と書いた。
今度は少しだけ、形が整った。
「さわ」
小さく声に出す。
まだ、もとざわ全部ではない。
でも、一歩だ。
行くための一歩。
帰るための一歩。
マロンは、紙の上の「沢」を見つめた。
颯くん。
阿澄さん。
しーちゃん。
待っていてください。
マロンは、少しずつ字を覚えています。
少しずつ、役に立てるようになっています。だから、必ず帰ります。
ちゃんと本沢家へ帰って、またみんなの役に立ちます。マロンはそう思いながら、もう一度鉛筆を動かした。
小さなテーブルの上に、少し曲がった「沢」が増えていく。
その字はまだ頼りなかった。
けれど、マロンにはそれが、本沢家へ続く小さな足跡のように見えた。




