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マロンはもう一度、家に帰りたい  作者: 本沢マロン
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第13話 マロンは父を見送る

 一昨日、誠が帰ってきた。


 そして今日、もちろんマロンはまだ本沢家に帰れていなかった。


 正月明けの朝だった。


 窓の向こうの庭は、朝の光を受けて白っぽく見える。葉の落ちた木が、冷たい風に小さく揺れていた。


 犬だった頃なら、寒い朝の散歩も嫌いではなかった。


 吐く息が白くなっても、足元が冷たくても、マロンには毛皮があった。首まわりの毛はふわふわで、しーちゃんが顔を埋めても大丈夫なくらい、たっぷりあった。


 けれど、今は違う。


 上着がいる。

 帽子もいる。

 靴もいる。


 人間の体は、やはり少し不便だった。


 それでも、マロンは起きてすぐ、漢字ドリルを開いた。


 本沢家へ帰るためである。


 一昨日、誠は突然帰ってきた。


 マロンは知らない人だと思って逃げた。

 父だと教えられた。

 お土産もたくさんもらった。


 父というものは、まだよく分からない。


 けれど、それはそれとして、漢字の勉強は続けなければならない。


 今日の字は「行」だった。

 行く。


 本沢家へ行く。

 しーちゃんのところへ行く。

 だから、この字は大事な気がした。


 マロンは鉛筆を握った。


 線を引く。

 少し曲がる。


 もう一度書く。

 今度は右に寄る。

 また書く。


「いく」


 小さく声に出した。


 行く。

 いつか、必ず行く。


 その時だった。

 玄関の方から、音が鳴った。

 チャイムだった。


 マロンは顔を上げた。

 誰か来た。


 真琴の声が聞こえる。


「はい」


 廊下の向こうが、少し慌ただしくなった。


 彩の声もした。


「誰か来たの?」


 マロンは漢字ドリルを閉じた。

 知らない人かもしれない。


 一昨日の朝のことがある。

 知らない人がベッドの横にいたら危ない。


 玄関なら、もっと危ないかもしれない。


 マロンは立ち上がった。

 走るのはまだ遅い。

 でも、玄関までの道は覚えている。


 マロンは部屋を出た。


 ■鳴瀬家・玄関


 真琴に手を引かれ、彩と一緒に玄関へ向かう。廊下は少し冷たかった。


 玄関へ着くと、背広を着た男が二人立っていた。


 二人とも、きちんとした格好をしている。

 靴もきれいで、背筋も伸びている。


 ただ、顔は少し困っていた。

 その前に、誠が立っていた。


 一昨日帰ってきたばかりの、鳴瀬家の父。

 今のマロンにとって、初めての父。


 その誠は、仕事の格好をしていた。

 一昨日よりもきちんとした服を着ている。


 首元には、細い布のようなものを結んでいた。たぶん、仕事へ行くための服だ。


 誠は玄関で、栄と向かい合っていた。

 栄はいつものように堂々としている。


 誠は少しだけ情けない顔をしていた。


「父さん、もう少し休んでもいいんじゃないですか?」


 誠が言った。


「二日か三日くらい、何とかなるでしょう」


「もう充分休んだだろう」


 栄はあっさり言った。


「充分って、三日しか休んでませんよ」


「三日も休んだだろう」


「一年ぶりに帰ってきたんですよ!」


「だから三日休んだだろう」


 誠は肩を落とした。


「今行ったら、また子どもたちに顔を忘れられてしまいます」


 彩が少し気まずそうに視線をそらした。


 マロンも、そっと誠を見た。


 忘れていた。

 正確には、最初から覚えていなかった。


 一昨日、誠が突然部屋にいた時、マロンは不審者だと思って逃げた。彩も父親だと分からなかった。


 誠はかなり傷ついていた。

 それは、マロンにも分かる。


 ただ、まだ誠はよく知らない人だった。

 父というものも、まだよく分からない。


 だから、どう慰めればいいのかも分からなかった。


 栄は腕を組んだ。


「大丈夫だ。お前が留守の間も、私が孫たちをたっぷり可愛がっておく」


「それが嫌だから行きたくないんです」


 誠は即答した。


「私が覚えてもらいたいんです。父親として」


「仕事も父親の務めだ」


「でも、この可愛い時期にほとんど一緒にいられないのは、さすがに辛いです」


 誠は彩を見た。


「彩、パパがいない間も、ちゃんと覚えていてくれるか?」


 彩は髪飾りを触りながら、少し考えた。


「ママがいるから大丈夫だよ!」


 誠の笑顔が固まった。


「……大丈夫?」


「うん。ママがいるし、おじいちゃんもおばあちゃんもいるし、マー君もいるし」


 彩は安心させるつもりで言ったらしい。


 けれど、誠の目元は少し潤んでいた。


「彩……パパは、少しだけでも寂しがってほしかった」


「え? でも、ママいるよ?寂しくないよ」


「うん……そうだね……」


 誠は胸を押さえ、ゆっくり肩を落とした。


 真琴が困ったように笑う。


「誠、彩は心配しなくていいと言ってくれているのよ」


「分かってる。分かってるんだが、父親として不安だし正直寂しい」


 誠は彩の髪飾りを見た。


「その髪飾りは、気に入ったか?」


「うん。すごく可愛い」


 彩はぱっと笑った。


 誠も一瞬嬉しそうな顔になった。


 けれど、彩は続けた。


「これ見たら、パパのこと思い出すね」


「髪飾り経由か……」


 誠はまた少し沈んだ。


 それでも、すぐに気を取り直したようにマロンを見る。


「真尋も、パパのことを覚えていてくれるか?」


 マロンは少し考えた。


 パパ。

 父。


 犬の絵本をくれた人。


 まだよく分からないけれど、悪い人ではなさそうな人。


 そして、今から仕事へ行く人。

 マロンは小さく手を上げた。


「おしごと、がんばって」


 誠の目が、また一瞬だけ潤みそうになった。


「真尋……」


「いってらっしゃい」


「……うん。行ってくる」


 誠は半泣きのまま笑った。

 けれど、すぐに少しだけ身をかがめる。


「でも、できればパパのことも覚えていてくれると嬉しい」


「うん」


「本当に?」


「ちち」


 誠の顔が明るくなった。


「そう。父だ」


「いぬの、えほんのひと」


 誠の笑顔が、静かに崩れた。


「……父より先に、犬の絵本が来たか」


 栄が横で大きく笑った。


「覚えられているだけ上出来だ」


「父さん、私は犬の絵本と同じ棚に入れられています」


 誠が半泣きのまま肩を落としたところで、栄が背広の男たちへ目配せした。


「会長、分かりました」


 男たちは一瞬だけ姿勢を正した。


 会長。

 たぶん栄のことだ。


 二人の男が、左右から誠へ近づいた。


「え、ちょっと待ってください」


「社長、お時間です」


「今、父親として非常に繊細なところなんだが」


「お車を待たせております」


「せめて、もう少しだけ」


「参りましょう」


 二人の男は、慣れた様子で誠の両腕を抱えた。誠が慌てる。


「父さん!」


「行ってこい」


「真琴!」


 真琴は困ったように笑っていた。


「いってらっしゃい、誠」


「君までそんな穏やかに……」


「お仕事でしょう?」


 誠は何か言い返そうとして、何も言えなくなった。


 そのまま、ずるずると玄関の外へ引きずられていく。


 彩が手を振った。


「パパ、気をつけてね」


 誠の顔が少し明るくなる。


「彩……!」


「お土産も待ってるね」


 誠の顔がまた沈んだ。


「……うん。買ってくるよ」


 マロンも手を振った。


「おしごと、がんばって」


「ありがとう、真尋」


 誠は小さく笑った。


「父も、できれば一緒に覚えていてくれ」


「うん。ちち。いぬのえほんのひと」


 誠は最後にもう一度だけ肩を落とし、そのまま男たちに運ばれていった。


 玄関の外へ。

 車の方へ。


 誠の声がさらに遠ざかっていく。


「父さん、これは本当に必要な手順ですか!」


「必要だ」


 栄の返事は短かった。


 車の扉が閉まる音がした。


 しばらくして、車が走り去っていく音がした。誠は、仕事へ行ったらしい。


 マロンは玄関の外を見つめた。


「ちち、いった?」


 栄がうなずいた。


「あいつはまた仕事に行ったよ」


「しごと」


「そうだ。しばらくしたら、また帰ってくる」


「また、かえる?」


「ああ。たぶん来年にはな」


 来年。


 それは遠いのか近いのか、マロンにはまだよく分からない。


 でも、誠はまた帰ってくるらしい。

 つまり、今は旅に出たのだ。


 仕事という名の旅。


 帰ってきたばかりでも、また行かなければならない旅。


 子どもに顔を忘れられるのが嫌でも、行かなければならない旅。


 男の人二人に抱えられてでも、行かなければならない旅。


 仕事は、かなり強い。

 マロンは少し震えた。


 颯くんも、毎朝仕事へ行っていた。

 時々、少し疲れた顔をしていた。


 それでも、行ってきますと言って玄関を出ていった。もしかすると、颯くんもこういう気持ちだったのかもしれない。


 家にいたくても、行かなければならない。


 しーちゃんのそばにいたくても、仕事へ向かわなければならない。


 阿澄さんとゆっくり話したくても、朝には出ていかなければならない。


 父というものは、まだよく分からない。


 でも、仕事へ行く人の気持ちは、少しだけ分かった気がした。


 ■鳴瀬家・居間


 誠が連れて行かれたあと、栄は何事もなかったように言った。


「さて、せっかく集まったんだ。みんなで何かうまいものでも食べるか」


 彩がぱっと顔を上げた。


「食べる!」


 切り替えが早い。


 誠が今、玄関の外へ連れて行かれたばかりなのに。


 真琴も苦笑しながら言った。


「朝からにぎやかですね」


「正月明けだからな」


 栄は豪快に笑った。


 昭恵は落ち着いた顔で、マロンの頭をなでた。


「真尋も驚きましたね」


「ちち、しごと、いった」


「そうです。お仕事へ行きました」


「しごと、たいへん」


「ええ。大変です」


 昭恵は少しだけ目を細めた。


「だから、帰ってきた時は迎えてあげましょうね」


 迎える。


 その言葉に、マロンは少し反応した。


 犬だった頃、マロンは玄関で颯くんを迎えていた。


 足音が近づくと、すぐ分かった。

 扉が開く前から、玄関で待っていた。


 颯くんが帰ってくると、マロンは尻尾を振った。


 颯くんは疲れた顔のまま、マロンの頭をなでてくれた。


 迎える。

 それは、とても大事な仕事だった。


 でも今のマロンには尻尾がない。本沢家の玄関へ走っていくこともできない。


 けれど、いつか帰れたら、またあの玄関で待ちたい。


 そして鳴瀬家では、誠も迎えるのかもしれない。この家も大切にしなければならないからだ。


 マロンは小さくうなずいた。


「むかえる」


「ええ」


 昭恵は微笑んだ。


 そのあと、食卓にはおいしそうなものが並んだ。マロンの分もあった。


 真琴が、マロンにも食べやすいようにしてくれたらしい。


 彩は誠からもらった髪飾りをつけていた。


 栄はそれを見て、似合う似合うと大きな声で褒めた。


 昭恵は少し呆れながらも、目元をやわらかくしていた。


 真琴は時々、玄関の方を見る。

 誠が出て行った方向だ。


 マロンはそれに気づいた。

 真琴は、少し寂しいのかもしれない。


 でも、泣かなかった。


 いつものように笑って、彩の髪飾りを直して、マロンの皿を見てくれている。


 人間は、寂しくても仕事をする。

 家のことをする。

 子どもの世話をする。


 阿澄さんもそうだった。颯くんが仕事へ行ったあと、阿澄さんは忙しそうに動いていた。


 しーちゃんの準備をして、洗濯をして、ごはんを作っていた。


 寂しかったのかどうか、マロンには分からない。


 でも、忙しそうだった。


 マロンは、また本沢家のことを思い出した。あの家は、今も朝を迎えているだろうか。


 仕事へ行く人を、誰が見送っているのだろう。帰ってきた人を、誰が迎えているのだろう。


 マロンがいない玄関は、やはり静かかもしれない。


 そう思うと、胸がぎゅっとした。


 ■鳴瀬家・真尋の部屋


 昼過ぎ、マロンは部屋に戻った。


 誠は仕事へ行った。

 家は少し静かになった。

 でも、完全に静かではない。


 彩が誠からもらったお土産を見ている声がする。


 栄の笑い声も遠くから聞こえる。

 真琴が誰かと話している声もする。


 鳴瀬家は、やはりにぎやかだった。


 マロンは机の前に座った。

 漢字ドリルを開く。


 今日の字は、朝に練習した「行」だった。


 行く。


 仕事へ行く。

 本沢家へ行く。

 迎えに行く。


 いろいろな「行く」がある。


 マロンは鉛筆を握った。


 行。

 線が少し曲がる。


 もう一度。

 今度は少し右に寄る。


 またもう一度。

 さっきより、少しだけましになる。


「いく」


 マロンは小さく言った。


 まだ行けない。

 でも、いつか行く。


 漢字を覚える。

 表札を読む。

 もとざわの字を見つける。


 そして、本沢家へ帰る。


 今日、誠は仕事へ行った。

 父というものは、まだよく分からない。


 でも、仕事へ行く人は、家を出る時に少し寂しそうになることが分かった。


 だから、帰ってきた時は迎えなければならない。


 マロンは、犬だった頃の玄関を思い出した。 扉の向こうから聞こえる足音。


 鍵の音。

 ただいま、と言う声。

 小さな靴の音。


 忙しそうな足音。


 マロンは、あの玄関へ帰りたい。

 それは、今も変わらなかった。


 マロンはもう一度、「行」と書いた。

 少しだけ形が整った。


 まだ上手ではない。

 でも、前よりはましだ。


 マロンは紙の上の文字を見つめた。


 颯くん。

 阿澄さん。

 しーちゃん。


 待っていてください。

 マロンは、ちゃんと行きます。


 仕事へ行った人を迎えるためにも。

 泣いている子のそばへ戻るためにも。

 必ず、本沢家へ帰ります。


 マロンはそう思いながら、もう一度、鉛筆を動かした。


 紙の上に、少し曲がった「行」が増えた。


 それはまだ頼りない字だった。


 けれど、マロンには少しだけ、新しい道に見えた。

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