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マロンはもう一度、家に帰りたい  作者: 本沢マロン
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第12話 マロンは父を知らない

 数日後。


 もちろん、マロンはまだ本沢家に帰れていなかった。けれど、諦めたわけではない。


 漢字の道は長い。常用漢字だけでも二千百三十六字あると知った時、マロンはしばらく動けなかった。


 一日ひとつ覚えても、とても時間がかかる。

 忘れれば、もっとかかる。


 それでも、覚えるしかない。


 マロンが知っているのは、「もとざわ」という音だけだった。


 探している家の表札が、どんな字なのかは分からない。だから、少しずつ漢字を覚えて、いつかその中から自分の探している字を見つける。


 それが、今のマロンにできる帰宅作戦だった。


 山。

 川。

 木。


 本。

 日。

 月。


 火。

 水。


 少しずつ読める字が増えている。

 少しずつ書ける字も増えている。


 それでも、本沢家はまだ見つからない。


 颯くんも、阿澄さんも、しーちゃんも、まだ遠い。だから今日も、起きたら漢字の勉強をするつもりだった。


 そう思って、マロンは目を開けた。


 隣に知らない人がいた。

 ベッドの横に、見知らぬ男が立っていた。


 マロンは固まった。


 男は、じっとマロンを見ている。


 目が合った。

 知らない。

 全然知らない。


 颯くんではない。

 栄でもない。

 屋敷で働いている人でもない。


 見たことのない男だった。


 マロンは、すぐに危険だと判断した。


 知らない人が、朝、ベッドの横にいる。


 これはかなり危ない。


 しかも、真琴がいない。

 彩もいない。


 マロンは小さく息を吸った。


 吠えてはいけない。

 遠吠えもしてはいけない。


 前に遠吠えをした時は、医者が来た。

 髪も切られた。


 あれはかなり危険だった。


 だから、声は出さない。

 逃げる。


 マロンは、最近できるようになったことを実行した。


 柵を越える。


 以前は無理だった。


 高すぎた。

 足が短すぎた。

 手も頼りなかった。


 でも、毎日体を動かしていた。

 本沢家へ帰るために。


 今では、時間をかければベッドの柵を越えられるようになっていた。


 マロンは柵に手をかけた。


 片足を上げる。

 体を乗せる。


 頭が重い。

 落ちそうになる。

 でも、落ちない。


 男が驚いたように言った。


「え、ちょっと待って!」


 待たない。知らない人の言うことを聞いてはいけない。


 マロンは柵を越え、床に下りた。

 少し足がふらついたが、転ばなかった。


 すぐに部屋を飛び出す。


 廊下を出て右。

 隣の部屋。


 彩の部屋だ。


 マロンは扉に手をかけた。


 少し重い。

 けれど、押した。


 隙間が開く。


 マロンはそこから入り込んだ。


「おねえちゃん!」


 彩は、まだ布団の中にいた。

 目をこすりながら顔を上げる。


「マー君……?」


「しらないひと」


「え?」


「へや、しらないひと、いる」


 彩の目が一気に覚めた。

 布団をはねのける。


「知らない人?」

「うん」


「マー君の部屋に?」

「うん」


 彩は立ち上がった。

 顔が急に真剣になる。


「分かった」


 彩は胸を張った。


「お姉ちゃんが、ママとマー君を守ってあげる」


 頼もしい。

 でも、少し心配だった。


 彩はマロンより大きい。

 けれど、まだ子どもだ。


 知らない男に勝てるのだろうか。


 犬だった頃のマロンなら、前に立てた。

 大きな体で玄関を守れた。


 吠えることもできた。


 でも今のマロンは小さい。

 彩の後ろについていくしかなかった。


 彩は勢いよく部屋を出た。

 マロンもその後ろをついていく。


 真尋の部屋の前で、彩は足を止めた。

 扉の向こうに、さっきの男がいる。


 彩は男を指さした。


「あの人?」


「うん」


 マロンはうなずいた。


 男は、二人を見て顔を輝かせた。


「彩……大きくなったな」


 彩は固まった。

 マロンを見た。


 そして、小さな声で聞いた。


「マー君、この人、誰?」


「しらない」


「お姉ちゃんも知らない」


 男の顔から、ゆっくりと色が消えた。


「え」


 彩はもう一度男を見た。

 それから、警戒した顔で言った。


「誰ですか?おじさんは?」


 男は、その場に崩れ落ちた。


 本当に崩れ落ちた。

 膝をついて、床に手をついた。


 マロンは一歩下がった。


 倒れた。

 知らない男が倒れた。


 これはまた別の意味で危ないのではないだろうか。


 そこへ、廊下の奥から真琴がやって来た。

 真琴は、床に膝をついている男を見た。


 それから、彩とマロンを見た。

 最後に、もう一度男を見た。


「あなた、何をやってるんですか!」


 男は顔を上げた。

 とても悲しそうだった。


「真琴……子どもたちに顔を忘れられていた」


「一年も帰ってこなかった人が、連絡もなく朝から子どもの部屋に立っていたら、そうなります」


「言い方が酷い」


「事実です」


 真琴はため息をついた。

 それから、彩とマロンに向き直る。


「彩、真尋。大丈夫よ。この人は知らない人ではありません」


 知らない人ではない。

 マロンは首を傾げた。


 どう見ても知らない人だ。

 彩も同じ顔をしている。


 真琴は少し困ったように笑った。


「二人のお父さんよ。誠です」


「お父さん?」


 彩が目を丸くした。


「えっ。パパ?」


 誠は、さらに傷ついた顔をした。


「彩、本当に分からなかったのか」


「だって……一年ぶりだし」


「一年で忘れるのか……」


 誠はまた少し崩れた。

 マロンは、じっと誠を見た。


 父。

 鳴瀬家の父。


 年末に帰ってくると言っていた、誠。

 この人が、父。


 犬だった頃、マロンには母犬がいた。

 兄弟たちもいた。


 その後、本沢家へ行き、颯くんがいて、阿澄さんがいて、しーちゃんがいた。


 主人であり、家族であり、守るべき人たちだった。けれど、父というものはよく分からなかった。


 マロンにとって、父という存在は初めてだった。


 それが、目の前のこの人らしい。

 知らない人ではないらしい。


 でも、まだよく知らない。

 マロンにとって、誠はそういう人だった。


 ■鳴瀬家・居間


 誠は、たくさんの荷物を持って帰ってきていた。


 朝から知らない人扱いされて崩れ落ちていたが、荷物だけは立派だった。


 大きな鞄がいくつもある。その中から、誠は次々と箱や袋を取り出した。


「彩にはこれ」


「わあ!」


 彩の前に、きれいな箱が置かれる。

 外国のお菓子らしい。


 それから、色のついた鉛筆。

 小さな人形。


 かわいい髪飾り。

 絵本。

 見たことのない模様のノート。


 彩の目がどんどん輝いていく。


「パパ、これ全部?」


「もちろん。彩に似合うと思って」


 彩は、さっきまで父親を忘れていたことを少しだけ忘れたようだった。


 嬉しそうに箱を開けている。


 誠は、次にマロンの方を見た。


「真尋には、これだ」


 マロンの前にも、袋がいくつも置かれた。


 小さな積み木。

 動物の絵本。

 柔らかい布のボール。


 外国の文字が書かれた箱。

 それから、犬の絵がついた絵本もあった。


 マロンは、その絵本をじっと見た。


 犬。

 犬がいる。

 四本足だ。


 毛もある。

 尻尾もある。


 少し羨ましい。


 誠は、少し緊張したように言った。


「気に入るか分からないけど」


 マロンは絵本を手に取った。

 表紙の犬を見る。


 そして、うなずいた。


「いぬ」


「そう。犬の絵本だ」


「よむ」


 誠は、ほんの少し目を丸くした。

 けれど、すぐに嬉しそうに笑った。


「電話で聞いていたけど、本当にしっかり話すんだな」


 真琴が横で微笑んだ。


「最近は、かなり言葉も増えたの。絵本も読むし、漢字も少し始めているわ」


 その言葉を聞いた瞬間、誠の動きが止まった。


「……漢字?」


「ええ」


「漢字って、あの漢字?」


「その漢字よ」


 誠は、マロンを見た。


 次に真琴を見た。

 それから、彩を見た。


「真尋、まだ一歳だよな?」


「そうね」


「ひらがなを読んでいるとは聞いてた。絵本を読んだとも聞いた。電話でも聞かせてもらった」


 誠は少し混乱したように言った。


「でも、漢字?」


 彩は胸を張った。


「私の教科書で勉強してるよ」


「彩の教科書で?」


「うん。私が先生だから」


 誠は、また動きを止めた。


 子どもたちに顔を忘れられた時とは、違う固まり方だった。


 今度は本当に驚いている。

 マロンは首を傾げた。


 そんなに驚くことだろうか。


 漢字は必要なのだ。

 本沢家へ帰るために。

 表札を読むために。


 しーちゃんの家を見つけるために。


 誠は、しばらく黙っていた。

 それから、ゆっくりと言った。


「真琴。電話で聞いていた以上に、すごいことになってないか」


「私も少し驚いているわ」


「少し?」


「かなり」


「だよな」


 誠は深く息を吐いた。

 そして、マロンのそばにしゃがんだ。


「真尋、漢字を勉強してるのか?」


「うん」


「難しくないか?」


「むずかしい」


「それでもやるのか?」


「やる」


 マロンは力強くうなずいた。


「おぼえる」


 誠は、その真剣な顔を見て、何も言えなくなったようだった。


 真琴が静かに笑った。


「毎日、本当に一生懸命なの」


 彩も言った。


「マー君、すごく頑張ってるよ。私より集中してる時あるもん」


「彩より……」


 誠は少し困ったように笑った。

 けれど、その目は優しかった。


「そうか。頑張ってるのか」


「うん」


「すごいな、真尋」


 すごい。

 また言われた。


 マロンは少し困った。

 すごいことをしたいわけではない。


 本沢家へ帰るために必要だから覚えているだけだ。けれど、誠も嬉しそうだった。


 知らない人ではなくなったばかりの父が、嬉しそうにしている。


 それは悪いことではなかった。


 マロンは犬の絵本を開いた。

 まだ読めない文字もある。

 外国の字は全然分からない。


 けれど、日本語のところは少し読めた。


「いぬ、はしる」


 マロンは読んだ。

 誠は黙った。


 それから、ゆっくり息を吐いた。


「……本当に読んでる」


「よむ」


 マロンはうなずいた。


 読む。

 書く。

 覚える。


 帰る。


 それが今の作戦だ。


 ■鳴瀬家・真尋の部屋


 昼のあと、マロンは少しだけ自分の部屋へ戻された。たくさんの出来事がありすぎた。


 知らない男が現れた。

 柵を越えて逃げた。

 彩に助けを求めた。


 その男が父の誠だと分かった。


 お土産もたくさんもらった。

 犬の絵本ももらった。

 かなり忙しい朝だった。


 けれど、マロンにはやることがある。


 誠が帰ってきても、本沢家への道は短くならない。お土産をもらっても、しーちゃんの家は見つからない。


 嬉しいことは嬉しい。

 でも、帰宅作戦は続く。


 マロンは、漢字ドリルを開いた。

 今日はまだ一つも漢字を覚えていない。


 今日の漢字は「空」だった。


 そら。

 空。


 線が多い。


 上に屋根のようなものがある。

 下にも何かある。

 難しい。


 マロンは一度書いた。


 少しつぶれた。

 もう一度書いた。


 今度は少し右に寄った。

 もう一度。


 まだ変だ。

 でも、続ける。


 漢字は遠い。

 とても遠い。


 でも、一つずつ覚えれば、いつか自分の探している「もとざわ」の字にも出会える。


 そう信じるしかない。


「そら」


 マロンは小さく言った。


 空。

 窓の外にあるもの。


 本沢家の上にもあるもの。

 鳴瀬家の上にもあるもの。


 しーちゃんも、同じ空を見ているかもしれない。マロンは、少しだけ窓の外を見た。


 冬の空は薄く、少し寒そうだった。


 それでも、続いている。

 この空の下のどこかに、本沢家がある。


 マロンはまた鉛筆を持った。


「もういっかい」


 もう一度、空を書く。

 帰るために。


 探すために。

 忘れないために。


 ■鳴瀬家・居間


 夕方、栄と昭恵がやって来た。


 誠が帰ってきたと聞いて、顔を見に来たらしい。食卓には、いつもより少しにぎやかな空気があった。


 栄は誠を見るなり、大きく笑った。


「帰って早々、子どもたちに忘れられたそうだな」


 誠はうつむいた。


「父さん、そこから入るんですか」


「一年も家を空けて、連絡もなく朝に寝室へ行けば、そうなるだろう」


 昭恵も落ち着いた声で言った。


「驚かせたのは、あなたの方です」


「母さんまで……」


 誠は肩を落とした。


 彩はお土産の髪飾りを手に持って、少し気まずそうに言った。


「でも、パパって分かったから」


「最初から分かってほしかったな」


「だって、顔ちょっと変わったし」


「変わったかな」


 誠はさらに落ち込んだ。


 真琴が苦笑する。


「あなたも悪いんです。帰ってくるなら、ちゃんと連絡してください」


「驚かせたかったんだ」


「驚きましたよ。別の意味で」


「真琴……」


 誠は、また少し小さくなった。


 栄は楽しそうに笑っている。

 昭恵も口元を押さえている。


 彩も、少しだけ笑っている。


 マロンは、その様子を見ていた。


 鳴瀬家は、にぎやかだ。


 笑う声が多い。

 大きな声も多い。


 本沢家とは少し違う。

 でも、悪い家ではない。


 この家も大切にしなければならない。


 神様と犬神様に言われたことを、マロンは覚えている。


 誠は、食事の途中でぽつりと言った。


「子どもに顔を忘れられるくらいなら、もう海外へ行かない方がいいのかな」


 栄がすぐに言った。


「だめに決まっているだろう」


 早かった。


 誠は少し顔を上げた。


「即答ですか?」


「お前の仕事だ。責任がある。簡単に投げ出すな」


「分かっていますけど」


 誠は、少しだけ苦笑した。


「ただ、朝からなかなか効きまして」


 真琴は、少しやわらかい声で言った。


「年明けまでは家にいられるんでしょう?」


「ああ。その予定だ」


「なら、その間にちゃんと思い出してもらえばいいんです」


「思い出してもらう前提なのがつらいな」


 彩は髪飾りを持ち上げた。


「お土産くれるなら、早く思い出すかも」


「彩、現金だな」


「げんきん?」


 マロンは首を傾げた。


 お金のことだろうか?。

 元気のことだろうか?。


 人間の言葉は難しい。

 同じ音でも意味が違うことがある。


 まことも二人いる。


 もとざわも、文字を知らなければ分からない。


 げんきんも、たぶん難しい。

 やはり、勉強が必要だ。


 マロンは、食事をしながら誠を見た。

 この人が鳴瀬家の父。


 彩の父。

 真琴の夫。

 そして、今のマロンの父。


 父というものは、まだよく分からない。


 犬だった頃には、父と呼ぶ人はいなかった。だから誠は、マロンにとって初めての父だった。


 知らない人ではなくなった。

 でも、まだよく知らない人だった。


 ■鳴瀬家・真尋の部屋


 その夜、マロンはベッドの中で横になっていた。近くには、誠からもらった犬の絵本が置いてある。


 それから、漢字ドリル。

 書き取り帳。


 今日書いた「空」の紙。


 朝は知らない人がいた。

 昼にはその人が父だと分かった。


 夕方には、家族みんなで笑っていた。


 誠は、お土産をたくさん持ってきてくれた。彩にも、マロンにも。


 長く家にいなかったのに、二人のことを考えていたらしい。


 顔は知らなかった。

 でも、悪い人ではなさそうだった。


 年明けまでは家にいるらしい。

 なら、観察しなければならない。


 鳴瀬家の父が、どんな人なのか。


 どんな声で笑うのか。

 どんな足音なのか。

 どんな匂いなのか。


 父というものが、どういうものなのか。


 そして、本沢家へ帰るための勉強も続けなければならない。


 誠が帰ってきても、マロンの目的は変わらない。


 マロンは、犬の絵本に手を置いた。


 絵本の犬は、四本足で立っていた。


 毛もあった。

 尻尾もあった。


 少し羨ましい。


 でも、今のマロンには手がある。


 鉛筆を持てる手だ。

 文字を書ける手だ。


 いつか、本沢家を見つけるための手だ。


 マロンは小さく手を握った。


 明日も、漢字を勉強する。

 誠のことも、少し覚える。

 父というものも、少し知る。


 どれも大切だ。


 そう決めて、マロンは静かに目を閉じた。

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