第11話 マロンは漢字の多さを知る
さらに一か月が経った。
もちろん、マロンはまだ本沢家に帰れていなかった。
季節は、もう冬になっていた。
朝、窓の外を見ると、庭の木の葉が少なくなっている。風も冷たい。
真琴が窓を開けると、部屋の中にひやりとした空気が入ってきて、マロンはすぐに首をすくめた。
犬だった頃なら、このくらいの寒さは平気だった。
栗色の毛皮があった。首まわりにも、背中にも、お腹にも、しっぽにも、ふわふわの毛があった。
けれど、今のマロンにはそれがない。
上着がなければ外には出られない。
帽子もいる。
靴もいる。
人間の体は、やはり不便だった。
けれど、マロンは今、それ以上に大事なことに取り組んでいた。
漢字である。
この一か月、マロンは必死に漢字を勉強した。
真琴が買ってくれた漢字ドリル。
書き取り帳。
文字カード。
彩の国語の教科書。
その全部を使って、毎日少しずつ覚えた。
最初は、どれも難しい形にしか見えなかった。
線が多い。
横に伸びる。
縦に落ちる。
曲がる。
はねる。
止まる。
ひらがなも難しかったが、漢字はもっと難しい。
ひらがなは丸くて、やわらかかった。
漢字は、角が多い。
小さな枝がたくさん生えているような字もある。
階段みたいな字もある。
箱みたいな字もある。
犬だった頃のマロンなら、こんなものは見ても分からなかった。
紙の匂いを嗅いで終わりだった。
けれど、今は違う。
これを覚えなければならない。
人間の家を探すには、人間の文字が必要なのだ。マロンはそれを知ってしまった。
だから、毎日勉強した。
「山」
これは、やま。
「川」
これは、かわ。
「木」
これは、き。
「本」
これは、ほん。
最初に「本」を覚えた時、マロンは少し嬉しくなった。
本は、たくさんある。
本屋にもあった。
絵本も本だ。
漢字ドリルも本だ。
そして、本という字は、何となく大事な気がした。
けれど、その時のマロンはまだ、それ以上のことは分かっていなかった。マロンが知っているのは、「もとざわ」という音だけだった。
もとざわ。
颯くんの家。
阿澄さんの家。
しーちゃんの家。
マロンが十五年暮らした家。
でも、その文字の形を、マロンは知らない。
どんな字が並んでいたのか。
どんな表札だったのか。
何を見れば、その家だと分かるのか。
それを知らない。
知らないまま、漢字を覚えれば何とかなると思っていた。でも、漢字ドリルを開いているうちに、マロンはふと気づいた。
自分は、探している字の形を知らない。知らない字を、どうやって探せばいいのだろう。
マロンは鉛筆を持ったまま、じっと止まった。
紙の上には、少し曲がった「山」と「川」が並んでいる。
でも、マロンが本当に書きたい字ではない。本当に知りたい字ではない。
探しているのは、もとざわの字だ。
でも、マロンはその形を知らない。
これは、かなり大きな問題だった。
「マー君?」
彩が横からのぞきこんだ。
「どうしたの?」
マロンは紙を見つめたまま言った。
「もとざわ、わからない」
「もとざわ?」
「うん」
彩は首をかしげた。
「また、あのお家のこと?」
マロンはうなずいた。
あのお家。
真琴に連れて行ってもらった、違う家。
表札には文字があった。
けれど、マロンには読めなかった。
読めないから、そこが違う家だと、景色や匂いで判断するしかなかった。
でも、人間の体では匂いは頼りない。
景色も知らない。
文字が読めなければ、家を探せない。
「字、しらない」
マロンは言った。
「ん?」
「もとざわの字、しらない」
彩は少し考えた。
「そっか。読み方だけ知ってるってこと?」
「うん」
「じゃあ、漢字をいっぱい覚えたら分かるかもね」
彩は悪気なく言った。
マロンも、最初はそう思っていた。いっぱい覚えれば、いつかその字に出会える。
表札を見た時に、これだと分かるようになる。しーちゃんの家を見つけられる。
でも。
いっぱいとは、どのくらいなのだろう?。
マロンは、漢字ドリルを見た。
まだ最初の方だ。
覚えた字は少しだけ。
それでも、かなり大変だった。
山。
川。
木。
本。
日。
月。
火。
水。
ひとつ覚えるだけでも大変だ。
読むだけならまだいい。
書くとなると、もっと大変だ。
線の向き。
順番。
長さ。
どれか少し違うだけで、別のもののように見える。
マロンは、不安になった。
漢字は、どのくらいあるのだろう。
■鳴瀬家・居間
その日の午後、マロンは真琴に聞いた。
「かんじ、いくつ?」
真琴は、少し不思議そうに瞬いた。
「漢字がいくつあるか?」
「うん」
「たくさんあるわよ」
「たくさん、どのくらい?」
マロンは真剣だった。
真琴は、マロンの顔を見て、少し困ったように笑った。
「そうね……」
真琴は棚から辞書を取り出した。
それから、漢字の本と、彩の教材も開いた。マロンはその様子をじっと見ていた。
調べている。
真琴が、漢字の数を調べている。
少しして、真琴は言った。
「常用漢字だけでも、二千百三十六字あるみたいね」
マロンは止まった。
「にせん……」
「二千百三十六」
真琴は、ゆっくり言った。
「普段よく使う漢字だけでも、それくらいあるみたいね」
二千百三十六。
マロンは、その数を頭の中で追いかけようとした。
一。
二。
三。
十。
百。
千。
二千。
二千百三十六。
多い。
とても多い。
ひらがなとは全然違う。
ひらがなは、頑張れば一か月でかなり覚えられた。でも、漢字は二千百三十六もある。
一日ひとつ覚えても、二千百三十六日。
二日にひとつなら、もっとかかる。
忘れたら、さらにかかる。
途中で間違えたら、またやり直しだ。
マロンは、漢字ドリルを見た。そこには、まだ少ししか覚えていない漢字が並んでいる。
山。
川。
木。
本。
これだけでも大変だった。
なのに、二千百三十六。
マロンは愕然とした。
「マー君?」
真琴が心配そうに顔をのぞきこむ。
「大丈夫?」
「……おおい」
「多いわね」
「すごく、おおい」
「そうね。でも、全部一度に覚えるものじゃないのよ。少しずつ、学校で習っていくものだから」
少しずつ。
また少しずつだった。
人間の大人は、何でも少しずつと言う。でも、本沢家へ帰るには急がなければならない。
しーちゃんが待っている。
颯くんもいる。
阿澄さんもいる。
マロンがいない玄関は、きっと静かだ。
早く帰らなければならない。
けれど、漢字は二千百三十六もある。
本沢家へ帰る道は、マロンが思っていたより、ずっと長かった。
玄関を見つければ帰れると思った。
外へ出れば帰れると思った。
公園へ行けば分かると思った。
もとざわと言えば連れて行ってもらえると思った。
ひらがなを覚えれば何とかなると思った。
漢字を覚えれば、きっと帰れると思った。
でも、漢字は二千百三十六もあった。
マロンは、小さく息を吐いた。
「ながい」
「うん?」
「みち、ながい」
真琴は少しだけ首をかしげた。
「漢字の道?」
マロンはうなずいた。
「ながい」
真琴は、やわらかく笑った。
「そうね。長いわね。でも、真尋なら少しずつ覚えられるわ」
真琴はそう言って、マロンの頭をなでた。
その手はあたたかかった。
マロンは少しだけ目を細めた。
長い。
でも、覚えるしかない。
道が長いなら、歩くしかない。
犬だった頃もそうだった。
散歩道が長い時も、マロンは歩いた。
颯くんと歩いた。
阿澄さんと歩いた。
しーちゃんと歩いた。
疲れても、家に帰るまで歩いた。
だから、今回も歩くしかない。
漢字の道を。
少しずつ、毎日。
■鳴瀬家・居間
夕食の時間になった。
栄と昭恵はもう来ていた。
冬の夜は早い。
外はもう暗く、窓の向こうには冷たい空気が広がっていた。
部屋の中はあたたかい。
食卓には、湯気の立つ料理が並んでいる。
マロンの食事も、前より少しだけしっかりしたものになっていた。最初の頃より、ずっと噛み応えがある。
それでも、彩の食べているものの方がおいしそうに見える。
マロンは、少しだけ彩の皿を見た。
真琴に見つかる前に、視線を戻した。
今は食事に集中しなければならない。
漢字の勉強で、頭がかなり疲れている。
食べなければ、明日また勉強できない。
食事の途中で、栄が嬉しそうに言った。
「年末には、誠も帰ってくるそうだ」
まこと。
マロンは顔を上げた。
そして、真琴を見た。
真琴はここにいる。
目の前にいる。
ごはんを食べている。
帰ってくるも何も、今いる。
マロンは不思議に思って言った。
「まこと、ここ」
食卓が一瞬、静かになった。
それから、彩が吹き出した。
「マー君、違うよ」
栄も大きく笑った。
「そうか、真尋にはまだ分かりにくいか」
昭恵も口元を押さえている。
真琴は困ったように、でも楽しそうに笑った。
「ママも真琴だけど、パパも誠なのよ」
「ぱぱ」
「そう。お父さんの誠」
「まこと、ふたり?」
「そうね。読み方は同じね」
マロンは混乱した。
まことが二人。
もとざわも、同じように聞こえる家がある。
人間の世界には、同じ音が多すぎる。
音だけでは分からない。
やはり、文字が必要だ。
真琴と誠。
同じまことでも、きっと文字が違う。
もとざわも、同じ音でも、文字が違うのかもしれない。
だから、やはり読めなければならない。
マロンは、真琴を見た。
「ぱぱ、どんなひと?」
真琴は少し驚いたあと、やわらかく微笑んだ。
「優しい人よ。少し忙しくて、なかなか帰ってこられないけれど」
彩が少しだけ頬をふくらませた。
「でも、帰ってきたらすぐ私たちにお土産買ってくるよ」
栄が笑った。
「誠は昔からそういうところがあるな」
昭恵は落ち着いた声で言った。
「今回は年末には戻れるそうですから、真尋も会えますね」
会える。
まだよく知らない父。
真琴と同じまこと。
鳴瀬家の父。
マロンは少し気になった。
どんな匂いの人なのだろう。
どんな声なのだろう。
颯くんとは違うのだろうか?。
たぶん違う。
でも、マロンの今の家族だ。
神様と犬神様は、この家も大切にしなさいと言った。だから、父の誠も大切にしなければならない。
マロンは小さくうなずいた。
「まこと、かえる」
「そうよ」
真琴は笑った。
「パパが帰ってくるの」
パパ。
誠。
同じまこと。
人間の名前も、やはり難しい。
でも、文字を覚えれば少しずつ分かるのかもしれない。マロンはそう思った。
■鳴瀬家・真尋の部屋
その夜。
マロンはベビーベッドの中で横になっていた。近くには、漢字ドリルが置いてある。
今日はもう勉強してはいけないと言われた。
目が疲れるから。
手も疲れるから。
明日にしましょう、と真琴に言われた。
マロンは少し不満だった。
でも、今日は頭がかなり疲れていた。
漢字は多い。
二千百三十六。
その数を思い出すだけで、胸の奥が少し重くなる。
マロンは、横になったまま小さな手を見た。
この手で、二千百三十六の漢字を覚える。
読む。
書く。
探す。
その中のどこかに、もとざわの字があるはずだ。自分が探している家の字があるはずだ。
いつか、それを見つけられるはずだ。
道は長い。
とても長い。
玄関より遠い。
公園より分かりにくい。
知らない町の道よりも、もっと長い。
でも、諦めるわけにはいかない。
颯くんがいる。
阿澄さんがいる。
しーちゃんがいる。
しーちゃんは、マロンにもふもふしてくれた。泣いた時は、マロンの首に顔を埋めた。
マロンは、しーちゃんの涙を舐めてあげたかった。
大丈夫だと伝えたかった。
今はまだ帰れない。
でも、帰らないわけにはいかない。
マロンは、漢字ドリルの表紙を見た。
今日は、漢字が二千百三十六もあると知った。
とても多い。
とても長い道だ。
でも、一つずつ覚えれば、いつか必ず、もとざわの字にも出会える。マロンはそう信じることにした。
颯くん。
阿澄さん。
しーちゃん。
待っていてください。
マロンは、ちゃんと探します。
どれだけ長い道でも、必ず帰ります。
そう思いながら、マロンは目を閉じた。
夢の中で、漢字はたくさん並んでいた。
そして、そのずっと向こうに、まだ読めない何かの字があった。
マロンは夢の中でも、それを追いかけていた。




