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マロンはもう一度、家に帰りたい  作者: 本沢マロン
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第10話 マロンは漢字を覚えたい

 さらに一か月が経った。


 もちろん、マロンはまだ本沢家に帰れていなかった。


 けれど、マロンはまた少し前進していた。


 ひらがなは、ほとんど読めるようになった。書くことも、かなりできるようになった。


 最初は、紙の上にミミズのような線が増えるだけだった。


 彩に笑われたこともある。

 真琴に手を支えてもらったこともある。


 鉛筆を強く握りすぎて、指が痛くなったこともある。


 それでも、毎日書いた。

 毎日読んだ。

 毎日、覚えた。


 その結果、今では「まひろ」と綺麗に書ける。


「もとざわ」と、ひらがなで書くこともできる。


 これは大きな前進だった。

 少し前まで、マロンはそう思っていた。


「もとざわ。」


 その音が分かれば、いつか本沢家に帰れる。ひらがなで書けるようになれば、大人に聞くこともできる。


 そう思っていた。


 けれど、最近になって、マロンは大きなことを知った。人間の名前は、音だけでは足りない。


 同じように聞こえる名前でも、字が違えば別の家になるらしい。


 この前、真琴に調べてもらった「もとざわさん」もそうだった。


 確かに「もとざわ」と読む家だった。 けれど、マロンの知っている家ではなかった。


 颯くんの家ではない。

 阿澄さんの家でもない。

 しーちゃんの家でもない。


 その時、マロンは初めて気づいた。


 自分は、もとざわの字を知らない。


 犬だった頃、表札は何度も見ていたはずだった。けれど、マロンは文字を文字として見ていなかった。


 匂いで分かった。

 道で分かった。

 家族の気配で分かった。


 だから、表札にどんな形の字が並んでいたのか、まったく覚えていない。


 もとざわといえば、ひとつしかないと思っていた。


 でも、人間の世界では違う。

 同じ音でも、違う字がある。

 違う字なら、違う家になる。


 マロンは、書き取り帳に書いた「もとざわ」のひらがなを見つめた。


 読める。

 書ける。


 でも、これだけでは足りない。


「かんじ……」


 マロンは小さくつぶやいた。


 漢字。


 ひらがなより、ずっと難しそうな文字。 それを覚えなければ、本沢家には帰れない。


 次の作戦は、漢字を覚えることである。


 ■鳴瀬家・居間


 その日の午後、マロンは真琴に言った。


「かんじ、おしえて」


 真琴は、洗濯物を畳んでいた手を止めた。


「漢字?」


「うん、かんじ」


「真尋、漢字を覚えたいの?」


「おぼえる」


 マロンは真剣にうなずいた。


 真琴は少し困ったように笑った。


「ひらがなも覚えたばかりなのに?」


「かんじ、いる」


「いるの?」


「いる」


 絶対にいる。

 もとざわの字を知るために。


 表札を読めるようになるために。

 しーちゃんの家を見つけるために。


 マロンは本気だった。


 真琴は、最近よくする顔をした。


 嬉しいような、困っているような、少し不思議そうな顔。


「そうね……。彩、今使っている国語の教科書を持ってきてくれる?」


 彩は宿題をしていた顔を上げた。


「国語?」


「ええ。少しだけ真尋に見せてあげたいの」


「マー君に?」


 彩は目を丸くした。

 それから、少し焦ったような顔になった。


「マー君、もう漢字やるの?」


「やる」


「私、今やってるのに」


 彩が少しだけ頬をふくらませる。


 真琴は笑った。


「彩はお姉ちゃんなんだから、負けないようにね」


「ま、負けないもん」


 彩は慌てたように立ち上がると、自分の鞄から国語の教科書を持ってきた。


 マロンは、その教科書を見た。

 絵本よりも文字が多い。


 ひらがなもある。

 カタカナも少しある。


 そして、見慣れない文字もある。


 これが漢字だ。

 ひらがなとは全然違う。


 形がある。

 線がある。


 絵のようにも見えるし、ただの線の集まりにも見える。


 犬だった頃なら、きっと匂いを嗅いで終わりだった。


 でも今は違う。

 これを覚えなければならない。


「読めるところだけでいいのよ」


 真琴が教科書を開いた。


「無理しなくていいからね」


 無理ではない。

 必要なのだ。


 マロンは教科書を見つめた。


 ひらがなを追う。

 覚えた文字を読む。


「き、が、あります」


 読めた。

 途中に、見慣れない字があった。


 真琴が、その字を指さして言う。


「これは木。きって読むの」


「き」


「そう。木」


 木。


 マロンは、その字をじっと見つめた。


 犬だった頃なら、木は匂いで分かった。


 幹の匂い。

 葉っぱの匂い。


 雨の日の濡れた匂い。

 夏の日に、根元で休んだ時の土の匂い。


 木は、マロンにとって文字ではなかった。

 そこにあるものだった。


 けれど、人間はそれを、こんな形の字で表すらしい。


 一本の縦の線。

 横の線。


 左右へ分かれる線。

 たしかに、少しだけ木に見える気もする。


 マロンは紙を求めた。


「かく」


「書くの?」


「うん。かく」


 真琴は少し驚いたが、紙と鉛筆を用意した。


 彩が隣で見ている。


 マロンは紙に鉛筆を置いた。


 木。


 ひらがなより線は少ない。

 けれど、ただの線ではない。

 ちゃんと形がある。


 マロンは慎重に鉛筆を動かした。


 横。

 縦。


 左。

 右。


 書けた。

 少し傾いている。


 教科書の木より、頼りない。

 けれど、木らしいものにはなった。


「……き」


 マロンは言った。


 真琴は紙を見たまま、しばらく黙っていた。


 彩も黙っていた。


 マロンは少し不安になった。

 失敗したのだろうか。


 やはり、まだ早かったのだろうか。


 すると、真琴が小さく息を吐いた。


「……本当に、書こうとしてるのね」


「かく」


 マロンはうなずいた。


「おぼえる」


 真琴は目を伏せ、それから少し笑った。


「そうね。覚えたいのね」


 その声は優しかった。

 けれど、少しだけ驚きが混ざっていた。


 彩は教科書とマロンの紙を見比べて、少し悔しそうに言った。


「マー君、私の教科書で勉強してる」


「彩の教科書を借りているのよ」


「分かってるけど……」


 彩は少し頬をふくらませた。

 けれど、すぐにマロンの横へ座った。


「マー君、木はこうだよ。縦の線が曲がると変になるの」


「ここ?」


「そう。あと、こっちの線はもう少し長い方がいい」


 彩は教えてくれた。


 お姉ちゃんとして、少し張り切っているらしい。マロンは素直にうなずいた。


「もういっかい」


「うん。もう一回」


 マロンは、もう一度、木を書いた。

 一回目より、少しだけましになった。


 真琴はそれを見て、立ち上がった。


「少し待っていてね」


 真琴は部屋の入口にいるお手伝いに声をかけた。


「車を用意してもらえる?」


「はい、奥様」


 車。


 マロンは顔を上げた。


「くるま?」


「ええ」


 真琴はにっこり笑った。


「本屋へ行きましょう」


「ほんや?」


「本がたくさん売っているところよ。漢字の練習帳を買いに行きましょう」


 漢字の練習帳。


 マロンの心の耳が立った。


 頭の上には耳がない。

 でも、心の耳はしっかり立った。


 漢字を覚えるための本がある。

 それを買いに行く。


 つまり、もっと勉強できる。


「いく」


 マロンは力強く言った。


 彩も立ち上がった。


「私も行く!」


「ええ。彩も一緒に行きましょう」


 真琴はそう言って、マロンの頭をなでた。


「でも、その前にお着替えね」


 着替え。


 上着。

 帽子。

 靴。


 外へ出る準備だ。

 人間は外へ出るだけでも準備が多い。


 でも、今日は我慢できる。

 漢字のためだ。


 ■車の中


 車は少し怖い。


 犬だった頃のマロンは、車に乗ると少し緊張した。


 病院へ行くことが多かったからだ。

 でも、今日は病院ではない。


 本屋へ行く。

 漢字の練習帳を買いに行く。


 真琴に抱かれ、隣に彩が座っている。

 お手伝いも一緒だった。


 車が動き出す。

 窓の外に、知らない道が流れていく。


 知らない家。

 知らない店。

 知らない人。


 この中のどこかに、本沢家へ続く道があるのかもしれない。


 けれど、今は分からない。


 だから今日は、漢字を覚えるためのものを買いに行く。


 彩は隣で少しそわそわしていた。


「マー君、漢字って難しいよ」


「むずかしい」


「うん。でも私が教えてあげるから」


「おねえちゃん、せんせい」


 彩は嬉しそうに笑った。


「そう。私が先生」


 真琴が横でくすりと笑った。


「先生なら、彩もちゃんと復習しないとね」


「分かってるよ」


 彩は少し慌てたように言った。


 マロンは思った。


 彩も頑張るらしい。

 それはいいことだ。


 彩が勉強するなら、マロンも一緒に勉強する。


 ■書店


 本屋は、すごい場所だった。


 マロンは真琴に抱かれたまま、店の中を見て固まった。


 本。

 本。

 本。


 どこを見ても本がある。


 大きな本。

 小さな本。

 薄い本。


 厚い本。

 絵のある本。

 文字ばかりの本。


 匂いもする。


 紙の匂い。

 インクの匂い。

 新しい本の匂い。

 人の匂い。


 いろいろ混ざっている。


「マー君?」


 真琴が顔をのぞきこんだ。


「びっくりした?」


「ほん、いっぱい」


「そうね。本屋さんだからね」


 本屋。

 本がたくさんある場所。


 そのままだ。

 だが、たくさんありすぎる。


 マロンは少しだけ真琴の服を握った。ここで迷子になったら、本沢家どころか鳴瀬家にも帰れない。


 真琴はマロンを安心させるように抱き直した。


「大丈夫。今日は、こっちの棚を見るだけよ」


 真琴は、店の奥へ向かった。

 彩もついてくる。


 そこには、小さな子ども向けの教材が並んでいた。


 ひらがな。

 カタカナ。

 漢字。


 数字。

 迷路。

 ぬりえ。


 いろいろある。


 真琴は低い棚の前で立ち止まった。


「小学校低学年の漢字なら、このあたりかしら」


 彩が少し得意そうにした。


「私が使ってるのもこのくらいだよ」


「そうね。真尋にはまだ早いけれど、興味があるなら、無理のない範囲でね」


 早い。

 また言われた。


 でも、もう慣れた。


 人間の大人は、マロンに何かあるたびに早いと言う。けれど、マロンは急がなければならない。


 真琴が何冊か手に取る。


 漢字ドリル。

 書き取り帳。

 絵で覚える漢字。


 一年生の漢字。

 はじめての漢字。


 いろいろある。


 マロンは真剣に見た。

 どれがいいのか分からない。


 全部必要に見える。


 この中のどれかに、自分が探している「もとざわ」の字があるかもしれない。


 でも、どれに載っているのか分からない。そもそも、その字がどんな形なのかも分からない。


 なら、たくさん覚えるしかない。


「これ」


 マロンは一冊を指さした。


「これも」


 別の一冊を指さす。


「これも」


「マー君、そんなに?」


 彩が驚いた。


「いる」


 マロンは真剣に答えた。


 真琴は少し困ったように笑った。


「一度に全部はできないわよ」


「すこしずつ」


「そう。少しずつね」


「ぜんぶ、すこしずつ」


 真琴は一瞬黙り、それから笑った。


「それなら、このあたりをまとめて買っておきましょうか」


 マロンは目を見開いた。


「かう?」


「ええ。買いましょう」


「やった」


 思わず声が出た。


 彩が笑った。


「マー君、勉強の本を買ってもらってそんなに嬉しいの?」


「うれしい」


「変なの」


 変ではない。

 とても大事なことだ。


 マロンは真琴の腕の中で、買い物かごに入っていく本を見つめた。


 漢字ドリル。

 書き取り帳。

 文字カード。


 絵で覚える漢字。


 どれも、帰宅作戦のための新しい道具だった。


 ■車の中


 帰りの車の中、マロンは袋をじっと見ていた。


 本が入っている。


 これで、もっと勉強できる。

 もっと読める。

 もっと書ける。


 いつか、自分の探している「もとざわ」の字も分かるかもしれない。表札を見て、ここだと分かるかもしれない。


 彩は隣で楽しそうに話していた。


「マー君、帰ったらまず一年生の漢字からだよ。いきなり難しいのはだめだからね」


「いちねんせい」


「そう。私もやったやつ」


「おねえちゃん、せんせい」


「うん。私が先生」


 彩は胸を張った。


 真琴が隣で笑っている。


「先生、よろしくね」


「任せて!」


 彩は嬉しそうだった。

 マロンも嬉しかった。


 これで勉強できる。

 また前進できる。


 本沢家はまだ見つかっていない。

 しーちゃんにも会えていない。


 颯くんと阿澄さんのところにも帰れていない。


 けれど、道は少しずつできている。


 ひらがな。

 書き取り。

 絵本。


 そして、漢字。


 マロンは袋を見つめながら、小さな手を握った。


 颯くん。

 阿澄さん。

 しーちゃん。


 待っていてください。


 マロンは、漢字を覚えます。もとざわの字を、ちゃんと分かるようになります。


 表札を見て、ちゃんと家を見つけます。


 車の窓の外で、知らない町の景色が流れていく。


 今はまだ、どの道が本沢家へ続いているのか分からない。でも、いつか分かる。


 そのための本が、今、マロンのすぐそばにある。


 外へ出るためには、上着と靴が必要だった。家を探すためには、文字が必要だった。


 そして今、マロンは漢字を覚えるための本を手に入れた。


 今日は、とても大きな前進だった。


 そう思いながら、マロンは帰りの車の中で、何度も何度も袋の中をのぞいた。

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