↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
マロンはもう一度、家に帰りたい  作者: 本沢マロン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/22

第9話 マロンは文字を読めるようになった


 一か月前、マロンにとって文字は、ただの線だった。


 丸い線。


 曲がった線。


 くねくねした線。


 彩が書いた「あ」と、真琴が書いた「あ」は少し違って見えた。


 絵本に書かれている「あ」は、もっと違って見えた。


 それなのに、全部「あ」らしい。


 マロンは、それがよく分からなかった。


 犬だった頃なら、匂いが違えば違うものだった。


 颯くんの匂いは、颯くんの匂い。


 阿澄さんの匂いは、阿澄さんの匂い。


 しーちゃんの匂いは、しーちゃんの匂い。


 それぞれ違った。


 でも、人間の文字は違う。


 少し形が違っても、同じ文字は同じ文字らしい。


 人間の世界は、とても難しい。


 書くことは、もっと難しかった。


 鉛筆を持つ。


 紙を見る。


 線を書く。


 それだけのことが、とても大変だった。


 犬だった頃、マロンは前足で床を押すことができた。


 穴を掘ることもできた。


 扉の前で前足をそろえて待つこともできた。


 けれど、細い鉛筆を持って、紙に小さな線を書くことはなかった。


 最初に書いた「あ」は、文字ではなかった。


 彩はそれを見て、笑った。


「マー君、これミミズみたい」


 ミミズ。


 確かに、少しミミズに似ていた。


 けれど、マロンはミミズを書きたいわけではなかった。


 文字を書きたいのだ。


 本沢家を探すために。


 本沢と本澤の違いを分かるようになるために。


 しーちゃんの家を見つけるために。


 だから、マロンは頑張った。


 毎日、彩に教わった。


 真琴にも手を支えてもらった。


 紙の上には、曲がった線がたくさん増えた。


 最初は、何を書いているのか自分でも分からなかった。


 けれど、一か月経った今は違う。


 少し歪んでいる。


 大きさもそろっていない。


 線もふらふらしている。


 それでも、読める。


 これは「あ」だと分かる。


 これは「い」だと分かる。


 これは「ま」だと分かる。


 そして、マロンは自分の今の名前も書けるようになった。


 まひろ。


 この家での、自分の名前。


 マロンではない。


 本沢家の犬だった名前ではない。


 けれど、今はこの名前で呼ばれている。


 この名前を書くことも、今のマロンには必要だった。


 マロンは、紙の上にゆっくり鉛筆を動かした。


 ま。


 ひ。


 ろ。


 少し曲がっている。


 少し大きさも違う。


 でも、ちゃんと読める。


 まひろ。


 マロンは、じっとその文字を見つめた。


 ひらがなが読めるようになった。


 少しだけなら、書けるようにもなった。


 なら、いつか漢字も読めるようになるはずだ。


 マロンは小さな手を握った。


 これは、とても大きな前進だった。


◇◇◇


 その日、マロンは絵本を読んでいた。


 彩が学校から帰ってくる前だった。


 真琴が洗濯物を畳んでいるそばで、マロンは小さな絵本を開いていた。


 絵本には、犬の絵が描いてあった。


 犬が道を歩いている。


 その犬には、ちゃんと毛があった。


 尻尾もあった。


 四本足で歩いていた。


 少し羨ましかった。


 マロンは文字を追った。


「いぬ、が、あるき、ます」


 ゆっくり。


 一文字ずつ。


 間違えないように。


 読めた。


 たぶん、読めた。


 マロンは真剣にうなずいた。


 犬は歩きます。


 確かに犬は歩く。


 四本足で歩く。


 これは正しい。


 ただ、絵の犬は少し不思議だった。


 首に大きな赤いリボンをつけている。


 マロンは、そこが気になった。


 犬は首輪をすることはある。


 リボンをすることも、たぶんある。


 でも、散歩中にこんな大きなリボンをつけていたら、少し邪魔ではないだろうか。


 枝に引っかかるかもしれない。


 走る時に揺れて、気になるかもしれない。


 マロンはじっと絵を見た。


「このいぬ、あぶない」


 真琴が顔を上げた。


「危ないの?」


「りぼん、おおきい。ひっかかる」


 真琴は一瞬黙った。


 それから、口元を押さえた。


「そうね。少し大きいかもしれないわね」


 笑っている。


 なぜ笑うのか分からない。


 マロンは真剣だった。


 犬が歩くなら、リボンは小さい方がいい。


 あるいは、首輪だけでいい。


 その方が安全だ。


 マロンがもう一度絵本を見ようとすると、真琴がそっと近づいてきた。


「マー君、もう一回読める?」


「よめる」


「じゃあ、読んでみて」


 マロンはうなずいた。


「いぬ、が、あるき、ます」


 真琴の手が止まった。


 畳みかけていた洗濯物が、膝の上で止まっている。


「……真尋」


「うん」


「今、自分で読んだの?」


「よんだ」


 マロンはうなずいた。


 文字を読む練習は、毎日している。


 だから読める。


 真琴は、しばらくマロンを見ていた。


 そして、ゆっくりと顔を輝かせた。


「すごい……」


 すごい。


 また言われた。


 マロンは少し困った。


 すごいことをしたいわけではない。


 本沢家へ帰るために必要だから覚えたのだ。


 けれど、真琴は本当に嬉しそうだった。


 その顔を見ると、悪い気はしなかった。


 鳴瀬家の人たちも、大切にしなければならない。


 神様と犬神様との約束だ。


 真琴が嬉しいなら、それはよいことなのかもしれない。


 その時、玄関の方から彩の声がした。


「ただいま!」


 真琴はぱっと顔を上げた。


「彩、ちょうどよかったわ。真尋が絵本を読んだの」


「えっ?」


 彩がランドセルを背負ったまま、居間へ駆け込んできた。


「マー君が?」


「そう。自分で読んだの」


 彩は目を丸くした。


「マー君、読んで! 読んで!」


 マロンは少し困った。


 今はもう一度読むつもりはなかった。


 けれど、彩はとても期待している。


 彩はこの一か月、マロンに文字を教えてくれた。


「あ」と「お」の違いも教えてくれた。


「ぬ」と「ね」は間違えやすいと教えてくれた。


「は」は読む時に「わ」になることがあると教えてくれた時は、かなり困った。


 同じ文字なのに読み方が変わる。


 人間の文字は、やはり難しい。


 それでも彩は何度も教えてくれた。


 だから、読んであげるべきかもしれない。


 マロンは絵本を開いた。


「いぬ、が、あるき、ます」


 彩の目がさらに丸くなった。


「本当に読んだ!」


「よむ」


「すごい! マー君すごい!」


 彩が大きな声を出す。


 マロンは少しだけ身を引いた。


 彩は声が大きい。


 栄ほどではないが、大きい。


「ママ! マー君、今、ちゃんと読んだ!」


「ええ。読めたわね」


 真琴も嬉しそうだった。


 彩は絵本をのぞきこんだ。


「じゃあ、これは?」


 別のページを開く。


 今度は猫の絵だった。


 猫。


 猫は、犬神様の管轄ではない。


 マロンは少し複雑な気持ちになった。


 それでも読んだ。


「ねこ、が、ねて、います」


「読めた!」


 彩は跳ねるように喜んだ。


 猫は寝ています。


 それは正しい。


 猫はよく寝る。


 犬だった頃、庭の塀の上で寝ている猫を見たことがある。


 呼んでも来ない。


 見ても、すぐどこかへ行く。


 なんとなく自由な生き物だった。


「ねこ、よく、ねる」


「うん、猫ってよく寝るよね」


 彩は嬉しそうにうなずいた。


 マロンは真剣に絵本を見ていた。


 読む。


 意味を考える。


 絵を見る。


 これは、ただ文字を読むだけではない。


 人間の世界を知る練習でもあるのかもしれない。


 真琴はその様子を見ながら、少し不思議そうにしていた。


 ただ嬉しいだけではない。


 少し驚いている。


 少し考えている。


 それでも、真琴は止めなかった。


 マロンはほっとした。


 文字を覚えることは、止められてはいけない。


 帰宅作戦のために、必要なのだ。


◇◇◇


 マロンは絵本を閉じると、今度は紙を探した。


「かく」


 マロンが言うと、彩がすぐに反応した。


「書くの?」


「うん。かく」


「じゃあ、紙持ってくる!」


 彩は大急ぎで紙と鉛筆を持ってきた。


 真琴は少し心配そうに言った。


「疲れていない?」


「だいじょうぶ」


 マロンは答えた。


 小さい手は疲れやすい。


 鉛筆を持つと、すぐに指が痛くなる。


 でも、今は書きたい。


 読めるだけでは足りない。


 書けるようにもならなければならない。


 必要なら、自分で伝えられるように。


 しーちゃん。


 もとざわ。


 いつか、そう書けるように。


 マロンは鉛筆を握った。


 まだ持ち方は少し変だ。


 彩が横から手を出す。


「マー君、こうだよ。こう持つの」


「こう」


「うん。ぎゅってしすぎると疲れるよ」


 ぎゅっとしすぎる。


 確かに、手が少し痛くなる。


 マロンは力を少し抜いた。


 紙に鉛筆をつける。


 ま。


 少し曲がった。


 ひ。


 少し大きい。


 ろ。


 最後は少し潰れた。


 でも、書けた。


 まひろ。


 マロンは紙を見つめた。


 今の名前。


 マロンではない。


 けれど、この家で自分を示す名前。


 彩が息を呑んだ。


「マー君……自分の名前書けたの?」


「かけた」


 マロンはうなずいた。


 彩は真琴を振り返った。


「ママ! マー君、まひろって書いた!」


 真琴は紙をのぞきこんだ。


 その目が、大きく開く。


「本当に……」


 真琴は紙をそっと持ち上げた。


 曲がった文字。


 大きさのそろわない文字。


 それでも、ちゃんと読める。


 まひろ。


 真琴は、しばらく黙ってその文字を見ていた。


 それから、マロンを抱きしめた。


「すごいわ、真尋」


 真琴の声は、少し震えていた。


 マロンは驚いた。


 そんなに大変なことだったのだろうか。


 確かに、一か月頑張った。


 毎日、何度も練習した。


 最初はミミズだった。


 今も少し曲がっている。


 でも、真琴がこんな声を出すほどのことだとは思わなかった。


 彩も横から抱きついてきた。


「マー君、すごい! 私が教えたんだよね!」


「うん」


「私が先生だよね!」


「せんせい」


 彩は嬉しそうに笑った。


 マロンは少し苦しかった。


 真琴と彩に抱きしめられているからだ。


 けれど、嫌ではなかった。


 この家の人たちは、マロンが何かできるようになると、本当に喜ぶ。


 それは悪いことではない。


 ただ、マロンには目的がある。


 まひろを書けた。


 なら、いつか、もとざわも漢字で書ける。


 いつか読める。


 表札を見て、ここだと分かるようになる。


 しーちゃんの家を、ちゃんと見つけられるようになる。


 マロンは、真琴の腕の中で、小さくうなずいた。


 これは、かなり大きな前進だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。