第9話 マロンは文字を読めるようになった
一か月後、もちろんマロンはまだ本沢家に帰れていなかった。
けれど、マロンはかなり前進していた。
ひらがなを、ほとんど覚えたのである。
読むだけではない。
少しだけなら、書くこともできるようになった。
もちろん、最初からできたわけではない。
一か月前、マロンにとって文字は、ただの線だった。
丸い線。
曲がった線。
くねくねした線。
彩が書いた「あ」と、真琴が書いた「あ」は少し違って見えた。
絵本に書かれている「あ」は、もっと違って見えた。
それなのに、全部「あ」らしい。
マロンは、それがよく分からなかった。
犬だった頃なら、匂いが違えば違うものだった。
颯くんの匂いは、颯くんの匂い。
阿澄の匂いは、阿澄の匂い。
しーちゃんの匂いは、しーちゃんの匂い。
それぞれ違った。
でも、人間の文字は違う。
少し形が違っても、同じ文字は同じ文字らしい。
人間の世界は、とても難しい。
書くことは、もっと難しかった。
鉛筆を持つ。
紙を見る。
線を書く。
それだけのことが、とても大変だった。
犬だった頃、マロンは前足で床を押すことができた。
穴を掘ることもできた。
扉の前で前足をそろえて待つこともできた。
けれど、細い鉛筆を持って、紙に小さな線を書くことはなかった。
最初に書いた「あ」は、文字ではなかった。
彩はそれを見て、笑った。
「マー君、これミミズみたい」
ミミズ。
確かに、少しミミズに似ていた。
けれど、マロンはミミズを書きたいわけではなかった。
文字を書きたいのだ。
本沢家を探すために。
本沢と本澤の違いを分かるようになるために。
しーちゃんの家を見つけるために。
だから、マロンは頑張った。
毎日、彩に教わった。
真琴にも手を支えてもらった。
何度も「あ」を書いた。
何度も「い」を書いた。
何度も「う」を書いた。
紙の上には、曲がった線がたくさん増えた。
最初は、何を書いているのか自分でも分からなかった。
けれど、一か月経った今は違う。
少し歪んでいる。
大きさもそろっていない。
線もふらふらしている。
それでも、読める。
これは「あ」だと分かる。
これは「い」だと分かる。
これは「ま」だと分かる。
そして、マロンは自分の今の名前も書けるようになった。
まひろ。
この家での、自分の名前。
マロンではない。
本沢家の犬だった名前ではない。
けれど、今はこの名前で呼ばれている。
この名前を書くことも、今のマロンには必要だった。
マロンは、紙の上にゆっくり鉛筆を動かした。
ま。
ひ。
ろ。
少し曲がっている。
少し大きさも違う。
でも、ちゃんと読める。
まひろ。
マロンは、じっとその文字を見つめた。
ひらがなが読めるようになった。
書けるようにもなった。
なら、いつか漢字も読めるようになるはずだ。
マロンは小さな手を握った。
これは、とても大きな前進だった。
■鳴瀬家・居間
その日、マロンは絵本を読んでいた。
彩が学校から帰ってくる前だった。
真琴が洗濯物を畳んでいるそばで、マロンは小さな絵本を開いていた。
絵本には、犬の絵が描いてあった。
犬が道を歩いている。
その犬には、ちゃんと毛があった。
尻尾もあった。
四本足で歩いていた。
少し羨ましかった。
マロンは文字を追った。
「いぬ、が、あるき、ます」
ゆっくり。
一文字ずつ。
間違えないように。
読めた。
たぶん、読めた。
マロンは真剣にうなずいた。
犬は歩きます。
確かに犬は歩く。
四本足で歩く。
これは正しい。
ただ、絵の犬は少し不思議だった。
首に大きな赤いリボンをつけている。
マロンは、そこが気になった。
犬は首輪をすることはある。
リボンをすることも、たぶんある。
でも、散歩中にこんな大きなリボンをつけていたら、少し邪魔ではないだろうか。
枝に引っかかるかもしれない。
走る時に揺れて、気になるかもしれない。
マロンはじっと絵を見た。
「このいぬ、あぶない」
真琴が顔を上げた。
「危ないの?」
「りぼん、おおきい。ひっかかる」
真琴は一瞬黙った。
それから、口元を押さえた。
「そうね。少し大きいかもしれないわね」
笑っている。
なぜ笑うのか分からない。
マロンは真剣だった。
犬が歩くなら、リボンは小さい方がいい。
あるいは、首輪だけでいい。
その方が安全だ。
マロンがもう一度絵本を見ようとすると、真琴がそっと近づいてきた。
「マー君、もう一回読める?」
「よめる」
「じゃあ、読んでみて」
マロンはうなずいた。
「いぬ、が、あるき、ます」
真琴の手が止まった。
畳みかけていた洗濯物が、膝の上で止まっている。
「……真尋」
「うん」
「今、自分で読んだの?」
「よんだ」
マロンはうなずいた。
文字を読む練習は、毎日している。
だから読める。
真琴は、しばらくマロンを見ていた。
そして、ゆっくりと顔を輝かせた。
「すごい……」
すごい。
また言われた。
マロンは少し困った。
すごいことをしたいわけではない。
本沢家へ帰るために必要だから覚えたのだ。
けれど、真琴は本当に嬉しそうだった。
その顔を見ると、悪い気はしなかった。
鳴瀬家の人たちも、大切にしなければならない。
神様と犬神様との約束だ。
真琴が嬉しいなら、それはよいことなのかもしれない。
その時、玄関の方から彩の声がした。
「ただいま!」
真琴はぱっと顔を上げた。
「彩、ちょうどよかったわ。真尋が絵本を読んだの」
「えっ?」
彩がランドセルを背負ったまま、居間へ駆け込んできた。
「マー君が?」
「そう。自分で読んだの」
彩は目を丸くした。
「マー君、読んで! 読んで!」
マロンは少し困った。
今はもう一度読むつもりはなかった。
けれど、彩はとても期待している。
彩はこの一か月、マロンに文字を教えてくれた。
「あ」と「お」の違いも教えてくれた。
「ぬ」と「ね」は間違えやすいと教えてくれた。
「は」は読む時に「わ」になることがあると教えてくれた時は、かなり困った。
同じ文字なのに読み方が変わる。
人間の文字は、やはり難しい。
それでも彩は何度も教えてくれた。
だから、読んであげるべきかもしれない。
マロンは絵本を開いた。
「いぬ、が、あるき、ます」
彩の目がさらに丸くなった。
「本当に読んだ!」
「よむ」
「すごい! マー君すごい!」
彩が大きな声を出す。
マロンは少しだけ身を引いた。
彩は声が大きい。
栄ほどではないが、大きい。
「ママ! マー君、今、ちゃんと読んだ!」
「ええ。読めたわね」
真琴も嬉しそうだった。
彩は絵本をのぞきこんだ。
「じゃあ、これは?」
別のページを開く。
今度は猫の絵だった。
猫。
猫は、犬神様の管轄ではない。
マロンは少し複雑な気持ちになった。
それでも読んだ。
「ねこ、が、ねて、います」
「読めた!」
彩は跳ねるように喜んだ。
猫は寝ています。
それは正しい。
猫はよく寝る。
犬だった頃、庭の塀の上で寝ている猫を見たことがある。
呼んでも来ない。
見ても、すぐどこかへ行く。
なんとなく自由な生き物だった。
「ねこ、よく、ねる」
「うん、猫ってよく寝るよね」
彩は嬉しそうにうなずいた。
マロンは真剣に絵本を見ていた。
読む。
意味を考える。
絵を見る。
これは、ただ文字を読むだけではない。
人間の世界を知る練習でもあるのかもしれない。
真琴はその様子を見ながら、少し不思議そうにしていた。
ただ嬉しいだけではない。
少し驚いている。
少し考えている。
それでも、真琴は止めなかった。
マロンはほっとした。
文字を覚えることは、止められてはいけない。
帰宅作戦のために、必要なのだ。
■鳴瀬家・居間
マロンは絵本を閉じると、今度は紙を探した。
「かく」
マロンが言うと、彩がすぐに反応した。
「書くの?」
「うん。かく」
「じゃあ、紙持ってくる!」
彩は大急ぎで紙と鉛筆を持ってきた。
真琴は少し心配そうに言った。
「疲れていない?」
「だいじょうぶ」
マロンは答えた。
小さい手は疲れやすい。
鉛筆を持つと、すぐに指が痛くなる。
でも、今は書きたい。
読めるだけでは足りない。
書けるようにもならなければならない。
必要なら、自分で伝えられるように。
しーちゃん。
もとざわ。
いつか、そう書けるように。
マロンは鉛筆を握った。
まだ持ち方は少し変だ。
彩が横から手を出す。
「マー君、こうだよ。こう持つの」
「こう」
「うん。ぎゅってしすぎると疲れるよ」
ぎゅっとしすぎる。
確かに、手が少し痛くなる。
マロンは力を少し抜いた。
紙に鉛筆をつける。
ま。
少し曲がった。
ひ。
少し大きい。
ろ。
最後は少し潰れた。
でも、書けた。
まひろ。
マロンは紙を見つめた。
今の名前。
マロンではない。
けれど、この家で自分を示す名前。
彩が息を呑んだ。
「マー君……自分の名前書けたの?」
「かけた」
マロンはうなずいた。
彩は真琴を振り返った。
「ママ! マー君、まひろって書いた!」
真琴は紙をのぞきこんだ。
その目が、大きく開く。
「本当に……」
真琴は紙をそっと持ち上げた。
曲がった文字。
大きさのそろわない文字。
それでも、ちゃんと読める。
まひろ。
真琴は、しばらく黙ってその文字を見ていた。
それから、マロンを抱きしめた。
「すごいわ、真尋」
真琴の声は、少し震えていた。
マロンは驚いた。
そんなに大変なことだったのだろうか。
確かに、一か月頑張った。
毎日、何度も練習した。
最初はミミズだった。
今も少し曲がっている。
でも、真琴がこんな声を出すほどのことだとは思わなかった。
彩も横から抱きついてきた。
「マー君、すごい! 私が教えたんだよね!」
「うん」
「私が先生だよね!」
「せんせい」
彩は嬉しそうに笑った。
マロンは少し苦しかった。
真琴と彩に抱きしめられているからだ。
けれど、嫌ではなかった。
この家の人たちは、マロンが何かできるようになると、本当に喜ぶ。
それは悪いことではない。
ただ、マロンには目的がある。
まひろを書けた。
なら、いつか、もとざわも漢字で書ける。
いつか読める。
表札を見て、ここだと分かるようになる。
しーちゃんの家を、ちゃんと見つけられるようになる。
マロンは、真琴の腕の中で、小さくうなずいた。
これは、かなり大きな前進だった。
■鳴瀬家・居間
その日の夕方、栄と昭恵がやって来た。
どうやら真琴が知らせたらしい。
「真尋が絵本を読んで、自分の名前まで書いたんだって?」
栄の声は大きかった。
マロンは肩を揺らした。
栄はいつも近い。
声も大きい。
犬だった頃のマロンに少し似ている気がする。
ただし、人間の大人なので、かなり大きい。
「見せてくれ、真尋」
栄は嬉しそうに言った。
マロンは紙を見せた。
まひろ。
少し曲がった文字。
栄はそれを見た瞬間、目を丸くした。
「おお……!」
それから、顔いっぱいに笑みを浮かべた。
「真尋は賢いなあ!」
声が大きい。
とても大きい。
マロンはまた肩を揺らした。
昭恵も紙を受け取り、じっと見つめた。
「本当に、自分で書いたのですか?」
「うん」
マロンは答えた。
「まひろ、かいた」
昭恵の目元が、ふっとやわらかくなった。
「そうですか。よく頑張りましたね」
褒められた。
昭恵は少し怖い。
けれど、褒める時の手は優しい。
昭恵はマロンの頭をそっとなでた。
「ただし、無理をしてはいけません。手も目も、まだ小さいのですから」
小さい。
またそれだ。
でも、今日は反論しない。
確かに手は少し疲れている。
目も疲れている。
人間の勉強は、走るのとは違う疲れ方をする。
マロンは素直にうなずいた。
「すこしずつ」
「そうです。少しずつです」
昭恵は満足そうにうなずいた。
栄は大きな紙袋を持ってきていた。
「真尋のために、絵本を買ってきたぞ」
紙袋の中から、絵本が何冊も出てきた。
動物の絵本。
乗り物の絵本。
食べ物の絵本。
ひらがなの絵本。
文字カード。
マロンは目を見開いた。
教材だ。
帰宅作戦のための教材が、たくさん来た。
これは大きい。
かなり大きい。
「真尋、どれがいい?」
栄が聞く。
マロンは迷った。
犬の絵本も気になる。
でも、文字の絵本も大事だ。
食べ物の絵本も少し気になる。
乗り物は、外へ出るために役立つかもしれない。
人間の世界は広い。
覚えなければならないものが多すぎる。
「ぜんぶ」
マロンは真剣に言った。
栄が笑った。
「全部か!」
「ぜんぶ、よむ。ぜんぶ、かく」
「そうかそうか。全部読むか。書くか」
栄はとても嬉しそうだった。
昭恵は少し呆れたように言った。
「一度に全部は駄目です。少しずつです」
「すこしずつ」
マロンはうなずいた。
少しずつ。
人間の大人は、何でも少しずつと言う。
でも、今回は仕方ない。
小さい手はすぐ疲れる。
小さい目もすぐ疲れる。
それはこの一か月で分かった。
だから、少しずつ。
でも、毎日。
必ず覚える。
マロンは絵本と文字カードを見つめた。
これがあれば、もっと覚えられる。
本沢家に、もっと近づける。
■鳴瀬家・居間
そのあと、真琴は電話をかけた。
相手は、父の誠だった。
誠はまだ家に帰ってきていない。
仕事で不在が続いている。
マロンは誠のことを、まだほとんど知らなかった。
名前が、真琴と同じ「まこと」だということも、少しだけ分かっている。
でも、顔はまだうまく覚えていない。
声も、電話越しで聞くだけだ。
真琴は電話で嬉しそうに話していた。
「誠、聞いて。真尋がね、もう絵本を読んでいるの」
電話の向こうで、何か声がした。
マロンには、はっきりとは聞こえない。
でも、驚いているようだった。
「そう、本当に。ひらがなをかなり覚えたの。読むだけじゃなくて、自分の名前も書いたのよ」
また、電話の向こうで声がした。
真琴は少し笑った。
「普通はもう少し大きくなってからよね。私も驚いているの」
普通。
もう少し大きくなってから。
マロンはその言葉を聞いた。
やはり、自分はかなり早いらしい。
でも、仕方ない。
本沢家へ帰るためだ。
普通を待っていたら、しーちゃんが泣いてしまうかもしれない。
颯くんが困ってしまうかもしれない。
阿澄が忙しくて大変かもしれない。
だから、早く覚えなければならない。
真琴がマロンを見た。
「マー君、パパに少し読んで聞かせてあげる?」
パパ。
父の誠のことらしい。
マロンは少し迷った。
電話の向こうにいる人に、絵本を読む。
よく分からない。
けれど、読む練習になるなら悪くない。
マロンは絵本を開いた。
真琴が電話を近づける。
「いぬ、が、あるき、ます」
電話の向こうが、一瞬静かになった。
それから、大きな声がした。
何を言っているのかは分からなかった。
けれど、かなり驚いている。
真琴は笑った。
「ね。本当に読んだでしょう?」
マロンは少し誇らしくなった。
電話の向こうの誠は、まだ何か言っている。
真琴が答えた。
「ええ。帰ってきたら、ちゃんと聞いてあげて。真尋、すごく頑張っているから」
頑張っている。
それは合っている。
マロンは頑張っている。
帰るために。
文字を覚えるために。
真琴は電話を終えると、マロンの頭をなでた。
「パパ、とても驚いていたわ」
「おどろいた」
「ええ。真尋がすごいから」
すごい。
そう言われると、少し困る。
マロンはすごいことをしたいわけではない。
本沢家へ帰りたいだけだ。
でも、真琴が嬉しそうなので、マロンは黙っていた。
■鳴瀬家・真尋の部屋
その日の夜。
マロンはベビーベッドの中で横になっていた。
近くには、今日もらった絵本が置かれている。
文字カードもある。
全部は読ませてもらえなかった。
全部は書かせてもらえなかった。
昭恵に止められたからだ。
少しずつ。
人間の大人は、何でも少しずつと言う。
でも、今日はたくさん前進した。
ひらがなを、ほとんど読めるようになった。
少しなら、書けるようにもなった。
絵本も読めた。
自分の名前も書けた。
真琴も、彩も、栄も、昭恵も喜んだ。
電話の向こうの誠も驚いた。
みんなが喜ぶのは、悪くなかった。
けれど、マロンにとって一番大事なのは、そこではない。
文字が読める。
文字が書ける。
それは、本沢家へ近づくための力だ。
マロンは、今日書いた紙を見つめた。
まひろ。
少し曲がった文字。
大きさもそろっていない。
それでも、読める。
なら、きっと本沢も読めるようになる。
まだ漢字は難しい。
本沢という文字は、ひらがなよりずっと難しそうだ。
でも、いつか読めるようになる。
いつか書けるようになる。
本沢。
その文字を見つけられるようになる。
表札を見て、ここだと分かるようになる。
しーちゃんの家を、ちゃんと見つけられるようになる。
颯くん。
阿澄。
しーちゃん。
待っていてください。
マロンは、もう少しで文字を読めるようになります。
ちゃんと書けるようにもなります。
そう思ったところで、まぶたが重くなってきた。
今日も、たくさん読んだ。
たくさん書いた。
たくさん褒められた。
たくさん驚かれた。
そして、少しだけ本沢家に近づいた。
マロンは、絵本の表紙に小さな手を置いた。
明日も読む。
明日も書く。
もっと覚える。
本沢家に帰るために。
しーちゃんに会うために。
マロンはそう決めて、静かに目を閉じた。




