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うつくしいもの。君。世界の入り口。

 *

 建物の裏手にいたのらネコが声を上げると、勢いよく駆けていった。

 プエルが石を投げたからだ。

 でもそのネコには仲間がいる。なら、ちょっとくらい石を投げてもいい。すこし、血が滲んだくらいだ。

 あれくらいで死ぬのなら、弱いのがわるい。

 石を投げるたびに、プエルの鬱屈とした心はすこし、軽くなる。

 あの頃、プエルは説明のつかない衝動に駆られていた。

 すべてがひどく、腹立たしく、そして、疎ましかった。


『プエル。支配人がお前のこと探していたぞ』


 地面に座って空を眺めていたところで、声をかけられた。ズボンについた土を払うこともなく支配人の部屋に向かう。

 街外れの農場だったこの場所で、一番広い部屋。管理人の部屋の隣。

 他より大きくてちゃんとしたベッド。

 帳簿やタバコが雑に積まれた机。

 そして紫煙。



 部屋に入ったプエルを椅子に座らせると、開口一番、煙草を吸いながら、支配人が言う。


『なあ、プエル。おまえ、この前ほかの子供に石投げてたろ』


 喋るたびに、その鷲鼻がぴくぴくと動く。

 プエルはぼうっとそれを見つめた。


『べつに』


 煙草のあまりに強い香りに、目眩がする。

 声を硬くするプエルに、支配人が笑う。


『いや、感心してるんだ。最初の一歩がいつだってむずかしい』

『なんのこと?』

『こっちの話だよ。それに他の子供にも殴りかかったそうじゃないか。かわいそうに』

『……』

『あんまりそういうことをされると、お前をここに置いておけなくなる』

『それは、いやだよ』


 追い出されたら、行くところがない。

 途端に、心細くなった。

 支配人が大きく頷く。


『そうだろう』


 そうだ。支配人はよくプエルに喚きながら体罰を与えた管理人とちがって、たまにこういう優しげな仕草を見せた。


『なら、お前の力は俺のためだけに使え。いいか、お前がここにいるのは俺のため。その力も俺のためにある』


 プエルはそれに応えた。


『……わかった。支配人のために僕、ここにいるよ』


 支配人は愉快そうに鼻をゆらす。


『プエル、おまえ、おいしいもの食べたいか?』

『おいしいもの? なにそれ』


 食べられるものなら、なんでもいい。


『たくさんのバターを使ったケーキだ。とても甘い』

『うん。食べたい』

『ケーキは好きか』


 家の中。部屋中を満たす甘い匂い。

 プエルは頷いた。


『好きだよ』


 支配人がタバコを灰皿に突っ込むと、プエルの肩を両手で掴んだ。


『じゃあさ、実は困っているんだ』


 支配人が、困っている。


『俺たち、ガブリエルのことを信じていたのに、勝手に出て行ったんだ。裏切られたんだ。お前の力が必要なんだよ。助けてくれるか?』


 そう。ガブリエルだ。

 みんなから頼りにされていた子供。特別な子供。

 いつの間にか、姿を消していた。

 頬が熱くなる。


『うん、いいよ!』


 腹にぐっと力を込める。

 支配人は真っ直ぐ、真剣にプエルを見つめている。


『悪い人を倒してきてほしいんだ』

『え?』


 プエルも見つめ返す。


『俺ぁ、脅されているんだよ。殺してやるって、怖いんだ。助けてくれ。そのせいで、サツにまで目をつけられている。でも、俺は今、ネズミが入り込んできていて動けない』

『ネズミって、だれ?』


 そこで支配人は虚をつかれた顔をした。


『さあ、……だれだろう』


 表情がどこか抜け落ちた、自分でもよく分からない、そんな表情だった。


『どうして、子供たちがいなくなっている…………?』

『支配人?』


 そこで支配人はハッとしたように首を振った。


『そんなことはどうでもいいんだ。どうだ、プエル、俺を助けてくれるか?』

『うん、いいよ。僕、支配人のこと助ける』

『ありがとう。お前は良い子だな、プエル』






「赤ずきん?」


 赤い街の絵の鑑賞を終えた直後のことだった。

 しずかな空間にソルシエールの声が大きく聞こえる。


「また、記憶が……」

「なにもしていないよ。約束した」


 間髪入れずにソルシエールが首を横に振る。

 あわてている。自分の疑わしさに自覚がある。それもそうだろう。


「うたがってないよ」


 赤ずきんはこの奇妙な刺激に、妙に慣れつつあった。

 ただ、不快なだけ。


「……連鎖反応だ。一つ、活性化したから、他も一緒に反応しているんだ」


 ソルシエールの顔色が紙のようになっている。

 しょうがない人だな。

 赤ずきんはため息をついた。


「ねえ、師匠。なんでここに連れてきたの?」

「君が私の好きな場所でいいって言った」

「それだけじゃないよね?」

「……最初は、本当にただの旅行のつもりだった。でも、いい機会だと思ったんだ。君から奪ったものを返すのに」

「奪った?」


 はあ、とため息をつくと、ソルシエールは両手で顔を覆い、ようやく白状した。


「そう。君のある記憶。私が君から奪った。それが玉手箱の中身だよ」


 きっと、それはソルシエールと赤ずきんの出会った八年前に関係することなのだろう。

 というか、このギャラリーに来てからの反応から、どうせなにかやらかしているのだろうとは思っていたけれど、勝手になにしてくれているんだろう。


「それはここでやるのがいいの?」

「ここは、人の記憶を呼び起こしやすいんだ。絵画は、そういう広がりを呼び込むものだから。封じられたものも出てきやすい」

「さっきから思い出している記憶、別におれ、忘れていたわけじゃないよ。覚えている」

「……玉手箱の周縁の記憶だから。本体にたどり着くために、刺激しているんだ」

「だれが?」

「もう私は刺激をしていない。たぶん、君の体。失ったものに気がついて、取り戻そうとしている」


 疲れたように、ソルシエールは観賞用のソファに座った。体力がない。


「……」


 赤ずきんは手を背もたれに置いて、ソルシエールの小さな膝の上に横向きに座った。体が半分はみ出る。こんなこと、ほとんどしたことがない。


「重いよ」


 すぐに文句を言うが、顔を上げない。


「体重浮かせてるよ」

「君、大きいんだって」

「……それに、子供みたい?」

「いや、それはしたいならすればいいけど……もっと体格のいい人にしてもらいなよ」


 ソルシエールが赤ずきんの腰にそっと手を添えた。そんなことしなくても、充分安定しているのに。

 赤ずきんはソルシエールの髪を一房取り、手の中で弄ぶ。


「ねえ、……師匠にとってさ、あの頃の俺はかわいそうだった?」


 赤ずきんの質問に、ソルシエールはようやく顔を持ち上げた。


「かわいそう?」

「そう」

「君が?」


 至近距離でぽかんと口を開け、どこか間抜けな顔で考え込んだ。


「ああ、うん。……そうだね」

「どういう反応?」


 あの環境にいた惨めな子供。

 気持ちわるい、重い、と思われていても驚かない。ソルシエール以外になら。

 それでも、この関係が同情から始まっていないと言う保証などどこにもない。

 だというのに、この反応は、またなにか、普通とずれている。

 自分でも気がついたらしい。妙な確認をする。


「……ん? もしかして、かわいそうだったって認識に変えた方がいい?」

「いや。続けて?」


 そっと髪から手を離す。

 ソルシエールは、あくまでも真剣そうに言う。


「君がいたのは君をたくさん傷つける、クソみたいな環境だった。いや、ほんと、とびきりの最悪だった。でも、君とのことで真っ先に思い出すのは木漏れ日なんだ」

「木漏れ日?」


 なんのことだろう。

 ソルシエールは当時を思い出しているのか、その口元に微笑みを浮かべる。

 まるで楽しいものを思い出すように。


「そう、君と知り合ってすぐの頃、突然、君は私に見せたいものがあると言ってきた。あの頃、私は君たちが進んで薬を摂取していたのか分からなくて、てっきり売人のところか、仕事に関連した場所に連れて行くんだと思った」

「そんな事あったっけ?」


 思い出せない。


「あった。ところが、君が私を連れて行ったのは、何もない建物の影だった。石の裏とかに薬でもあるのかと思って探す私に、君は言ったんだ。『ここはね、一番木の影が綺麗なんだ。お姉さんに特別に見せてあげる』って、木漏れ日を見せた。私はすごく驚いた。そしてね、すごく、君の見ているものが知りたくなった」


 そんな事もあったような気がする。話を聞いてほんのりと記憶が蘇る。

 ソルシエールが「おもしろいもの」として魔法を見せてくれたから、当時の赤ずきんはなにかお礼を探していたのだ。あまりに嬉しかったから。でも、全然大したものではなかったはずだ。赤ずきんには渡せる贈り物などなにもなかった。


「君はすぐに飽きて地面にいた蟻を指で潰し始めたけれど」


 当時を思い出してソルシエールが苦笑する。


「でも、あれは私にとって大きな衝撃だった。天地がひっくり返るようなね」


 ソルシエールが愛おしむように、ほんの少し目を伏せる。


「あんなに素敵な贈り物をもらったのは後にも先にもない」


 赤ずきんは思わず生唾を飲み込んだ。


「……そんなのただの影じゃん」

「そうだよねえ」


 苦笑している。

 だというのに、ソルシエールはさらに続けた。

 あまりに楽しそうに。どこか誇らしげですらある。


「でもね、君はすごかった! あまりに綺麗だった!」


 その表情を見れば、本当に贈り物として受け取っているのは疑いようもない。

 よかった。ソルシエールが下を向いているおかげで、赤ずきんは目を合わせずにいられる。

 なんて答えたらいいのか分からない。

 赤ずきんは、とっさに思いついたことを提案した。


「でも、じゃあ、……また見つけたら見せる」


 それは、正解だったらしい。

 ソルシエールはぱっと顔をあげると、ますます破顔した。


「うん。ぜひそうしてよ。君は私を驚かせる天才だよ。知らないことばかりみせてくれる」


 その黒い瞳に映り込む自分自身と目が合った。

 室内だというのに、風が赤ずきんの首元をくすぐっている。

 天気のいい日の原っぱの匂いがした。


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