森の中。鹿と目が合う瞬間
*
あそこのご飯には、なにか混ぜ物がされていた。
そのせいか、プエルの体は言うことを聞かなかった。
『プエル、てめえ。またマットレスにおねしょしたね! 十にもなって、その歳でなんてザマだい。今日のご飯は抜きだよ!』
『ごめんなさい』
廊下で管理人が箒を振り上げる。プエルは思わず体を縮めた。
バシっという鈍い乾いた音がした。
折檻を受けている最中、ずっと気になっていたのは、部屋にいるソルシエールにそれを聞かれたかどうかだった。薄い壁だから、ほんのわずかな悲鳴でも漏れたらきっと聞こえてしまう。
歯を食いしばって息をころす。
しばらくして管理人が引き上げると、プエルも自分も部屋に戻る。
ちらりとソルシエールを見ると、 簡素な作りの二段ベッドの上段で、粗悪な作りの雑誌を読んでいた。
プエルは痛む体を堪えて向いのベッドの上段に登り、足を抱えてうずくまっていたが、しばらくして顔を持ち上げると、おずおずとソルシエールに聞く。
『聞いちゃった?』
『何のこと?』
聞いていなかったのかもしれない。
雑誌から目を離さない。
『ううん。なんでもない』
その目は潤んでいたが、涙を落とさないように懸命に歯を食いしばる。
静かな室内に、ソルシエールが紙を捲る音だけが聞こえる。
やがて彼女は顔をあげると、赤ずきんに手招きをした。
『おいで。おもしろいものを見せてあげる』
昔、プエルをいたぶった人たちも同じことを言っていた。
それでもプエルは向こうのベッドへ飛び越えると、ソルシエールの隣に膝を抱えて腰を下ろす。
『……見て』
ソルシエールは人差し指をぴんと立てると、ふっと息を吹きかけた。
『私の魔法。見せてあげる』
薄暗い部屋の中。
指先に動物の影が浮かび上がる。
馬や、ウサギ、鷹。
飼い慣らされていない、自然のままの動物たちが、どこかに駆けて行かずにはいられないと、全身の筋肉を駆使し、まるで風のように駆け、空を舞っている。
ほんの一瞬のうちに現れ、またたくまに消えていったそれは、それでも少年の心を惹きつけるのに十分だった。先ほどまで泣きそうになっていたことも忘れて、プエルは目を輝かせた。
『すごい、魔法みたいだ』
『魔法だからね』
『マジシャンなの?』
『魔法使いだよ』
思わずプエルは尋ねる。
『これ、僕にだけ?』
『そう。今の魔法は、君のため』
『うれしい』
プエルは心の底から笑うと、ソルシエールの腕をつかもうと手を伸ばした。しかし、その手はとまどい、プエルの方に戻される。
『なあに?』
『ううん、ごめん。間違えた』
『そう』
ソルシエールはポケットを弄ると、ちり紙を渡す。
『……鼻水出てるよ』
『あ。ほんとだ』
溢れてくる記憶。
抽象画の前。
これは、最近流行りのスタイル。街で聞いた。
なんて名前だっけ。おばあちゃんが最近の絵は派手だねえ、って笑ってた。
「どうしたの?」
赤ずきんは思わず力のまま、隣にいるソルシエールの腕を握りしめていた。
ソルシエールは痛いだろうに、なにも言わない。
「そばにいるよ。大丈夫」
だいじょうぶ、ではない。
さっきから、変だ。
記憶が溢れる。
こういうことの原因は大体ソルシエールだ。
それなのに、なんで隣にいられるだけで、こんなにも心強いのだろう。
生理的な涙が一筋、頬を伝う。
袖で乱暴に拭う。
「次に、行こうか?」
淡く、微笑んでいる。
そんな笑い方、似合わない。
でも、赤ずきんは、拒むことができない。




