↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
82/91

シュレディンガーの恋。おじいちゃんとのお茶会。

「おや。だれかいる。こんにちは」


 ごく簡素な木造の扉を押し開けて中に入ると、そこには先客がいた。

 分厚い石灰の壁。きっと熱気を遮断するためだろう。その厚みの分だけ、窓の窪みは大きく、室内は薄暗い。床には質素で硬そうな絨毯が敷かれている。


「……ここに客人なんて久しいな。いらっしゃい」


 白い衣を着た、枯れ木のように細い老人。声も乾いていた。

 穏やかそうな笑みを浮かべている。

 ヒゲは胸まで伸び、薄くつるつると突っ張った肌にはいくつかの斑。本棚の前の長椅子で巻物を読んでいたのだろう、膝の上には、巻かけの巻物が二本、筒のように並んでいた。


「……変なところで線が交差してしまったみたいですね。ソルシエールと、こちらは赤ずきんといいます。あなたは?」


 ソルシエールが指先で自らと、赤ずきんを示す。

 赤ずきんはにこりと微笑んで、目線でお辞儀をする。


「はじめまして、ソルシエール、赤ずきん。ずいぶん遠いところからきたね。わたしは、そう、エディプスと呼ばれていた」

「いつからここに?」

「神代の昔から」

「なんてことだろう。どうやら私たちは、神話の時代の人と出会ってしまったようだよ、赤ずきん」


 ソルシエールはなんてことはなさげに肩をすくめた。愉快そうだ。


「どうですかな、ここで一杯。大麦と薄荷を混ぜ合わせたものですが」


 老人が微笑んだ。

 ソルシエールと赤ずきんは顔を見合わせる。


「ええ、よろこんで」


 老人に勧められ、二人は長椅子の前に置かれた低い木の腰掛けに座った。

 エディプスはゆっくりと立ち上がると、壁際から、低い三脚の卓を引き寄せた。

 黒ずんだ木の天板は長年の使用で中央だけが滑らかになり、三本の細い脚はわずかに外側へ開いている。


 そこに部屋の奥にあった口の広い陶器の壺を運んでくると、匙で中の液体をゆるやかにかき混ぜた。沈んでいた大麦は白く舞い上がり、薄荷の匂いがうすく広がる。それを小さな陶杯にすくい分け、卓の上に置いた。

 二人はそれぞれ礼を述べ、口をつける。

 爽やかな薄荷の香りが鼻を抜ける。味は薄い。けれど、穀物のかすかな甘みを感じる。それから、ほんのすこしの苦み。お茶というより、水でうすめた粥のようだった。 


「あなたは、どうしてここに?」


 誘い、揺蕩うようなゆったりとしたソルシエールの声。初対面の人間によく使う声音。この声が人からたくさんの言葉を引き出す。

 老人はおだやかな笑みを浮かべた。


「もうずっと、いるのです。ここは静かだ。変化がない。だから、記憶は色褪せることなく鮮明に思い出せる。まるで色とりどりのガラスの影のように」

「おだやかですね」


 ソルシエールはほほえんだ。

 エディプスは軽く頷く。


「忘れたくない記憶でも?」

「亡くなった、愛する人の思い出をいつまでも抱えて生きていたいのです。私は青臭く、直情的な人間で、あの人はそんな私に優しく笑いかけてくれた。彼女の笑い方、喋り方、私を呆れたように笑いながら嗜める様子、物語となってしまっては無くなってしまう些細なディテール。そうしたものは、簡単に壊れてしまう」


 ふ、とエディプスが下を向いた途端、花と絵の具の香りがした。


「それは私の視点によって歪められたあの人ではある。しかし、私から見たあの人なのです」


 赤ずきんにはなんとなくその気持ちがわかる気がする。


「私が好きなあの人を思い出せるのはもう私しかいない。だから私は生き続ける」


 そこまで話して、エディプスはいかんいかんと苦笑した。軽く首を振る。


「一人だけ長話をしてしまった。これだから年寄りはいけない。あなた方はどうですかな?」


 ソルシエールが寂しげに笑った。


「たしかにそれは、夢のように甘美でしょう。しかし、生きている以上、風穴を開ける必要があるのですよ」

「なるほど」


 赤ずきんは思わず口を挟む。


「もー、師匠はあちこちに穴を開けたがるんだから。おじいさんが幸せなら、それでいいじゃない」

「赤ずきん、別に私はこの人を批判しているわけじゃ、……」

「おれは閉じた場所も、巣穴みたいで好きだけどなあ」


 エディプスが笑い声を上げた。






「飲まないの? おれが飲んでいい?」


 ソルシエールの杯の底に、液体が残っている。


「……だいじょうぶだよ。ありがとう」


 ソルシエールは飲み干すと、空になった赤ずきんの杯の横に置いた。

 エディプスは見計らったように、ゆったりと言う。


「この後客人がくるのです。複雑な輪廻の輪に絡め取られた人でね、時空を超えて、ランダムに散った点のようにここを訪れる。前回は、カノという名前にこだわっていたが、さて、今回はどんな名前で来るのやら」


 ソルシエールがそれを受けて、そっと立ち上がった。


「なら、私たちはその来訪のお邪魔をするわけにはいきませんね。お暇いたします」

「ごちそうさまでした!」


 赤ずきんの礼に、エディプスは鷹揚に頷いて答え、窓を指差した。


「ああ、もう会うことはないだろうが、また来るといい。そこの窓から出て行きなさい」

「窓から?」


 入ってきた扉のすぐ横だ。


「そう。物事の別の側面を見せるだろう」

「おもしろいですね」


 くすくすとソルシエールが笑う。


「おっしゃる通りにします」


 赤ずきんは腑に落ちなかったが、まあ、住民と魔法使いが言うなら、そうなんだろう。そう納得した。ソルシエールと窓に向かう。


「そこの人」


 去り際、エディプスが赤ずきんを呼び止めた。

 赤ずきんは振り返る。


「はい、なんですか?」


 老人が赤ずきんに言う。

 その言葉はどこか予言の響きを持っていた。

 いずれ来る未来。人間が人間である限り、避けられない未来。


「大切な人が生きている間に、慈しみなさい。失ってからでは遅いのだから」


 赤ずきんはお礼を言って、ソルシエールに続いて窓から外に出た。






 出た先は、ギャラリーだった。色彩は一気に白一色になる。まぶしい。

 出てきたキャンバスを振り返ると、なだらかな丘にある一本道の先に一つの家が描いてあった。微かに油絵の具の匂いがする。


「おやまあ。不思議な人だったね」


 ソルシエールが楽しそうに肩を持ち上げる。


「さっきの人、本当に……?」


 赤ずきんは老人の不思議な笑みを思い出す。


「さあ。本物かもしれないし、もしかしたら画家が自分を重ねて描いたのかもしれないね」

「そう」


 しずかで生き物の気配のほとんどない家。

 だれにも邪魔されない空間で一人、暮らすことを選ぶ時、赤ずきんはあの老人ほど穏やかでいられるだろうか。

 もう一度絵を見る。


「だとしたら、この絵画、その想い人と暮らした家とか、……暮らしたかった家だったりするのかな。あの家、長椅子が一つしかなかった」

「そうだね」


 どこか淡くて、儚い夢のような絵。


「魔法ってほんと、曖昧だね」


 床に目線を落とす。

 ギャラリーの白い床には、赤ずきん自身の影が落ちている。

 失ってからでは遅い。

 その言葉は窓を抜けたあとでも、耳の奥に残っていた。


「赤ずきん」

「ん?」

「この旅行を止めたくなったら、いつでも言うといいよ。家に帰ろう」


 うん、と赤ずきんは頷く。


「おれ、この絵を描いた人、好きかも。庭の絵を描いたのもたぶん、この人だよね」


 ソルシエールが優しく笑った。


「じゃあ、ほかの作品も探してみようか」





 赤ずきんは、次の絵画を選ぶ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。