シュレディンガーの恋。おじいちゃんとのお茶会。
「おや。だれかいる。こんにちは」
ごく簡素な木造の扉を押し開けて中に入ると、そこには先客がいた。
分厚い石灰の壁。きっと熱気を遮断するためだろう。その厚みの分だけ、窓の窪みは大きく、室内は薄暗い。床には質素で硬そうな絨毯が敷かれている。
「……ここに客人なんて久しいな。いらっしゃい」
白い衣を着た、枯れ木のように細い老人。声も乾いていた。
穏やかそうな笑みを浮かべている。
ヒゲは胸まで伸び、薄くつるつると突っ張った肌にはいくつかの斑。本棚の前の長椅子で巻物を読んでいたのだろう、膝の上には、巻かけの巻物が二本、筒のように並んでいた。
「……変なところで線が交差してしまったみたいですね。ソルシエールと、こちらは赤ずきんといいます。あなたは?」
ソルシエールが指先で自らと、赤ずきんを示す。
赤ずきんはにこりと微笑んで、目線でお辞儀をする。
「はじめまして、ソルシエール、赤ずきん。ずいぶん遠いところからきたね。わたしは、そう、エディプスと呼ばれていた」
「いつからここに?」
「神代の昔から」
「なんてことだろう。どうやら私たちは、神話の時代の人と出会ってしまったようだよ、赤ずきん」
ソルシエールはなんてことはなさげに肩をすくめた。愉快そうだ。
「どうですかな、ここで一杯。大麦と薄荷を混ぜ合わせたものですが」
老人が微笑んだ。
ソルシエールと赤ずきんは顔を見合わせる。
「ええ、よろこんで」
老人に勧められ、二人は長椅子の前に置かれた低い木の腰掛けに座った。
エディプスはゆっくりと立ち上がると、壁際から、低い三脚の卓を引き寄せた。
黒ずんだ木の天板は長年の使用で中央だけが滑らかになり、三本の細い脚はわずかに外側へ開いている。
そこに部屋の奥にあった口の広い陶器の壺を運んでくると、匙で中の液体をゆるやかにかき混ぜた。沈んでいた大麦は白く舞い上がり、薄荷の匂いがうすく広がる。それを小さな陶杯にすくい分け、卓の上に置いた。
二人はそれぞれ礼を述べ、口をつける。
爽やかな薄荷の香りが鼻を抜ける。味は薄い。けれど、穀物のかすかな甘みを感じる。それから、ほんのすこしの苦み。お茶というより、水でうすめた粥のようだった。
「あなたは、どうしてここに?」
誘い、揺蕩うようなゆったりとしたソルシエールの声。初対面の人間によく使う声音。この声が人からたくさんの言葉を引き出す。
老人はおだやかな笑みを浮かべた。
「もうずっと、いるのです。ここは静かだ。変化がない。だから、記憶は色褪せることなく鮮明に思い出せる。まるで色とりどりのガラスの影のように」
「おだやかですね」
ソルシエールはほほえんだ。
エディプスは軽く頷く。
「忘れたくない記憶でも?」
「亡くなった、愛する人の思い出をいつまでも抱えて生きていたいのです。私は青臭く、直情的な人間で、あの人はそんな私に優しく笑いかけてくれた。彼女の笑い方、喋り方、私を呆れたように笑いながら嗜める様子、物語となってしまっては無くなってしまう些細なディテール。そうしたものは、簡単に壊れてしまう」
ふ、とエディプスが下を向いた途端、花と絵の具の香りがした。
「それは私の視点によって歪められたあの人ではある。しかし、私から見たあの人なのです」
赤ずきんにはなんとなくその気持ちがわかる気がする。
「私が好きなあの人を思い出せるのはもう私しかいない。だから私は生き続ける」
そこまで話して、エディプスはいかんいかんと苦笑した。軽く首を振る。
「一人だけ長話をしてしまった。これだから年寄りはいけない。あなた方はどうですかな?」
ソルシエールが寂しげに笑った。
「たしかにそれは、夢のように甘美でしょう。しかし、生きている以上、風穴を開ける必要があるのですよ」
「なるほど」
赤ずきんは思わず口を挟む。
「もー、師匠はあちこちに穴を開けたがるんだから。おじいさんが幸せなら、それでいいじゃない」
「赤ずきん、別に私はこの人を批判しているわけじゃ、……」
「おれは閉じた場所も、巣穴みたいで好きだけどなあ」
エディプスが笑い声を上げた。
「飲まないの? おれが飲んでいい?」
ソルシエールの杯の底に、液体が残っている。
「……だいじょうぶだよ。ありがとう」
ソルシエールは飲み干すと、空になった赤ずきんの杯の横に置いた。
エディプスは見計らったように、ゆったりと言う。
「この後客人がくるのです。複雑な輪廻の輪に絡め取られた人でね、時空を超えて、ランダムに散った点のようにここを訪れる。前回は、カノという名前にこだわっていたが、さて、今回はどんな名前で来るのやら」
ソルシエールがそれを受けて、そっと立ち上がった。
「なら、私たちはその来訪のお邪魔をするわけにはいきませんね。お暇いたします」
「ごちそうさまでした!」
赤ずきんの礼に、エディプスは鷹揚に頷いて答え、窓を指差した。
「ああ、もう会うことはないだろうが、また来るといい。そこの窓から出て行きなさい」
「窓から?」
入ってきた扉のすぐ横だ。
「そう。物事の別の側面を見せるだろう」
「おもしろいですね」
くすくすとソルシエールが笑う。
「おっしゃる通りにします」
赤ずきんは腑に落ちなかったが、まあ、住民と魔法使いが言うなら、そうなんだろう。そう納得した。ソルシエールと窓に向かう。
「そこの人」
去り際、エディプスが赤ずきんを呼び止めた。
赤ずきんは振り返る。
「はい、なんですか?」
老人が赤ずきんに言う。
その言葉はどこか予言の響きを持っていた。
いずれ来る未来。人間が人間である限り、避けられない未来。
「大切な人が生きている間に、慈しみなさい。失ってからでは遅いのだから」
赤ずきんはお礼を言って、ソルシエールに続いて窓から外に出た。
出た先は、ギャラリーだった。色彩は一気に白一色になる。まぶしい。
出てきたキャンバスを振り返ると、なだらかな丘にある一本道の先に一つの家が描いてあった。微かに油絵の具の匂いがする。
「おやまあ。不思議な人だったね」
ソルシエールが楽しそうに肩を持ち上げる。
「さっきの人、本当に……?」
赤ずきんは老人の不思議な笑みを思い出す。
「さあ。本物かもしれないし、もしかしたら画家が自分を重ねて描いたのかもしれないね」
「そう」
しずかで生き物の気配のほとんどない家。
だれにも邪魔されない空間で一人、暮らすことを選ぶ時、赤ずきんはあの老人ほど穏やかでいられるだろうか。
もう一度絵を見る。
「だとしたら、この絵画、その想い人と暮らした家とか、……暮らしたかった家だったりするのかな。あの家、長椅子が一つしかなかった」
「そうだね」
どこか淡くて、儚い夢のような絵。
「魔法ってほんと、曖昧だね」
床に目線を落とす。
ギャラリーの白い床には、赤ずきん自身の影が落ちている。
失ってからでは遅い。
その言葉は窓を抜けたあとでも、耳の奥に残っていた。
「赤ずきん」
「ん?」
「この旅行を止めたくなったら、いつでも言うといいよ。家に帰ろう」
うん、と赤ずきんは頷く。
「おれ、この絵を描いた人、好きかも。庭の絵を描いたのもたぶん、この人だよね」
ソルシエールが優しく笑った。
「じゃあ、ほかの作品も探してみようか」
赤ずきんは、次の絵画を選ぶ。




