《 閑話 》殺人鬼。彼らが13歳、14歳の時の事。
ジョフレーは、自らが生まれ育った家がある丘が嫌いだった。
それなのに、どうして生涯を通して、そこにい続けたのだろう?
いつの間にか、丘の周りには霧が立ち込めるようになっていた。
辺りに他の家はない。白壁に赤い屋根のその家は、霧の中、悄然と佇んでいた。
ジョフレーを訪問する人間はいない。どうも、周辺の人間は彼の家の居場所を見失っているらしかった。そもそも友人などいない。
まるで座標がそこだけ、ずれてしまったみたいに。
*
一日目。
ジョフレーは完璧に準備していた。
椅子。縄。灯り。刃物。
そして、地下室の中央で震えている若い女。後ろ手に縛られている。
ジョフレーは、こういう時間を好んでいた。
相手が自分の支配の中に落ちていく瞬間。声が小さくなり、目が揺れ、世界が自分一人に狭まっていく瞬間。
絶命の瞬間な虚な眼差しに、自分だけが入り混むのも。
だからこそ、地下室の扉がノックされた時、男は少しだけ顔をしかめた。
「……誰だ」
返事をして、すぐにおかしいことに気がついた。
玄関ならともかく、なぜ家の中でノックが聞こえる?
果たして、扉が勝手に開く。
扉の向こうに、少年がいた。
十代半ばくらいだろうか。
背が高い。
黒髪。
とぼけた眠気まなこに、やたら明るい顔。
質素な格好。
「こんばんは!」
なんて気持ちのわるい明るい挨拶だろう。
少年はまるで近所の酒場にでも入るような声で言った。
「いやあ、ひどい地下室だな! 湿気がすごい!」
その後ろから、ひどく小柄な子供が一人、ひょいと顔を出した。女だ。
同じく黒の短い髪が揺れる。少年にそっくりな顔立ち。血縁があるのだと一目で分かる。
「兄さん、ここ、空気悪いよ」
ひどく呑気な声。
「そうだろうとも! よし、換気しよう!」
「やめろ」
ジョフレーの声は低かった。
だが、黒髪の少年──ハンスは、まったく聞いていない顔で、壁の高いところにある小窓へ歩いていった。
「開くかな、これ」
妹──ソルシエールに聞く。
「開くよ」
ソルシエールの方が指を振る。次の瞬間、小窓の錠がかたりと外れた。冷たい夜風が地下室へ流れ込む。
椅子に縛られた女が、呆然と二人を見ていた。
ソルシエールは女を見た。
「やあ。こんばんは」
女は震えながら返事をしない。
ソルシエールは少し首を傾げて、縄を見る。
「これ、解くね」
「触るな」
ジョフレーが一歩踏み出した。
自分の獲物に手をかけるなど、許さない。
ハンスが間に入った。
「おっと、家主。客に手荒な真似はよくない」
「客?」
ばっと両手を持ち上げると、陽気に宣言した。
「そうだ。なぜなら、今から宴会をする!」
「は?」
ジョフレーの脳が意味の理解できず、処理に時間をかける。
宴会。宴会とはなんだっただろうか。
俗に言うパーティってやつか?
ここで?
「……ここで?」
「ここで!」
本気で意味が分からない。
その一瞬で、ソルシエールは女の縄をほどいた。
縄は切れたのではない。ほどけた。
まるで最初からそういう結び目だったかのように、するすると。
女は立ち上がろうとして、足が震えて崩れた。
ソルシエールが支えた。
「立てる?」
女は泣きそうな顔で頷いた。
「出口は上。階段を上って右。外に出たら、森の方へ行かないで。道沿いに走って。青い屋根の家が見えるから、そこで戸を叩いて」
ジョフレーが低く笑った。
「逃がせると思うのか」
ソルシエールは振り返らない。
興味なさそうに言った。
「逃がすよ」
ハンスが笑顔のまま楽しそうに、ジョフレーの前に立った。
「妹が逃がすと言ったからな。逃げるとも!」
女は階段へ走った。
ジョフレーが動いた瞬間、部屋の中の風が変わった。
強風ではない。
ただ、足元が一瞬だけ滑った。
ジョフレーの踏み出した足が、わずかに横へずれる。
その隙に、女は階段を上がりきった。
扉が開く。
夜の空気が流れる。
足音が遠ざかる。
地下室には、ジョフレーと、ハンスと、ソルシエールだけが残った。
ジリジリとナイフを片手に兄弟に迫るジョフレーはそのとぼけまなこでじっと見つめ、大きく息を吸った。
「さて!」
警戒しつつ、ジョフレーが聞く。
「……何だ」
そもそもこいつらは誰だ。
この得体の知れないやつらは。薄気味がわるい。
一体、なにをするつもりだ。
どうやって入り込んだ?
「酒はどこだ?」
沈黙。
ジョフレーは眉をひそめた。
「何?」
ソルシエールが周囲を見渡した。
「この家、たぶん隠し棚がある」
「妹、分かるのか!」
「酒と珍味を隠している人の空気がする」
「素晴らしい能力だ!」
「珍味!」
ジョフレーは唖然とした。
なんだこいつらは。
「出ていけ」
ハンスは明るく答えた。
「酒を飲んだらな!」
*
二日目、ジョフレーは予定を変えた。
地下室は使えない。
あの兄妹が勝手に換気し、椅子を暖炉の前に持っていき、縄を洗濯紐に使い、刃物を台所に戻したからだ。
だから、彼は別の場所を使うつもりだった。
あの兄弟に攻撃は効かない。
なぜだかは分からない。
しかし、効かないということは分かった。
攻撃は、……したはずだ。
森の外れ。
古い狩猟小屋。
そこなら邪魔は入らない。
そう思っていた。
小屋の扉を開けた瞬間、中から歌声が聞こえた。
「乾杯、乾杯、家主は不在!」
「兄さん、歌詞が雑」
「即興だからな!」
中では、ハンスが椅子に片足を乗せて歌っていた。
ソルシエールは暖炉の横で鍋をかき混ぜている。
そして、隅には本来その晩の犠牲者になるはずだった少年がいた。縄はほどかれている。毛布をかけられ、熱いスープを持たされ、完全に困惑している。
ジョフレーは立ち尽くした。
「なぜここにいる」
殺意しかない声が出る。
ハンスが満面の笑みで振り返る。
「先回りだ!」
「なぜ分かった」
ソルシエールが鍋を見ながら答えた。
「あなた、昨日からずっとこの小屋のことを考えていた」
「心を読んだのか」
「読まなくても分かるよ」
ハンスが少年の肩を叩いた。
「というわけで、この子はもう帰る」
少年は不安そうに立ち上がる。
ジョフレーが視線を向けた。
少年の顔が青ざめる。
その瞬間、ソルシエールが少年の前に立った。
「見ないで」
ジョフレーの目が細くなる。
「命令か」
ソルシエールが鼻で笑う。
「お願いに聞こえた?」
ハンスが横から笑う。
「妹のお願いはだいたい命令だ!」
すうと、だれに押されることもなく、一人でに扉が開いた。
「な…」
ジョフレーが呆気に取られている隙に、少年が小屋の裏口から逃げる。
ジョフレーは遅れて動こうとした。
しかし、ハンスが酒瓶を掲げる。
「おっと! その前に言うことがある!」
「どけ」
「この酒、うまいな!」
ジョフレーの顔色が変わった。
「それは」
ソルシエールが素直に頷く。小憎たらしい仕草だった。
「秘蔵っぽかったから開けた」
「開けた?」
ハンスはグラスを三つ並べた。
「君の分もあるぞ!」
「俺の酒だ」
「だから君の分もあると言っている」
ソルシエールが一口飲んで、少し目を丸くした。
「これなら飲める。あなた、殺人以外の趣味を伸ばした方がいいよ」
ハンスが手を叩いて笑った。
小鳥がその頭の周りをくるくると回って消える。
「その通り! 酒蔵をやれ! 殺人より向いている!」
ジョフレーの頬がぴくりと動く。
「お前たち……」
「怒った?」
ソルシエールが聞く。
「当たり前だ」
「よかった。人の命では怒らないのに、酒では怒るんだね」
空気が少し冷えた。
ハンスは、急に笑みを薄くした。
じいとジョフレーを見つめた。
まるで草食動物のように大きな、なにを考えているか分からない瞳。不気味だ。
「それはよくないな、家主」
ソルシエールはグラスを置く。
「あなたの美学って、単純であんまりおもしろくないね」
ジョフレーは黙った。
ハンスがまた明るく言った。
「というわけで、罰としてもう一本開けよう!」
「やめろ!」
*
三日目。ジョフレーは眠れなかった。
二晩連続で邪魔をされた。
二人逃がされた。
地下室は勝手に改造され、狩猟小屋の秘蔵酒は半分消えた。
なにより腹立たしいのは、兄妹がまるで自分の恐怖を怖がらないことだった。
ジョフレーは人の怯えを好む。怯えが場を整える。恐怖が儀式を完成させる。
だが、あの兄妹は場を壊す。
恐怖の代わりに歌を置く。
沈黙の代わりに乾杯を置く。
刃物より前に鍋を煮る。
犠牲者を逃がしてから、家主の酒を飲む。
儀式が成立しない。
その夜、ジョフレーは家へ戻った。
玄関の扉が開いていた。
嫌な予感がした。
中から大きな笑い声がした。
「兄さん、それ私の皿」
「早い者勝ちだ!」
「それは私が焼いた肉」
「ならなおさらうまい!」
「返して」
「いやだ!」
ジョフレーは無言で食堂へ入った。
「痛い! 足を踏むな!」
そこでは、長いテーブルに料理が並んでいた。
ハンスが肉を食べていた。
ソルシエールがパンを切っていた。
そして、隅の椅子には、その晩呼び出していた商人の男が座っていた。
商人は自由だった。
少し泣いていた。
だが、手には酒杯を持っている。
ハンスがジョフレーを見る。
「遅いぞ、家主!」
「なぜその男がここにいる」
「客だからだ!」
ソルシエールは淡々と言った。
「あなたが呼んだんでしょう」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、呼び方が悪い」
商人が震えながら言った。
「あ、あの、私は帰っても」
ソルシエールがすぐに頷く。
「帰っていいよ。裏口から。気をつけてね。道なりに進むと青い屋根の家があるから、そこをノックするといい」
ジョフレーが一歩前へ出る。
「帰すと思うのか」
ハンスが立ち上がった。
その顔はまだ笑っていた。
「思うとも」
歌うように言う。
ジョフレーは低く言った。
「お前たちは何がしたい」
ハンスは即答した。
「ここはよく人が集まるからな! 宴会!」
ソルシエールも言う。
「ついでに、人を逃がす」
「なぜ邪魔をする」
ソルシエールは不思議そうに首を傾げた。
「人を殺そうとしているから」
「それだけか」
「それ以上いる?」
ハンスが大げさに頷く。
「いや、十分だな!」
商人は裏口へ走った。
ジョフレーが手を伸ばす。
テーブルの上の燭台が、ふっと消えた。部屋が一瞬暗くなる。ジョフレーの目が暗闇に慣れる前に、窓が全部開いた。
夜風が入る。
カーテンが一斉に膨らむ。
テーブルクロスが舞い上がる。
なにか小さな生き物が大量に、一斉に駆ける音がする。
ドアの乱暴な開閉音。
商人の足音が遠ざかった。
燭台に火が戻る。
ハンスは、ジョフレーの秘蔵の酒瓶を持っていた。
「さて、逃げたな」
ソルシエールがグラスを出す。
「じゃあ飲もう」
ジョフレーは低く呻いた。
「それは最後の一本だ」
ハンスは深刻な顔をした。
「最後か」
ソルシエールも真面目に瓶を見た。
「最後なんだ」
ジョフレーは少しだけ安堵した。
この二人にも、さすがに遠慮というものが──、
ハンスが栓を抜いた。
ぽん、と軽い音がした。
「最後なら、今飲まないとな!」
ジョフレーは叫んだ。
*
四日目、ジョフレーは家を出た。
兄妹が家にいるからだ。
なぜいるのかは分からない。
追い出しても、追い出しても、気がつくと暖炉の前にいる。
勝手に本棚を整理し、台所を使い、酒蔵の鍵を開け、玄関マットを干している。
ジョフレーは別の町へ向かうことにした。
だが、町外れの橋に、二人がいた。異様だ。喉が引き攣った音を立てる。
ハンスは橋の欄干に座り、脚をぶらぶらさせている。
ソルシエールは橋の真ん中で、空を見ていた。
「やあ!」
ハンスが手を振る。
ジョフレーは立ち止まった。脂汗が止まらない。
「……なぜここに」
ソルシエールが振り返る。
「あなたがここを通ると思ったから」
「監視しているのか」
「うん」
「悪びれろ」
ハンスが笑う。
「いやあ、面白いな! ジョフレーが監視されるのは嫌いらしい!」
ソルシエールが頷く。
「人の生活に勝手に入り込むのは好きなのにね」
ジョフレーの目が細くなる。
「お前たちは、俺を裁くつもりか」
ソルシエールは少し考えた。
「裁くのは別の人の仕事かな」
「では何だ」
「邪魔。そういう気分だから」
ハンスが即座に続ける。
「徹底的にな!」
ジョフレーは皮肉に笑った。
「毎晩騒ぐことが?」
ハンスは胸を張る。
「そうだ!」
ソルシエールも平然と頷く。
「くだらない」
「くだらなくて止まるなら、あなたの儀式もその程度だね」
ジョフレーの顔から笑みが消えた。
ハンスが楽しそうに言う。
「効いたぞ、妹」
「そうだね」
「もう一押しするか?」
「する」
ソルシエールはジョフレーを見た。
「あなたは、自分が特別の恐怖だと思っている」
ジョフレーは沈黙する。
「でも、人が怯えるのはあなたが深いからじゃない。痛いものを向けられたら、人は怖がる。当たり前だよ」
ハンスが頷く。
「熱い鍋に触れば手を引っ込める。それを見て『私は人間の本質を引き出した』と言っているようなものだな!」
ソルシエールは続けた。
「あなたは人を壊しているだけ。そこに深さはあまりない」
風が橋の上を吹いた。
ジョフレーの手が、ゆっくり懐へ動く。
ソルシエールは笑った。
「おっと。怒った。殺されちゃう、殺されちゃう。こわいこわい」
ハンスが欄干から飛び降りる。
「よし、出たな!」
「何がよしだ」
「分かりやすい!」
ジョフレーが踏み出す。
その瞬間、橋の下から兎の影が勢いよく駆けてきた。
その勢いにジョフレーの上着が大きく膨らみ、足が止まる。
ハンスは大笑いして、ジョフレーの帽子を奪った。
「おお、似合わないな!」
「返せ」
「いやだ!」
ハンスは帽子をかぶって踊り出した。
ソルシエールは橋の向こうを指した。
「帰ろう、兄さん」
「まだ酒を飲んでいない!」
「あの人の家にもう酒はないよ」
「全部飲んだからな!」
「あなたがね」
「妹も飲んだだろう!」
「お酒はあんまり好きじゃない」
二人は言い合いながら歩き出す。
ジョフレーは立ち尽くした。
彼らは背を向けている。
今なら──、
ソルシエールが振り返らずに言った。
「来るなら、川に落とすよ」
ハンスが笑った。
「泳げるか、家主!」
ジョフレーは動かなかった。
*
五日目、ジョフレーの家は明るかった。
ありえないことに、明るかった。
窓が開けられ、埃っぽいカーテンは洗われ、地下室には干した薬草が吊るされていた。
椅子はただの椅子になっていた。
刃物は台所にある。
縄は庭で豆の支柱を結んでいる。
ハンスが庭で肉を焼き、ソルシエールが食卓に皿を並べている。
ジョフレーは玄関で立ち尽くした。
「……俺の家だぞ」
ハンスは振り返った。
「そうだな! 家はもう少し居心地よく使うべきだ!」
ソルシエールはパンを切りながら言った。
「あなたの家、埃ぽかった」
「頼んでいない」
「頼まれた覚えもない」
ハンスが笑う。
「我々は勝手にやるのが得意だ!」
ジョフレーは、ゆっくり食卓へ近づいた。
「あんたら、親はどこにいる」
この迷惑な子供らの親を縊り殺してやりたい。
「いつまでここにいるつもりだ」
ソルシエールは少し考えた。
「当分?」
「当分だと?」
「実はさ、あなたが自分の舞台だと思っているこの場所、ただの家なんだよね」
ジョフレーは黙った。
ハンスが肉を皿に乗せる。
「座れ」
「命令するな」
「じゃあ立って食え」
ソルシエールが淡々と椅子を引いた。
「食べないなら、それでもいいよ」
ジョフレーは椅子を見た。
数日前まで、誰かを縛るために置かれていた椅子。
今は食卓の椅子。勝手に食卓の椅子ということにされている。
彼は座らなかった。
だが、出ていきもしなかった。
ハンスは勝手に乾杯した。
「では、犠牲者が出なかった五日目に!」
ソルシエールが杯を上げる。
「それはいいね」
ジョフレーが低く言った。
「俺を更生させたいのか」
ハンスは口を開けて笑った。
「更生? そんな上品なことは専門外だ!」
ソルシエールが言った。
「人を殺せない日を増やしているだけ」
「それに何の意味がある」
「ないよ」
「……」
「それで十分」
ハンスが肉をかじる。
「明日も邪魔するぞ!」
ジョフレーは、はじめて疲れたように目を閉じた。
「もう一度聞く。お前たちはいつまでいる」
ソルシエールは首を傾げた。
「あなたが人を呼ばなくなるまで?」
ハンスが言う。
「もしくは酒蔵を補充するまで!」
「兄さん」
「冗談だ!」
ジョフレーは、はじめて小さく笑った。
それは楽しげな笑いではなかった。
折れた笑いでもなかった。
ただ、あまりに馬鹿馬鹿しくて出た息のような笑いだった。
ソルシエールはそれを見た。
ハンスも見た。
でも、二人とも何も言わなかった。
その代わり、ハンスが皿を押し出した。
「食え。冷める」
ジョフレーはしばらく皿を見ていた。
やがて、座った。
ソルシエールは窓を少し広く開けた。風が入る。
ハンスは満足そうに杯を掲げた。
「よし、今夜も大勝利だ!」
ソルシエールが言う。
「誰も死ななかったね」
「それに酒もうまい!」
「それはもうない」
「なんだと!?」
ジョフレーがぼそりと言った。
「……地下の奥に一本ある」
ハンスの目が輝いた。
ソルシエールも少しだけ笑った。
「言わなければよかったのに」
ジョフレーは顔をしかめた。
「今のは忘れろ」
ハンスは立ち上がった。
「忘れられるものか!」
ソルシエールも席を立つ。
「見に行こう」
「やめろ」
「最後の一本?」
「違う」
「じゃあ二本あるな!」
「おい!」
ハンスの笑い声が廊下に響いた。
ソルシエールの足音が軽く続いた。
ジョフレーは椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
誰も死んでいない。
誰も縛られていない。
誰も怯えていない。
ただ、家がうるさい。
うるさすぎる。
不愉快だ。
彼は眉間を押さえた。
「……帰れ」
廊下の向こうから、ハンスの声が返る。
「酒を飲んだらな!」
ソルシエールの声も続く。
「あと、明日の朝ごはんまで」
「住むな!」
その夜も、殺人は起きなかった。
*
一年が経った。
朝、ジョフレーは目を覚ます。
家が静かだった。
いつもなら、台所でハンスが鍋を落とす音がする。
ソルシエールが窓を開ける音がする。
廊下から、どうでもいい兄妹喧嘩が聞こえる。
でも、その朝は何もなかった。
ジョフレーは起き上がる。
食卓にはパンがある。
焦げた肉もある。
酒瓶は空。
窓は開いている。
それから、メモが二枚。
『
窓は毎朝開けること。
人を殺さないこと。
酒はもっと上手に隠すこと。
— ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ 』
流れるような字だった。
もう一枚は、反対に殴り書きのようになっている。
『
肉は焦がすな!
あと最後の一本はうまかった!
— ハンス 』
ジョフレーはそれをしばらく見つめた。
「……ようやく出て行ったか」
怒りも、呆れもある。
でも、それ以上に、家の中が広かった。
一年ぶりに、家が本当に静かだ。
その時、外を見る。
愕然とした。
霧がない。
森が見える。
道が見える。
青い屋根の家まで続く道が、はっきり見える。
ジョフレーはそこで、初めて気付いた。
この家は、もう隠れていない。
兄妹が一年かけて、家を殺人のための異界から、人が出入りする生活の場所へ変えてしまった。
霧はもう、家を守らない。
守ってくれない。
その時、扉が叩かれた。
こんこん。
ジョフレーは動かない。
もう一度。
こんこん。
外から声がする。
「警察です。開けてください」
ジョフレーは、しばらく無言で扉を見つめた。
そして、食卓の上の空の酒瓶を見る。
窓から入る朝の風を見る。
ハンスが焦がした鍋を見る。
ソルシエールが干した薬草を見る。
静かに、ため息をつく。
「……帰れ」
外からする、冷静で権威的な声。
「開けなさい。ジョフレー・イェプカ!」
部屋の中に、ノックの音だけが響いた。
こうして兄弟は、殺人鬼がそう大して面白いことを考えているわけでもないと、一年かけて知りましたとさ。




