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《 閑話 》殺人鬼。彼らが13歳、14歳の時の事。

 ジョフレーは、自らが生まれ育った家がある丘が嫌いだった。

 それなのに、どうして生涯を通して、そこにい続けたのだろう?


 いつの間にか、丘の周りには霧が立ち込めるようになっていた。

 辺りに他の家はない。白壁に赤い屋根のその家は、霧の中、悄然と佇んでいた。


 ジョフレーを訪問する人間はいない。どうも、周辺の人間は彼の家の居場所を見失っているらしかった。そもそも友人などいない。

 

 まるで座標がそこだけ、ずれてしまったみたいに。


 一日目。


 ジョフレーは完璧に準備していた。

 椅子。縄。灯り。刃物。

 そして、地下室の中央で震えている若い女。後ろ手に縛られている。


 ジョフレーは、こういう時間を好んでいた。

 相手が自分の支配の中に落ちていく瞬間。声が小さくなり、目が揺れ、世界が自分一人に狭まっていく瞬間。

 絶命の瞬間な虚な眼差しに、自分だけが入り混むのも。


 だからこそ、地下室の扉がノックされた時、男は少しだけ顔をしかめた。


「……誰だ」


 返事をして、すぐにおかしいことに気がついた。

 玄関ならともかく、なぜ家の中でノックが聞こえる?


 果たして、扉が勝手に開く。

 扉の向こうに、少年がいた。

 十代半ばくらいだろうか。

 背が高い。

 黒髪。

 とぼけた眠気まなこに、やたら明るい顔。

 質素な格好。


「こんばんは!」


 なんて気持ちのわるい明るい挨拶だろう。

 少年はまるで近所の酒場にでも入るような声で言った。


「いやあ、ひどい地下室だな! 湿気がすごい!」


 その後ろから、ひどく小柄な子供が一人、ひょいと顔を出した。女だ。

 同じく黒の短い髪が揺れる。少年にそっくりな顔立ち。血縁があるのだと一目で分かる。


「兄さん、ここ、空気悪いよ」


 ひどく呑気な声。


「そうだろうとも! よし、換気しよう!」

「やめろ」


 ジョフレーの声は低かった。

 だが、黒髪の少年──ハンスは、まったく聞いていない顔で、壁の高いところにある小窓へ歩いていった。


「開くかな、これ」


  妹──ソルシエールに聞く。


「開くよ」


 ソルシエールの方が指を振る。次の瞬間、小窓の錠がかたりと外れた。冷たい夜風が地下室へ流れ込む。

 椅子に縛られた女が、呆然と二人を見ていた。

 ソルシエールは女を見た。


「やあ。こんばんは」


 女は震えながら返事をしない。

 ソルシエールは少し首を傾げて、縄を見る。


「これ、解くね」

「触るな」


 ジョフレーが一歩踏み出した。

 自分の獲物に手をかけるなど、許さない。

 ハンスが間に入った。


「おっと、家主。客に手荒な真似はよくない」

「客?」


 ばっと両手を持ち上げると、陽気に宣言した。


「そうだ。なぜなら、今から宴会をする!」

「は?」


 ジョフレーの脳が意味の理解できず、処理に時間をかける。

 宴会。宴会とはなんだっただろうか。

 俗に言うパーティってやつか?

 ここで?


「……ここで?」

「ここで!」


 本気で意味が分からない。


 その一瞬で、ソルシエールは女の縄をほどいた。

 縄は切れたのではない。ほどけた。

 まるで最初からそういう結び目だったかのように、するすると。


 女は立ち上がろうとして、足が震えて崩れた。

 ソルシエールが支えた。


「立てる?」


 女は泣きそうな顔で頷いた。


「出口は上。階段を上って右。外に出たら、森の方へ行かないで。道沿いに走って。青い屋根の家が見えるから、そこで戸を叩いて」


 ジョフレーが低く笑った。


「逃がせると思うのか」


 ソルシエールは振り返らない。

 興味なさそうに言った。


「逃がすよ」


 ハンスが笑顔のまま楽しそうに、ジョフレーの前に立った。


「妹が逃がすと言ったからな。逃げるとも!」


 女は階段へ走った。

 ジョフレーが動いた瞬間、部屋の中の風が変わった。

 強風ではない。

 ただ、足元が一瞬だけ滑った。

 ジョフレーの踏み出した足が、わずかに横へずれる。

 その隙に、女は階段を上がりきった。

 扉が開く。

 夜の空気が流れる。

 足音が遠ざかる。


 地下室には、ジョフレーと、ハンスと、ソルシエールだけが残った。

 ジリジリとナイフを片手に兄弟に迫るジョフレーはそのとぼけまなこでじっと見つめ、大きく息を吸った。


「さて!」


 警戒しつつ、ジョフレーが聞く。


「……何だ」


 そもそもこいつらは誰だ。

 この得体の知れないやつらは。薄気味がわるい。

 一体、なにをするつもりだ。

 どうやって入り込んだ?


「酒はどこだ?」


 沈黙。

 ジョフレーは眉をひそめた。


「何?」


 ソルシエールが周囲を見渡した。


「この家、たぶん隠し棚がある」

「妹、分かるのか!」

「酒と珍味を隠している人の空気がする」

「素晴らしい能力だ!」

「珍味!」


 ジョフレーは唖然とした。

 なんだこいつらは。


「出ていけ」


 ハンスは明るく答えた。


「酒を飲んだらな!」



 二日目、ジョフレーは予定を変えた。

 地下室は使えない。

 あの兄妹が勝手に換気し、椅子を暖炉の前に持っていき、縄を洗濯紐に使い、刃物を台所に戻したからだ。

 だから、彼は別の場所を使うつもりだった。


 あの兄弟に攻撃は効かない。

 なぜだかは分からない。

 しかし、効かないということは分かった。


 攻撃は、……したはずだ。


 森の外れ。

 古い狩猟小屋。

 そこなら邪魔は入らない。

 そう思っていた。


 小屋の扉を開けた瞬間、中から歌声が聞こえた。


「乾杯、乾杯、家主は不在!」

「兄さん、歌詞が雑」

「即興だからな!」


 中では、ハンスが椅子に片足を乗せて歌っていた。

 ソルシエールは暖炉の横で鍋をかき混ぜている。

 そして、隅には本来その晩の犠牲者になるはずだった少年がいた。縄はほどかれている。毛布をかけられ、熱いスープを持たされ、完全に困惑している。


 ジョフレーは立ち尽くした。


「なぜここにいる」


 殺意しかない声が出る。

 ハンスが満面の笑みで振り返る。


「先回りだ!」

「なぜ分かった」


 ソルシエールが鍋を見ながら答えた。


「あなた、昨日からずっとこの小屋のことを考えていた」

「心を読んだのか」

「読まなくても分かるよ」


 ハンスが少年の肩を叩いた。


「というわけで、この子はもう帰る」


 少年は不安そうに立ち上がる。

 ジョフレーが視線を向けた。

 少年の顔が青ざめる。

 その瞬間、ソルシエールが少年の前に立った。


「見ないで」


 ジョフレーの目が細くなる。


「命令か」


 ソルシエールが鼻で笑う。


「お願いに聞こえた?」


 ハンスが横から笑う。


「妹のお願いはだいたい命令だ!」


 すうと、だれに押されることもなく、一人でに扉が開いた。


「な…」


 ジョフレーが呆気に取られている隙に、少年が小屋の裏口から逃げる。

 ジョフレーは遅れて動こうとした。

 しかし、ハンスが酒瓶を掲げる。


「おっと! その前に言うことがある!」

「どけ」

「この酒、うまいな!」


 ジョフレーの顔色が変わった。


「それは」


 ソルシエールが素直に頷く。小憎たらしい仕草だった。


「秘蔵っぽかったから開けた」

「開けた?」


 ハンスはグラスを三つ並べた。


「君の分もあるぞ!」

「俺の酒だ」

「だから君の分もあると言っている」


 ソルシエールが一口飲んで、少し目を丸くした。


「これなら飲める。あなた、殺人以外の趣味を伸ばした方がいいよ」


 ハンスが手を叩いて笑った。

 小鳥がその頭の周りをくるくると回って消える。


「その通り! 酒蔵をやれ! 殺人より向いている!」


 ジョフレーの頬がぴくりと動く。


「お前たち……」

「怒った?」


 ソルシエールが聞く。


「当たり前だ」

「よかった。人の命では怒らないのに、酒では怒るんだね」


 空気が少し冷えた。

 ハンスは、急に笑みを薄くした。

 じいとジョフレーを見つめた。

 まるで草食動物のように大きな、なにを考えているか分からない瞳。不気味だ。


「それはよくないな、家主」


 ソルシエールはグラスを置く。


「あなたの美学って、単純であんまりおもしろくないね」


 ジョフレーは黙った。

 ハンスがまた明るく言った。


「というわけで、罰としてもう一本開けよう!」

「やめろ!」



 三日目。ジョフレーは眠れなかった。


 二晩連続で邪魔をされた。

 二人逃がされた。


 地下室は勝手に改造され、狩猟小屋の秘蔵酒は半分消えた。


 なにより腹立たしいのは、兄妹がまるで自分の恐怖を怖がらないことだった。

 ジョフレーは人の怯えを好む。怯えが場を整える。恐怖が儀式を完成させる。

 だが、あの兄妹は場を壊す。

 恐怖の代わりに歌を置く。

 沈黙の代わりに乾杯を置く。

 刃物より前に鍋を煮る。

 犠牲者を逃がしてから、家主の酒を飲む。

 儀式が成立しない。


 その夜、ジョフレーは家へ戻った。

 玄関の扉が開いていた。

 嫌な予感がした。

 中から大きな笑い声がした。


「兄さん、それ私の皿」

「早い者勝ちだ!」

「それは私が焼いた肉」

「ならなおさらうまい!」

「返して」

「いやだ!」


 ジョフレーは無言で食堂へ入った。


「痛い! 足を踏むな!」


 そこでは、長いテーブルに料理が並んでいた。

 ハンスが肉を食べていた。

 ソルシエールがパンを切っていた。

 そして、隅の椅子には、その晩呼び出していた商人の男が座っていた。

 商人は自由だった。

 少し泣いていた。

 だが、手には酒杯を持っている。

 ハンスがジョフレーを見る。


「遅いぞ、家主!」

「なぜその男がここにいる」

「客だからだ!」


 ソルシエールは淡々と言った。


「あなたが呼んだんでしょう」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ、呼び方が悪い」


 商人が震えながら言った。


「あ、あの、私は帰っても」


 ソルシエールがすぐに頷く。


「帰っていいよ。裏口から。気をつけてね。道なりに進むと青い屋根の家があるから、そこをノックするといい」


 ジョフレーが一歩前へ出る。


「帰すと思うのか」


 ハンスが立ち上がった。

 その顔はまだ笑っていた。


「思うとも」


 歌うように言う。

 ジョフレーは低く言った。


「お前たちは何がしたい」


 ハンスは即答した。


「ここはよく人が集まるからな! 宴会!」


 ソルシエールも言う。


「ついでに、人を逃がす」

「なぜ邪魔をする」


 ソルシエールは不思議そうに首を傾げた。


「人を殺そうとしているから」

「それだけか」

「それ以上いる?」


ハンスが大げさに頷く。


「いや、十分だな!」


 商人は裏口へ走った。

 ジョフレーが手を伸ばす。

 テーブルの上の燭台が、ふっと消えた。部屋が一瞬暗くなる。ジョフレーの目が暗闇に慣れる前に、窓が全部開いた。

 夜風が入る。

 カーテンが一斉に膨らむ。

 テーブルクロスが舞い上がる。

 なにか小さな生き物が大量に、一斉に駆ける音がする。

 ドアの乱暴な開閉音。

 商人の足音が遠ざかった。

 燭台に火が戻る。

 ハンスは、ジョフレーの秘蔵の酒瓶を持っていた。


「さて、逃げたな」


 ソルシエールがグラスを出す。


「じゃあ飲もう」


 ジョフレーは低く呻いた。


「それは最後の一本だ」


 ハンスは深刻な顔をした。


「最後か」


 ソルシエールも真面目に瓶を見た。


「最後なんだ」


 ジョフレーは少しだけ安堵した。

 この二人にも、さすがに遠慮というものが──、

 ハンスが栓を抜いた。


 ぽん、と軽い音がした。


「最後なら、今飲まないとな!」


 ジョフレーは叫んだ。



 四日目、ジョフレーは家を出た。

 兄妹が家にいるからだ。

 なぜいるのかは分からない。

 追い出しても、追い出しても、気がつくと暖炉の前にいる。

 勝手に本棚を整理し、台所を使い、酒蔵の鍵を開け、玄関マットを干している。

 ジョフレーは別の町へ向かうことにした。

 だが、町外れの橋に、二人がいた。異様だ。喉が引き攣った音を立てる。

 ハンスは橋の欄干に座り、脚をぶらぶらさせている。

 ソルシエールは橋の真ん中で、空を見ていた。


「やあ!」


 ハンスが手を振る。

 ジョフレーは立ち止まった。脂汗が止まらない。


「……なぜここに」


 ソルシエールが振り返る。


「あなたがここを通ると思ったから」

「監視しているのか」

「うん」

「悪びれろ」


 ハンスが笑う。


「いやあ、面白いな! ジョフレーが監視されるのは嫌いらしい!」


 ソルシエールが頷く。


「人の生活に勝手に入り込むのは好きなのにね」


 ジョフレーの目が細くなる。


「お前たちは、俺を裁くつもりか」


 ソルシエールは少し考えた。


「裁くのは別の人の仕事かな」

「では何だ」

「邪魔。そういう気分だから」


 ハンスが即座に続ける。


「徹底的にな!」


 ジョフレーは皮肉に笑った。


「毎晩騒ぐことが?」


 ハンスは胸を張る。


「そうだ!」


 ソルシエールも平然と頷く。


「くだらない」

「くだらなくて止まるなら、あなたの儀式もその程度だね」


 ジョフレーの顔から笑みが消えた。

 ハンスが楽しそうに言う。


「効いたぞ、妹」

「そうだね」

「もう一押しするか?」

「する」


 ソルシエールはジョフレーを見た。


「あなたは、自分が特別の恐怖だと思っている」


 ジョフレーは沈黙する。


「でも、人が怯えるのはあなたが深いからじゃない。痛いものを向けられたら、人は怖がる。当たり前だよ」


 ハンスが頷く。


「熱い鍋に触れば手を引っ込める。それを見て『私は人間の本質を引き出した』と言っているようなものだな!」


 ソルシエールは続けた。


「あなたは人を壊しているだけ。そこに深さはあまりない」


 風が橋の上を吹いた。

 ジョフレーの手が、ゆっくり懐へ動く。

 ソルシエールは笑った。


「おっと。怒った。殺されちゃう、殺されちゃう。こわいこわい」


 ハンスが欄干から飛び降りる。


「よし、出たな!」

「何がよしだ」

「分かりやすい!」


 ジョフレーが踏み出す。

 その瞬間、橋の下から兎の影が勢いよく駆けてきた。

 その勢いにジョフレーの上着が大きく膨らみ、足が止まる。

 ハンスは大笑いして、ジョフレーの帽子を奪った。


「おお、似合わないな!」

「返せ」

「いやだ!」


 ハンスは帽子をかぶって踊り出した。

 ソルシエールは橋の向こうを指した。


「帰ろう、兄さん」

「まだ酒を飲んでいない!」

「あの人の家にもう酒はないよ」

「全部飲んだからな!」

「あなたがね」

「妹も飲んだだろう!」

「お酒はあんまり好きじゃない」


 二人は言い合いながら歩き出す。

 ジョフレーは立ち尽くした。

 彼らは背を向けている。


 今なら──、

 ソルシエールが振り返らずに言った。


「来るなら、川に落とすよ」


 ハンスが笑った。


「泳げるか、家主!」


 ジョフレーは動かなかった。



 五日目、ジョフレーの家は明るかった。

 ありえないことに、明るかった。

 窓が開けられ、埃っぽいカーテンは洗われ、地下室には干した薬草が吊るされていた。

 椅子はただの椅子になっていた。

 刃物は台所にある。

 縄は庭で豆の支柱を結んでいる。

 ハンスが庭で肉を焼き、ソルシエールが食卓に皿を並べている。

 ジョフレーは玄関で立ち尽くした。


「……俺の家だぞ」


 ハンスは振り返った。


「そうだな! 家はもう少し居心地よく使うべきだ!」


 ソルシエールはパンを切りながら言った。


「あなたの家、埃ぽかった」

「頼んでいない」

「頼まれた覚えもない」


 ハンスが笑う。


「我々は勝手にやるのが得意だ!」


 ジョフレーは、ゆっくり食卓へ近づいた。


「あんたら、親はどこにいる」


 この迷惑な子供らの親を縊り殺してやりたい。


「いつまでここにいるつもりだ」


ソルシエールは少し考えた。


「当分?」

「当分だと?」

「実はさ、あなたが自分の舞台だと思っているこの場所、ただの家なんだよね」


 ジョフレーは黙った。

 ハンスが肉を皿に乗せる。


「座れ」

「命令するな」

「じゃあ立って食え」


 ソルシエールが淡々と椅子を引いた。


「食べないなら、それでもいいよ」


 ジョフレーは椅子を見た。

 数日前まで、誰かを縛るために置かれていた椅子。

 今は食卓の椅子。勝手に食卓の椅子ということにされている。

 彼は座らなかった。

 だが、出ていきもしなかった。

 ハンスは勝手に乾杯した。


「では、犠牲者が出なかった五日目に!」


 ソルシエールが杯を上げる。


「それはいいね」


 ジョフレーが低く言った。


「俺を更生させたいのか」


 ハンスは口を開けて笑った。


「更生? そんな上品なことは専門外だ!」


 ソルシエールが言った。


「人を殺せない日を増やしているだけ」

「それに何の意味がある」

「ないよ」

「……」

「それで十分」


 ハンスが肉をかじる。


「明日も邪魔するぞ!」


 ジョフレーは、はじめて疲れたように目を閉じた。


「もう一度聞く。お前たちはいつまでいる」


 ソルシエールは首を傾げた。


「あなたが人を呼ばなくなるまで?」


 ハンスが言う。


「もしくは酒蔵を補充するまで!」

「兄さん」

「冗談だ!」


 ジョフレーは、はじめて小さく笑った。

 それは楽しげな笑いではなかった。

 折れた笑いでもなかった。

 ただ、あまりに馬鹿馬鹿しくて出た息のような笑いだった。

 ソルシエールはそれを見た。

 ハンスも見た。

 でも、二人とも何も言わなかった。

 その代わり、ハンスが皿を押し出した。


「食え。冷める」


 ジョフレーはしばらく皿を見ていた。

 やがて、座った。

 ソルシエールは窓を少し広く開けた。風が入る。

 ハンスは満足そうに杯を掲げた。


「よし、今夜も大勝利だ!」


 ソルシエールが言う。


「誰も死ななかったね」

「それに酒もうまい!」

「それはもうない」

「なんだと!?」


 ジョフレーがぼそりと言った。


「……地下の奥に一本ある」


 ハンスの目が輝いた。

 ソルシエールも少しだけ笑った。


「言わなければよかったのに」


 ジョフレーは顔をしかめた。


「今のは忘れろ」


 ハンスは立ち上がった。


「忘れられるものか!」


 ソルシエールも席を立つ。


「見に行こう」

「やめろ」

「最後の一本?」

「違う」

「じゃあ二本あるな!」

「おい!」


 ハンスの笑い声が廊下に響いた。

 ソルシエールの足音が軽く続いた。

 ジョフレーは椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。

 誰も死んでいない。

 誰も縛られていない。

 誰も怯えていない。

 ただ、家がうるさい。

 うるさすぎる。

 不愉快だ。

 彼は眉間を押さえた。


「……帰れ」


 廊下の向こうから、ハンスの声が返る。


「酒を飲んだらな!」

 ソルシエールの声も続く。


「あと、明日の朝ごはんまで」

「住むな!」


 その夜も、殺人は起きなかった。



 一年が経った。

 朝、ジョフレーは目を覚ます。


 家が静かだった。


 いつもなら、台所でハンスが鍋を落とす音がする。

 ソルシエールが窓を開ける音がする。

 廊下から、どうでもいい兄妹喧嘩が聞こえる。


 でも、その朝は何もなかった。


 ジョフレーは起き上がる。


 食卓にはパンがある。

 焦げた肉もある。

 酒瓶は空。

 窓は開いている。


 それから、メモが二枚。


 窓は毎朝開けること。

 人を殺さないこと。

 酒はもっと上手に隠すこと。

    — ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎       』


 

 流れるような字だった。

 もう一枚は、反対に殴り書きのようになっている。


 肉は焦がすな!

 あと最後の一本はうまかった!

  — ハンス           』


 ジョフレーはそれをしばらく見つめた。


「……ようやく出て行ったか」


 怒りも、呆れもある。

 でも、それ以上に、家の中が広かった。


 一年ぶりに、家が本当に静かだ。


 その時、外を見る。

 愕然とした。


 霧がない。


 森が見える。

 道が見える。

 青い屋根の家まで続く道が、はっきり見える。


 ジョフレーはそこで、初めて気付いた。


 この家は、もう隠れていない。


 兄妹が一年かけて、家を殺人のための異界から、人が出入りする生活の場所へ変えてしまった。

 霧はもう、家を守らない。

 守ってくれない。


 その時、扉が叩かれた。



 こんこん。



 ジョフレーは動かない。

 もう一度。




 こんこん。



 外から声がする。


「警察です。開けてください」


 ジョフレーは、しばらく無言で扉を見つめた。



 そして、食卓の上の空の酒瓶を見る。

 窓から入る朝の風を見る。

 ハンスが焦がした鍋を見る。

 ソルシエールが干した薬草を見る。

 静かに、ため息をつく。


「……帰れ」


 外からする、冷静で権威的な声。


「開けなさい。ジョフレー・イェプカ!」


 部屋の中に、ノックの音だけが響いた。


こうして兄弟は、殺人鬼がそう大して面白いことを考えているわけでもないと、一年かけて知りましたとさ。

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