第二十七話 貞操の危機??
そこは小さな花畑。
かの神に与えられた、小さな自由。
――……
彼女が紅藍を呼ぶ。
逆光でよく見えないが、柔かな声と微笑む口元に覚えがある。
そう、それはまだ彼女が――。
――……
紅藍は一歩ずつ歩き出した。
そこでは紅藍はまだ小さな少女だった。
小さな、小さな。
背丈も小さい、無力な少女。
日の日差しを浴び輝く花畑に向って走り出す。
誰からも愛されない紅藍にとって、彼女だけが。
彼女だけが。
捕まえた!!
ぎゅっとその足に縋り付いた時、紅藍は違和感を感じた。
触れるはずのものがなく、あるはずのものがない。
ふと上でギシギシと音が鳴る。
それに釣られるようにして、顔を――。
ミテハダメ!!
「っ!」
脳裏に響いた声にハッと我に返った時、紅藍の前から花畑も彼女も消えていた。
「……ここ」
混乱する頭で必死に考える。
周囲を見ながら、状況を判断する。
落ち着け、ここは……ここ、は。
ここは、彼の部屋だ。
いつもとは違う様に見えるのは、普段は煌々と室内を照らす室内灯の灯が小さいから。
それが逆にぼんやりとした幻想的な光景を造り出す。
でも、見間違えたりなんかしない。
紅藍にとって今や身近な相手となった彼の部屋には、何度も来た事がある。
それどころか殴りこみをかけて硝子を割った事も。
その時彼が寝ていた寝台の上に、紅藍は居た。
上半身を起こしたまま、ぼんやりと辺りを見回していた時だった。
視界の端に、それが映り込んだ途端――ぞわりと体が震えた。
ゆらりと薄暗い部屋の中を進むそれ。
足音すらなく、白蛇が這う様に。
いつも身に纏う美しい衣装を脱ぎ捨て。
纏うのは、白く薄い裾と袖の長い下衣が一枚。
輝く理知的な藍の瞳が紅藍を見つめていた。
歩く度に、腰下まである解かれた艶やかな長髪が揺れるのが微かに見えた。
ほんのりと白く発光した様な肌。
華奢な体は男であるにも関わらず、筋肉の存在を疑うほどに蠱惑的な曲線を描く。
理知的で妍麗な容貌だが、同時に抱かれ疲れ妖しく華開いた女の憂いを兼ね揃える。
匂い立つ甘く薫る彼の色香に、普通なら眩暈を覚え、激しい劣情を覚えるだろう。
その色香の前に、どれほどの者達が道を誤ってきたか。
道を自ら踏み外してきたか。
しかし、紅藍にとっては、その何とも言えない色と艶は良いようのない恐怖を与えるものでしかなかった。
というか――いつもの、淑妃じゃない。
「しゅ、淑、妃?」
ギシっと寝台が鳴る。
紅藍の体を逃がさない様に、淑妃が這いずる。
それから逃げようとして、後ろに這いずり、這いずり――そしてとうとう、逃げ場を失った。
両手で作られた檻に閉じ込められ、顔を覗き込まれる。
間近に迫った美貌は精巧に作られた神形の様に整いすぎた美貌は、寒気すら覚えるほどの美しさだった。
そう――怖いのだ。
紅藍は、初めて淑妃が怖いと感じた。
早く逃げなければ、食われる。
その爪で、八つ裂きにされる。
「どうした?」
すると彼女の焦りを楽しむかの様な声と共に、くすくすと甘い笑い声が聞えてくる。
「なあ、どうした?」
そう言って、すっとその美貌が目の前から消える。
代わりに耳元をくすぐる吐息がかかった。
「ああ、こんな所にも傷が……」
傷?
ああそうだ。
確か扉に額を打ち付けて……。
白魚の様な指で髪をかき上げられる。
首に、吐息がかかる。
すっと滑らかな指が肌を這う感触に体が震えた。
肉食動物に捕食される獲物の気持ちが分かった。
そんな、色気とは程遠い紅藍の脳裏まで解析出来なかったのが淑妃の敗因だったのだろう。
老若男女問わず籠絡してきた彼が静かに唇を近づけた時だ。
「いぎゃあぁぁぁ!私は食べてもおいしくないわよ!ってか来るなあぁぁぁっ」
激しく抵抗された。
しかも、突き飛ばされた。
ぽすんと白く形の良い尻が寝台に触れる。
触れる筈だった手はそのままで、先程まで妖しい光を放っていた瞳がキョトンとしたものへと変わる。
とりあえず――現実を受け入れられない。
「……は?」
目の前ではワタワタとしながら逃げだそうとする、紅藍の姿がある。
それはまるでひっくり返った亀の様な姿だったが、いつもならこみ上げる笑いすらなく藍銅は呆然と見つめていた。
「うわああぁぁ!帰る!ってかなんで淑妃の部屋に居るの?!ここ陛下との愛の巣でしょうが!しかも今は夜?!陛下来る?!ってか私の部屋に帰せえぇぇえっ!」
帰せも何も、ボテンと上掛けごと床に落ちた紅藍はしばらく毛布と格闘する事数分。
ようやく床を這う様にして逃げ出す紅藍に気づき、藍銅は慌てて動いた。
「待て!」
「いっやあぁぁぁぁ!」
全力で抵抗される。
ってか、俺は何だ?痴漢か?変態か?
相手が気絶している状態で自分の部屋に引き込んだ挙げ句、色香を漂わせて迫った身で何を言うのかと他の四妃達が居ればツッコんだだろう。
「おい!」
「ぎゃぁあぁぁ!狼がっ!天使の皮を被った淫魔が居ます!淫魔王が来るうぅぅっ」
かなり正確に相手の本性を見抜く言葉を発する辺り、紅藍は中々に聡いのかもしれない。
しかし、あまり要領は良くないが。
「ぎぃやぁぁぁぁぁあ!くぅぅわぁぁぁれぇぇるぅぅぅぅううううっ」
「誰が食うかこの野郎!」
先程まで食う気満々だった奴が何を言うのか。
しかし、本神としてはあんなものは無意識の行動。
怒りのあまり、少しだけ脅かそうとして――みたいな。
なのに、ここまで本気で嫌がられるって何だ。
ふつふつと、怒りが湧いてくる。
いや、あの時の怒りと合わさり、更に大きな怒りとなる。
「少し黙れ!騒ぐなっ」
「やだぁぁぁ!ってかこうなったら食われる前にやってやる!」
「は?」
とぅっ――と、紅藍が頭突きをする。
まさかそんな行動に来られると思っていなかった藍銅は慌てて紅藍の体から離れ――。
「ふはははは!してやったり!ふっふん~だ!」
紅藍は逃げ出した。
「くそっ!俺を弄んだな!」
「淑妃を弄べるのは陛下だけで~す!」
慌てて追い掛けてくる藍銅から紅藍は全速力で逃げた。
扉を開け放ち、廊下に飛び出る。
「待て!」
藍銅の放った長い帯が紅藍を巻き取ろうとする。
「ほわちゃぁぁぁ!」
しかし、いつも淑妃と追いかけっこをしていた紅藍は見事な動きでそれをかわした。
時には淑妃を追い掛け、時には淑妃から逃げ、そして時には王妃様との愛のお忍びを邪魔しようとする武官達から逃げ切るその脚力をナメるな!!
「お~ほほほほほ!私の足の速さに恐れ入ると良いわ!」
「待て!この暴走娘がっ」
叫びながら藍銅は壁に手を突き、それをぐっと押した。
と、紅藍の足下の床がパカンと開いた。
「ひぃぃ!」
それを神は落とし穴と言う。
しかし、落とし穴にひっかかるかかからないかのギリギリの所に足があった為、紅藍は何とか穴に落ちずにすんだ。
「ふっ!まだまだ!」
また壁の一部を押せば、紅藍の目の前を遮る様に、槍が反対側の壁を貫いた。
「ひっ!」
「誰が、逃がす、かよ」
こいつ、私を殺る気だ!!
もし紅藍の中に藍銅への恋心が熱く滾っていても、一瞬にして冷める仕打ちだった。
「あんたは悪魔か!」
「はっ!幾つもの男達を堕落させてきたこの俺に敵うと思うな!」
じりじりと奴が来る。
「ううぅぅ!負けるかぁぁぁっ!」
槍と槍の隙間に頭を突っ込み、向う側へと這い出る。
「甘い!」
どすんっと、目の前の床が持ち上がり天井へと密着した。
なんというか、床が上がってそこに居た相手を押し潰す為のものらしい。
完全に殺す気だ!!
これでちょっとした悪戯とか言ったら殴る!!
「さあ……俺をこれ以上怒らせたくなかったら、こっちに来い」
「い、嫌よ!」
完全に目が据わっている――けれど、ケタケタと笑う淑妃の所に行ったら何をされるか分からない。
しかし、淑妃の美貌と色香に参っている者達はそれでも行くのが神情。
たとえ待ち受けているのが死だとしても、彼らは行く。
それが、彼らにとっての正義だから。
しかし紅藍にはそんなものはない。
あれから逃れられるならば、むしろ魂を悪魔に売る。
「ってかいつもは攻め一直線の私が逃げるだけって!」
腹が立つ、この現実に腸が煮えくりかえる。
だが紅藍の正常な危機管理能力及び本能は逃げろと警告していた。
「紅藍姫」
今までどんな男も堕としてきた甘く切ない声音で呼びかければ。
もっと速度を上げて逃げられた。
ぽちんと壁のボタンを押し、天井から鎖でつられた巨大な斧を幾つも出現させてやった。
「なんでこんな罠がしかけられてるのよ!」
「はっ!海国後宮をナメるな!」
忍び込んでくる馬鹿達から己が身を守る為に、実は罠だらけの海国後宮。
建物内だろうが、外だろうが、その罠の数と種類は多岐に渡っている。
そしてその全てを知るのは、陛下と上層部を除けば、四妃のみだ。
と、ここで王妃様は?という疑問が浮かぶだろう。
確かに本来であれば、後宮の主とされる王妃様も知っているのが普通だ。
しかし、王妃様は知らない。
それはわざと知らせて居ないのだ。
罠は侵入者を退ける物。
けれど同時に、王妃様を外に出さない為の物にもなる。
そう――陛下は王妃様が外に行く事を恐れている。
それもお忍びなどではなく、真の意味で王妃様が外に出られる事を。
だから、教えない。
後宮内に幾つもある罠が、王妃様をこの場所に留めるように。
動けなくさせる様に。
そしてその罠は今、藍銅の手足となり自分から逃げようとする少女を追い詰める。
「紅藍姫――」
斧に行く手を阻まれ、立ち往生する彼女へと手を伸ばす。
そう、待ってろ。
そのまま立ち止まれ。
すぐに、すぐに捕まえてやる。
この手に。
この手で触れよう。
その体を。
アア コレハ オレノ モ ノ ダ
伸ばした手が、その肩に触れようとした時だった。
「っ!」
こちらを振りむいた紅藍に一瞬動きが止まった隙を突かれ、横を走り抜けられた。
そのまま元来た道を戻られる。
「ちょっ!待て!」
そう言って待つ馬鹿など居ない。
藍銅がその場を通る時に発動させた罠は解除してきた。
だからもう一度罠を発動させようとしたが、時既に遅く紅藍は藍銅の部屋へと飛び込んでいた。
そして彼が部屋に飛び込んだ時には――。
「……あんの、馬鹿」
あの時と同じ様に、散らばった硝子。
鍵の意味を地の底まで貶める行為。
紅藍は硝子を破り、外へと逃げ出していた。
「……」
この様子であれば、今頃は外へと逃げられているだろう。
藍銅の宮を囲む高い宮壁は侵入者を阻むが、同時に中から出る者も阻む。
しかし、中に居る者達の安全を考え、隠し通路が存在していた。
その一つは既に紅藍に知られている。
「……そんなに、嫌か?」
徹底的に藍銅を拒み逃げていった紅藍に。
藍銅の纏う空気が少しずつ黒く染まっていった。
心臓が爆発するぐらい、呼吸が苦しい。
でも、逃げ切れた事に心は歓喜する。
何とか知っていた抜け道を通り、淑妃の宮から抜け出た紅藍はようやく神心地を付く事が出来た。
地面に座り込み、荒い呼吸を繰り返す。
そうして何とか呼吸が和らいだ所で、紅藍は自分の体が震えている事に気づいた。
それは、恐怖がもたすら物。
今頃になって――いや、ずっとずっと怖かった。
でも、それを押し隠して必死になって自分を奮い立たせて。
何とか逃げ切れた。
捕まってはいけない。
捕まったら終わりだ。
伸ばされた触手を振り払い、大いなる手を振りきった。
なんで、あんなに怖かったのだろう?
冷静な部分の紅藍が訴えかける。
見た目は淑妃なのに。
いつもと変わらないのに。
もう一神の紅藍が逃げろと叫んでいた。
捕まったら、もう逃げられない。
あれは淑妃だけど、いつもの淑妃ではない。
恐ろしい、化――。
「違う」
紅藍は自分を叱咤する様に呟いた。
「あれは……たまたま、ううん、きっと見間違いだわ」
自分に言い聞かせるように、何度も、何度も。
淑妃に、酷い事をした。
怖くて、恐ろしくて。
逃げ出す為に必要以上に喚いて騒いで。
そう――逃げ出す為に、やった。
わざと、あそこまで騒いだ。
でも、された方は良い気分では無いだろう。
きっと、嫌な思いをさせた。
「……今度会ったら……」
でも、まだ会えない。
震え続ける体を抱き締め、紅藍は俯いた。
自分の身を守るように。
そして……しばらくした後、紅藍はゆっくりと立ち上がり歩き出した。
自分に与えられた部屋に戻る為に。
そんな中で、それは鳴り響いた。
「半鐘?」
鳴り響く鐘の音が、後宮内はおろか王宮内に響き渡る。
しかも、この音色は。
「まさか――」
半鐘の音色には、幾つかの種類がある。
その中でも、このリズムと音色が意味するものは。
王都における非常時――。




