chap.6 殺し屋、初めてのコーヒー
太陽が昇り始める早朝、ローマンはいつも通りの時間に起床した。
自宅のトレーニング器具で身体を動かし、静かに汗を流す。
トレーニングを終えると、冷蔵庫からドリンクを取り出し、水分補給をしたその時、スマホが鳴る。
アヤからの着信だった。
「はい……」
「ローマン。今日も仕事あるから、一緒に来てくれる?」
「また極籠会の見届けか?」
「いいや、違う。それとはまた別」
「別って……」
「身支度できたら、8時半に一階のカフェ『Lento』に集合ね」
「了解」
午前8時半――カフェ『Lento』。
「おい……これは一体どういう状況なんだ……?」
「状況って、普通にコーヒー淹れて、サンドイッチ作って、皿洗うだけじゃない」
「そういうことじゃなくて! なんで俺がカフェの仕事してるのかって聞いてんだよ!」
「まあまあ! 一年間、暗殺活動から身を潜める手段としては、これが一番最適だし!」
「だいたい、なんでお前がカフェなんかやってんだよ?」
「元々、趣味でコーヒー淹れ始めたんだけどさ。たまたま殺し屋仲間に自作のコーヒー出したら好評だったから、暇つぶしでカフェ始めたんだ!」
「そこでカフェ経営まで行くのは、もう趣味の範疇超えてるだろ!」
「でもね、これが意外と一般客にもバカ受けしてて、経営かなり安定してるんだよね」
「本業の保護官より、趣味で始めた副業のほうが成功してるって、本末転倒な気がするんだが……」
カフェ経営を軌道に乗せているアヤに、ローマンは呆れたようにため息を漏らす。
「とりあえず、あんたが一般社会に溶け込んで暗殺活動から身を潜める以上、軽食とコーヒー作りは伝授してあげる」
アヤは自信満々に胸を張った。
「オープンは10時! それまでに店の基礎、みっちり叩き込んであげるから!」
―――店のオープンまで、残り30分。
時計の針は9時半を回っていた。
「なんなのよ、これ……。ランチメニューは普通に美味しく作れてるのに、なんでコーヒーだけこんな壊滅的なの……?」
ローマンが淹れたコーヒーを前に、アヤは頭を抱える。
見た目は普通のコーヒー。
だが――刺すような強烈な苦味と不快な酸味、そして、舌にえぐみがまとわりつくような異様に濃いコク。
一歩間違えれば、殺人兵器になっていてもおかしくない毒物だった。
「コーヒー使った毒殺なら、あんた一流なんじゃないの?」
「やかましいわ!」
「とにかく、こんな危険物をお客に出せるわけないでしょ……」
「コーヒーなんて、自販機かコンビニで大体事足りるんだよ!」
ローマンは開き直るように吐き捨てた。
「とにかく、アンタは軽食専門ね」
その時だった。
入店を告げる鈴の音とともに、一人の女性が店内へ入ってくる。
「アヤさん、おはようございます!」
「あ、千秋ちゃん。おはよう!」
明るく笑顔で挨拶する彼女に、アヤも同じように笑顔を返した。
「おい……誰だ、あれ?」
ローマンはアヤの耳元で小声で尋ねる。
「彼女は水瀬 千秋。近くの女子大に通ってる大学生のバイトよ」
「お前や俺のことは?」
「もちろん知るわけないでしょ!」
二人がヒソヒソと話している間に、千秋は更衣室へと向かっていく。
「ローマン、いい? あんたは“日本を勉強するためにロシアから留学してきた、私の古い友達”って設定で通すから」
「じゃあ、日本語も少し不自然にしたほうがよさそうだな」
殺し屋であることを隠すため、二人は口裏を合わせる。
エプロンを身につけ、髪を後ろでまとめてバンダナを巻いた千秋が、更衣室から姿を現す。
「千秋ちゃん、今日は授業午後から?」
「はい!」
「じゃあ、午後までよろしくね!」
「アヤさん、そちらの方は?」
「ああ、紹介するわね! 彼はローマン・“カラシニコフ”。私の古い友人で、日本を
勉強するためにロシアから留学してきた新人のバイト!」
(このアマ……)
あまりにも雑な偽名を平然と使うアヤに、ローマンは心の中で舌打ちする。
「ふふっ、なんかゲームに出てきそうな名前ですね」
(やはりな......)
ローマンの予想通り、遠回しに苗字をイジられた。
「ローマンでス。ヨろシクお願いしまス」
「水瀬 千秋です!近くの女子大に通っています!」
外国人らしく、たどたどしい口調で挨拶するローマン。無論、“カラシニコフ”という雑すぎる偽名の苗字だけは、頑なに名乗ろうとしなかった。
「ローマンさん、ロシアの方なんですね! 私、今大学でロシア語を勉強してるんですよ!」
初めて見る外国人――というより、自分が専攻しているロシア語圏の人間を前にし、千秋は目を輝かせる。
――嘘だろ……。
二人は笑顔のまま硬直した。
(“仕事”の話、ロシア語でやり取りしようと思ってたのに……おい、どうする?)
(落ち着きなさい! あくまで“勉強中”よ。話せるって言っても、複雑な内容までは理解できないはず……!)
(それでも、この女の前でロシア語で“仕事”の話をするのはまずい……)
(ローマン。あんた、確かタタール語話せたわよね?)
(ああ。話せるが、アヤは?)
(問題ないわ)
(じゃあ、“仕事”の話はタタール語でするか)
(そうしましょう!)
「ローマンさん?」
何も知らない千秋は、首をかしげた。
「ハハハ、ロシア語話せル人がいましてネ。驚きノあまり固マってしまいマシタ」
たどたどしく、不自然な日本語で取り繕うローマン。
「アハハ! もうローマンったら!」
場の空気を変えようと、アヤも明るく笑ってごまかす。
「ローマンさん、もしお時間あれば、私にロシア語教えてください!」
千秋は無邪気に目を輝かせ、ローマンにロシア語の指導をお願いする。
「良いですヨ!」
取り繕った笑顔で返すローマン。
『私、今大学でロシア語を勉強してるんですよ!』
彼女のその一言で、思わぬ形で裏目に出た。
結果として、ローマンとアヤにとって“一般社会に溶け込み潜伏する”という難易度は一気に跳ね上がることになる。




