chap.14 昼下がりの日常
正午過ぎの陽光が降り注ぐ、昼時のキャンパス。
講義を終えた学生たちで賑わう校舎の出口から、テキストを胸に抱えた水瀬千秋が歩み出てくる。
「ちーあき!」
不意に背後から声を掛けられ、千秋が驚いて振り返ると、そこにはクラスメイトの山田ミチコが満面の笑みで立っていた。
「ミチコ、急にどうしたの?」
「ねえねえ、この後ランチ行かない? 今日の分の単位は回収したし、お腹ペコペコなんだよね!」
「ごめんね。私、このあとすぐにバイトに行かなきゃいけなくて……」
申し訳なさそうに眉を下げる千秋に、ミチコは人差し指を立てて提案する。
「確か、オシャレなカフェだっけ?」
「ええ、そうだけど……」
「決まり! だったら千秋のバイト先で食べればいいじゃん。それならシフトの時間まで一緒にいられるし、千秋も移動が楽でしょ? 私ってば天才かも!」
「天才って、どこがよ……」
千秋は呆れ半分でクスリと笑いながらも、ミチコを連れてバイト先のカフェ『Lento』へと向かった。
ドアを開けて店内に入ると、飲食店にとっては一番忙しいはずの昼時だが、『Lento』の中は多すぎず少なすぎず、比較的落ち着いた空気が流れていた。
「へえー! カフェらしく静かで、落ち着いていてすごく良い雰囲気じゃん」
「あはは、今日はたまたまだよ」
カランカラン、と入店のベルが優しく鳴り響く。
しかし、そんな穏やかな空間を切り裂くように、厨房の奥から物騒な怒声が聞こえてきた。
「違う! だから、なんでそんなにエスプレッソを濃くするのよ!」
「やめろ、これ以上砂糖を入れたら、お子様向けの泥水になるだろうが!」
「だから、いつまで経っても技術が上達しないのよアンタは!」
どうやら、アヤとローマンがコーヒーの淹れ方を巡って、言い争っていた。
「いらっし……あら、千秋ちゃん。シフトは確か、十三時からじゃなかったかしら?」
入店のベルに気づいたアヤが、厨房から顔を出して千秋の姿を見つめる。
「はい。今日はバイトの前に、友達とここで一緒にお昼ご飯を食べようってことになって……」
「なるほどね、昼食をここで済ませてからそのまま出勤するわけね。賢いじゃない」
「はい、すみません。お騒がせしちゃって」
「いいのよ、大歓迎。じゃあまだ時間もあることだし、何か好きなものを注文してくれたら作るわよ」
「本当ですか? アヤさん、ありがとうございます!」
「せっかくだし、そこのお友達の分も一緒にね」
「あ、ありがとうございます!」
アヤの気前の良さに、一緒にきたミチコも嬉しそうに頭を下げる。
二人はそのまま窓際の客席へと腰を下ろした。
「ミチコ、どれにする?」
「私、カルボナーラにしよっかな。千秋は?」
「そうねぇ……私はサンドウィッチにしとく!」
メニューを決めた二人は、厨房に戻っていたアヤに向けて声を張り上げた。
「アヤさーん! 注文お願いします!」
「ハイ」
低く、酷く無機質な声と共に、二人のテーブルの前に現れたのは――ローマンだった。
(あ……っ!?)
ローマンの顔を見上げた瞬間、ミチコの全身の動きがピタリと止まった。
(この人、確か……っ! 真向かいのマンションで、全裸で筋トレしてた人だ―――!?)
東京へ引っ越してきた初日の朝。
カーテンを開けた視線の先、真向かいのベランダで、一糸まとわぬ姿で猛烈に懸垂をしていた『あの男』の記憶が、鮮烈に脳裏をよぎる。
「ミチコ……? どうしたの?」
急に固まった友人を不思議そうに見つめる千秋。
(嘘でしょ、ここの従業員の人だったの!?)
「カ、カルボナーラで……」
全裸筋トレの残像が脳内でスライドショーのように蘇るミチコは、顔を真っ赤に染め上げ、もごもごとお辞儀をしながら注文を絞り出すのが精一杯だった。
無論、当のローマン本人は、自分がそんな破廉恥な誤解をされているとは知る由もない。
「カルボナーラとサンドウィッチ。……カしこマリましタ」
いつものたどたどしい日本語話す外国人を装って接客で注文をメモすると、ローマンは素っ気なく踵を返す。ローマンが気だるげに厨房へ戻っていくのを見届けてすぐ、ミチコは身を乗り出し、声をひそめて千秋の袖を引いた。
「ね、ねぇ千秋……っ!」
「なに? 急に小声出して」
「あの、いまの外国人の人は一体……な、何者なの!?」
「ああ、ローマンさん? 最近新しく入った新人のバイトさんだよ。ロシアの方でちょっと日本語おかしいけど、仕事はきっちりしてくれるの」
「ローマン……」
ミチコはその名前を口の中で反芻し、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……どうしたのよ、さっきから」
「ちょっと、変なこと聞くかもしれないんだけどさ、千秋。その……ローマンって人から、何か変なことされてたり、妙な被害に遭ってたりとかしてない!?」
「はあ? 何よ突然。ローマンさんはちょっと無口なだけで、至って普通の人よ。そんなことあるわけないじゃない。……ミチコ、お腹空きすぎて頭おかしくなった?」
(他人の、空似……かしら……? いや、でもあの筋肉と顔立ちは……)
ミチコが頭を抱えてグルグルと思考を巡らせているうちに、美味しそうな匂いと共に二皿の料理がテーブルへと運ばれてきた。
「オ待たセしまシタ」
お盆を片手に、流れるような手際でカルボナーラとサンドイッチを置くローマン。
「ありがとうございます!」
千秋が声を弾ませると、ミチコもまだ少し引きつった笑顔のまま、慌ててペコペコと頭を下げた。
「あ、あ、ありがとうございます……!」
「デは……」
仕事を終えたローマンが、素っ気なく厨房へ戻ろうとした、その時だった。
「あ、そうだ。ローマンさん!」
千秋が思い出したように、ローマンを呼び止める。
「はイ?」
「少しだけロシア語教えてもらってもいいですか? 大学の第二外国語で取ったんですけど、難しくて……」
(……めんどくせーな、おい)
脳内で盛大に舌打ちの音を響かせながらも、ローマンは瞬時に完璧なビジネススマイルを作り上げ、大袈裟に両手を広げてみせた。
「オー! 僕、今仕事ガアルのデ……マタ今度、ネ?」
「ローマン、いいんじゃない? 今日は珍しくお客さんも少ないんだし」
「――っ!?」
ローマンが戦慄して振り返ると、いつの間にか背後にアヤが腕を組んで立っていた。
逃げ道を塞がれたローマンは、千秋たちに笑顔を向けたまま、口元だけを微かに動かした。
「〈テメー、何余計なこと言いやがる! 殺すぞ!〉」
「〈いいじゃない。どうせこの子たちが勉強してるのは標準的なロシア語でしょ? 私たちがタタール語でやり取りしてる限り、内容なんて聞き取れっこないんだから〉」
アヤもまた、極上の接客スマイルを浮かべながら、常人には発音すら不可能な言語を滑らかに紡ぎ出す。
「〈なんで俺がわざわざこいつらにロシア語を教えなきゃなんねえんだよ! だったらお前が教えろ!〉」
「〈嫌よ、めんどくさい。どうせあんた今、暇なんだからいいじゃない〉」
大学でロシア語を専攻している千秋やミチコには、全く理解できないロシア連邦に属する未知の言語『タタール語』。 目の前の美男美女が、笑顔で凄まじい暴言を応酬し合っていることなど、二人は知る由もなかった。
「わあ……すごい。私たちが大学で習ってるのより、何倍も滑らかで綺麗……」
「アヤさん、話すのすっごく上手ですね!」
純粋なリスペクトの眼差しを向ける千秋とミチコ。
まさか自分たちが聞いていたのが『殺すぞ』という物騒な罵り合いで、しかもタタール語だとは夢にも思っていない二人を見て、ローマンは肩の力を抜くように小さく息を漏らした。
(……ここで怪しまれるわけにはいかん、か)
「オー、良いでスヨ! 僕、教えマス!」
本心を完璧に覆い隠し、両手を広げて親しみやすい外国人店員を演じ切るローマン。
そのあまりに爽やかな笑顔に、ミチコは(えっ……? あの全裸懸垂の変質者、実はめちゃくちゃ気さくで良い人なの……?)と、脳内の評価がさらに大混乱に陥るのだった。




