chap.15 情報屋 網代(あじろ)
カフェ『Lento』。
千秋のお願いとアヤの計らいにより、ローマンは千秋とミチコのための「即席ロシア語教室」をみっちり二時間行う羽目になっていた。
「ローマンさん、今日は本当にありがとうございました!」
片言ながらも本場のロシア語を学べたことに、千秋は満面の笑みで感謝を伝える。
「いエイえ、千秋サンとミチコサン、飲ミ込ミが早イのデ、スグ覚エられマスよ」
たどたどしい完璧な日本語をキープして返すローマン。
「やっぱり、大学の授業で習うより現地の人から教わるのが一番わかりやすいね、千秋!」
「うん、バイト先に外国人の先輩が入ってきてくれて、本当に助かっちゃった」
ロシア語の学習が大きく進展したことに、女子大生二人は手を取り合って喜び合う。
その様子をカウンターの奥で見つめながら、アヤはローマンにサッと視線を送った。
(意外に教えるの上手いじゃん、ローマン)
ローマンは千秋たちに微笑みかけたまま、眉一つ動かさずに目線だけで返す。
(……まあな。仕事の都合上、あらゆる分野の技術は一通り完璧にこなせるようにしている)
(へえ――“コーヒー” 以外はね)
(…………シバくぞ)
千秋とミチコに微塵も気づかれないコンマ数秒の暗号目配せで、血生臭いやり取りを繰り広げるローマンとアヤだった。
カラン、カラン――。
「おはようございます!」
入店を告げるドアベルの音と同時に、桜が元気よく挨拶をしながら出勤してきた。
「水瀬さんにローマンさん、おはようございます!」
いつも通り、同僚たちへ欠かさず明るい笑顔を向ける桜。
「あ、桜ちゃん、おはよう!」
「オハようゴザいまス!」
千秋とローマンがそれぞれ挨拶を返す中、桜はアヤの元へと歩み寄り、丁寧に頭を下げた。
「アヤさん、お母さんから話は聞きました。先日は私のせいでご心配をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
貧血で道路に倒れていた自分を介抱し、わざわざ自宅まで送り届けてくれたアヤに、桜は心からの謝罪と感謝を伝える。
「いいのよ、気にしないで。それよりも桜ちゃん、あれから体調はもう大丈夫なの?」
「はい! もうすっかり元気です!」
「お仕事を頑張るのは良いことだけど、学校もあるんだから無理は禁物よ。ほどほどに……ね?」
「はい、ありがとうございます、アヤさん!」
実際のところ、彼女はローマン・久慈良ペアと、無影・カンペアによる殺し屋同士の凄惨な死闘に巻き込まれていた。 しかし、激闘の最中に意識を失った彼女には、「道端で貧血を起こして倒れていた」という体で完璧な隠蔽工作がなされている。
目の前で微笑む優しい店長も、たどたどしく日本語話す外国人の同僚もその背景にある血みどろの真実をすべて知っていることなど――桜は、まだ何も知らなかった。
桜がパタパタと更衣室のドアの向こうへ消える。
そのタイミングを見計らい、ローマンは千秋たち周囲の客に気取られないよう、静かにアヤへ歩み寄った。
「……あの時のこと、本当に何も覚えていないのか?」
声を極限まで潜め、口元を動かさずにローマンが耳打ちする。
「人間、極限状態に追い込まれると記憶が曖昧になるのよ。そこを突いて、あの夜の光景は『貧血で見たタチの悪い悪夢』だと錯覚させておいたわ。このまま平穏に過ごせば、その記憶は自然と忘却されて、事実から完全に切り離される」
アヤは涼しい顔のまま淡々と小声で告げる。
「そうか……」
アヤの完璧な精神誘導の手際に、ローマンは短く得心のため息を漏らした。
「そういえばローマンさんって、普段はどのへんに住んでるんですか?」
千秋がさりげなく尋ねた。
「僕ハ、こコノ、上ノマンションデ暮ラシてマスヨ」
「あ、そうなんですね。確かここの建物って、アヤさんも住んでませんでしたっけ?」
「千秋、それって……」
ミチコが何かに気づいたように声を潜める。
(……まさか。コイツら、俺がこの店の『案内人』のセーフハウスに潜伏している殺し屋だと気づいて……!)
最悪のシナリオが脳裏をよぎり、ローマンの全身の筋肉が一瞬にして戦闘体制へと跳ね上がる。
「もしかしてアヤさん、ローマンさんと……同棲してるとかっ!?」
「や~ねぇ! そんなんじゃないわよ」
身構えたローマンを他所に、アヤはケラケラと上品に笑って手を振った。
「確かに同じマンションだけど、部屋は別々に決まってるじゃない。第一、私がこの『ロシアンゴリラ』の面倒をそこまで見てあげる義理なんてないわよ?」
満面の笑みのまま、遠回しにローマンへ強烈な一撃を叩き込むアヤ。
(……あとで覚えとけよ、メスゴリラ)
営業スマイルの裏側で、ローマンの脳内にはアヤへの殺意の銃弾が真っ赤に装填されていた。
「いやあ、二人とも結構仲が良いように見えたから、もしかしたらって思ってさ」
「そうそう! 息がぴったりだから、てっきり付き合ってるのかと思った!」
「「……アハハハハ」」
千秋とミチコの無邪気な言葉に、ローマンとアヤは一切の感情がこもっていない、恐ろしく乾いた笑い声をハモらせた。
―――こいつとはただの“ビジネスパートナー”で、そこまで男女の仲じゃない!!
心の中で叫ぶ罵倒は、寸分の狂いもなく一致する。
「えー、お似合いだと思ったんですけどね」
「全然そんなことないよ~」
アヤは引きつる頬を必死に動かして流す。
(……まあ、仕事でローマンと何度か過ごした事あるけど……)
「オー! 面白イ、ジャパニーズ・ジョーク、デスね!」
ローマンもまた、引きつった営業スマイルで話を合わせる。
(……俺の中でハッキリと分かっていることは......)
建前で流しながら、二人が脳裏に浮かべたパートナーへの「本音」は、またしても完璧に一致していた。
―――こいつとは、恋人関係は絶対にありえない!!!
穏やかな時間が流れる『Lento』の喧騒から、遠く離れた大都会の死角。
東京・原宿の雑居ビルの一角に、その部屋はあった。
カビ臭い廊下の突き当たり、鍵の閉まった重い扉が、周囲の空間から浮いたような威圧感を放っている。
「兄貴、マジでここに入るんですか……?」
後ろに控える新人若衆の緊張を察しながらも、極籠会若頭補佐・多狛は動じない。
「ビビるな。極籠会と提携結んでる情報屋だ」
多狛が呼び出しボタンを押すと、まもなくして内側から鍵が開く金属音が響いた。
「いらっしゃい、多狛さん」
出迎えたのは、寝癖のついた髪に無精髭という、お世辞にもカタギとも極道とも見えない男、網代令治。
しかしその瞳の奥には、すべてを見透かすような光が宿っていた。
「網代、府隈の頭から頼まれていた件はどうなった」
「特定は完了してますよ。どうぞ中へ」
促されて一歩足を踏み入れた若衆たちは、その光景に息を呑んだ。
散乱するコンビニゴミや空き缶とは対照的に、部屋の壁一面を占拠する圧倒的な数のマルチモニターと、不夜城のように明かりを明滅させるカスタムサーバー群。
ココこそが、あらゆる秘匿情報を暴き出す、網代の城だった。
「街の監視カメラにハッキングして足取りを追ったり、SNSのバックデータに引っかかってないか網を張ったりして、一通り洗いましたよ」
網代は手元のタブレット端末で滑るように指先を動かし、一枚の画像を多狛たちへ提示した。 ディスプレイに映し出されたのは、無影とカンを裏で雇っていた、あの老人の姿だった。
「蒼のお嬢の誘拐を立案・主導したのは大嶽連合幹部、鉄鼠商会会長、根津栄治という老人です。久慈良さんの読みは、概ね当たっていましたね」
「こいつが……今回のクライアントか」
多狛はタブレットを覗き込み、苦々しく男の名を反芻する。
「ええ。ついでにこの人の経歴も軽く掘ってみましたけど、まぁ、ホントに『旧時代の価値観』に囚われただけの、古いヤクザと言っても差し支えないでしょうね」
網代は興味なさげに鼻を鳴らし、画面を次のデータへと切り替えた。
「それで、どうします? 多狛さん」
網代はモニターの光に照らされながら、淡々と次の指示を仰ぐ。
多狛は何も言わず、胸元から金貨を一枚、静かに机の上へと滑らせた。
「ご苦労。――ついでに、ウチに対してまだ隠れて噛みついてくる“ネズミたち”を、根こそぎ炙り出せるか?」
多狛はさらに懐へ手を入れ、追加で二枚の金貨をチャリン、と上乗せする。
「いいですよ」
前払いとして差し出された計三枚の純金の輝きに、網代の口元がふっと歪んだ。
「少々、調査に時間はかかっちゃいそうですけど……ちゃんと言い値分の仕事はしますよ、多狛さん」
「感謝するよ、網代」
「いえいえ。ターゲットのネズミどもは主に関西に巣を張っているようですから、『暗殺協会関西支部』にも協力を仰いでおきますよ」
網代は金貨を細い指先で弄びながら、不敵に微笑んだ。
「多狛さん。個人的な質問ですが……そのネズミたちを見つけたその後は、どうされるつもりで?」
網代は椅子の背もたれに体重を預け、モニターの光に顔を半分陰らせながら尋ねた。
「ネズミ駆除自体は、ウチの久慈良に任せておきたいところだが……。さすがにネズミが大量に湧いているとなると、あいつ一人の負担がデカすぎるからな」
多狛は煙草に火をつけ、紫煙をくゆらせる。
「場合によっては、アヤさんたち『暗殺協会』の手を借りることも検討している」
「なるほど。そうなったら、暗殺協会から実力のある殺し屋を何人か、そちらに派遣しておきますよ」
網代はキーボードを叩きながら、事も無げに言った。
「何から何まで世話になるな、網代」
「いえいえ。俺たち暗殺協会も、あなたたち極籠会には、普段からだいぶお世話になってますからね……」
網代は無精髭を蓄えた口元に、大人の笑みを浮かべた。




