第七十三話 緋色の原風景
それは、まだ世界に色が溢れていた頃の記憶。
灰色の静寂など微塵もなかった、陽だまりのような時間の欠片。
「明里!赤子は、明典は無事か!?お前も壮健か!?」
静謐な屋敷の空気を切り裂いて、一人の男が転がるように部屋へ飛び込んできた。
須藤典膳。
灰色の虚無を纏うことになる男の顔には、今、一滴の冷徹さもなかった。
あるのは、剥き出しの焦燥と、溢れんばかりの情愛だけだ。
「典膳様、明典も私も元気ですよ。数日前も全く同じことを言ってらっしゃいましたよ?」
使い古された木床に、柔らかな西日が這っている。
産後の体を休めていた明里が、呆れたように、けれどこの上なく愛おしそうに目を細める。
その腕の中には、二人の命を繋ぐ結晶――明典がいた。
乳の甘い匂いと、幼子特有の熱が腕に残る。
「親バカは許します。でも、バカ親は私が躾けますからね?」
「いや、明里よ……そうは言ってもだが、私はバカ親ではないぞ?」
典膳はきまり悪そうに頬を掻きながらも、その視線は吸い寄せられるように赤子へと向く。
当代最強と謳われ、数多の怪異を屠ってきたその手が、まるで触れれば崩れる薄氷を扱うように震えながら、小さな命を抱き上げた。
鉄の匂いしか知らなかった手のひらに、信じられないほどの体温が伝ってくる。
「家族が大好きで、ずっと一緒にいたいから仕事をしたくない!それぐらいの心持ちで、私は今を生きているのだ!なー、明典~!!」
「きゃっきゃっ!」
父の不器用で熱い抱擁に応えるように、明典が小さな手を伸ばして笑う。
典膳の声は、弾むような、それでいてどこか泣き出しそうなほど優しい声をしていた。
怪異を裂くための喉が、ただ一人の我が子のために震えている。
「……ふふ、本当に。このままずっと、三人でいられたらいいですね」
明里が典膳の肩にそっと頭を預ける。
衣擦れの音が、静かな部屋に小さく溶けた。
典膳の胸の中にあったのは、冷たい霊力ではない。
家族を、妻を、子を想う――燃えるような、鮮やかな緋色の意志だった。
幸せな家族の形が、確かにそこにはあった。
これが、何もかもが無に帰す前の、典膳が持っていた世界のすべてだった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
『輪廻の瑕疵』は、毎日18:00に更新予定です。
※本作は「カクヨム」にも重複投稿しています。
もし「沙苗と來のコンビが良いな」「先が気になる」と思ってくださったら、
評価、ブックマークで応援いただけると、執筆の大きな励みになります。
今後ともよろしくお願いいたします。




