9話「砂に残すもの1」
遺跡の探索は三日に及んだ。
円形の記録室に何度も通い、壁面の文字を日記帳に写し取った。ナディラは別の紙にアウリィの写しをさらに書き写して、二重の記録を作った。読めない文字を二人で黙々と書き写す作業は、傍目には酔狂に見えただろう。でも二人の間に言葉は少なくても、不思議と居心地は悪くなかった。
ルードとヨナスは遺跡の外壁付近から先史金属の素材を回収した。船底の板に加工できそうな大きさの金属片がいくつか見つかり、ルードは珍しく満足げな顔をしていた。サフィは遺跡の上部に登って周囲の地形を調査し、南西方面にもう一つ小さなオアシスがある可能性を報告した。
三日目の夕方、アウリィは記録室の壁面の前で最後の文字を写し終えた。日記帳の頁は先史文字でいっぱいになっていて、ペンを置いたとき、指先がじんわりと痺れていた。
「終わった?」
ナディラが隣で聞いた。
「うん。全部は無理だったけど、主要な部分は写せたと思う。特にこの——地図の周辺に配置されてる文字列は、地名か説明文の可能性が高いから、解読の手がかりになるんじゃないかな」
「……ありがとう」
ナディラがそう言ったのは、探索が始まって以来初めてだった。ぶっきらぼうな口調は変わらなかったが、声の温度が違っていた。
「どういたしまして」
二人で記録室を出た。螺旋階段を降りて、広間を抜けて、通路を戻って、崩落した壁面の裂け目から外に出た。
外は夕暮れだった。三日間この遺跡に通い続けて、夕暮れの中に立つ遺跡の姿はすっかり見慣れたものになっていた。巨大で、古くて、半ば壊れていて、それでもまだ生きている。
「揺り籠」
アウリィが呟いた。
「何だ?」
「いや、名前。やっぱりいい名前だなって」
ナディラは鼻を鳴らした。でも、否定はしなかった。
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翌朝、船は遺跡を離れた。
出航の準備をしている間、アウリィは船首に立って遺跡を見つめていた。砂漠の朝日に照らされた巨大なシルエットが、砂の海から突き出して空を仰いでいる。
帆が風を孕み、船体が動き出した。金属板が砂を噛んで、甲板が微かに震える。遺跡が少しずつ遠ざかっていく。
アウリィはポーチの中から金属片を取り出した。初日に小さな遺跡で拾った、紋様の断片が残る欠片。掌の上で、朝日を受けて色が微妙に変わる。
「……またね」
遺跡に向かって呟いた。聞こえるはずはない。でも、壁面の精霊が拾ってくれるかもしれないと思った。
ナディラが操舵室から声を飛ばした。
「前を見ろ。後ろを見てると砂を食うぞ」
「もう学習したよ。口は閉じてる」
「なら目を前に向けろ。次の交易先まで一日半だ」
アウリィは振り返って、進行方向に向き直った。砂の海が前方に広がっている。風紋が朝日を受けて波打ち、光の中で踊っていた。
何度見ても飽きなかった。
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次の交易先は、ハスマよりも小さなオアシスだった。名前はタルカ。泉の周りに日干し煉瓦の家が十軒ほど並んでいるだけの、集落と呼ぶのもためらわれるような小さな場所だった。
停泊している砂上船は二隻。一隻はアウリィたちの船よりも大きい交易船で、もう一隻はごく小さな一人乗りの砂走り船だった。
交易は半日で終わった。遺跡で回収した先史金属の一部と、ハスマで仕入れた品物を交換して、水と食料を補充した。アウリィは集落の子どもたちに囲まれて、マントの色が珍しいと触られまくった。
「ねえねえ、おねえちゃん耳がとんがってる!」
「おねえちゃんじゃ——まあ、うん、おねえちゃんでいいよ」
子どもたちの手を払うのが面倒になって、されるがままにしていたら、いつの間にか三つ編みを解かれて髪をぐちゃぐちゃにされた。ナディラが遠くから見ていて、肩を揺らしていた。
「笑ってないで助けて」
「自分でどうにかしろ。あたしは交易中だ」
「嘘。もう終わったでしょ」
「終わってない。最後の品物の確認がまだだ」
絶対に嘘だったが、ナディラは悠々と背を向けた。子どもたちはアウリィの髪に砂漠の小さな花を挿し始めていた。白くて小さな、名前の知らない花。
「……あ、かわいい」
怒る気が失せた。花を挿されたまま、子どもたちと一緒にオアシスの泉で水遊びをした。マントは脱いだが、ワンピースの裾が濡れた。タイツに砂が入った。ブーツの中はもう見ないことにした。
タルカを出航したのは午後だった。アウリィは甲板で髪を乾かしながら、子どもたちに貰った花を一輪だけ日記帳に挟んだ。
「また増えたな」
ナディラが通りがかりに言った。
「花は軽いからいいの。場所を取らない」
「前に拾った金属片は」
「あれも小さいから」
「歯車は」
「あれも——」
「砂除けの布は。乾燥果実の残りは。壊れた水差しの取っ手は」
「……見てたの、全部」
「目の前で拾ってただろ」
アウリィは頬を膨らませた。確かに壊れた水差しの取っ手は実用性が皆無だったが、曲線が美しかったのだ。職人の手仕事の名残が、割れた断面にまだ残っていて。
「いつか整理するから」
「いつかじゃなくて——」
「今は無理。はい、この話おわり」
ナディラが呆れた顔をした。もう見慣れた表情だった。見慣れたことが少し嬉しくて、アウリィは笑った。
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タルカを出て二日目の夜だった。
アウリィは甲板の帆布の下で日記を書いていた。夜間航行中で、ナディラが操舵室にいる。他の乗員は交代で休んでいて、甲板には人の気配が少ない。
ペンが動いていた。今日の出来事ではなく、この世界に来てからの日々を振り返るような文章を、ゆっくりと綴っていた。
不意に、風が変わった。
精霊が何かを伝えてきた。言葉ではなく、感覚として。呼びかけ。遠くからの、穏やかな呼びかけ。
アウリィはペンを止めた。
この感覚を、知っている。何百回、何千回と経験してきた。世界と世界の境目が薄くなるときの、あの独特のざわめき。精霊が次の道を示す前触れ。
「……もう?」
呟きが漏れた。
早い、と思った。まだこの世界に来て十日ほどしか経っていない。もっと長く留まった世界もあった。何年も過ごした場所もあった。もちろん、もっと短いこともあった。精霊が道を示すタイミングはアウリィの意志では決められない。ただ、招かれたときに応じるかどうかの選択だけが、自分の手の中にある。
応じなければ、この世界にもう少し留まれる。次の呼びかけがいつ来るかは分からないが、拒んだからといって罰があるわけではない。ただ、経験上——一度拒むと、次の呼びかけまでの間隔が長くなる傾向があった。次の世界への道が見えにくくなる。
日記帳を閉じて、空を見上げた。
この世界の星座を、ナディラに教えてもらったのは三日前だった。あの鉤のような形の星の並びが「錨座」で、東の空に低く光る赤い星が「砂守」。名前を聞いたとき嬉しくて、すぐに日記に書いた。
もう覚えた。
覚えたものを、いつか忘れる。
立ち上がって、操舵室に向かった。扉を叩かずに開けた。ナディラが舵輪を握ったまま、ちらりとこちらを見た。
「寝ないのか」
「うん。少し、話したいことがあって」
声の調子が普段と違ったのだろう。ナディラの目が細くなった。
「何だ」
「精霊が——次の世界への道を示し始めた」
操舵室の空気が変わった。舵輪を握るナディラの手が、白くなるほど力を込めた。一瞬のことだったが、すぐに力が抜けた。意識的に力を緩めたのだと分かった。
「いつだ」
「たぶん、明後日くらい。まだ薄いけど、道が開き始めてる」
「……そうか」
ナディラは前を向いたまま、しばらく何も言わなかった。舵を微かに修正する動作だけが、変わらず続いていた。足がリズムを刻んでいる。たたた、た、たた。無意識の癖。
「引き留めても、無駄なんだろうな」
「引き留めてくれるの?」
冗談めかして言ったつもりだった。でも声が少し揺れた。
ナディラは答えなかった。代わりに、別のことを聞いた。
「次の世界にも、砂漠はあるのか」
「分からない。行ってみないと。海かもしれないし、森かもしれない。全然違う場所かもしれない」
「全然違う場所に、一人で行くのか。毎回」
「うん」
「……怖くないのか」
「怖くないよ。楽しみのほうが大きい。新しいものが見られるし、新しい人に会えるし」
言い切った。嘘ではなかった。嘘ではなかったけれど、全部でもなかった。
ナディラは舵輪から片手を離して、こちらに向き直った。夜間航行中に操舵手が前から目を逸らすのは、この船では初めて見た。
「あんたは——本当にそう思ってるのか」
「え?」
「楽しいから旅をしてる。新しいものが見たいから。それが本当の理由なのか」
アウリィは口を開きかけて、閉じた。
それから、もう一度開いた。
「……分からない」
正直に言った。
「たぶん、最初はそうだったんだと思う。知りたいことがあって、見たいものがあって、だから旅に出た。でも、いつの頃からか——理由が曖昧になってきたの。旅を続けることが当たり前になりすぎて、なんで続けてるのか、自分でも分からなくなって」
日記帳に手を触れた。使い込まれた革表紙の感触。
「トランクの底のほうに、最初の頃の日記があるはずなんだ。旅を始めた理由も、きっと書いてある。でも、探し出せてない。散らかりすぎてて」
「……整理しろ」
「うん。いつか」
「いつかじゃなくて——」
「分かってる。分かってるけど——怖いの、少し。読み返して、最初の理由を知って、それがもう意味のないものだったらって思うと」
声が小さくなった。自分でも驚くくらい小さくなった。
これは、誰にも言ったことのないことだった。何千回と繰り返してきた出会いと別れの中で、一度も口にしなかったこと。あるいは、口にしたことがあったのに忘れているだけかもしれない。どちらにしても、今、この操舵室で、ナディラの前で言ったのが初めてのような気がした。
「止まったら——止まったら、ボクにはもう何も残らないから。旅をしてる自分しか知らないから。だから、止まるのが怖いの。理由がなくなることが怖いの。だから探さないの。最初の日記を」
言い終えて、沈黙が落ちた。
船体が軋む音。砂を滑る金属板の低い唸り。夜風がマントの裾をそっと揺らす音。
ナディラが口を開いた。
「あんたは——馬鹿だな」
「……うん。知ってる」
「最後まで聞け」
ナディラの声は静かだった。怒りでも呆れでもなく、ただ静かだった。
「馬鹿だけど——あんたがこの世界でやったことは、無意味じゃない」
「——」
「水を見つけた。遺跡の記録を写した。砂虫からこの船を守った。子どもたちと遊んだ。あたしに星の話を聞いた。くだらない物を拾い集めた。日記を書いた。——そういうの全部、理由がなくてもやったことだろ」
「うん」
「なら、理由なんかなくてもいいんじゃないか。あんたは旅をしてる。その途中で色んなことをする。それだけで——十分じゃないのか」
アウリィは目を瞬いた。
数万年の旅路の中で、同じようなことを言われたことがあったかもしれない。あったような気もするし、なかったような気もする。覚えていない。でも今、この言葉が胸に落ちた感覚は、きっと忘れない。忘れたくない。
「……ナディ」
「何だ」
「それ、日記に書いていい?」
「好きにしろ」
アウリィは笑った。少しだけ泣きそうな笑い方になったのを、暗い操舵室の中で見破られなかったと思いたかった。




