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8話「名もなき揺り籠3」

 遺跡から船に戻ると、日はもう傾いていた。


 甲板の上で、ヨナスとサフィが出迎えた。水の確保を報告すると、二人の顔に安堵が広がった。ルードが水の品質について説明し、明日改めて大量に汲みに行く計画を立て始めた。


 アウリィは甲板の端に腰を下ろして、ポーチの中身を整理していた。今日は新しい物を拾わなかった。珍しいことだった。あの円形の部屋には持ち帰りたいものがたくさんあったのに、何も取らなかった。代わりに、日記帳の頁が増えた。それだけで十分だった。


 夕日が砂漠を赤銅色に染めている。遺跡の巨大なシルエットが、夕暮れの中でさらに壮大に見えた。かつて砂の海を走っていた巨大な船。今は砂に半ば飲まれて動けなくなっているけれど、その心臓はまだ動いている。水を集め、光を灯し、誰もいない部屋を守り続けている。


「……名前、あるのかな。この船」


 呟いてから、あの文字列のどこかに書かれているのかもしれないと思った。読めるようになる日が来るかどうかは分からない。でも、名前はきっとある。造った人たちが、愛着を込めてつけた名前が。


 ナディラが隣に来た。黙って腰を下ろして、同じ方向を見た。夕日に照らされた遺跡。


「ナディ」


「何だ」


「この船にも名前をつけようよ。本当の名前が分かるまでの、仮の名前」


「……あんたが好きに呼べばいい」


「じゃあ——」


 少し考えた。夕日の中の遺跡を見つめながら、ぽつりと言った。


「『揺り籠』。まだ何かを守ってるから。中身が何もなくなっても、守り続けてるから」


 ナディラは何も言わなかった。


 赤い夕日が、二人の横顔を同じ色に染めていた。


--------------------------------------------


 その夜、アウリィは甲板で日記を書いていた。


 今日見たもの、聞いたこと、感じたこと。先史文明の巨大な船。緑に塗られた地図。ナディラの震える拳。名もなき船に仮の名前をつけたこと。


 書いていて、ペンが止まった。


 日記帳の古い頁——前の世界の最後の記録が書かれた頁を、めくってみた。走り書きの文字。読み返す。前の世界で出会った人のこと。別れの言葉。笑っていたはずの顔が、文字の向こうに浮かびかけて、すぐに薄れた。


 顔が思い出せない。


 たった一つ前の世界のことなのに。名前は読み返せば分かる。出来事も書いてある。でも、顔が——声が——もう曖昧だった。


 これが、数万年の代償だった。


 新しい記憶は鮮明で、古い記憶は砂のように崩れていく。どれだけ日記に書いても、文字は記憶の代わりにはなれない。輪郭は残せても、温度は残せない。


 ナディラのことも、いつかそうなるのだろうか。あのそばかす。ぶっきらぼうな声。足でリズムを取る癖。壁面に触れた震える指先。——それらが全て、輪郭だけの薄い影になっていく日が来るのだろうか。


「嫌だな」


 声に出して言った。言ってから、これは日記に書くべきではないと思った。書いたら、いつかこの頁を読み返したとき、何が嫌だったのか思い出せないまま、ただ「嫌だ」という感情の残骸だけが残ることになる。それはもっと嫌だった。


 だから書かなかった。


 代わりに、別のことを書いた。


 『明日はもう一度遺跡に入る。ナディと一緒に。壁面の文字をもっと写す。ナディの船長さんが見たかったものを、少しでも多く記録する。ボクにできるのはそれくらいだけど、それくらいのことはしたい。この世界にいる間に、できることを全部やりたい。いつかいなくなるなら、なおさら』


 日記帳を閉じた。


 見上げた空には星があった。四日前よりも、三日前よりも、星の位置を覚え始めている。名前は知らない。この世界の人々がつけた星座の名前を、まだ誰にも聞いていなかった。


 明日、ナディに聞こう。


 そう思って、目を閉じた。

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