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7話「名もなき揺り籠2」

 船を遺跡の外縁に停泊させて、探索の準備が始まった。


 ヨナスとサフィが船の警備に残り、ナディラとルード、それからアウリィの三人が遺跡内部に入ることになった。水筒とランタン、予備の油、ロープ、それから工具の入った革袋。ルードが手際よく装備を確認していく。


「深入りはしない。先史金属の素材を回収できそうな場所を見つけたら、一度戻って改めて採掘する。いいな」


 ルードの慎重さは、この場面では頼もしかった。ナディラもうなずいた。


「アウリィ、あんたの精霊術で内部の危険を察知できるか」


「前よりはましになった。大きな生き物や構造の不安定な場所は、たぶん分かる」


「たぶん、か」


「うん。この世界の精霊とは、まだ完璧な意思疎通はできないから。でも——」


 アウリィは小さく息を吸った。


「信用してくれてるのは、感じるよ。精霊たちがこっちを」


 ルードは半信半疑の顔をしていたが、ナディラが「行くぞ」と言えばそれで終わりだった。


 遺跡の外壁は、近づくとさらに圧倒的だった。壁面の金属は風化してざらついていたが、指で触れると芯にはまだ硬度が残っていた。先史文明の技術が生み出した合金は、何千年もの歳月を経てなお朽ち果てることを拒んでいる。


 崩落した壁面の隙間が、内部への入り口になっていた。人が二人並んで通れるくらいの裂け目。その向こうは暗い。ルードがランタンに火を灯して、先頭に立った。ナディラが続き、アウリィが最後尾。


「足元に気をつけろ。瓦礫が多い」


 ルードの声が狭い空間に反響した。床は金属板で、砂と細かな破片に覆われている。天井は高い。見上げると、四メートルほど上に梁が走っていた。かつては通路だったのだろう。幅も高さも、普通の人間が使うにはやや大きすぎる設計だった。


「大きいね、通路が」


「先史文明の人間は、今より体が大きかったって説がある。本当かどうかは分からんが」


 ルードが答えた。遺跡の探索経験があるのだろう。落ち着いている。


 奥に進むにつれて、外光が届かなくなった。ランタンの光だけが、灰色の壁面を橙色に染めている。壁には最初の遺跡でも見た幾何学模様が刻まれていた。だがここでは、模様の中に明らかな文字列が混じっていた。規則的に配置された記号の連なり。読めないが、何かの情報を伝えようとしていることは分かった。


「ナディ、この文字、読める人はいるの?」


「いない。少なくとも、あたしが知る限りでは。解読を試みた学者がいたって話は聞いたことがあるけど、成果があったかどうかは——知らない」


 ナディラの目が壁面の文字列を追っている。読めないのに、目が離せないという風だった。


 通路は緩やかに下っていた。地表から内部へ、つまり遺跡の深部に向かって降りている。床の傾斜はわずかだったが、歩いていると確実に地下に潜っている感覚があった。


 精霊が、何かを伝えてきた。


 アウリィは足を止めた。


「どうした」


「前方に広い空間がある。それと……水の気配」


「水?」


 ナディラとルードが同時に反応した。砂漠の民にとって、水という言葉の重みは別格だ。


「うん。地下水脈かもしれない。精霊がそう言ってる」


「距離は」


「この通路をもう少し進んだ先。百メートルくらい」


 三人は足を速めた。通路は何度か分岐していたが、精霊の導きに従って水の気配が強い方向を選んだ。途中、壁面が大きく崩れている箇所があり、隣接する部屋の内部が見えた。金属の棚のようなものが並んでいて、その上に何かの器具の残骸が散乱している。研究室か、あるいは工房か。


「あれ、持って帰りたい……」


 アウリィが足を止めかけて、ナディラに袖を引かれた。


「後にしろ」


「でもあの器具、すごく綺麗な形してて——」


「後だ」


「……はい」


 不承不承ながら前に進んだ。ベルトポーチの中の金属片に無意識に手が伸びて、初日に拾った遺跡の欠片の感触を確かめた。あの小さな欠片が、今ではお守りのようになっている。新しい物を手に入れたい欲求と、ナディラの正論との間で、かろうじて正論が勝った。


 通路の突き当たりに、大きな扉があった。金属製で、両開き。片方は半分ほど開いた状態で固まっている。錆びついているのではなく、何かの力で動かなくなっているようだった。隙間から、湿った空気が漏れ出ていた。


「湿気がある」


 ルードが手の甲で空気を確かめた。乾燥しきった砂漠の世界で、湿り気のある空気は異様だった。


 扉の隙間から、一人ずつ身体を滑り込ませた。ルードが先にランタンを差し入れて安全を確認し、ナディラが続き、最後にアウリィ。


 扉の向こうに広がっていた光景を見て、三人とも足を止めた。


 広間だった。天井が吹き抜けになっていて、高さは十メートル以上ある。壁面は曲線を描いていて、楕円形の空間を形作っている。そして広間の中央に——水があった。


 地面の亀裂から滲み出た地下水が、広間の底に浅い池を作っていた。直径は十メートルほど。水面はほとんど動かず、ランタンの光を鏡のように反射している。水は澄んでいた。底が見えるほど透き通っていて、池の縁には苔のようなものが薄く生えている。


「嘘だろ……」


 ルードが呆然と呟いた。


「こんな場所に、水が」


 ナディラは何も言わなかった。ただ池に歩み寄って、膝をつき、手を水に浸した。冷たい水が指の間を流れるのを、じっと見つめている。


 アウリィは広間全体を見渡していた。壁面にも文字と模様が刻まれている。通路のものよりも精緻で、模様の一部がかすかに光っていた。発光している。微弱だが、確かに。遺跡の深部に残っている脈動の源が、この壁面の模様と関係しているのかもしれなかった。


「ナディ、ここ……船の心臓部じゃないかな」


 ナディラが顔を上げた。水に浸した手からしずくが落ちて、池に波紋を作った。


「心臓部?」


「壁の模様が光ってる。エネルギーがまだ残ってるんだと思う。この水も、もしかしたら自然に湧いてるんじゃなくて、遺跡の機構が地下水を集めてるのかもしれない」


「先史文明の——生きている部分、か」


「うん。数千年経っても、まだ動いてる。すごいよ」


 アウリィは壁面に手を触れた。模様の発光がわずかに強くなった。精霊が、壁を通じて何かを伝えてくる。歓迎でも拒絶でもなく、ただ「存在を認識した」という、静かな応答。


「この船が沈んだとき——砂に飲まれたとき、ここだけが最後まで動き続けたんだと思う。水を集めて、エネルギーを保って、ずっと。誰もいなくなっても」


 声が少し小さくなった。自分でも気づかないうちに、声に感情が乗っていた。


 誰もいなくなっても、動き続けるもの。役割を終えたのに、止まれないもの。止まる方法を知らないもの。


 それは——


「アウリィ」


 ナディラの声で、思考が途切れた。


「水を汲むぞ。容器を出せ」


「あ、うん」


 感傷を振り払って、ベルトポーチから折り畳みの革水筒を取り出した。ルードも持参した容器に水を汲んでいる。水質を確認するために少量を口に含んで、問題ないと判断したらしくうなずいた。


「きれいな水だ。不純物がほとんどない」


「遺跡の浄化機構がまだ機能してるのかもしれない」


 アウリィの推測に、ルードは懐疑的な顔をしたが、否定はしなかった。水がきれいであるという事実のほうが、理由よりも重要だった。


 水を汲み終えて、広間を改めて観察する時間ができた。ナディラは壁面の文字列を一つ一つ確認するように目で追っていた。読めないはずなのに、何かを探しているようだった。


「ナディ、何か探してるの?」


「……いや」


「嘘。その目、何かを探してる目だよ」


 ナディラの肩が小さく跳ねた。見透かされたことへの驚きか、あるいは図星をつかれた居心地の悪さか。


「……船長が」


 長い間があった。ナディラは壁面に向き合ったまま、背中をアウリィに向けていた。


「船長が、先史文明の記録を探していた。砂漠になる前の世界のことを記した、古い記録を。それを見つけるために、遺跡を渡り歩いていた」


「それで、遠くに行ったの」


「ああ。大きな遺跡が見つかったって情報を追って、南の果てまで。もう——二年、帰ってきてない」


 二年。


 アウリィにとっては瞬きのような時間だった。だがナディラにとっては違う。十五、六歳の少女にとっての二年は、人生の一割以上だ。


「船長は、ナディのお父さん?」


「……育ての親。血は繋がってない。あたしは砂漠の孤児だ。赤ん坊のとき、オアシスに捨てられてたのを船長が拾った。この船で育てられた」


 だからこの船が家であり、この船が全てなのだ。ナディラが操舵手として船を守り、交易を続け、乗員たちをまとめているのは、船長の帰る場所を守るためだ。


 帰る場所。


 ナディラが初日の夜に口にした言葉が、ようやく本当の意味で腑に落ちた。


「船長は、何を探してたのかな。砂漠になる前の世界の記録って」


「分からない。ただ——船長は言っていた。この世界は、こんなふうじゃなかったはずだって。砂の下には、もっと豊かな世界があったはずだって。それを証明する記録がどこかにあるって」


「証明して、どうするつもりだったんだろう」


「それも分からない。でも——あの人にとっては、知ることが全てだった。知らないままでいることが、耐えられない人だった」


 アウリィの胸の中で、何かが共振した。小さな振動だったが、深いところに届いた。


 知らないままでいることが耐えられない。未知を未知のままにしておけない。


 それは——自分もそうだ。


「ナディは、船長を探してるの?」


「探してない。探しようがない。南の果てなんて、航路すらまともにないんだ。ただ——」


 ナディラが振り返った。黒い目が、ランタンの光の中でまっすぐにアウリィを見た。


「せめて、あの人が見たがっていたものを、あたしも見たかった。先史文明の記録。この船が何だったのか。この世界が何だったのか。それを知ったら、あの人が何を追いかけていたのか、少しは分かるかもしれないから」


 だから航路を変えたのだ。先史金属の素材が必要だったのは本当だろう。でもそれだけではなかった。この巨大な遺跡——先史文明の砂上船の残骸に、船長が探し続けた答えの断片があるかもしれないと思ったから。


「ナディ」


「何だ」


「ボク、手伝うよ。探すの」


「……あんたに何が分かるんだ。この世界のことも、先史文明のことも、何も知らないくせに」


「知らないけど、知りたいと思ってる。それじゃだめかな」


 ナディラは答えなかった。でも、背を向けなかった。


「ルード、もう少しだけ探索を続けていい?」


 広間の端で水の品質を調べていたルードは、顔を上げて二人を交互に見た。何かを察したのか、小さくため息をついた。


「半刻だけだ。それ以上は危険が増す」


「ありがとう」


 アウリィは壁面の模様に再び手を触れた。精霊に語りかける。


「教えて。この船の——この遺跡の記録は、どこにある? 文字が読める場所、記録が残っている場所」


 砂の精霊が応じた。壁の奥から、ゆっくりと伝わってくる感覚。方向。上。この広間のさらに上の階層に、特殊な部屋があるという漠然としたイメージ。


「上の階に何かがあるみたい。記録室か、操舵室か……とにかく、重要な場所が」


「上に行けるのか」


 ナディラが広間を見回した。壁面の一角に、螺旋状の階段の残骸があった。金属製の段が半分ほど崩れていたが、残っている部分は頑丈そうだった。


「行けるかもしれない。でも——ルード、どう思う?」


「構造は怪しいが、金属部分は先史製だ。体重くらいは支える。ただし、一人ずつだ」


 ルードが先に登って安全を確認し、ナディラが続いた。アウリィは最後に登った。階段は途中で何段か欠けていて、その度に壁面の突起に足をかけて跳び越えた。身軽さには自信があった。数万年の旅が身体に刻んだものは、知識だけではない。


 上の階層は、通路が放射状に伸びていた。その一つの先に、扉があった。他の扉よりも装飾が多い。模様の発光もここが最も強かった。


 扉は半開きだった。中に入ると、円形の部屋だった。


 そして、壁一面が文字で覆われていた。


 床から天井まで、隙間なく刻まれた文字列。通路や広間に散在していたものとは密度が違う。ここに、この船の全てが記録されているのだと直感的に分かった。


「すごい……」


 アウリィの声が、静かな円形の部屋に反響した。


「これだけの文字が残っていれば、解読の手がかりになるかもしれない。全部は無理でも、繰り返し出てくるパターンから意味を推測できるかも」


 ナディラは壁面の前に立ち尽くしていた。


 読めない文字だった。意味が分からない記号の羅列だった。それなのに、その前に立つナディラの表情には、言葉にできないものが浮かんでいた。


「船長に——見せたかった」


 小さく、掠れた声だった。


 アウリィは何も言わなかった。ナディラの隣に立って、同じ壁面を見上げた。読めない文字が、ランタンの光と壁面の自己発光に照らされて、淡く浮かび上がっている。


 ポーチから日記帳を取り出した。


「全部は写せないけど、できるだけ写すよ。文字のパターンを記録しておけば、後で役に立つかもしれない」


「……頼む」


 ナディラの声は短かった。でも、その二文字に込められたものの重さを、アウリィは受け取った。


 壁面の文字を、一つずつ、丁寧に日記帳に写し取った。正確に形を再現することに集中して、ペンを走らせる。文字の配置、大きさの違い、記号の組み合わせ。意味は分からなくても、形は記録できる。


 ナディラは別の壁面を見ていた。壁の一角に、文字ではなく図形が描かれている部分があった。円と線で構成された図。


「アウリィ、これを見ろ」


 呼ばれて近寄ると、それは地図だった。


 円形の大地に、線で区画が描かれている。区画の中にはそれぞれ異なる記号が記されていて、いくつかの地点に小さな円が打ってある。そしてその地図の中に——緑色の顔料で塗られた領域があった。広い領域だ。地図全体の半分以上を占めている。


「……この緑は」


 ナディラの声が震えていた。


「緑地じゃないか。砂漠じゃない場所。砂になる前の——」


「この世界が、砂漠じゃなかった頃の地図」


 アウリィが静かに言った。


 二人で地図を見つめた。この世界の大半が、かつては緑に覆われていた。水があり、植物があり、砂ではない大地があった。それが今は、見渡す限りの砂漠になっている。


「船長は——これを探していたのか」


 ナディラの手が壁面に触れた。指先が緑色の領域をなぞる。失われた世界の輪郭を、確かめるように。


「あの人は正しかった。この世界は、こんなふうじゃなかったんだ」


「うん」


「でも——」


 ナディラの手が止まった。


「知ったところで、何が変わる? 砂漠が緑に戻るわけじゃない。水が増えるわけじゃない。あたしたちは相変わらず砂の上を走り続けるしかない」


「そうかもしれない」


「じゃあ、何のために——船長は、何のためにこれを探して、帰ってこなかったんだ」


 声が荒くなった。壁に触れた手が握りしめられて、拳が小さく震えていた。


 アウリィは少し考えた。答えを持っているわけではなかった。船長の気持ちも、ナディラの痛みも、本当の意味では分からない。分かるなどと言ったら嘘になる。


 でも、一つだけ、思うことがあった。


「ナディ」


「……何だ」


「知ることは、何かを変えるためだけにやるものじゃないと思う」


 ナディラが振り返った。


「知って、それを誰かに伝えて、伝えられた人がまた別の誰かに伝えて——そうやって、知ったことが繋がっていく。すぐには何も変わらなくても、いつか、どこかで、その知識が誰かの役に立つかもしれない」


「かもしれない、か。あんたはいつも不確かだな」


「うん。でもね、ボクは数万年ずっとそうやって旅をしてきたよ。知って、記録して、次の場所に持っていく。すぐに役に立つことなんて滅多にない。でも、知らないままよりはいい。少なくとも——知ったことを、誰かに渡せるから」


 アウリィは日記帳を持ち上げた。壁面の文字を写し取った頁が開いている。


「これは、ナディに渡すよ。ボクが持っていても読めないし。ナディがこの世界で、読める人を探してくれたらいい。いつか解読されたら、この船が何だったか分かるかもしれない。船長が知りたかったことに、一歩近づけるかもしれない」


 ナディラはアウリィの差し出した日記帳の頁を見つめていた。走り書きだが丁寧に写された先史文字の列。小さな手が描いた、知らない世界の記録。


「……あんたは、ここからいなくなるんだろう。いつか」


 唐突な言葉だった。でも、唐突ではなかった。ナディラはずっと分かっていたのだ。別の世界から来た旅人は、いつか別の世界に去っていく。


「うん。いつかは」


「いつだ」


「分からない。精霊が次の世界への道を示してくれたら。それがいつかは、ボクにも分からないんだ」


「……そうか」


 ナディラは日記帳の頁を、指先でそっと触れた。


「これの写しを取る。原本はあんたが持ってろ」


「え、でも——」


「あんたの日記だろう。旅の記録なんだろう。なら、持っていけ。あたしは写しがあればいい」


 アウリィは目を瞬いた。それから、ゆっくりと日記帳を胸に引き寄せた。


「……ありがとう、ナディ」


「礼を言うのはこっちだ。ここまで案内してくれたのは、あんたの精霊術だ」


「ボクだけじゃできなかったよ。ナディが航路を変えてくれたから、ルードが安全を確認してくれたから、この場所に来られたんだ」


「……もういい。行くぞ。半刻を過ぎる」


 ナディラは踵を返した。でも、扉をくぐる直前に一度だけ振り返って、円形の部屋を見渡した。壁面の文字たち。緑色の地図。失われた世界の記憶。


 それから、小さく呟いた。


「——また来る」


 アウリィにも、ルードにも聞こえないくらいの声だった。でも、精霊が拾ったのかもしれない。壁面の発光が、ほんの一瞬だけ、脈を打つように明るくなった。

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