10話「砂に残すもの2」
翌日は、穏やかな一日だった。
風は適度に吹いていて、帆は順風を孕み、船は滑らかに砂の海を走った。砂虫の気配はなく、空は今日も青かった。
アウリィは一日をかけて、この世界で集めたものの整理をした。普段は絶対にやらないことだった。ナディラが横を通りかかったとき、目を丸くして立ち止まった。
「……何かの前兆か?」
「失礼な。たまには整理するよ」
「たまには、ね」
甲板の上に、集めたものを並べた。初日に拾った先史金属の欠片。オアシスの市場で買った砂除けの布、乾燥果実の残り、先史金属の歯車。タルカの子どもたちに貰った花。壊れた水差しの取っ手。日記帳に挟んだ押し花。記録室で写した先史文字の頁。
並べてみると、十日間の旅の全てがそこにあった。
「こうして見ると、結構集めたね」
「結構どころじゃないだろ。あんた十日しかいないのに」
「十日でこれだから、数万年分のトランクがどうなってるか分かるでしょ」
「想像したくない」
ナディラが座り込んで、並べられたものを一つ一つ見た。指先で金属片を持ち上げて、光にかざした。
「これ、最初の遺跡で拾ったやつだろう」
「うん。この世界で一番最初に触れたもの」
「……大事にしろ」
「するよ。全部大事にする」
「全部大事にするから物が増えるんだろうが」
「それはそう」
二人で並んで座って、物を眺めた。サフィが通りかかって「何やってんだ」と聞き、「棚卸し」とナディラが答えた。サフィは首を傾げて去っていった。
午後になって、アウリィは内部拡張されたトランクを開いた。普段は出さないようにしているのだが、今回ばかりは必要だった。新しい品々を収納するために。
トランクの蓋を開けた瞬間、中から雪崩のように物が溢れ出した。
「うわっ——」
「何だこれは」
ナディラが目の前に転がってきた何かを拾い上げた。青い石を嵌め込んだ古い指輪だった。
「あ、それどこのだっけ……えっと……」
「覚えてないのか」
「いや、たぶん——五つくらい前の世界の……いや、もっと前? 日記を読めば分かるんだけど……」
「日記は何巻ある」
「……数えたことがない」
ナディラが深いため息をついた。今までで一番深いため息だった。
結局、トランクの整理は諦めて、新しい品々を上のほうに押し込むだけに終わった。蓋を閉めるのにナディラの助けが必要だった。二人で体重をかけてようやく閉まった。
「次の世界では少し減らせ」
「善処する」
「善処じゃなくて——」
「善処するって言ったでしょ」
ナディラは諦めた顔をした。諦めた顔をしながら、口元がわずかに緩んでいた。
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夜が来た。
明日だ、とアウリィは感じていた。精霊の呼びかけが強くなっている。世界の境目が薄くなって、向こう側の気配がかすかに届いている。まだ何も見えないし、聞こえない。でも、道が開きかけている。
甲板の帆布の下で、日記帳を開いた。
最後の頁に書く言葉を、ゆっくりと選んだ。
ナディラが操舵室から出てきた。夜間航行の交代時間を終えて、ヨナスに舵を引き継いだらしい。いつもならそのまま船室に戻るのに、今夜は甲板に出てきた。
アウリィの隣に、黙って座った。
しばらく、何も言わずに星を見ていた。錨座が東の空にかかっている。砂守が低い位置で赤く光っている。覚えた星座。教えてくれた人。
「ナディ」
「……何だ」
「ありがとう。この世界で、ナディに会えてよかった」
ナディラは答えなかった。星を見上げたまま、小さく息を吸って、吐いた。
「あんたに聞きたいことがある」
「何でも」
「——あたしたちのこと、忘れるのか。いつか」
率直な問いだった。残酷なほど率直な。
アウリィは正直に答えた。
「忘れるかもしれない。ボクの記憶は、古くなると薄れていくから。顔とか、声とか、匂いとか——そういうものから順に消えていく」
「……そうか」
「でも——日記がある。日記を読めば思い出せる。全部じゃなくても。ナディの名前も、この船のことも、揺り籠のことも、砂虫から逃げたことも、ナディが怒ってくれたことも。全部書いてある」
「書いても思い出せないことがあるって、前に言ってたな」
「うん。ある。でも——」
アウリィは日記帳を胸に抱えた。
「書かないよりはいいでしょ。何も残さないよりは」
同じ言葉だった。オアシスの水辺で、ナディラに言ったのと同じ言葉。あのとき自分が言ったことを、今度は自分に言い聞かせている。
ナディラが立ち上がった。アウリィも顔を上げた。
ナディラがベルトポーチから何かを取り出した。小さな布の袋。中から出てきたのは、砂漠の砂を詰めた小さなガラス瓶だった。コルクで栓がしてあり、瓶の中の砂は夕日の色をしていた。
「やる」
「え?」
「あんたが物を集める性格なのは嫌というほど分かった。なら、これも持っていけ」
アウリィは差し出されたガラス瓶を受け取った。掌にすっぽり収まる大きさ。中の砂が、ランタンの光を受けて微かに輝いた。
「これ——」
「あたしが生まれたオアシスの砂だ。船長が、あたしを拾ったとき一緒に持ってきた。あたしの最初の持ち物。赤ん坊のあたしが握ってたのが砂だけだったらしい」
「こんな大事なもの——」
「だから渡すんだ」
ナディラの声が、少し詰まった。咳払いで誤魔化したが、隠しきれていなかった。
「あんたは忘れるかもしれないと言った。記憶が薄れるんだと。なら——物で覚えていろ。あんた自身が言っただろう。物が代わりに覚えていてくれるって。そう信じたいんだって」
いつ言った。日記に書いただけで、声に出したことは——あったかもしれない。覚えていない。でも、ナディラが覚えていてくれた。
「ナディ……」
「その瓶を見たら、砂の世界のことを思い出せ。思い出せなくても、瓶を握っていろ。そうしたら——あたしたちが確かにいたことくらいは、手の中に残るだろ」
アウリィはガラス瓶を両手で包んだ。小さな瓶は、体温でほんのり温まった。
目の奥が熱くなった。泣くつもりはなかった。数万年の別れを繰り返して、涙なんかとっくに枯れたと思っていた。なのに。
「……ずるいよ、ナディ」
「何がだ」
「こういうことされたら——忘れたくなくなるでしょ。もっと」
「忘れたくなくなるようにやってるんだ。当たり前だろ」
ナディラの声は震えていなかった。まっすぐだった。どこまでもまっすぐで、それがかえって胸に刺さった。
アウリィは目元を袖で拭った。マントの裾ではなく、ワンピースの袖で。大切なマントを涙で汚したくなかった。——そんなことを考えている自分がおかしくて、泣きながら少し笑った。
「ボクからも、渡したいものがある」
ベルトポーチを開いて、中から小さな宝石を取り出した。最初にナディラに差し出して断られた、もう一つの宝石。緑色の透き通った石。
「対価じゃないよ。お守り。ボクがずっと持ち歩いてた石で——どこで手に入れたかはもう忘れちゃったけど、綺麗でしょ」
「……綺麗だな」
「ナディが持ってて。ボクの代わりに。ボクがいなくなっても、この石がナディの傍にあるから」
ナディラは緑の石を受け取った。ランタンの光を通して、石の中に閉じ込められた微かな光の筋を見つめていた。
「あんたのことを忘れる心配は、あたしにはない。あたしは——普通に歳を取って、普通に老いて、いつか死ぬ。その間に忘れるほどの時間は、多分ない」
「そうだね」
「だから、忘れるのはあんただけだ。あんただけが、あたしのことを忘れる側だ。——それが少し、悔しい」
「……うん」
「でも、いい。あんたが書いた日記の中に、あたしがいる。それで十分だ」
ナディラが緑の石を握りしめた。小さな拳が、ランタンの光の中で固く結ばれた。
二人はしばらく黙って並んで座っていた。星が瞬いている。風が砂の匂いを運んでくる。船体が軋む音が、揺り籠のように繰り返される。
「ナディ」
「何だ」
「船長さん、きっと帰ってくるよ」
「……根拠は」
「ないよ。でも——帰る場所があるから。ナディがこの船を守ってるから。帰る場所がある人は、いつか帰ってくる。ボクは、そう信じてる」
ナディラは何も言わなかった。でも、隣に座ったまま、離れなかった。
それが答えだった。
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朝が来た。
アウリィは日の出と共に目を覚ました。身体を起こすと、精霊の呼びかけが全身に満ちているのを感じた。道が開いている。世界の境目が薄くなって、向こう側の光が透けて見えるような感覚。
立ち上がって、帆布の下から出た。朝焼けの空が赤く燃えている。この世界に来た最初の日と同じ色だった。
甲板の上には、もう全員がいた。
ヨナスが船首に立っていた。サフィが帆柱に寄りかかっていた。ルードが船縁に腕を置いて、砂漠を眺めていた。そしてナディラが、操舵室の前に立っていた。
誰が言い出したわけでもなく、全員が起きていた。知っていたのだ。今日だということを。
「おはよう」
アウリィが言った。いつもと同じ声で。努めて、いつもと同じように。
「おはよう、嬢ちゃん」
ヨナスが言った。いつもと同じように。でも、目元が少しだけ赤かった。
「おはよう」
ナディラが言った。声は平坦だった。感情を削ぎ落としたような、きっぱりとした声。でも、足がリズムを刻んでいた。たたた、た、たた。無意識の癖。緊張するときに出る癖だと、アウリィは十日間で学んでいた。
「行くのか」
ナディラが聞いた。
「うん」
「——そうか」
それ以上は聞かなかった。
アウリィは甲板の中央に立った。トランクは既に収納術式で仕舞い直してある。ベルトポーチの中身を確認した。日記帳。宝石の袋。金属片。歯車。水差しの取っ手。タルカの子どもたちの花。そして——ナディラからもらったガラス瓶。全部ある。
マントの襟を正して、髪飾りの赤い花に触れた。母からもらったお守り。もう顔も思い出せない母の。
「ヨナスさん、お世話になりました」
「気にすんな。楽しかったよ、嬢ちゃんがいて」
「ルードさん、慎重に判断してくれてありがとう。おかげで安全に探索できた」
「……まあ、仕事だ」
「サフィさん、帆の張り方、もう少し教えてほしかったな」
「次に来たときにな。次があればだけどよ」
アウリィは笑った。次があるかどうかは分からない。同じ世界に二度招かれたことは、記憶の限りでは——ない。たぶんない。でも、嘘でもそう言ってくれることが嬉しかった。
最後に、ナディラの前に立った。
何を言えばいいか、考えていた。昨夜の間に何度も考えて、何度も言葉を選び直して、結局まとまらなかった。数万年生きていて、別れの言葉がまとまらないのは情けない話だった。
「ナディ」
「何だ」
「ボク——」
言いかけて、やめた。
代わりに、一歩近づいて、手を差し出した。
ナディラが手を握った。小さな手だった。たこのある、操舵手の手。十日前に宝石を受け取ったのと同じ手。
「元気で」
アウリィが言った。
「あんたもな」
ナディラが言った。
手が離れた。
アウリィは目を閉じた。精霊の呼びかけに、意識を開いた。
応じる。この招きに応じる。次の世界へ。
光が足元から立ち上った。淡い、温かい光。精霊が世界の境目を開く光。甲板の上に、花びらが散るように光の粒子が舞い上がった。
——最後にもう一度、目を開けた。
ナディラが立っていた。泣いていなかった。拳を握りしめて、まっすぐにこちらを見ていた。黒い目が朝日を受けて、琥珀色に光っていた。
綺麗だな、と思った。
この顔を覚えていたいと思った。
光が強くなった。視界が白に溶けていく。ナディラの輪郭が光の中に滲んでいく。
声が聞こえた。光の向こうから。
「——また来いよ、馬鹿」
アウリィは笑った。
光が全てを包み込んで、砂の世界が遠ざかっていった。
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白い光が収まったとき、アウリィは知らない場所に立っていた。
足元は——草だった。柔らかい緑の草が、一面に広がっている。空は薄い水色で、白い雲が流れていた。湿った風が頬を撫でて、遠くから水の音がした。
新しい世界だった。
砂はなかった。乾いた風も、照りつける太陽も、船の軋む音もなかった。全てが違う。全てが新しい。
でも。
ベルトポーチに手を入れて、小さなガラス瓶を取り出した。中の砂が、曇り空の柔らかな光を受けて、鈍く輝いている。
握りしめた。手の中に、砂の温度があった。
「……忘れないよ」
呟いた。約束は、しなかった。できないと分かっている約束はしたくなかった。でも、今この瞬間は覚えている。砂の匂い。船の軋み。星座の名前。あのそばかす。ぶっきらぼうな声。震える拳。足でリズムを刻む癖。
全部、覚えている。
ガラス瓶をポーチに戻して、日記帳を取り出した。
新しい頁を開いて、書き始めた。
『砂海漂流編。振り返り。
砂の世界に十日間いた。砂上船に乗った。砂の上を走る船。先史文明の遺跡を見た。巨大な船の残骸。名前を揺り籠と呼んだ。水を見つけた。砂虫から逃げた。星座を教えてもらった。
ナディラという女の子がいた。操舵手。ぶっきらぼうで、でも優しい子だった。ボクが勝手に飛び降りたとき怒ってくれた。船長さんが帰ってこないことを、ずっと一人で抱えていた。でも、折れなかった。強い子だった。
ナディに砂の入ったガラス瓶をもらった。あの子が生まれたオアシスの砂。今、ポーチの中にある。これがある限り、忘れない。忘れたくない。
ボクが旅を続ける理由は、まだ分からない。でも、ナディが言ってくれた。理由なんかなくてもいいって。旅をして、その途中で色んなことをする。それだけで十分だって。
十分かどうかは分からない。でも——今は、それでいい。
次の世界。草の匂いがする。水の音が聞こえる。空が広い。
また、新しい旅が始まる。
この頁を読み返す未来のボクへ。ガラス瓶を握ってみて。砂の温度を感じたら、たぶん何かを思い出せるから。何も思い出せなくても、それでもいいから。あの子が確かにいたことだけは、瓶の中の砂が覚えてくれているから』
日記帳を閉じた。
立ち上がって、草原を見渡した。どこまでも緑が続いている。砂の世界とは真逆の景色。息を吸い込むと、湿った草の匂いが肺を満たした。
涙が一筋、頬を伝った。
拭わなかった。草原の風が、そっと乾かしてくれた。
「さて」
アウリィは一歩を踏み出した。
新しい世界の、最初の一歩を。
赤い彼岸花の髪飾りが、風に揺れた。




