後日談「砂守の赤い星」
アウリィが消えた甲板の上に、光の粒子が名残のように漂っていた。
朝風がそれを攫って散らしていく。淡い金色の粒が砂漠の空気に溶けて、やがて何も残らなくなった。甲板の板の上には、小さな足跡の痕すら残っていない。十日間そこにいた旅人の痕跡が、一瞬で世界から消えた。
ナディラは立ったまま、アウリィがいた場所を見ていた。
ヨナスが鼻をすすった。サフィが帽子を目深に被り直した。ルードだけが普段通りの顔をしていたが、船縁に置いた手が白くなっていた。
「……出航準備」
ナディラの声が甲板に落ちた。
掠れていた。自分でも分かった。咳払いをして、もう一度言い直した。
「出航準備だ。次の交易先まで二日。風は東寄り。帆の角度を調整しろ」
「了解」
ヨナスが動いた。サフィが帆柱に向かった。ルードが船首の定位置に戻った。全員がいつも通りに動き出して、いつも通りの朝が再開した。
ナディラは操舵室に入り、扉を閉めた。
一人になった瞬間、息が詰まった。
舵輪に手をかけて、額を腕に押しつけた。泣かない。泣かないと決めていた。甲板の上では泣かなかった。あの子の前では泣かなかった。ここでも泣かない。
泣かない。
右手が、無意識にポーチの中の石を握りしめていた。緑色の透き通った石。あの子が持ち歩いていた、どこで手に入れたかも忘れた石。指先から冷たい滑らかさが伝わってくる。
ナディラは深く息を吸い込んだ。砂の匂い。乾いた風の匂い。いつもと同じ匂いだ。甘酸っぱい乾燥果実の匂いも、得体の知れないマントの布の匂いも、もうしない。
当たり前だ。いなくなったのだから。
石を握る手に力を込めて、ゆっくりと顔を上げた。窓の向こうに砂漠が広がっている。朝日に照らされた砂丘が、波のようにうねっている。いつもの景色。何も変わっていない景色。
何も変わっていない。
あの子が来る前と同じ砂漠で、同じ船で、同じ航路を走る。水を探し、交易をし、船を守り、船長の帰りを待つ。それだけのことだ。十日前に戻るだけだ。
なのに、操舵室がやけに広く感じた。
半刻前まで、ここに二人でいた。狭い操舵室に二人で座って、海図を広げて航路を語り、星の名前を教えた。あの子は何でも知りたがった。砂の深さ、風の読み方、帆の仕組み、精霊の声。些細なことで目を輝かせて、大事なことをさらりと口にした。
理由なんかなくてもいい。ナディラ自身がアウリィに言ったその言葉が、今は自分に跳ね返ってきている。
あの子を引き留める理由なんかなかった。引き留める権利もなかった。別の世界から来た旅人が、また別の世界に去っていく。それだけのことだ。たった十日の同乗者。通り過ぎていく風のような存在。
——風のような存在が、ガラス瓶一つでこんなに重くなるとは思わなかった。
ナディラは石をポーチに戻して、舵輪を握った。
出航だ。
船は動かさなければならない。
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帆が風を孕んで、船が動き出した。
金属板が砂を噛む低い唸り。甲板が微かに傾く感覚。何千回と繰り返してきた、船出の感触だった。
ナディラは舵を握りながら、海図に目を落とした。次の交易先はハスマ。もう何度も通った航路だ。等砂深線を読み、風向きを計算し、最適な角度で帆を張る。考えなくてもできる作業だった。
考えなくてもできるから、余計なことを考える。
アウリィが海図の読み方を教わったとき、水の海の話をしていた。世界中が水で覆われた場所があるのだと、嘘みたいなことを当たり前のように言っていた。空から水が降るのだと。冷たくて、全身びしょ濡れになって、でもすごく気持ちよかったのだと。
今頃、どんな世界にいるのだろう。
水の世界かもしれない。森の世界かもしれない。全然違う場所かもしれない。どこにいても、あの子はきっと目を輝かせている。新しい匂いを嗅いで、新しい味を覚えて、新しい物を拾い集めて、日記帳の頁を埋めていく。そういう生き方しかできない旅人だ。
永遠に旅を続ける旅人。
永遠に歳を取らない、百四十七センチの小さな体。黄金の髪。黄色い瞳。赤い彼岸花の髪飾り。真紅のマントの下の、見た目よりずっと古い魂。
数万年と言っていた。数万年の記憶が、端から砂のように崩れていくのだと。大切な人の顔も声も忘れていくのだと。
ナディラのことも、いつか忘れる。
分かっていた。分かっていて、ガラス瓶を渡した。物で覚えていろと言った。あの子は物を大切にする。捨てられない性格だと言っていた。なら、あのガラス瓶はきっとトランクの底のどこかに残り続ける。散らかったトランクの中で、数え切れない思い出の品に埋もれながら、ナディラが生まれたオアシスの砂を抱えて。
それでいい。
それで十分だと、自分に言い聞かせた。
「ナディ」
窓の外からヨナスの声がした。
「右舷前方に砂紋の乱れ。砂虫じゃないと思うが、念のため報告」
「了解。速度を維持して通過する。ルード、砂深を測れ」
「やってる」
日常が回り始めた。船を動かし、砂を読み、風を捕まえる。操舵手の仕事に戻る。
足がリズムを刻んでいた。たたた、た、たた。
自覚した。
あの子に指摘されるまで気づかなかった癖を、今は自覚している。自覚してしまうと、止めるのが難しくなる。止めようとするたびに、あの子が笑いながら真似をした声が蘇る。
「たたた、た、たたって」
そう言って笑っていた顔が、鮮明に浮かんだ。
——忘れない。あたしは忘れない。歳を取って老いて死ぬまでの間には、忘れるほどの時間はない。
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ハスマに着いたのは、二日後の昼だった。
前回と同じオアシス。日干し煉瓦の建物。集まった砂上船。月に一度の交易の日だった。
ナディラは交易をこなした。先史金属の素材を必要としている船がいくつかあって、揺り籠から持ち帰った金属は高値で取引できた。水と食料を十分に補充し、船底の板の予備まで確保できた。
交易の合間に、集落の長老に会った。
「先史文明の文字を読める者を探している。心当たりはないか」
長老は皺だらけの顔を傾げた。
「難しいな。解読を試みた者がいないわけではないが、成果を上げた者は聞いたことがない。——どこかの大きな集落なら、学者がいるかもしれんが」
「大きな集落。どこだ」
「東のカナル。ハスマの五倍はある交易拠点だ。航路で十日ほどかかるが、あそこには古い書物を集めている学者がいると聞く」
十日。遠い。だが、行けない距離ではなかった。
「ありがとう」
長老の元を辞して、船に戻った。懐に入れた紙束——アウリィの日記帳から写し取った先史文字の記録を、指先で確かめた。
あの子が写してくれた文字。小さな手で丁寧に描いた、読めない記号の列。この紙の束が、船長の探し物への手がかりになるかもしれない。ならないかもしれない。分からない。
でも、やってみる価値はある。
あの子が言っていた。知ったことを誰かに渡せばいい。すぐには何も変わらなくても、いつかどこかで役に立つかもしれない。
不確かな「かもしれない」のために、航路を選ぶ。それは船長がやっていたことと同じだった。不確かな記録を追いかけて、南の果てまで行った人。帰ってこない人。
帰ってこい。
初めて、心の中でそう思った。声には出さなかった。出したところで届くはずがない。でも、思うことくらいは許されるだろう。
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ハスマを出航した夜、ナディラは操舵室で海図を広げていた。
東のカナルへの航路を引いている。等砂深線を読み、オアシスの位置を確認し、砂虫の報告が多い区域を避ける。十日間の航路。水と食料の配分。帆の角度と風向きの予測。
全てをこの船で完結させなければならない。アウリィの精霊術はもうない。砂虫が来ても、砂の下の気配を教えてくれる者はいない。岩盤の位置を精霊に尋ねることもできない。
十日間だけ、魔法のような力がこの船にあった。それが消えた。
元に戻っただけだ。
海図にペンを走らせる。線を引いて、注釈を書き込んで、距離を計算する。一人でできる。一人でやってきた。船長がいなくなってからの二年間、ずっと一人で——
ペンが止まった。
一人じゃなかった。ヨナスがいた。サフィがいた。ルードがいた。一人だと思い込んでいただけだ。船長の代わりに全てを背負おうとして、周りが見えなくなっていた。
あの子に出会って、少しだけ視界が開けた。自分が何を抱えているのか、誰かに話すことで初めて輪郭が見えた。船長のこと。遺跡のこと。帰ってこない人を待つこと。
「……あんたのせいだぞ」
呟いた。誰もいない操舵室に、小さな声が落ちた。
あんたが来るまでは、こんなこと考えなかった。自分が何を感じているかなんて、考える暇がなかった。船を動かすことだけ考えていればよかった。なのに。
あの子はずかずかと踏み込んできた。操舵室に返事も待たず入ってきた。海図を覗き込んできた。精霊が何とか言ってると知ったふうなことを言った。足のリズムの癖を暴いた。砂虫が出れば船から飛び降りた。遺跡の奥まで一緒に潜った。船長のことを聞いて、追及しなかった。代わりに「手伝うよ」と笑った。
去り際に泣いた。泣きながら「ずるいよ」と言った。
ずるいのはあんただ。
「……ったく」
海図に向き直った。線を引き直す。カナルへの航路。十日間。長い航海になる。
でも、揺り籠に「また来る」と言った。言ったからには、もう一度あそこに戻るつもりだ。壁面の文字を解読する手がかりを持って。船長が知りたがっていたことに、少しでも近づいて。
それが、あの子に貰ったものへの返し方だと思った。
ナディラは海図の端に、小さく書き込んだ。揺り籠の位置。あの巨大な先史文明の砂上船が眠る座標。自分だけの印で記した、名前のある遺跡の場所。
海図を折り畳んで、舵輪を握り直した。
窓の外に、星が見え始めていた。東の空に錨座がかかり、低い位置に砂守の赤い星が光っている。
あの子に教えた星座。砂守。砂漠を見守る赤い星。
あの子は覚えてくれただろうか。次の世界の空を見上げたとき、砂守を探すだろうか。見つからなくて当然だ。違う世界には違う星がある。でも——赤い星を見たとき、何かを思い出してくれるだろうか。
思い出さなくてもいい。ガラス瓶がある。あの子の手の中に、ナディラが生まれたオアシスの砂がある。それで十分だ。
「……十分だ」
声に出して言った。言わないと信じられなかった。
舵を切った。東へ。カナルへ。新しい航路へ。
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三日後、航海中の甲板で、ナディラは珍しくヨナスと長話をした。
きっかけは些細なことだった。船底の板の点検をしているヨナスに声をかけたら、話が船の整備から遺跡の話になり、遺跡の話からアウリィの話になった。
「嬢ちゃん、元気にしてるかね」
「知るか。別の世界に行ったんだ。確かめようがない」
「そりゃそうだ。でもまあ、あの嬢ちゃんならどこに行っても元気だろう。砂虫に追いかけられてもけろっとしてた子だからな」
「けろっとしてたんじゃない。怖かったって本人は言ってた」
「そうなのか。全然そうは見えなかったが」
「見えないだけだ。あの子は——見た目より色々考えてる」
ヨナスはボルトを締める手を止めて、ナディラを見た。
「お前さんも、あの嬢ちゃんが来てから少し変わったな」
「……何がだ」
「前より喋るようになった。それと、表情が増えた」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないさ。船長がいなくなってから、お前さんはずっと張り詰めてた。あの嬢ちゃんが——少し、ほどいてくれたんだろう」
ナディラは答えなかった。ヨナスは笑って、作業に戻った。
操舵室に戻って、ナディラはポーチの中の緑の石を取り出した。光にかざすと、石の中に微かな光の筋が見えた。何の石か分からない。どの世界で手に入れたかも、持ち主が忘れている石。
でも綺麗だった。それだけは確かだった。
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カナルに着いたのは、ハスマを出てから十一日目だった。予定より一日遅れたのは、途中で砂嵐を避けるために迂回したからだ。
カナルは、ナディラが今まで訪れた中で最も大きな集落だった。オアシスの規模が違う。泉ではなく、小さな湖と呼べるほどの水場があり、その周囲に石造りの建物が密集している。停泊している砂上船は二十隻を超えていた。
交易を済ませた後、ナディラは集落の中を歩いた。学者を探して。先史文字を読める者を、あるいは読もうとしている者を。
三軒目に訪ねた古書店で、白髪の老女に出会った。
「先史文字の解読をしている者ですか。私がそうですが」
薄暗い店の奥で、老女はそう言った。埃をかぶった棚に、古い本と巻物と石板の拓本が所狭しと並んでいる。
「これを見てほしい」
ナディラは紙束を差し出した。アウリィの筆跡で写し取られた先史文字の記録。
老女は紙を受け取り、最初の一枚を見た瞬間、眼鏡の奥の目が見開かれた。
「——これは。どこで手に入れた」
「南西の砂漠。新しく隆起した遺跡の中。先史文明の砂上船の残骸だった」
「砂上船の……まさか、記録室か」
「知っているのか」
「伝承にだけ。先史文明の大型船には、航海記録を壁面に刻む習慣があったと。だが、実物を見た者はいなかった。少なくとも、この量の文字記録を写し取ったものは、私の知る限り初めてだ」
老女の手が震えていた。紙束を、壊れ物を扱うように慎重にめくっていく。
「読めるのか」
「全てではない。だが——繰り返し出現するパターンがある。地名や方角を示す記号は、いくつか解読済みだ。この量があれば、文法構造の推定ができるかもしれない」
「時間はかかるか」
「年単位だ。あるいは、それ以上。だが——やる価値はある。これほどの資料は、二度と出ないかもしれない」
ナディラは小さくうなずいた。
「写しを預ける。解読が進んだら、ハスマの交易で連絡を取ってくれ。ナディラという名前で通じる」
「分かった。——一つ聞いてもいいか。この文字を写したのは、あなたか」
「いや。旅の者だ。もうここにはいない」
「そうか。見事な写しだ。文字の特徴を正確に捉えている。この旅の者に、礼を言いたかったのだが」
ナディラは一瞬だけ目を伏せた。
「——伝えておく。いつか会えたら」
嘘だった。会える保証はなかった。でも、そう言いたかった。
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カナルを出航する朝、ナディラは甲板に立って空を見ていた。
昼の空は青く、星は見えない。でも、夜になれば砂守が東の低い位置に光る。あの赤い星はいつもそこにある。ナディラが生まれる前からそこにあって、ナディラが死んだ後もそこにある。
あの子も、そういう存在なのかもしれないと思った。世界を渡り歩いて、どこにでも現れて、どこからでもいなくなる。星のようなものだ。一瞬だけ同じ空を共有して、気づいたときにはもう別の空にいる。
でも、光は届く。
日記帳の中に。ガラス瓶の中に。緑の石の中に。写し取った文字の中に。
あの子が残していったものは、確かにここにある。
「ナディ」
ヨナスの声だった。
「準備できたぞ。どこに向かう」
ナディラは舵輪を握った。海図を脳裏に描いた。南西に揺り籠がある。東にカナルがある。北にはまだ行ったことのない航路がある。南の果てには、船長がいるかもしれない。
どこに行く。
「——南西だ」
「南西? また遺跡に戻るのか」
「ああ。壁面の記録をもっと写す。カナルの学者に送る分が足りない」
嘘ではなかった。でも、それだけが理由でもなかった。
揺り籠にもう一度行きたかった。あの広間の水に触れたかった。壁面の文字を見たかった。あの場所で、あの子と一緒に過ごした時間の残響を確かめたかった。
感傷だと分かっていた。操舵手としては不合理な判断だと分かっていた。
でも、あの子が言っていた。理由なんかなくてもいいと。
いや、違う。あれはナディラ自身が言ったのだった。あの子に向かって。それが今、自分に返ってきている。
「出航する」
帆が風を孕んだ。船が動き出した。南西へ。砂の海を、小さな船が走り始めた。
操舵室の窓に、砂漠の太陽が映っている。ナディラは舵を握りながら、足でリズムを刻んでいた。
たたた、た、たた。
もう止めようとは思わなかった。
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その夜、操舵の交代を終えた後、ナディラは甲板の帆布の下に座った。ランタンの明かりの中で、紙とペンを取り出した。
日記ではない。ナディラは日記をつける習慣がない。つける必要がなかった。忘れるほどの時間は生きないのだから。
でも、今夜は書きたくなった。
誰に宛てるでもない言葉を、小さな文字で綴り始めた。
『今日は風が強かった。帆の調整に手間取った。サフィが文句を言っていたが、操舵には問題なかった。水の残りは十分。食料もあと八日分はある。
南西に向かっている。揺り籠にもう一度行く。壁面の文字を写すためだ。カナルの学者がやる気を出していた。あの文字の写しを見て、目の色が変わっていた。あんたが丁寧に写してくれたおかげだ。
あんたは今、どこにいるのか分からない。草の匂いがする世界だと言っていた。水の音が聞こえると言っていた。砂漠じゃない世界。あたしには想像もつかない場所だ。
ガラス瓶は持っているか。砂がこぼれないように気をつけろ。あんたのことだから、トランクの中で他の物に埋もれてるんだろう。ちゃんとポーチに入れておけ。
緑の石は、あたしが持っている。毎日見ている。綺麗だ。あんたの言う通り、綺麗だ。
星が出た。砂守が光っている。あんたに教えた赤い星だ。あんたの世界からは見えないだろうけど、あたしの世界ではいつも同じ場所にある。
元気でいろ。
また物を拾いすぎるな。
日記を書け。忘れるなら、書け。
あたしのことは——忘れてもいい。でも、あの瓶だけは捨てるな。
ナディラ』
書き終えて、読み返した。届かない手紙だった。宛先のない言葉だった。
折り畳んで、ポーチの中に入れた。緑の石の隣に。いつか、この手紙をどうするかは決めていない。捨てるかもしれない。ずっと持っているかもしれない。
今はただ、書きたかったから書いた。
理由なんかなくてもいい。
見上げた空に、砂守が光っていた。赤い、小さな星。あの子と一緒に見た、最後の夜の星。
ナディラは立ち上がって、操舵室に戻った。明日の航路を確認するために。明後日の風を予測するために。この船を走らせ続けるために。
扉を閉める直前、夜空をもう一度だけ振り返った。
「——また来いよ」
甲板の上で言ったのと同じ言葉が、星に向かってこぼれ落ちた。
届くはずがなかった。
でも——どこかの世界で、ガラス瓶を握りしめている手があるような気がした。
砂の温度を覚えている、小さな手が。




