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1話「地下の鼓動1」

足元の感覚が変わった瞬間を、アウレーリエ・リュコーリアスは正確に捉えた。


柔らかな虚空を漂うような浮遊感が消え、代わりに硬い石畳の冷たさがブーツの底を通じて伝わってくる。風の匂いが変わる。乾いた土と、微かに鉱物を含んだ空気。どこか遠くで水が流れている音。そして——人の気配。たくさんの、生きている人の気配。


目を開けた。


「わあ」


思わず声が漏れた。


アウレーリエが立っていたのは、石造りの橋の上だった。欄干の向こうには深い運河が走り、澄んだ水が青緑色の光を湛えてゆっくりと流れている。光源は水底に敷き詰められた鉱石だろう。細かな粒子が水中で揺らめき、運河の両岸に並ぶ建物の壁を淡く照らしていた。


見上げれば、空がある。夕暮れ前の、橙と紫が混じり合った空。その下に広がる街並みは、どこか不思議な二重構造をしていた。地上の建物は三階建てか四階建てが多く、屋根は赤茶色の瓦で統一されている。だがそのあちこちに、地下へ続く大きな階段口や、金属の柵で囲われた竪穴が口を開けていた。


通りを行き交う人々の服装も様々だった。商人らしき者、荷車を引く者、そして——鎧を着けた者たちがやけに多い。剣を腰に佩いた若者の集団が、アウレーリエのすぐ脇を笑い声とともに通り過ぎていった。


「ねえねえ、ここはなんていう街?」


声をかけたが、若者たちは振り返りもせずに行ってしまった。賑やかすぎて聞こえなかったのかもしれない。


アウレーリエは気にした様子もなく、橋の欄干に両手をかけて身を乗り出した。運河の水面に自分の姿が映る。黄金の髪、赤い彼岸花の髪飾り、真紅のマント。三つ編みのおさげが垂れ下がって、水面に届きそうになる。


「きれいな水。精霊の気配が——うん、いる。いるけど、ちょっと遠い感じ」


ひとりごとを呟きながら、目を細めて意識を研ぎ澄ます。この世界の精霊との相性を、最初に確かめておくのは長い旅の中で身につけた習慣だった。


水の精霊がいる。地の精霊も、かなり濃い。風はまあまあ。火は——薄い。全体的に、地下に偏った精霊分布をしている世界らしかった。索敵は地の精霊に頼ることになりそうだが、応答が少し鈍い。慣れるまでに数日はかかるだろう。


「よし」


アウレーリエは欄干から手を離し、マントの内側からベルトポーチを探って日記帳を取り出した。使い込まれた革表紙の小さな帳面を開き、最後に書いた頁の次を探す。鉛筆を握って、まず日付の代わりに記す。


『新しい世界、一日目。石の街。運河がある。水底の光る石がきれい。精霊は地と水が強い。空気が鉱物っぽい匂い。人がたくさんいる。鎧の人が多い。街の名前はまだわからない』


書き終えて日記帳をしまい、改めて周囲を見回した。


橋の向こう側には広場があるらしく、人の流れがそちらへ向かっている。とりあえず人が多い場所に行けば、何かわかるだろう。アウレーリエは軽い足取りで歩き出した。


広場に出ると、想像以上の活気が目に飛び込んできた。


石畳の広場の中央には大きな掲示板が立っていて、その前に人だかりができている。掲示板には羊皮紙がびっしりと貼られ、何人もの人が食い入るように見つめたり、紙を一枚引き剥がして懐に入れたりしている。広場の周囲には露店が並び、武器や防具、薬瓶、乾燥食料、ロープや鉤爪といった装備品が売られていた。


「冒険者の街だ」


アウレーリエの目が輝いた。これまでの旅で似たような光景を見たことがある。迷宮や遺跡を探索することを生業にする者たちが集まる街。細部は世界ごとに違うけれど、あの空気感——危険と隣り合わせの日常を楽しんでいるような、張り詰めつつも陽気な空気は共通していた。


露店の一つに近づいて、並べられた石を覗き込む。半透明の青い鉱石が、内側から仄かに発光していた。運河の底にあったものと同じ種類に見える。


「お嬢ちゃん、迷子かい?」


露店の主人——顎鬚を蓄えた太った中年の男が、アウレーリエを見下ろして言った。


「迷子じゃないよ。この石、なに?」


「ああ、こいつは深層灯石だ。迷宮の第七層から採れる。水に入れると光が強くなるんで、運河の照明に使われてる。お嬢ちゃんが買うようなもんじゃねえよ、一個で銀貨三枚するんだから」


「迷宮?」


「は? お嬢ちゃん、どっから来たんだ。ヴェルムンドで迷宮を知らねえ奴がいるかよ」


ヴェルムンド。それがこの街の名前らしい。アウレーリエは心の中で反復し、後で日記に書き足そうと思った。


「遠くから来たの。迷宮って、地下にあるの?」


「地下っつうか——もう街の下全部だな。昔はこの辺の山ん中にちっぽけな洞窟があっただけだってのに、年々広がりやがって。今じゃ城の真下まで届いてるって噂だ。おかげで仕事にゃ困らねえが、物騒にもなった。先月も第三層の道がこっちの下水路に繋がっちまってよ、夜中に蟲の群れが井戸から湧いて出て大騒ぎだ」


男は片手を振って、うんざりした顔をした。


「ふうん……迷宮が広がるんだ。勝手に?」


「勝手にだよ。もう何十年もそうだ。学者先生たちがあれこれ言ってるが、止める方法なんて誰も知らねえ。まあ、おかげでこの街が栄えてるのも事実だがな。灯石だって、鍛錬石だって、魔獣の素材だって、全部迷宮から出てくる。ヴェルムンドが王国有数の交易都市になったのは迷宮のおかげさ」


アウレーリエは深層灯石をそっと指先で突いた。温かくも冷たくもない不思議な手触りだった。


「これ、ひとつ欲しいな」


「だから銀貨三枚だって」


「待ってね」


ベルトポーチを探り、小さな革袋を取り出す。中身を掌に転がした。大小さまざまな宝石——前の世界やその前の世界で手に入れたもの——が数粒、光を受けて煌めいた。


露店の主人の目が見開かれた。


「おい、お嬢ちゃん。そりゃ——」


「これで買える?」


小さな紅玉を一粒、指先で摘んで差し出す。男はしばらく目を瞬かせていたが、やがて商売人の顔に戻った。


「買えるどころじゃねえよ……。その紅玉が本物なら、灯石どころかこの店ごと買えるぜ。そんなもんこんなとこで出すんじゃねえ、物騒だ。ったく——」


男は周囲を素早く見回してから、声を落とした。


「換金するなら通りの奥の両替商に行きな。ハルトゥールの店だ。看板に天秤の絵が描いてある。ちゃんとした値をつけてくれるから。灯石一個くらいサービスしてやるよ、危なっかしくて見てらんねえ」


「ほんと? ありがとう!」


アウレーリエは差し出された深層灯石を両手で受け取り、掌の上で転がした。淡い青の光が指の間からこぼれる。嬉しくて頬が緩んだ。


「大事にするね。あと、ボクはお嬢ちゃんじゃなくてアウリィだよ。ありがとう、おじさん」


「おう。気をつけな、アウリィ」


宝石を革袋にしまい直し、灯石をベルトポーチの反対側のポケットに慎重に入れる。また一つ、蒐集品が増えた。トランクに入れるのは宿を見つけてからにしよう。


広場を横切りながら掲示板を横目で見ると、紙には依頼の内容が書かれているらしかった。「第五層:鉄甲蜥蜴の討伐、報酬金貨二枚」「第二層通路の崩落調査、ギルド直轄」「薬草採取、深度指定なし」——読める文字と読めない文字が混在していた。この世界の文字体系には、アウレーリエが知っている古い共通語の影響があるらしく、なんとなく意味が取れるものと取れないものがある。


そのとき、掲示板の脇に座り込んでいる人影が目に入った。


広場の石段に腰を下ろした若い女性だった。濃い灰色のフード付き外套を肩に羽織り、膝の上に広げた地図か設計図のような大きな紙を睨んでいる。短く切り揃えた暗い紫色の髪が、俯くたびに額にかかった。傍らには使い込まれた革鞄と、柄の部分だけが見える短剣が置かれている。


目を引いたのは、女性が紙の余白にものすごい速さで何かを書き込んでいることだった。炭筆が紙の上を走り、数字と記号と矢印が次々に書き加えられていく。その集中力は周囲の喧騒を完全に遮断していた。


アウレーリエは何か惹かれるものを感じて、すたすたと近づいた。


「何を描いてるの?」


女性はぴくりとも反応しなかった。


「ねえ、何を描いてるの?」


今度は少し声を大きくした。女性の炭筆がぴたりと止まった。暗い紫の髪の間から、鋭い灰色の目が持ち上がり、アウレーリエを見た。


「…………何?」


低い声だった。警戒や敵意というよりは、集中を妨げられた苛立ちが滲んでいる。


「これ、地図? 迷宮の?」


「そう」


「すごい。細かいね。この記号は何? これは行き止まり? こっちのは——」


「待って。近い」


女性は紙を胸元に引き寄せるようにして、アウレーリエとの距離を測るように目を細めた。


「あなた、冒険者? 見ない顔だけど」


「冒険者じゃないよ。旅をしてるの。今日この街に来たばかり」


「旅人」


女性はその言葉を噛み締めるように繰り返してから、ふっと表情を緩めた。緩めたといっても、ほんの微かに眉間の皺が薄くなった程度だが。


「子どもが一人で旅を?」


「子どもじゃないよ」


声に不機嫌がにじんだ。自分でもわかるくらい、むっとした顔をしている自覚があった。身長が低いのは種族的なものだし、顔立ちが幼く見えるのも仕方がないのだけれど、初対面で子ども扱いされるのは何千年経っても慣れない。


女性はアウレーリエの表情の変化を見て、少し意外そうに瞬きをした。


「……そう。悪かった」


思いのほか素直な謝罪だった。アウレーリエの不機嫌は一瞬で霧散した。


「うん、いいよ。ボクはアウリィ。あなたは?」


「……レン」


それだけ言って、女性は視線を手元の紙に戻しかけた。が、何か思い直したように顔を上げる。


「今日来たばかりって言ったけど、宿は?」


「まだ。これから探すところ」


「この時間からだと、まともな宿は埋まってる。四日前に第九層への新道が開通したから、外からの冒険者が大量に流入してて、安宿は全滅。高い宿なら空いてるかもしれないけど」


「そうなんだ。困ったな」


困ったと言いつつ、アウレーリエの表情にはあまり深刻さがなかった。最悪、野宿でもどうにかなる。もっと過酷な環境で眠った経験は山ほどある。マントの加護があれば、多少の寒さや暑さは凌げる。


レンはアウレーリエの暢気な態度を見て、わずかに片眉を上げた。


「……赤虎亭なら、まだ部屋があるかもしれない。安くはないけど、立地は悪くない。迷宮区画の入口に近いから冒険者向けだけど、一般客も断りはしない」


「教えてくれるの? ありがとう、レン」


「別に。方向が同じだから。私もそろそろ戻る」


レンは手元の紙を手際よく畳んで革鞄にしまい、短剣を腰の後ろに差して立ち上がった。立つとアウレーリエより頭一つ分以上高い。痩身だが、動きに無駄がなかった。外套の下に薄い革鎧を着ているのが見えた。


二人は広場を離れ、路地に入った。夕暮れの光が建物の隙間から斜めに差し込み、石壁を橙色に染めている。路地は狭いが清潔で、等間隔に灯石を嵌め込んだ街灯が地面に埋め込まれていた。足元がほのかに青く光る道を歩くのは、不思議な感覚だった。


「レンは冒険者なの?」


「冒険者兼、地図師」


「地図師! さっきの地図、自分で作ってるんだ」


「迷宮は変化する。壁が動いたり、新しい道が現れたり、逆に塞がったりする。既存の地図はすぐに古くなる。だから更新し続ける人間が必要になる」


「迷宮が変化するの。生きてるみたいだね」


レンは少し間を置いてから答えた。


「……似たようなことを言う学者はいる。迷宮が意志を持っているとか、迷宮自体が一つの巨大な生物だとか。証明はされてないけど」


「レンはどう思う?」


「どうとも。私は歩いて、記録して、地図にする。それだけ」


素っ気ない答えだったが、嫌がっている風ではなかった。ただ、余計なことを考える暇がないという感じだ。


路地を何度か曲がるうちに、空気が変わった。鉱物の匂いが強くなり、地面から微かな振動が伝わってくるようになった。アウレーリエは足を止めずに意識を地の精霊に向けた。


——深い。とても深い場所に、何かがある。


精霊の応答は鈍いが、地の下に広がる巨大な空洞の気配だけは感じ取れた。街の地下に横たわる迷宮の存在感。それは距離があるのに圧倒的な質量で、地上の石畳を通して足裏に届いてくる。


「この辺り、地下が近いね」


「よくわかるね。この通りの下が第一層の外縁部にあたる。赤虎亭はもうすぐ——あそこ」


レンが指差した先に、三階建ての石造りの建物があった。入口の上に掲げられた木製の看板には、赤い虎の横顔が彫り込まれている。一階部分の窓から暖かい光が漏れ、中から笑い声と食器の触れ合う音が聞こえてきた。


扉を開けると、酒場を兼ねた食堂が広がっていた。長テーブルがいくつも並び、鎧姿の男女が杯を交わしている。壁には魔獣の角や牙が飾られ、暖炉では大きな薪が爆ぜていた。天井から吊るされたランタンの光が、煙と湯気でぼんやり霞んでいる。


「レン! 今日も遅かったな!」


カウンターの奥から、でっぷりと太った女性が声を張り上げた。両腕に見事な筋肉がついていて、片手で大鍋を軽々と持ち上げている。


「ただいま、マレーネ。部屋は空いてる? もう一部屋」


「もう一部屋?」


マレーネと呼ばれた女性は、レンの背後からひょこっと顔を出したアウレーリエに目を留めた。


「なんだい、この子。レンが人を連れてくるなんて珍しいじゃないか」


「連れてきたんじゃない。宿を探してると言うから、ここを教えただけ」


「はじめまして。アウリィです。部屋、ありますか?」


マレーネはアウレーリエを頭のてっぺんからつま先まで眺め回した。赤い髪飾り、真紅のマント、赤褐色のベスト。小柄だが、旅装は本格的だ。


「三階の角部屋なら一つ空いてるよ。一泊銀貨二枚、食事つきなら三枚。前払いだ」


「何泊でも大丈夫?」


「払えるならね。ただしうちは冒険者宿だ。夜中に酔っ払いが騒ぐこともあるし、早朝から出発する連中のがたがた言う音もある。それが嫌なら別の宿を探しな」


「大丈夫。うるさいのは平気だよ」


「はは、頼もしいね。じゃあこれ、鍵。三階の突き当たり右だ。荷物を置いたら降りてきな、飯にしよう。あんたもだよ、レン。今日の賄いは鹿肉のシチューだ」


レンは小さく頷いて、先に階段を上っていった。アウレーリエも鍵を受け取り、その後を追う。


階段は狭く、壁に灯石が埋め込まれて淡い光を放っていた。二階を通り過ぎるとき、廊下の奥から大きないびきが聞こえてきた。三階は静かだった。突き当たり右の扉を鍵で開けると、小さいが清潔な部屋があった。木の寝台に毛布が畳まれ、窓際に小さな机と椅子。窓の外には夕闘の残照が見えた。


「ここにする」


荷物を下ろす。といっても、アウレーリエの荷物は背負っていたトランク一つだけだ。見た目は普通の旅行鞄だが、内部は魔法で拡張されていて、開ければ中には数え切れないほどの品物が詰まっている。整理が追いつかず、ほとんど散らかり放題だが。


トランクを開けて、先ほど手に入れた深層灯石を中にしまおうとした。が、蓋を開けた瞬間に中身の一部が雪崩を起こし、見覚えのある貝殻の首飾りと、どこかの世界で拾った銀色の木の実と、誰かに貰った小さな布人形が転がり出た。


「あー……」


慌てて拾い集め、乱雑にトランクに押し戻す。灯石はベルトポーチに入れたままにしておくことにした。こっちのほうが安全だ。


身支度を整えて一階に降りると、レンがカウンター近くの二人掛けのテーブルに座っていた。外套を脱ぎ、薄い革鎧の上に袖をまくった格好で、既に地図の紙を広げている。食事の前にも作業をするらしい。


アウレーリエは向かいの椅子に座った。レンの炭筆が紙の上を走る音がしばらく続いた。


「レンは、ここに住んでるの?」


「……ここというのが赤虎亭のことなら、そう。長期で部屋を借りてる」


「じゃあ、ヴェルムンドの人?」


炭筆が一瞬止まった。


「違う。私もよそから来た。三年前に」


「そうなんだ。どこから?」


「——北の方」


それ以上は語らない空気だった。アウレーリエはそれを感じ取ったが、不快ではなかった。誰にでも話したくないことはある。アウレーリエ自身にだって、聞かれても答えに困ることがいくつもある。


「レンの地図、もうちょっと見てもいい?」


「……汚さないなら」


レンが紙を少し回して、アウレーリエ側に見えるようにしてくれた。そこには迷宮の一区画が精密に描かれていた。通路の幅、天井の高さ、壁の材質、罠の位置、水場の有無——あらゆる情報が記号と注釈で記されている。


「これ、全部一人で歩いて調べたの?」


「基本的には」


「一人で迷宮に入るの?」


「浅い層なら問題ない。深い層は依頼を受けて他の冒険者と組むこともある」


「危なくない?」


「危なくない迷宮はない」


レンの声は平坦だったが、そこに虚勢の響きはなかった。ただの事実として述べている。


マレーネがシチューの皿を二つ、どんと音を立ててテーブルに置いた。湯気とともに鹿肉と根菜の匂いが立ち上り、アウレーリエの腹が正直に鳴った。


「いただきます!」


木の匙でシチューをすくい、口に運ぶ。肉が柔らかく煮込まれていて、根菜の甘味と香辛料の辛味がちょうどいい塩梅で混ざり合っている。


「おいしい! この、赤いのは何? 辛いけど甘い」


「赤姜だよ」マレーネがカウンターの向こうから答えた。「迷宮の第三層に生えてる薬草さ。煮込むと辛味が甘味に変わるんだ」


「へえ! 迷宮に植物が生えるんだ」


「迷宮の中は独自の生態系がある」レンがシチューに目を落としたまま言った。「植物、菌類、虫、魔獣。浅い層は比較的おとなしい種が多いけど、深くなるほど危険になる。第七層より下は専門の冒険者でも油断できない」


「ここには全部で何層あるの?」


「確認されているのは第十二層まで。ただし第十層以降はほとんど未踏域で、正確な地図は存在しない」


「レンはどこまで行ったことがある?」


「……第九層まで」


その答えに、ほんの一瞬だけ翳りが過ぎった。アウレーリエはそれを見逃さなかったが、何も言わなかった。代わりにシチューをもう一口すくった。


食事を終える頃には、食堂の喧騒はさらに増していた。冒険者たちが次々に帰ってきて、その日の戦果を語り合っている。テーブルの上に魔獣の素材を広げて値踏みする者、地図を突き合わせて議論する者、ただただ飲んで歌う者。


アウレーリエはその光景を眺めながら、温かい茶を啜っていた。レンは食事を終えると地図の作業に戻り、周囲の喧騒を完全に遮断して炭筆を走らせている。


「ねえ、レン」


「……何」


「明日、迷宮に行く予定ある?」


炭筆が止まった。灰色の目がアウレーリエを見る。


「ある。第四層の南東部を歩く予定」


「ボクも行っていい?」


しばらくの沈黙。レンの視線がアウレーリエの全身を改めて観察するように動いた。赤い髪飾り、華奢な腕、小柄な体躯。旅装は上等だが、見た目だけなら戦闘向きには見えないだろう。


「……なぜ?」


「迷宮を見てみたい。知らない場所に行くのが好きなの。それに、レンの地図作りを見てみたい」


「足手まといになるなら連れていけない。迷宮で他人を庇う余裕はない」


「足手まといにはならないよ。ボク、けっこう強いんだ」


レンは明らかに懐疑的な目をした。アウレーリエはにこにこと笑っている。


「……根拠は?」


「うーん、証明するのは難しいな。じゃあ一つだけ」


アウレーリエは右手を軽く上げた。指先に意識を集中する。地の精霊との対話——応答はやはり鈍いが、単純な索敵程度なら。


「レンの後ろの壁の向こうに、三人いる。二人は座ってて、一人は立ってる。その奥の部屋には誰もいない。あと、この建物の地下に貯蔵庫があって、酒樽が——七つ。いや、八つ。一つは空かも」


レンの目が見開かれた。


「——精霊術?」


「うん。この世界の精霊とはまだあんまり仲良くなれてないから精度は低いけど、索敵と支援くらいはできるよ」


レンはしばらくアウレーリエの顔を凝視していた。その表情を読み取ろうとするかのように。やがて、小さく息をついた。


「精霊術師は珍しい。この辺りでは特に。——酒樽は九つだ。一つは棚の奥にある」


「あ、そうなんだ。やっぱりまだ精度が甘いな」


「……朝、六時にここを出る。遅れたら置いていく」


「やった! ありがとう、レン!」


アウレーリエは椅子の上で小さく跳ねた。レンは何も言わずに地図に視線を戻したが、その口元がほんの僅かに動いたのを、アウレーリエは見逃さなかった。

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