2話「地下の鼓動2」
部屋に戻ったアウレーリエは、寝台に腰を下ろして日記帳を開いた。
ランタンの光の下で、今日の出来事を書き加えていく。街の名前、深層灯石のこと、迷宮が広がり続ける話、赤虎亭のこと、鹿肉のシチューに入っていた赤姜のこと。そして——
『レンという女の人に会った。地図師。迷宮の地図を描いている。無口だけど親切。明日、迷宮に連れて行ってくれる。楽しみ』
ペンを置いて、窓の外を見た。夜空には見慣れない星座が瞬いている。新しい世界の、新しい星。
胸の奥に、小さな温もりが灯る。新しい場所、新しい人、新しい知らないこと。この瞬間がいつも一番好きだった。まだ何も知らない状態で、これから何を見るのか、誰と出会うのかわからない。その不確かさが、アウレーリエにとっては何よりの宝物だった。
——でも、なぜ旅を続けるの?
不意に浮かんだ問いに、アウレーリエは目を閉じた。
いつからだろう。この問いが頭をよぎるようになったのは。最初の頃は答えが明確だったはずだ。理由があって、目的があって、だから世界を渡り歩いている。でも、それがいつの頃の記憶なのか、もう上手く思い出せない。数万年という時間は、記憶を水に溶かした絵の具のように薄めてしまう。輪郭がぼやけ、色が褪せ、最後には何が描かれていたのかわからなくなる。
髪飾りに指先が触れた。赤い彼岸花。
母の顔が、かすかに浮かぶ。輪郭だけの、色も表情もわからない影のような像。でも、この髪飾りを受け取ったときの手の温もりだけは、まだ——
「……大丈夫。まだ覚えてる」
誰に言うでもなく呟いて、アウレーリエは日記帳を閉じた。
ベルトポーチから深層灯石を取り出し、水差しの水を少し皿に注いでそこに石を入れてみた。露店の主人が言った通り、水に触れた途端に石の光が強くなった。青い光が部屋の壁に水紋のような模様を投げかけ、ゆらゆらと揺れた。
「きれい」
しばらくその光を眺めてから、ランタンを消して横になった。毛布に包まると、マントの裏地の黄色い布地が頬に触れる。滑らかで温かい感触。何千年、何万年と自分を守り続けてくれている布。
階下から冒険者たちの笑い声がくぐもって聞こえる。どこかで酒瓶が割れる音。誰かが歌う、聞いたことのない節回しの歌。
にぎやかだな、と思った。
良い世界かもしれない。
意識が沈んでいく直前、深層灯石の青い光が水の中で揺れるのが瞼の裏にちらついた。水底に沈んだ光。街の運河を照らす光。この世界の地下深くに広がる、まだ見ぬ迷宮の暗闇を照らす光。
明日はどんな景色が見られるだろう。
そう思うと、自然に笑みが浮かんだ。
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翌朝。
目が覚めたのは、窓の外がまだ薄暗い時刻だった。冒険者宿の朝は早い。廊下を歩く重い足音と、鎧が触れ合う金属音が目覚まし代わりになった。
手早く身支度を整える。ワンピースの上にベストを羽織り、ブーツの紐を締め、マントを肩にかける。ベルトポーチの中身を確認——日記帳、鉛筆、革袋に入った宝石数粒、深層灯石。トランクは部屋に置いていく。鍵をかければ簡易的な封印術が作動するようにしてあるから、盗まれる心配はない。
一階に降りると、レンはすでにカウンターの前に立っていた。昨夜と同じ灰色の外套に革鎧、腰の後ろに短剣。加えて今朝は、背中に細長い棒状のものを布袋に入れて背負っている。測量用の道具だろうか。
「おはよう、レン」
「……早いね」
「六時に遅れたら置いていくって言ったのはレンだよ。まだ五時半なのに、もういるんだもん」
「いつもこの時間に起きる」
マレーネが差し出してくれた朝食——硬いパンと干し肉と熱い茶——を二人で手早く食べた。食べながら、レンが今日の予定を簡潔に説明した。
「第四層の南東部。先月の調査で新しい横穴を見つけた。そこの測量と記録が目的。戦闘はできるだけ避ける。遭遇した場合は私が判断する。従えるか」
「うん」
「精霊術での索敵はどの程度の範囲で利くか」
「この世界の精霊との相性にもよるけど……たぶん半径三十歩くらいなら、生物の気配は感じ取れると思う。壁越しでも。ただ精度は完璧じゃない、昨日の酒樽みたいに見落とすこともある」
「十分だ。迷宮では通常、斥候役が先行して安全を確認する。あなたの索敵が使えるなら、斥候の役割を一部代替できる」
「任せて」
レンは頷き、最後の一口のパンを飲み込んで立ち上がった。
「行こう」
赤虎亭を出ると、早朝の街はまだ薄闇の中だった。しかし、すでにあちこちで人が動いている。冒険者たちが三々五々、同じ方向に歩いていく。その流れに合流するように、二人は通りを進んだ。
やがて、大きな石造りの門が見えてきた。門の上にはヴェルムンドの紋章らしき彫刻が施され、両脇に武装した衛兵が立っている。門の向こうは下り階段になっていて、その先は暗い。迷宮区画の入口だった。
衛兵の前で列ができている。一人ずつ、腕に巻いた帯のようなものを見せて通過している。冒険者の登録証のようなものだろう。
レンは無言で自分の左腕の袖をまくり、革の腕帯を見せた。衛兵が頷く。次にアウレーリエが通ろうとすると、衛兵に止められた。
「登録証は?」
「持ってないです。今日来たばかりで」
衛兵が眉をひそめた。レンが振り返り、衛兵に声をかけた。
「私の同行者です。非戦闘員の帯同申請で通せますか」
「地図師ギルドの規定では、同行者一名まで帯同可能だが、万一の際の責任は帯同者にある。それでいいなら」
「構いません」
衛兵がアウレーリエの顔をじろりと見た。
「何かあっても自己責任だ。いいな?」
「はい」
通された。
門をくぐると、空気が一変した。
下り階段は石で整えられていて、壁面に灯石が規則的に嵌め込まれている。青い光が階段を照らし、足元には困らなかったが、地上とはまるで違う空気の重さがあった。湿度が上がり、温度が少し下がり、そして——地の精霊の気配が格段に強くなった。
アウレーリエは思わず立ち止まった。
「どうした?」
「精霊が——すごい。地上と全然違う。濃い」
「迷宮内は精霊の密度が高いとは聞いたことがある。精霊術師に有利な環境らしい」
「有利っていうか——」
アウレーリエは少し目を閉じた。地の精霊がすぐそばにいる。手を伸ばせば触れられそうなほど近い。地上での鈍い応答が嘘のように、精霊たちがアウレーリエの意識に寄り添ってきた。
「すごくよく聞こえる。索敵の精度、かなり上がると思う」
「それは助かる」
階段を下りきると、広い通路に出た。天井は高く、大人が三人並んで歩けるほどの幅がある。壁は自然の岩肌と人工的に削られた面が混在していて、ところどころに冒険者ギルドが設置したらしい道標が打ち込まれている。
ここが第一層。
通路は思いのほか整備されていた。数十年にわたって冒険者たちが歩き、拡張し、道標を立て、罠を処理してきた結果だろう。ところどころに小さな広間があり、休憩所として使われている形跡があった。
第一層から第二層への下り口は、大きな螺旋階段だった。階段の入口に再び衛兵が立っていて、通過する冒険者を確認している。レンの腕帯を見て素通りさせてくれた。
第二層に入ると、雰囲気が変わった。灯石の設置間隔が広がり、通路が暗くなる。壁面に苔のようなものが生え、仄かに発光している。生態系が存在するという話は本当らしい。
「この苔、光るんだね。きれい」
「光苔。無害だけど、群生地には虫が寄る。虫には小型の魔獣が寄る。群生地の近くでは注意が必要」
「なるほど。食物連鎖だ」
第二層を抜け、第三層。ここからは道標が減り、通路の分岐が増えた。レンは迷いなく進む方向を選んでいく。時折立ち止まって壁面の印を確認したり、懐から取り出した方位器を見たりしている。
アウレーリエは半歩後ろを歩きながら、精霊の感覚を広げていた。
「右の壁の向こう、何かいる。小さいの、四つ。動いてる」
「穴鼠だろう。第三層にはよくいる。こちらに来なければ無害だ」
「左の通路、奥の方に大きいのが一つ。動いてない——寝てるのかな」
「距離は?」
「百歩以上先。ずっと奥」
「なら問題ない。そのまま直進する」
レンの判断は的確で、迷いがなかった。情報を受け取り、必要な判断を下し、即座に行動に移す。地図師として迷宮に通い詰めた経験が、その一つ一つの動作に染み込んでいた。
やがて第四層への入口にたどり着いた。ここには衛兵はいない。代わりに、入口の岩に冒険者ギルドの紋章が刻まれ、その下に文字が彫られていた。
アウレーリエは文字を読もうとして、半分ほどしか理解できなかった。
「なんて書いてあるの?」
「第四層以深は自己責任。救援要請への対応は保証しない。——要するに、ここから先は自分の身は自分で守れということ」
「うん、わかった」
第四層に入った瞬間、空気がさらに重くなった。天井が低くなり、通路が狭くなる。灯石はほとんどなく、レンが革鞄からランタンを取り出して火を入れた。
暗い。そして、静かだった。自分たちの足音と、遠くで水が滴る音だけが響く。
「ここから先は会話を最小限にする。声が反響して、魔獣を引き寄せることがある」
アウレーリエは頷いた。
二人は暗い通路を進んだ。レンが前を歩き、要所要所で壁面の印を確認する。アウレーリエは精霊の感覚を維持しながら、周囲の気配を探り続けた。
しばらく歩いて、レンが足を止めた。壁面に小さな穴が開いている。人が一人やっと通れるくらいの大きさで、奥は真っ暗だった。
「ここ」レンが小声で言った。「先月見つけた横穴。奥がどこに繋がっているか、まだ確認していない。今日はこの穴の内部を可能な限り測量する」
「この先に何かいる?」
アウレーリエは意識を横穴の奥に向けた。精霊の感覚が闇の中に伸びていく。
「……何もいない。少なくとも、感じ取れる範囲には。でも——」
「でも?」
「空気が動いてる。奥に、もっと広い空間がある気がする。風が抜けてる」
レンの目が光った。地図師としての好奇心が、一瞬だけ鉄面皮を突き破って表面に浮かんだのが見えた。
「……行こう」
レンが先に横穴に入り、アウレーリエが続いた。通路は狭く、かがんで進む必要があった。壁面は湿っていて、指先に触れると冷たい水滴がついた。ランタンの光が岩壁に反射し、不規則な影を作る。
五十歩ほど進んだところで、通路が急に広がった。
二人はほぼ同時に立ち止まった。
そこは洞窟だった。天井が高く、ランタンの光では上端が見えないほどだった。床は平らに均されていて、中央に何か——
「レン、あれ」
洞窟の中央に、石の台座があった。台座の上には何も載っていないが、その周囲の床に、文様のようなものが刻まれている。渦を巻くような、幾何学的な模様。そしてその文様の溝に、淡い光が残っていた。灯石とは違う、もっと——古い光。
「こんなもの、第四層にあるなんて聞いたことがない」レンが呟いた。その声には、珍しく動揺が混じっていた。
アウレーリエは台座に近づき、しゃがみ込んで文様を見つめた。
「……これ」
見覚えがあった。いや、見覚えがあるような気がした。どこかの世界で、いつか、これに似たものを見た。でもそれがいつの記憶なのか、どの世界の記憶なのか、うまく掴めない。指先で文様の溝をなぞると、かすかに温かかった。
「触らない方がいい」レンが鋭い声で言った。
「大丈夫。悪いものじゃないと思う。精霊たちが穏やかだから」
実際、洞窟内の精霊の気配は地上よりもさらに濃く、しかし不穏な兆候はなかった。むしろ精霊たちはこの場所を——守っている?
「記録だけ取る。詳しいことはギルドに報告して、専門の調査隊を入れてもらう」
レンは手早く紙を広げ、洞窟の形状と台座の位置を記録し始めた。アウレーリエは文様の形を日記帳にスケッチした。描きながら、また頭の片隅に何かが引っかかる。
古い記憶。とても古い。摩耗して輪郭を失った記憶の残滓。
——母さん、これは何?
声が、聞こえたような気がした。自分自身の、幼い頃の声。
アウレーリエは手を止めて、髪飾りに触れた。赤い彼岸花の造花が、指先の下で微かに震えた——ように感じた。
「アウリィ」
レンの声で我に返った。
「大丈夫? 顔色が悪い」
「え? ……ううん、大丈夫。ちょっとぼんやりしちゃった。大丈夫だよ」
笑顔を作って見せた。レンは一瞬だけ探るような目をしたが、それ以上は追及しなかった。
「記録は終わった。戻ろう。この場所のことはギルドに報告する」
「うん」
帰路は来た道を辿った。横穴を抜けて第四層の通路に戻ると、アウレーリエの精霊の感覚が反応した。
「——待って」
小声で、だが強い声でレンを止めた。
「何?」
「前方。四十歩先の分岐。大きいのがいる。来るときはいなかった」
レンの手がすっと腰の後ろに伸び、短剣の柄に触れた。
「大きさは?」
「人より大きい。ゆっくり動いてる。こっちに来てる——来てる。二十歩」
レンの判断は速かった。
「退路を確認する。後ろに別の道は?」
アウレーリエは精霊の感覚を背後に向けた。
「横穴の手前に脇道があった。そこから第三層に抜けられるかもしれない」
「行ける確証は?」
「ない。でも前に行くよりはいいと思う」
「同感だ。戻ろう。静かに」
二人は足音を殺して後退した。ランタンの光量をレンが絞り、最小限の明かりだけにする。暗闇の中で、アウレーリエの精霊の感覚だけが二人の目と耳になった。
脇道に入った。ここもまた狭い通路で、先がどこに繋がっているかわからない。しかしアウレーリエの感覚は、この通路の先に上方への傾斜を感じ取っていた。上に向かうなら、浅い層に戻れる可能性がある。
背後から、低い唸り声が聞こえた。重い足音が通路に反響する。魔獣が二人の痕跡——匂いか、足跡か——を辿ってきている。
「走る?」
「走ったら音で位置を教えることになる。歩いて。ただし速く」
レンの指示に従い、二人は早足で脇道を進んだ。通路は曲がりくねり、一度は行き止まりにぶつかりかけたが、アウレーリエが壁の薄い箇所を精霊の感覚で見つけ出し、そこに自然の裂け目があることを突き止めた。体を横にしてようやく通れる隙間を二人ですり抜けると、その先にはより広い通路があった。
「ここ、第三層の東端だ」
レンが壁面の道標を確認して言った。声にわずかな安堵が混じっている。
「あの魔獣は?」
アウレーリエが背後を探った。
「……来てない。裂け目を通れなかったみたい。大きすぎて」
「助かった」
レンが長い息を吐いた。暗がりの中でも、レンの表情が少し緩んだのがわかった。
「あなたの索敵がなかったら、鉢合わせていた。——ありがとう」
「どういたしまして。レンが冷静だったから、ボクも落ち着いていられたんだよ」
レンは何か言いかけて、やめた。代わりに背負った荷物を直し、通路の先を見据えた。
「ここからなら地上に戻る道はわかる。帰ろう」
「うん」
第三層を抜け、第二層を通過し、第一層の整備された通路に出たとき、二人の間から自然と緊張が解けた。階段を上って地上に出ると、午後の陽光が眩しかった。
アウレーリエは目を細めて空を見上げた。青い空に白い雲が浮かんでいる。地下の暗闘から戻ると、空がいつもよりずっと広く見える。
「はあ——明るいっていいね」
「それは同感」
門の前の通りまで戻ったところで、レンが立ち止まった。
「今日の報告書を書く。あの洞窟のことはギルドに提出する。あなたのスケッチ、後で見せてもらえるか」
「いいよ。あとで食堂で見せるね」
「……それと」
レンが少し言い淀んだ。珍しいことだった。
「明後日、第五層に行く予定がある。地図の更新作業。——来るか?」
アウレーリエは一瞬きょとんとして、それから破顔した。
「行く! 絶対行く!」
レンは視線を逸らした。耳の先が少しだけ赤くなっているように見えたのは、午後の陽光のせいだろうか。
「……六時。遅れたら置いていく」
「わかってるよ。今日だって遅れなかったでしょ」
レンは何も言わずに歩き出した。アウレーリエはその半歩後ろをついていく。
赤虎亭に戻る道すがら、アウレーリエはベルトポーチの中の深層灯石にそっと触れた。朝とは違って、ほんの少しだけ温かく感じた。
日記に書くことが増えた。洞窟のこと、文様のこと、あの一瞬だけ蘇りかけた記憶のこと。そして、帰り道でレンが見せた、ほんの僅かな表情の変化のこと。
新しい世界の一日目が、終わろうとしていた。
まだ何も知らない。迷宮の深部に何があるのか、あの文様が何を意味するのか、レンがどんな過去を持っているのか、この世界がアウレーリエに何を見せてくれるのか。
でも、それでいい。
知らないことがあるから、明日が楽しみになる。
アウレーリエは小さく鼻歌を口ずさみながら、赤虎亭の扉を押し開けた。
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その夜、日記帳の最後にこう記した。
『迷宮都市ヴェルムンド、一日目。たくさんのことがあった。全部書ききれないけど、大事なことだけ。深層灯石は水に入れると光る。迷宮は生きているみたいに動く。第四層の奥に不思議な場所を見つけた。あの文様、どこかで見たことがある気がする。思い出せないけど。レンは良い人だ。無口だけど、ちゃんと見ている人。明後日も一緒に行ける。嬉しい。この世界、もう少しいたい』
ペンを置いて、深層灯石を水に沈めた。
青い光が揺れる部屋の中で、アウレーリエは目を閉じた。
母の影が、ほんの一瞬だけ瞼の裏に浮かんで、消えた。




