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3話「地図師の矜持1」

ヴェルムンドに来て五日目の朝、アウレーリエは赤虎亭の食堂で日記帳を広げていた。


朝食の硬いパンを齧りながら、この数日間の出来事を読み返す。第五層への同行。第三層で見つけた発光する菌類の群生地。街の両替商ハルトゥールの店で宝石を換金したこと。市場で買った干し果実が思いのほか美味しくて、三袋も買い足してしまったこと。


トランクの中身がまた増えている。干し果実は食べてしまえばなくなるが、第五層で拾った虹色に光る甲虫の抜け殻や、市場の片隅で見つけた古い硬貨は、永久にトランクの底に沈殿していくのだろう。捨てればいいとわかっているのに、手が動かない。どれもこれも、この世界で出会った証なのだ。


「おはよう、レン」


階段を降りてきたレンに声をかけると、レンは小さく頷いて向かいに座った。相変わらず灰色の外套に革鎧、短剣を腰の後ろに。ただ、五日前に比べるとアウレーリエとの距離の取り方が少しだけ変わった。以前は対面に座っても地図の紙で視界を塞ぐようにしていたのが、今は紙を広げる前に一度こちらを見るようになった。


「今日はギルドに行く」


「うん」


「報告がある。例の洞窟のこと」


初日に第四層で見つけた洞窟と台座の件だ。レンは翌日のうちに詳細な報告書を作成してギルドに提出していたが、その返答がまだ来ていなかった。


マレーネが二人分の朝食を運んできた。いつもの硬いパンと干し肉に加え、今朝は小さな壺に入った蜂蜜がついている。


「マレーネ、今日は蜂蜜がある」


「昨日、養蜂場の連中が持ってきたのさ。迷宮の第二層で採れた花蜜から作ったやつだ。ちょっと癖があるけど、パンにつけりゃ悪くない」


アウレーリエは匙で蜂蜜をすくい、舐めてみた。確かに癖がある。花の蜜というより、鉱物と苔を混ぜたような独特の風味。でも後味は驚くほどすっきりしていて、喉の奥にほんのりと甘さが残った。


「おいしい。変わった味。好き」


「迷宮の花は地上の花とは別物だからね。虫を呼ぶために光ったり匂ったりするやつが多いから、蜜の成分も全然違うんだと」


「これ、買える?」


「壺一つで銀貨五枚するよ。結構な贅沢品だ」


「買う」


レンがちらりとアウレーリエを見た。


「……また増えるのか」


「何が?」


「荷物」


アウレーリエは一瞬口を噤んでから、視線を逸らした。


「蜂蜜は食べたらなくなるから大丈夫だよ」


「壺は残る」


正論だった。アウレーリエは返す言葉がなく、パンに蜂蜜を塗る作業に集中した。


--------------------------------------------


地図師ギルドは、迷宮区画の入口近くにある石造りの建物だった。冒険者ギルドの本部と隣接しており、建物同士が渡り廊下で繋がっている。正面には精密な方位磁針を図案化した紋章が掲げられていた。


中に入ると、思いのほか静かだった。冒険者ギルドの喧騒が嘘のように、ここでは低い話し声と紙をめくる音だけが響いている。壁一面の棚に巻物や帳面が整然と並び、大きなテーブルの上には迷宮全体の概略図が広げられていた。


受付には痩せた老人が座っていて、レンを見ると分厚い眼鏡の奥から目を細めた。


「レン。来たか。奥で待ってる」


「誰が?」


「ヴォルフ調査官。お前の報告書を読んで、直接話を聞きたいそうだ」


レンの表情がわずかに硬くなったのを、アウレーリエは見逃さなかった。


「この子は?」老人がアウレーリエを見て言った。


「同行者です。報告にも関わる」


「ふうん。まあ、入れてやれとは言われてる。奥の部屋だ」


廊下を進み、突き当たりの扉を開けると、広い執務室があった。部屋の奥、大きな机の後ろに座っていたのは、四十代半ばくらいの男だった。短く刈り込んだ銀灰色の髪、彫りの深い顔立ち、左頬に古い傷跡。体格は大きく、椅子に座っていても威圧感があった。


「レン・フォーゲル。そちらが報告書にあった同行者か」


「はい。アウリィ。精霊術師です」


「座ってくれ」


二人は机の前の椅子に腰を下ろした。ヴォルフと名乗った男は、机の上に広げた紙——レンの報告書——に目を落としたまま話し始めた。


「第四層南東部、未登録横穴の奥に空洞。内部に石造の台座と床面の文様を確認。文様は発光性あり。——報告書の内容はこれで間違いないか」


「はい」


「同行者による文様のスケッチも添付されていたが」ヴォルフの視線がアウレーリエに向いた。「君が描いたのか?」


「うん——はい」


「見事な観察力だ。文様の細部まで正確に写し取られている。少なくとも、これまでに報告されたどの迷宮文様とも一致しない。学術部が興味を示している」


「これまでにも似たようなものが見つかってるんですか?」


「迷宮内で文様や碑文が発見された例は過去にもある。ただし、そのほとんどは第七層以深だ。第四層でこの規模のものが見つかったのは初めてだ」


レンが口を開いた。


「調査隊を入れる予定は」


「それについて話がある」


ヴォルフは椅子の背にもたれ、腕を組んだ。


「第四層南東部は、現在のところ地図師ギルドの管轄区域になっている。発見者はレン、お前だ。通常であれば調査隊を編成して本格的な調査に入るところだが、今、人手が足りない」


「第九層の新道開通に人員が取られているからですか」


「それもある。加えて、先週から第六層の東壁が崩落を繰り返していて、そちらの緊急測量にも人を割いている。正直なところ、第四層の新発見に回せる地図師は——」


「いない」


「お前を除いては、な」


沈黙が落ちた。


アウレーリエはレンの横顔を見た。表情に変化はなかったが、膝の上に置いた手が微かに握られていた。


「私に調査を任せる、ということですか」


「お前の判断に委ねる。やれるか」


「……あの洞窟は第四層の外れにある。到達に半日。調査と測量を行えば帰路を含めて丸一日。最低でも三回は入らないと、空洞の全容は把握できない」


「わかっている。だから聞いている。やれるか」


レンは少し間を置いた。


「一つ条件があります。同行者を連れていくことの許可を」


ヴォルフの目がアウレーリエに向いた。


「この子か」


「精霊術による索敵能力があります。迷宮内での精度は高く、先日も魔獣との遭遇を事前に察知して回避できました。私一人で行くよりも安全に作業を進められます」


「精霊術師か。登録は?」


「ありません。旅の途中で——」


「冒険者登録がない者を迷宮に帯同する場合、地図師ギルドの臨時雇用契約が必要になる。書類を用意させよう。——それでいいか、アウリィ」


アウレーリエはレンを見た。レンは正面を向いたまま、視線だけをこちらに寄越した。頼んでいい、という問いかけのような目だった。


「いいよ。ボクもあの場所、もっと調べてみたい」


ヴォルフは頷き、机の引き出しから用紙を一枚取り出した。必要事項を書き込み、署名をする。アウレーリエも名前を書いた。この世界の文字で自分の名前を書くのは初めてで、少し歪んだ字になったが、ヴォルフは気にしなかった。


「期限は十日間。それまでに予備調査の結果を提出してくれ。その内容次第で、本格調査隊の編成を検討する」


「了解しました」


「それと、レン」


立ち上がりかけたレンが止まった。


「無理はするな。第四層とはいえ、未知の区域だ。お前は貴重な地図師だ。代わりはそうそういない」


レンの顎が微かに動いた。頷いたのか、何か言葉を飲み込んだのか、アウレーリエにはわからなかった。


--------------------------------------------


ギルドを出ると、通りは昼の活気で溢れていた。迷宮区画の入口から冒険者たちが出入りし、露店では素材の売買が盛んに行われている。


「レン、さっきの人——ヴォルフさん、何者なの?」


「ギルドの上級調査官。迷宮の深層部を専門にしている。元は現役の地図師で、第十層まで到達した数少ない一人」


「すごい人だ」


「……すごい人だよ」


レンの声に、複雑な響きがあった。尊敬と、それだけではない何か。アウレーリエはそれ以上聞かなかった。


二人は通りを歩きながら、明日からの調査計画について話し合った。


「初回は洞窟の全体測量。広さ、天井の高さ、壁面の状態、通気口の有無を確認する。文様の詳細記録は二回目以降に回す」


「ボクは索敵を維持しながら、レンの作業を手伝えばいい?」


「基本はそう。ただ、もう一つ頼みたいことがある」


「何?」


「精霊に直接聞けないか。あの洞窟について。何か知っていることがないか」


アウレーリエは少し考えた。


「聞けるかもしれない。でも精霊って、人間みたいに言葉で答えてくれるわけじゃないんだ。感覚とか、感情の欠片みたいなものが伝わってくる感じ。それをボクが解釈するから、正確かどうかは保証できない」


「構わない。どんな情報でも、ないよりましだ」


「わかった。やってみるね」


通りの角を曲がったとき、アウレーリエの目に一軒の店が飛び込んできた。小さな店構えで、看板には硝子瓶の絵が描かれている。窓辺に並んだ色とりどりの瓶が午後の光を受けて煌めいていた。


「わあ、きれい! あれなに?」


「香油屋。迷宮産の花や薬草から精製した香油を売っている」


「見ていい?」


「……買うなら手短に」


レンの声には呆れが混じっていたが、禁止はしなかった。アウレーリエは小走りで店に近づき、窓辺の瓶を覗き込んだ。琥珀色、深い藍、透き通った緑。それぞれの瓶から微かに異なる香りが漂っている。


「すみません、この青いのは何の香油ですか?」


店主の女性が棚の奥から顔を出した。


「それは第五層の月光蘭から採った精油だよ。鎮静効果があるんで、眠れない夜に一滴枕に垂らすといい。小瓶で銀貨四枚」


「月光蘭——聞いたことない。嗅いでもいい?」


栓を開けると、冷たい月明かりを匂いにしたような、透明で静かな香りがした。鼻孔から脳の奥に直接届くような、不思議な浸透力。


「好き。これ、ください」


「アウリィ」


背後からレンの声。


「また荷物が増えるぞ」


「香油は使えば減るから……」


「壺のときも同じことを言った。壺は残ると言ったはずだ。瓶も残る」


「……それはそう」


結局、買った。レンは何も言わなかったが、店を出るときに小さくため息をついた。そのため息の中に、苛立ちではなく、もっと温度の低い——諦めに似た柔らかさがあることに、アウレーリエは気づいていた。

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