4話「地図師の矜持2」
翌日、二人は再び迷宮に潜った。
第四層の横穴を抜けて洞窟に入るまでの道のりは、前回と同じだった。ただし今回はアウレーリエの精霊との相性がさらに馴染んでおり、索敵の範囲も精度も格段に向上していた。
「半径五十歩以内、生体反応なし。遠方に小型の群体が一つ、こちらに向かっていない」
「了解」
レンの応答も、前回より簡潔になっていた。信頼がそうさせているのだと、アウレーリエは思った。
洞窟に入ると、ランタンの光が岩壁を照らした。前回と変わらない光景。石の台座、床面の文様、そして文様の溝に宿る淡い光。
レンは革鞄から測量道具を取り出し、手際よく作業を始めた。巻き尺で壁までの距離を測り、方位器で方角を確認し、紙に数字と線を書き込んでいく。その動きは無駄がなく、一つ一つの所作が練り上げられた手順を踏んでいた。
アウレーリエは索敵を維持しつつ、洞窟の壁面をランタンで照らしながら歩いた。台座の文様に意識を向けたいところだが、まずはレンの測量の補助だ。
「天井の高さ、あの辺りは少し低くなってるね。苔が生えてるところ」
「見えた。記録する」
「北西の壁面に亀裂がある。指が入るくらいの太さ。空気が流れてる」
「通気口か。方角と位置を教えてくれ」
こうしたやり取りが自然にできるようになっていた。五日前にはぎこちなかった二人の呼吸が、迷宮を共に歩くうちに噛み合い始めている。
測量がひと段落すると、レンは台座の周囲を慎重に観察し始めた。台座自体は高さが腰ほどの石柱で、上面は滑らかに磨かれている。何かが載っていたのか、あるいは最初から何も載せるつもりのない、儀式的な意味を持つ構造物なのか。
「アウリィ。精霊に聞けるか」
「やってみる」
アウレーリエは台座の前にしゃがみ、両手を床面の文様に触れた。目を閉じ、意識を精霊に向ける。
地の精霊がすぐそばにいた。迷宮内の精霊は地上よりもずっと近い。手を伸ばせば触れられる——実際に触れている。
——ねえ、教えて。ここは何?
精霊に「言葉」は通じない。代わりに、問いかけの意図を感覚として投げかける。好奇心と、知りたいという欲求を、そのまま差し出す。
応答があった。
最初は曖昧な感覚の塊だった。温もり。深さ。時間の重み。古い、とても古い何かの残響。それから——
アウレーリエの意識の中に、映像ではない「印象」が流れ込んできた。
大きなものが通った痕跡。川が岩を削るように、圧倒的な力が地層を貫いて道を作った記憶。それは破壊ではなく、むしろ——成長に近い。根が伸びるように。血管が枝分かれするように。迷宮は掘られたのではない。生えたのだ。
そして、この洞窟は——
「——結び目」
アウレーリエは目を開けた。
「結び目?」レンが聞き返した。
「うまく言えないんだけど……迷宮が伸びていくとき、ところどころに結び目みたいな場所ができるみたい。力が集まる場所。この洞窟がそう。精霊たちはここを——大事な場所だと思ってる。守ってる」
「力が集まる場所。それは具体的にどういう意味だ?」
「わからない。精霊にとっての『大事』は、ボクたちの『大事』とは違うから。ただ——」
アウレーリエは文様の溝に残る光をもう一度見つめた。
「この文様は、迷宮そのものが刻んだんだと思う。誰かが作ったんじゃなくて。迷宮が成長する過程で、自然にできたもの」
レンは長い間黙っていた。炭筆を持ったまま、紙の上に何も書かずに、台座と文様を見つめていた。
「……迷宮が自ら文様を刻む、か」
「信じられない?」
「いや。そういう仮説を唱える学者はいる。迷宮有機体説。ただ、証拠がなかった。もしあなたの解釈が正しいなら——」
レンの言葉が途切れた。その目が、地図師としての冷静な観察眼から、もっと生々しい感情の色に変わった瞬間があった。興奮、と呼ぶには抑制されすぎていたが、確かにそこにあった。
「これは大きな発見になるかもしれない」
「レンが見つけたんだよ。この横穴を」
「お前が文様をスケッチしなければ、ただの空洞として報告していた」
「じゃあ、二人で見つけたね」
レンは答えなかったが、否定もしなかった。
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洞窟を出て帰路についた。第四層の通路を戻る道すがら、アウレーリエは精霊の索敵を維持しながら、頭の片隅で考えていた。
あの洞窟に触れたとき、精霊から伝わってきたものの中に、もう一つ——言葉にできない感覚があった。精霊の「感情」でもなく、迷宮の「記憶」でもない、もっと個人的な何か。
既視感。
あの文様を、自分は知っている。どこかで、いつか、見たことがある。精霊術を通じてではなく、自分自身の記憶として。でもそれがいつの記憶なのか、何万年前のどの世界の記憶なのか、掴もうとすると指の間からすり抜けていく。
髪飾りに触れた。赤い彼岸花。
母の手の温もり。顔は思い出せない。声も。でも——
「——アウリィ」
レンの声で意識が引き戻された。
「ん?」
「索敵。途切れていた」
「あ——ごめん。大丈夫、今は何もいない。ごめんね、ぼんやりしちゃった」
レンはアウレーリエの顔をじっと見た。暗い通路の中で、ランタンの光がレンの灰色の目を琥珀色に染めていた。
「洞窟の中で、何かあったか」
「え?」
「台座に触れたとき。精霊の応答以外に、何か——」
「……なんでわかるの?」
「顔を見ていればわかる。あなたは感情が顔に出る」
アウレーリエは少し驚いて、それから苦笑した。
「そうなんだ。自分では隠してるつもりなんだけど」
「隠せていない。——話したくなければいい。ただ、迷宮内で集中が途切れるのは危険だ。何か問題があるなら共有してほしい」
実務的な言い方だったが、その奥に心配の温度がある。アウレーリエにはそれが感じ取れた。
「問題ってほどのことじゃないんだ。ただ、あの文様に見覚えがある気がして。どこで見たのか思い出せなくて、そのことを考えてた」
「見覚えがある? 別の場所で同じ文様を見たことがある、ということか」
「うん。ボク、いろんな場所を旅してるから。昔どこかで似たようなものを見たのかもしれない。でも昔のことって、あんまりちゃんと覚えてなくて」
レンは何か聞きたそうにしたが、結局口を閉じた。代わりに前を向き、歩く速度を少し落とした。アウレーリエが考え事をしながらでも遅れないように、という配慮だろう。
そういう人だ、とアウレーリエは思った。言葉では素っ気なくても、行動で気を遣う。聞きたいことがあっても、相手が話す準備ができていなければ待つ。地図師として正確さを求める厳しさと、他者の領域を侵さない慎重さが同居している。
第三層に入ったところで、通路の先から声が聞こえてきた。
複数の人間の声。怒声と、それを宥める声。そして金属が打ち合わされるような音。
アウレーリエは即座に索敵の意識を鋭くした。
「前方、七十歩。人が五人——六人。動きが激しい。戦ってる? ……いや、人同士じゃない。人が五人と、大きいのが一つ」
「魔獣と交戦中か。種類は?」
「わからない。でも重い。地面の振動が強い」
レンは足を止め、壁際に身を寄せた。アウレーリエも倣う。
「第三層で冒険者が魔獣と戦うのは珍しくない。普通なら回り道をして避ける。だが——」
レンの耳が何かを捉えたらしく、表情が変わった。
悲鳴が聞こえた。
短く、鋭い悲鳴。それから何かが壁に叩きつけられるような重い音。
「——まずい」レンが呟いた。
「行こう」アウレーリエは言った。
「待て。状況が——」
「誰か怪我してる。ボクの索敵で一人動かなくなった。行くよ」
レンの顔に葛藤が走った。地図師は戦闘の専門家ではない。救援の義務もない。しかし——
「……ついてこい。前に出るな」
二人は通路を駆けた。角を曲がると、開けた空間に出た。天井の高い広間——第三層の休憩所として使われている場所だった。
そこで戦闘が行われていた。
相手は岩甲蟲だった。体長二メートルほどの甲虫型魔獣で、全身が石のように硬い甲殻で覆われている。第三層では比較的よく見かける種だが、この個体は通常よりも一回り大きかった。
五人の冒険者が甲蟲を囲んでいた。いや、四人だ。一人が壁際に倒れている。残りの四人のうち、盾を持った大柄な男が前面で甲蟲の突進を受け止め、その後ろから剣と槍の使い手が攻撃を加えている。もう一人は弓を構えているが、甲殻が硬すぎて矢が弾かれていた。
「甲殻の隙間を狙え!」盾の男が叫んだ。「関節部だ!」
剣士が横から切りかかったが、甲蟲が体を振って尾部の突起を薙いだ。剣士は辛うじて身を屈めて避けたが、体勢を崩した。その隙に甲蟲が突進し、盾の男が押し返そうとして膝をついた。
「レン、あの倒れてる人——」
「見えている。まだ動いている。気絶しているだけかもしれない」
「助けに行きたい」
「前に出るなと言っただろう」
「倒れてる人のところに行くだけ。戦闘には入らない」
レンは一瞬だけ迷い、それから短く頷いた。
「行け。私が注意を引く」
レンは短剣を抜き、広間の左側面から素早く回り込んだ。壁際の岩を蹴って音を立て、甲蟲の注意をそちらに向けさせる。甲蟲の複眼がレンの方に動いた瞬間、アウレーリエは低い姿勢で広間を横切り、倒れている冒険者のそばに辿り着いた。
若い女性だった。軽装の革鎧を着ており、腰に空の鞘がある。剣はどこかに弾き飛ばされたらしい。頭部に打撲の跡があり、意識がない。呼吸はしている。
「大丈夫。ここにいるよ」
アウレーリエは倒れた女性の頭を支え、壁際に寄せた。それから精霊に意識を向けた。
——お願い。あの虫の弱いところを教えて。
地の精霊が応答した。感覚が流れ込む。硬い殻。しかしその下は柔らかい。腹の裏側。そして——頭部の付け根。甲殻が重なり合う隙間。
「レン!」アウレーリエは叫んだ。「頭の付け根! 甲殻が重なってるところに隙間がある!」
レンの動きが変わった。正面から攻めるのではなく、甲蟲の周囲を弧を描くように移動し、頭部の側面に回り込む。盾の男がそれを見て、甲蟲の正面を引き受けた。
「今だ!」
レンの短剣が閃いた。正確に、甲殻の重なり目の隙間を突く。浅い——しかし、刃が甲殻の下に入った。甲蟲が苦痛の振動音を発し、頭部を振り回した。レンは即座に離脱し、間合いを取った。
槍使いの冒険者がそれを見て、同じ場所を狙った。今度は槍の穂先が深く入った。甲蟲の動きが鈍り、足がもつれた。
「もう一撃!」
剣士が飛び込み、反対側の関節部に渾身の一撃を叩き込んだ。甲蟲は体を痙攣させ、ゆっくりと横倒しになった。
広間に、荒い呼吸の音だけが残った。
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「助かった。本当に助かった」
盾の男が大きな手でレンの手を握り、何度も振った。レンは握手を受けながらも、表情は変わらなかった。
倒れていた女性は意識を取り戻していた。頭部の打撲は軽傷で、仲間の回復薬で処置された。アウレーリエは女性が目を覚ましたのを確認してから、少し離れた場所に立ってレンの隣に戻った。
「お嬢ちゃん——いや、あんたの指示がなきゃ、あの甲殻は突破できなかった。どうして弱点がわかったんだ?」
「精霊に聞いたの」
「精霊術師か! この辺りじゃ珍しいな。あんた、どこかのパーティに所属してるのか?」
「ううん。旅人だよ。レンに同行して地図の調査をしてるの」
「レン——って、もしかしてレン・フォーゲルか? 地図師の?」
レンが小さく頷いた。
「噂は聞いてるぜ。単独で第九層まで行った女地図師。あんたの地図にはいつも世話になってる。正確で助かるよ」
「仕事ですから」
レンの声は平坦だったが、視線がわずかに落ちた。アウレーリエはそれを見逃さなかったが、何も言わなかった。
冒険者たちと別れ、第二層を経由して地上に戻った。門を出ると、午後の空は薄く曇っていた。
レンは門の脇の壁に背を預け、しばらく何も言わなかった。
「レン、怪我はない?」
「ない。……あなたは?」
「平気だよ。ボクは戦ってないもん」
「あの判断は正しかった。倒れている者を安全な場所に移しながら、精霊の情報を戦闘に提供する。冷静だった」
「レンが前に出てくれたから、ボクは安全に動けたんだよ」
レンは壁から背を離し、歩き出した。二人は赤虎亭へ向かう道を並んで歩いた。
しばらく無言が続いた後、レンが口を開いた。
「さっき、あの冒険者が言っていただろう。単独で第九層まで行った、と」
「うん」
「二年前のことだ。第九層の調査を請け負った。パーティを組んで入った。五人で」
アウレーリエはレンの横顔を見た。レンは前を向いたまま、一定の速度で歩いていた。
「帰ってきたのは三人だった」
声に抑揚がなかった。事実を報告するときの、地図師としての声だ。でもそれは抑揚を消しているのではなく、抑揚を出したら止まれなくなるから消しているのだと、アウレーリエには感じ取れた。
「一人は第九層の主に殺された。もう一人は——帰路で道を見失った。地図が不完全だった。私の地図が」
「レン——」
「あの日以来、地図の更新を怠ったことはない。二度と同じことが起きないように。正確な地図があれば、帰り道を見失う人間は出ない。それが地図師の仕事だ」
レンの手が、外套のポケットの中で何かを握りしめているのが見えた。何を握っているのかはわからなかった。
「だから私は一人で行く。他人を連れて行けば、また同じことが起きるかもしれない。自分一人の命なら、自分で判断して自分で引き受ける」
「でもボクを連れて行ってくれた」
レンの足が一瞬だけ止まった。
「……あなたの索敵能力は、実利がある。感情で判断したんじゃない」
「うん。知ってるよ。でもね——」
アウレーリエは少し早歩きをして、レンの半歩前に出た。振り返る。
「実利だけで決めたなら、ヴォルフさんに条件を出すとき、もっと迷わなかったと思う」
レンの目が少し見開かれた。
「あのとき、レンは少し間を置いたでしょ。ボクを連れて行くって言う前に。ボクに危険が及ぶかもしれないって考えて、それでも連れて行く方がいいって判断して——その判断には、実利だけじゃなくて、ボクのことをちゃんと見てくれてる気持ちが入ってたと思う。ボクなら大丈夫だって、信じてくれたんでしょ」
レンは何も言わなかった。
アウレーリエは笑った。天真爛漫な、屈託のない笑顔だった。
「ボクね、いろんな世界でいろんな人に会ってきたけど、一人で全部背負おうとする人ってたくさんいたよ。それが悪いことだとは思わない。でも、一人で背負ってる人のそばに誰かがいちゃいけないなんてことはないよね」
「……あなたは」
「ん?」
「本当に子どもではないんだな」
「だから最初から言ってるでしょ」
むっとした顔を一瞬だけ作って、すぐにまた笑った。
レンの口元が動いた。今度は確かに、唇の端が持ち上がっていた。笑みと呼ぶにはあまりに小さかったが、レンの顔にそれが浮かぶのを見るのは、五日間で初めてだった。
「……六時。明日も」
「うん。遅れないよ」
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その夜、アウレーリエは部屋に戻って日記を書いた。
洞窟の調査のこと。精霊から伝わった「結び目」の感覚のこと。岩甲蟲との遭遇と、冒険者たちを助けたこと。香油屋で買った月光蘭の精油のこと。
そして、レンが話してくれた過去のこと。
『レンには背負っているものがある。地図師としての矜持と、過去の後悔。それはとても重たいものだと思うけど、レンはその重さを言い訳にしない。ただ、もっと正確な地図を描くことで応えようとしている。すごい人だと思う。ボクにもそういう強さがあるだろうか。わからない。ボクが旅を続ける理由は、レンみたいに明確じゃない。ボクの理由は——何だったっけ』
ペンが止まった。
旅を続ける理由。最初は確かにあったはずだ。何かを探していた。何かを求めて。でもそれが何だったのか、もう思い出せない。数万年の時間が記憶を磨り減らし、動機の輪郭を溶かしてしまった。
今の自分は、なぜ旅をしている?
新しいものを見るため。知らないことを知るため。それは本当だ。嘘ではない。でも、それは理由なのか、それとも理由を見失った後に見つけた代替品なのか。
髪飾りに触れた。赤い彼岸花。
母の——影。輪郭だけの影。
ボクは何を探しているの。
問いかけに答える声はなかった。
深層灯石を水に沈めた。青い光が部屋を満たす。明日の朝、六時にレンと合流する。洞窟の二回目の調査。文様の詳細記録。やるべきことがある。考えるべきことがある。
でも今夜だけは、わからないままでいい。
アウレーリエは日記帳を閉じて、ランタンを消した。
月光蘭の精油を一滴、枕に垂らしてみた。冷たく透明な香りが鼻腔を満たし、意識の輪郭がゆっくりとぼやけていく。
眠りに落ちる直前、瞼の裏にレンの小さな笑みが浮かんだ。
明日も、良い日になる気がした。




