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5話「結び目の記憶1」

ヴェルムンドに来て九日目。


朝の食堂で、レンが珍しく先に口を開いた。


「今日で三回目になる。洞窟の調査」


「うん」


「文様の詳細記録を完成させる。それと、北西の通気口の先を確認したい。可能であれば」


「通気口、あの亀裂のこと? 人が通れる幅だったっけ」


「ぎりぎり。ただ、先に何があるかわからない以上、深入りはしない。確認だけだ」


アウレーリエはパンに蜂蜜を塗りながら頷いた。迷宮産の蜂蜜にもだいぶ舌が慣れてきた。最初に感じた鉱物的な癖が、今ではむしろ味わいとして心地よい。慣れとは不思議なものだ。


「そういえばレン、昨日ギルドに出した中間報告、反応あった?」


「ヴォルフ調査官から伝言があった。学術部が文様のスケッチを解析中だそうだ。結論はまだ出ていないが、少なくとも既知のどの文様体系にも属さないことは確認されたらしい」


「どこにも属さない、か」


「つまり、迷宮が独自に生成した文様である可能性が高まったということだ。あなたの精霊から得た情報と一致する」


「ボクの解釈が正しければ、だけどね」


「今のところ、他に手がかりがない。あなたの解釈が作業仮説として最も有力だ」


レンの物言いは相変わらず実務的だったが、以前とは微妙に違うものが混じっていた。「あなたの解釈」という言葉の中に、信頼の重みがある。初日に橋の上で声をかけた見知らぬ旅人を、レンは今や調査上の対等な協力者として扱っている。


その変化が、アウレーリエにはひどく嬉しかった。


マレーネが二人の皿を片付けにきた。


「また潜るのかい。毎日毎日、よく飽きないねえ」


「飽きないよ。毎回違う発見があるもん」


「あんたはともかく、レン。あんたも前より顔色がいいよ。二人で潜るようになってからだ」


レンは黙ってお茶を飲んだ。マレーネはにやりと笑って厨房に引っ込んでいった。


--------------------------------------------


第四層への道のりは、もう体が覚えていた。


第一層の広い通路、第二層の光苔の群生地、第三層の複雑な分岐——レンの足取りは淀みなく、アウレーリエの索敵も滑らかに機能する。九日間で、この世界の地の精霊との関係は大きく深まっていた。初日の鈍い応答が嘘のように、今では精霊たちがアウレーリエの意識の端に常に寄り添い、気配の変動を囁き続けてくれる。


第三層の後半を通過中、アウレーリエが声を落とした。


「左の分岐路、奥に群体。小さいの十以上。こっちには来てない」


「蟲の巣だな。この通路は先月もそうだった。記録を更新しておく」


レンは歩きながら帳面に書き込んだ。位置、推定個体数、日付。地図の更新は立ち止まって行うものではなく、呼吸するように継続的に行うものなのだと、アウレーリエは九日間の同行で学んでいた。


第四層に入り、横穴を通って洞窟に辿り着いた。三度目ともなると、狭い横穴のどこで頭を下げるべきか、どこで肩を斜めにすれば通りやすいかも身体が覚えている。


洞窟の中は前回と変わらなかった。石の台座、床面の文様、溝に宿る淡い光。精霊たちが変わらずここを守っている気配。


「作業を始める」


レンはランタンを台座の近くに置き、文様の前にしゃがみ込んだ。前回までに記録しきれなかった南側の文様の詳細を、炭筆で丹念に写し取っていく。アウレーリエは索敵を維持しつつ、別の角度から文様を観察した。


「ねえ、レン。この文様の中心——台座のすぐ根元なんだけど、他の部分と少し光り方が違う気がする」


「どう違う?」


「他の部分は一定の明るさで光ってるでしょ。でもここだけ、ときどき——脈打つみたいに明滅してる。すごくゆっくりだから、じっと見てないとわからないけど」


レンは炭筆を置き、台座の根元に目を凝らした。一分ほどの沈黙の後、小さく息を吸った。


「見えた。確かに明滅している。周期は——二十秒から三十秒程度か」


「心臓の鼓動みたいだね」


「比喩としては正確かもしれない。迷宮有機体説に基づけば、結び目に当たるこの場所は、循環系の要所に相当する可能性がある」


「循環系?」


「迷宮を生物と仮定した場合、エネルギーや魔力が全体を巡る経路があるはずだ。その経路が交差する点——結び目——は、心臓や肺のような機能を持つかもしれない」


「あ、それ——精霊が伝えてきた感覚に近いかも。大きなものが通った痕跡って感じたんだけど、それが魔力の流れだとしたら」


「仮説の域を出ないが、記録しておく」


レンの炭筆が再び走り出した。文様の写しに加え、明滅の観察記録を余白に書き込んでいく。


アウレーリエは台座の周囲をゆっくり歩きながら、改めて文様の全体像を俯瞰しようとした。渦を巻くような幾何学模様。中心から外側へ、枝分かれしながら広がっていく線。その形は——


「……根っこ」


「何?」


「木の根に似てる。上から見たら。中心が幹で、文様が四方に伸びていく根」


レンが立ち上がり、少し離れた位置から文様を見下ろした。


「……確かに。有機的な分岐パターンだ。人工的な幾何学模様なら左右対称になるのが普通だが、この文様は非対称で——」


「生き物みたいに、偏ってる」


「そういうことだ」


二人はしばらく無言で文様を見下ろしていた。足元の淡い光が、ゆっくりと脈打ち続けていた。


--------------------------------------------


文様の詳細記録が完了した後、二人は北西の通気口——壁面の亀裂——を調べることにした。


亀裂は前回確認したときと同じ状態だった。幅は人一人がかろうじて横向きに通れる程度で、奥からかすかに空気が流れてくる。


「精霊に聞いてみるね」


アウレーリエは亀裂に手を当て、意識を奥に伸ばした。地の精霊が応答する。亀裂の先にあるもの——


「通路がある。狭いのは最初の五歩くらいで、その先は広がってる。でも——」


「でも?」


「下に続いてる。かなり急な傾斜。第五層に繋がってるかもしれない」


レンの目が鋭くなった。


「第四層から第五層への未登録の接続路か。これは大きい」


「行ってみる?」


「亀裂の先は確認する。ただし傾斜に入る前に引き返す。今日は装備が足りない」


レンが先に亀裂に入った。横向きに体を滑り込ませ、壁面に背中と胸を擦りながら進む。アウレーリエは体が小さい分、多少余裕があったが、それでも圧迫感は強い。岩の冷たさがベストを通じて伝わってきた。


五歩ほど進むと、レンの言った通り空間が広がった。ランタンの光が届く範囲に、天然の小洞窟が現れた。天井は低いが、二人が並んで立てるくらいの広さはある。


そしてその奥に、下り傾斜の通路が口を開けていた。


「思ったより広い。これは自然にできた通路じゃない——迷宮が開けた道だ」


レンが壁面を指先で触れた。表面は滑らかで、人工的に削られたのではなく、何かの力で岩が押し退けられたような形状をしている。


「最近できたの?」


「わからない。壁面の風化度を見れば推定できるかもしれないが、ここでは判断がつかない。ただ——」


レンが通路の入口に立ち、下方を覗き込んだ。暗闘が口を開けている。ランタンの光は数メートル先で闇に呑まれた。


「風がある。空気の流れが安定している。行き止まりではなく、どこかに繋がっている証拠だ」


「第五層の精霊が感じ取れる。うん、繋がってるね。でも距離がある。簡単には辿り着けない」


「ここまでだ。今日は」


レンは通路の入口の位置と方角を記録し、壁面に地図師ギルドの印を小さく刻んだ。未確認通路の存在を示す標識。後続の地図師や調査隊がこの場所を見つけたとき、レンがここに到達したことがわかるように。


二人は亀裂を通って洞窟に戻った。


「これで報告書の材料は揃った。文様の詳細記録、明滅の観察データ、未登録接続路の発見。十日の期限内に出せる」


「お疲れさま、レン」


「あなたもだ」


レンの声は静かだったが、そこに労いの意が込められていることをアウレーリエは感じ取った。


洞窟を出る前に、アウレーリエはもう一度だけ台座を振り返った。


脈打つ光。根のように広がる文様。迷宮が自ら刻んだ、生きた印。


——知ってる。この感覚を、どこかで。


記憶の底に何かがある。手を伸ばせば届きそうで、届かない。水底に沈んだ石を素手で掴もうとするような、もどかしい感覚。


「アウリィ。行くぞ」


「——うん」


横穴を抜けて第四層の通路に出た。帰路につこうとしたとき、アウレーリエの索敵が反応した。


「待って。前方——遠い。百歩以上先。でも……これ、何だろう」


「魔獣か?」


「違う。生き物じゃない。でも何かがある。精霊が——ざわついてる」


レンが足を止め、通路の先を見据えた。ランタンの光の届かない暗闇。何の音もしない。


「具体的には」


「地面が不安定になってる感じ。精霊たちが……怖がってる? いや、警戒してる。地面の下で何かが動いて——」


その瞬間、足元が揺れた。


小さな振動だった。地震というほどではない。だが、確かに石の床が震えた。壁面から細かい粉塵がぱらぱらと落ちてくる。


「崩落の兆候だ」レンが即座に判断した。「戻る。今すぐ」


二人は来た道を引き返し始めた。アウレーリエは走りながら精霊の感覚を全方位に広げた。


「後方は安定してる。崩落が起きそうなのは前方——ボクたちが進もうとしてた方向だけ」


「助かった。あのまま進んでいたら巻き込まれていた」


二度目の振動。今度は先ほどより大きかった。通路の奥から、岩が砕ける重い音が連鎖的に響いてきた。空気の流れが乱れ、粉塵が波のように押し寄せる。


アウレーリエはマントの裾を引き上げて口元を覆い、レンも外套の襟で鼻と口を塞いだ。視界が白く霞む中、二人は壁に手を当てながら第三層への上り通路を目指した。


「大丈夫。この通路は安定してる。精霊が言ってる」


「信じる」


その二語に、九日間の重みがあった。


粉塵が薄くなったのは、第三層に入ってからだった。上層に行くほど通路の構造が安定している。冒険者ギルドによる補強工事のおかげもあるだろう。


第三層の休憩広場まで来たところで、二人は足を止めた。レンが壁にもたれ、長い息を吐いた。


「崩落の規模は?」


アウレーリエは目を閉じて探った。


「第四層の通路、さっきボクたちが通ろうとしてた辺りが塞がってる。大きな崩落。でも横穴——洞窟に繋がる横穴は……大丈夫。崩落の範囲外みたい」


「洞窟は無事か」


「たぶん。少なくとも、横穴の入口までは」


レンは帳面を取り出し、崩落の推定範囲を記録した。手が微かに震えていたが、文字は正確だった。


「迷宮が動いた——拡大したのかもしれない」


「拡大?」


「迷宮は年々広がっている。新しい通路が生まれるとき、既存の構造に負荷がかかって崩落が起きることがある。第六層の東壁崩落もそうだった。迷宮が成長するための——」


「陣痛、みたいなもの?」


レンが一瞬だけ意外そうな顔をした。


「……迷宮を生き物に喩えるなら、そうだ。成長痛と言ってもいい」


「さっき発見した新しい通路も、迷宮の成長の結果なのかな。第四層と第五層をつなぐ道ができたってことは、迷宮がそっちに伸びようとしてるってこと?」


「可能性は高い。崩落と新通路の発見が同時期というのは偶然ではないかもしれない」


レンの目が沈思の色を帯びた。地図師としての分析と、何かもっと根源的な畏れが混在した表情だった。


「迷宮が生きているとして——その成長に方向性があるとすれば、次にどこが拡大するか予測できる可能性がある。結び目の位置、新通路の方角、崩落の分布——データが揃えば」


「迷宮がどこに向かって伸びてるか、わかるかもしれない?」


「仮説だ。あくまで」


でもレンの目は、仮説を語る目ではなかった。確信の芽が、その灰色の瞳の奥で静かに光っていた。

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