6話「結び目の記憶2」
地上に戻ると、迷宮区画の入口が騒然としていた。
崩落の振動は地上にも届いていたらしく、衛兵の数が増え、冒険者ギルドの職員が慌ただしく走り回っている。掲示板の前には人だかりができ、緊急の告知が貼り出されていた。
「第四層南東部、通行禁止……か」
レンが告知を読み上げた。
「崩落の調査と復旧が終わるまで、該当区域への立入が制限される。洞窟への到達ルートも封鎖対象に入っている」
「じゃあ、しばらくは調査に行けない?」
「そうなる。復旧にどれくらいかかるか——最短でも数日、長ければ半月以上だ」
レンの声は冷静だったが、帳面を握る指に力が入っていた。報告書の期限まであと一日。最後の調査行で得たデータは十分だが、崩落の影響で追加調査の見通しが立たなくなった。
「とりあえず、今日得たデータで報告書を完成させよう」アウレーリエが言った。「レンが集めた測量データ、文様の記録、明滅の観察、新通路の発見、崩落の情報。全部合わせたら、十分な内容になるでしょ」
「……そうだな」
「ギルドに出す報告書と別に、レンの地図にも反映するんでしょ? 崩落で通路が変わった部分」
「当然だ」
「じゃあ、帰ったら報告書の作業を手伝うよ。文様のスケッチの清書とか、ボクにできることがあれば」
レンはアウレーリエを見た。九日前には会ったばかりの旅人だった小柄なハイエルフが、今は当たり前のように隣に立って次の手順を提案している。
「……助かる」
赤虎亭に戻り、食堂の隅のテーブルで作業を始めた。レンが報告書の本文を書き、アウレーリエが文様のスケッチを清書する。手元にはマレーネが出してくれた茶と、焼き菓子が置かれていた。
作業は黙々と進んだ。冒険者たちが出入りする食堂の喧騒の中で、二人のテーブルだけが静かな集中に包まれていた。
清書を進めながら、アウレーリエの意識の一部は文様の形に引き寄せられ続けていた。根のように広がる線。脈打つ中心。生きた印。
描いている手が、不意に止まった。
清書しているはずの文様の一部が——自分の記憶の中にある別の文様と重なった。
「……あ」
声が漏れた。小さな声だったが、レンが顔を上げた。
「どうした」
「思い出した。ちょっとだけ。この文様の——この部分」
アウレーリエは清書中のスケッチの一角を指差した。根の分岐パターンの、特に密集している箇所。
「この形を、前に見たことがある。別の——別の場所で。地面じゃなくて、石碑に刻まれてた。すごく古い石碑で——」
「どこで?」
「——わからない。思い出せない。でも見た。確かに見た。石碑にこの模様が刻まれてて、そのそばに——」
記憶が揺れた。石碑。苔に覆われた石碑。雨が降っていた。草の匂い。誰かが隣にいた。誰かの手が、自分の手を引いていた。小さな手。自分よりも小さな——
いや、違う。自分の手が小さかったのだ。誰かに手を引かれていた。高い場所から見下ろす顔。逆光で表情が見えない。でも声が聞こえた。
『よく見ておきなさい、アウレーリエ。これは——』
「アウリィ!」
レンの声が、記憶の断片を散らした。
アウレーリエは目を瞬いた。視界が滲んでいた。泣いている——自分が泣いていることに、一拍遅れて気づいた。
「あ……ごめん。ごめんね。大丈夫」
慌てて袖で目元を拭った。涙の理由がわからなかった。悲しいのか、懐かしいのか、それとも思い出せないことが悔しいのか。全部が混ざり合って、一つの感情として名前をつけられなかった。
「大丈夫。本当に大丈夫。ちょっと——昔のことを思い出しかけて」
レンは席を立ちかけていた。手がテーブルの端を掴んでいる。何をすべきか迷っている——そういう体の強張り方だった。
「……水を持ってくる」
「ありがとう」
レンがカウンターに向かう間に、アウレーリエは深呼吸をした。三回。マントの内側に手を入れて、髪飾りに触れた。赤い彼岸花の花弁が、指先に微かな温度を返した。
母だ。
あの記憶の中で手を引いていたのは、母だ。顔は思い出せない。声も、今はもう聞き取れない残響になってしまった。でも手の感触だけは——乾いていて温かい、細い指。
何を言おうとしていたのだろう。石碑の前で。「これは」の続きは、何だったのだろう。
レンが水の入った杯を持って戻ってきた。アウレーリエはそれを受け取り、一口飲んだ。冷たい水が喉を通り、頭が少し澄んだ。
「ごめんね。もう大丈夫」
「謝る必要はない」
レンは椅子に座り直したが、すぐには作業を再開しなかった。アウレーリエの顔を見ていた。探るようにではなく、ただ——確かめるように。
「あなたが最初に言っていたこと。あの文様に見覚えがある、と」
「うん」
「今、何か思い出したのか」
「少しだけ。断片だけど。昔——すごく昔に、似た文様が刻まれた石碑を見たことがある。誰かと一緒に。たぶん、ボクの母さんと」
「お母さん」
「うん。もうずっと会ってない。顔も——ほとんど思い出せない」
言葉にすると、改めてその事実の重さが胸に落ちてきた。母の顔を思い出せない。数万年という時間が削り取ったものの大きさを、こういう瞬間に突きつけられる。
レンは何も言わなかった。慰めの言葉も、同情の言葉も。ただ黙って、アウレーリエが話すのを待っていた。
「ボクはね、ずっと旅をしてるの。すごく長い間。いろんな世界を渡り歩いて、いろんなものを見て、いろんな人に会って。それはすごく楽しいことなんだけど——旅を始めた理由が、もう自分でもよくわからなくなってる」
「理由を忘れた?」
「忘れたのか、最初からはっきりした理由なんてなかったのか、それすらも曖昧で。でも——あの文様を見たとき、何かが引っかかったの。ボクが探してるものと、あの文様が関係してるかもしれないって。根拠はないんだけど」
アウレーリエは日記帳を取り出して、過去の頁をぱらぱらとめくった。何百頁もの記録。何十もの世界の断片。文字と絵と押し花と、ときどき挟まれた異国の紙幣や木の葉。
「記録はあるんだ。でも記録と記憶は違う。書いてあることを読み返しても、そのとき何を感じていたかは——文字からは伝わってこないことがある。匂いとか、空気の温度とか、隣にいた人の表情とか」
「……記録を取るのは意味がないと思うか?」
レンの声に、かすかな刺のようなものが混じった。地図師としての矜持に触れる問いだったかもしれない。アウレーリエは首を横に振った。
「意味がないなんて思わない。記録がなかったら、もっとたくさんのことを忘れてる。レンの地図と同じだよ。地図があるから迷わずに済む。日記があるから、思い出す手がかりが残る。でも——地図は道を教えてくれるけど、その道を歩いたときの気持ちまでは教えてくれないでしょ」
レンは黙った。
それから、とても静かな声で言った。
「それでも、記録は残す価値がある。道を歩く人間が、地図を見て自分の記憶と重ね合わせることができるから。記録は——思い出すための道標だ」
アウレーリエはレンを見た。
灰色の目が、真っ直ぐにこちらを見返していた。
「あなたの日記も、同じだと思う。今は思い出せなくても、いつか——手がかりが揃ったとき、日記の中の言葉が記憶と繋がるかもしれない。だから、書き続ける意味はある」
アウレーリエはしばらく言葉を探した。喉の奥に温かいものが込み上げてきて、でもそれは涙ではなくて、もっと穏やかな——感謝に近いものだった。
「……レンはさ、優しいこと言うとき、すごく真面目な顔するよね」
「別に優しいことを言ったつもりは——」
「ありがとう。レン」
レンは口を閉じた。視線を逸らし、手元の報告書に目を戻した。耳の先がまた少しだけ赤くなっていた。
「……作業を続けよう」
「うん」
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報告書は夕方には完成した。レンがギルドに提出しに行く間、アウレーリエは一人で食堂に残り、日記を書いた。
崩落のこと。新通路の発見。文様の明滅。そして——思い出しかけた記憶のこと。
『石碑の文様。母さんの手。声の残響。「よく見ておきなさい、アウレーリエ。これは——」。続きが聞こえない。でも確かに、母さんはボクに何かを教えようとしていた。あの文様と同じものを。迷宮の結び目と同じものを。母さんは何を知っていたんだろう。ボクは何を忘れてしまったんだろう』
ペンを止めて、窓の外を見た。夕暮れの空が赤く燃えている。赤い空。赤い彼岸花。
ふと、この世界に来る前のことを思い出そうとした。精霊に招待された世界。自分の意志で訪れた場所。でもなぜこの世界を選んだのか——精霊が見せてくれた「予感」は何だったか——それも、もう曖昧だった。
精霊に世界を渡る力を借りるとき、アウレーリエはいつも一つの感覚を手がかりにしている。次の世界に行くべきだという直感。それが何に由来するものなのか——精霊の導きなのか、自分自身の無意識の選択なのか——は、わからない。
でも今回、この世界を選んだことには、意味があったのかもしれない。
迷宮の結び目。生きた文様。母の記憶の断片。
点と点が、まだ線にはなっていない。でも同じ紙の上に存在している。
レンがギルドから戻ってきたのは、日が沈んだ後だった。食堂は夜の喧騒に包まれ始めている。
「報告書は受理された。ヴォルフ調査官が内容を精査した上で、本格調査隊の編成を上に具申するそうだ」
「よかった。レンの仕事が認められたね」
「あなたの功績でもある。精霊の情報がなければ、報告書の内容は半分以下だった」
「ボクは聞いただけだよ。解釈してまとめたのはレン」
レンは向かいの椅子に座り、マレーネが運んできたシチューの皿を受け取った。今夜は豆と燻製肉のシチューだ。
「それと、もう一つ」レンがスプーンを手に取りながら言った。「ヴォルフ調査官から伝言がある」
「ボクに?」
「崩落区域の復旧作業に伴い、第四層全域の精霊環境に変動が出る可能性があるそうだ。精霊術に影響が出るかもしれないから、注意しておくようにと」
「ふうん。崩落で精霊が乱れるのか……確かに、さっきの崩落のとき精霊たちがざわついてたもんね。大きな崩落が何度も起きたら、索敵の精度に影響するかも」
「迷宮が不安定な時期は、深層への進入が制限されることがある。今回の崩落がどの程度の影響を及ぼすか——」
レンの言葉が途切れた。スプーンを皿に戻し、何かを考え込むような表情になった。
「どうしたの?」
「……崩落と、新通路の発見と、結び目の明滅。これらが同時期に起きているのは——」
「迷宮が成長してるから?」
「そう。そしてもし成長に方向性があるなら、結び目はその方向を示しているかもしれない。文様の根が伸びている方角。新通路が向かっている方角。崩落が起きた位置。これらを地図上で重ね合わせれば——」
「パターンが見える?」
「見えるかもしれない。データが足りないが」
レンは鞄から折り畳んだ大きな紙を取り出した。ヴェルムンドの迷宮全体の概略図。複数の層の情報が重なって記された、複雑な地図だった。
テーブルの上にシチューの皿を端に寄せて広げ、レンは炭筆を手に取った。洞窟の位置。新通路の方角。崩落の推定範囲。文様の根が伸びている方向。一つ一つを地図上に書き込んでいく。
アウレーリエはレンの手元を覗き込んだ。
「あ——ねえ、レン。この方向」
「何だ」
「文様の根が一番密集してた方角と、新通路が向かってる方角。ほぼ同じだよ。南東」
レンの炭筆が止まった。地図の上で二つの矢印を見比べる。
「一致している。精度は低いが——方角は一致している」
「迷宮は南東に向かって伸びようとしてる?」
「南東には——」
レンが地図の端を指で辿った。迷宮の外縁部の、さらにその外側。地上の地図との対応関係を確認するように。
「ヴェルムンドの旧市街がある。そして旧市街の地下には——」
「何があるの?」
「古い坑道。ヴェルムンドが交易都市になる前、ここは鉱山町だった。その頃の坑道が旧市街の地下に残っている。もう使われてはいないが、迷宮がそこに到達すれば——旧市街全体が迷宮の一部に飲み込まれる可能性がある」
食堂の喧騒が、一瞬だけ遠くなった気がした。
「それは——大変なことだよね」
「迷宮が市街地の地下を侵食するのは、過去にも例がある。下水路との接続で蟲が湧いた件は露店の主人から聞いただろう。だがそれは小規模な接触だ。旧市街の坑道全体が迷宮化すれば、規模が違う」
「住んでる人に危険が及ぶ」
「最悪の場合、地盤沈下や大規模崩落で旧市街そのものが陥没する」
レンの声は冷静だったが、炭筆を握る指が白くなっていた。
「……これはまだ仮説だ。結び目一つと新通路一本から導いた推測に過ぎない。だが——」
「でもレンは確信に近いものを感じてるんでしょ」
レンは答えなかった。地図の上の矢印を見つめ続けていた。
「明日、ヴォルフ調査官に話す。仮説として。判断するのは上だ。私にできるのは、正確なデータを提供することだけだ」
「ボクにできることはある?」
「……精霊に聞けるか。迷宮の成長の方向について。地上からでも」
「やってみる。地の精霊との相性はだいぶ良くなってるから、地上でも深い部分の気配は感じ取れるかもしれない」
「頼む」
その言葉の中に、信頼と——わずかな不安が混じっていた。レンが不安を見せるのは珍しかった。
アウレーリエはテーブルの下で、そっとレンの手に自分の手を重ねた。ほんの一瞬だけ。レンの指がぴくりと動いたが、振り払わなかった。
「大丈夫。レンの地図があるから、みんな道を間違えない。レンのデータがあるから、正しい判断ができる。レンがやってきたことは、ちゃんと意味がある」
レンは何も言わなかった。でも、強張っていた指から少しだけ力が抜けたのを、アウレーリエは感じた。
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その夜、部屋に戻ったアウレーリエは、窓を開けて夜空を見上げた。
見慣れない星座の下で、意識を地の精霊に向ける。地上から、深い地下へ。迷宮の脈動を、この世界の表皮を通して感じ取ろうとする。
微かに——本当に微かに、何かが感じ取れた。
南東の方角。地下深くで、何かが蠢いている。迷宮の根が、ゆっくりと、しかし確実に、ある方向へ伸びている。
その感覚の中に、洞窟の文様の脈打ちと同じリズムがあった。同じ鼓動。一つの生き物の一部として、連動している。
「やっぱり——生きてるんだね、この迷宮」
呟いて、日記帳を開いた。今夜書くことは多い。
崩落のこと。新通路のこと。南東への成長の仮説。レンとの会話。旧市街の危険。そして——
母の記憶の断片。石碑。手の温もり。途切れた言葉。
全て書き終えて、最後にこう記した。
『ボクがこの世界に来たのは、偶然じゃないかもしれない。迷宮の結び目と、母さんが見せてくれた石碑。何か繋がりがある気がする。まだわからない。でも——もう少しここにいたい。もう少しだけ、この世界のことを知りたい。レンと一緒に。答えが見つかるかどうかはわからないけど、探す価値はあると思うから』
深層灯石を水に沈め、青い光に包まれながら目を閉じた。
瞼の裏に、二つの光が明滅していた。
洞窟の文様の脈動と、記憶の底で揺れる母の影。
どちらも同じリズムで、ゆっくりと、静かに、脈打っていた。




