7話「追想と旅路1」
ヴェルムンドに来て十四日目の朝。
アウレーリエは目を覚ましたとき、窓の外で雨が降っているのを知った。灰色の空から細い糸のような雨が落ちて、赤虎亭の窓硝子に筋を引いている。石畳を叩く雨音が、規則的で穏やかだった。
しばらく毛布の中で雨音に耳を傾けた。雨の匂いが好きだった。石と水と土が混じり合った匂い。世界ごとに雨の匂いは違う。ここの雨は鉱物の気配が強くて、どこか迷宮の空気に似ていた。
起き上がって身支度をし、一階に降りた。食堂はいつもより人が少ない。雨の日は迷宮に潜る冒険者も減るらしい。
レンは既にいた。いつもの席で、いつもの外套で、手元の帳面に何かを書いている。ただ今朝は地図ではなかった。報告書の追記——崩落後の状況変化についての補足資料のようだった。
「おはよう、レン」
「おはよう。雨だ」
「うん。今日は迷宮には行けない?」
「行けなくはないが、崩落区域の封鎖が解除されるまで第四層には入れない。第三層までの通常区域なら問題ないが——今日は別の用事がある」
「別の用事?」
「ヴォルフ調査官に呼ばれている。昨日提出した成長方向の仮説について。午後から」
「大事な話になりそうだね」
「なるかもしれない。ならないかもしれない。仮説の段階では、どう転ぶかわからない」
マレーネが朝食を運んできた。今朝は温かい粥だった。雨の日の特別献立らしい。粥の中に刻んだ根菜と塩漬けの肉が入っていて、素朴だが体の芯まで温まる味だった。
「おいしい。マレーネの料理、全部好き」
「はは、嬉しいこと言ってくれるじゃないか。レンなんか三年間ここに住んでて、一度もそんなこと言ったことないよ」
「……美味いと思っている」
「思ってるなら言いなよ」
レンは粥を口に運ぶことで返答に代えた。マレーネは笑って厨房に戻った。
食後、レンがギルドに出かけるまでの間、アウレーリエは食堂の隅で日記を書いた。昨夜、地上から精霊を通じて感じ取った迷宮の脈動について、できるだけ正確に記録しておきたかった。
方角、強さ、リズム。感覚を言葉に変換する作業は、いつも少しだけ苦しい。精霊から伝わるものは本来、言語以前の純粋な感覚だ。それを文字に置き換えるたびに、何かがこぼれ落ちる。でも書かなければ、もっと多くのものがこぼれ落ちる。レンが言っていたように——記録は思い出すための道標だ。
ペンを走らせながら、ふと手が止まった。
日記帳の古い頁——何百頁も前——に挟まっていた栞が、少しだけ覗いている。薄い木の葉を押し花のように乾燥させたもので、銀色の葉脈が今もかすかに光を帯びていた。どの世界のどんな木の葉だったか、もう思い出せない。でも捨てられなくて、ずっとここに挟まっている。
こうやって、捨てられないものが増えていく。日記帳の中にも、トランクの中にも、記憶の中にも。手放すことができない断片が堆積して、やがて自分自身の輪郭がわからなくなる——
「考えすぎだよ、ボク」
自分に言い聞かせて、日記帳を閉じた。
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昼前に雨が止んだ。
レンはギルドに出かけ、アウレーリエは一人で街を歩くことにした。十四日間でヴェルムンドの地理はだいぶ頭に入っていたが、まだ足を運んでいない場所がある。
旧市街。
レンの仮説が正しければ、迷宮が南東に伸びた先にある場所。古い鉱山町の名残が残る区画。昨日の話を聞いてから、ずっと気になっていた。
運河沿いの道を南東に歩く。新市街の整然とした石造りの建物から、徐々に古い煉瓦造りの家屋に変わっていく。道幅が狭くなり、頭上を洗濯紐が横切る。軒先で老人が椅子に座っている。子どもが路地を駆けていく。新市街の迷宮経済の活気とは異なる、古い生活の匂いが漂っていた。
旧市街の広場に出た。中央に枯れた噴水があり、その周りを古い商店が囲んでいる。営業している店は半分ほどで、残りは板を打ちつけた空き店舗だった。
広場の隅に、石碑が立っていた。
苔に覆われた、古い石碑。ヴェルムンドの鉱山としての歴史を記したものだろう。風化して文字はほとんど読めなかったが、石碑の表面に——
アウレーリエの足が止まった。
石碑の下部に、装飾的な文様が刻まれていた。ほとんど風化で潰れかけているが、かろうじて残っている線の形は——
迷宮の結び目の文様と同じだった。
いや、完全に同じではない。細部は異なる。でも、根のように分岐するパターン、非対称な広がり方——基本的な構造が同じだった。
アウレーリエは石碑の前にしゃがみ込んだ。指先で風化した溝をなぞる。冷たい石の感触。ざらざらとした苔の手触り。
「この街ができる前から……あったの、これ……」
迷宮がこの土地に存在する以前から——少なくとも、人がここに鉱山を開く前から——この文様は存在していた。石碑に刻まれるほどに、知られていた。
ということは、迷宮の文様は迷宮が「生えた」後にできたものではない。迷宮よりも古い何かが、この文様を持っている。あるいは——迷宮そのものが、この文様に導かれて成長している。
頭の中で、断片が回転する。
母が見せてくれた石碑。別の世界の、別の場所にあった同じ文様。そしてこの世界の迷宮の結び目。
全部、繋がっている。
世界を超えて、同じ文様が存在する。それが意味することは——
「——おい、嬢ちゃん。ここで何してんだ」
声をかけられて顔を上げた。広場の掃除をしていた老人が、箒を片手にこちらを見ていた。
「この石碑を見てたの。この文様、何か知ってますか?」
「文様? ああ、そりゃ古い魔除けだよ。鉱山を開いた頃——百年以上前だな——坑道の入口にこういう模様を刻む風習があったんだ。地の精霊を鎮めるまじないだとかで」
「精霊を——鎮める?」
「そう聞いとる。まあ、今じゃ誰も信じちゃいないがな。迷宮ができてからは精霊がどうのなんて言ってる暇もなくなったし。年寄りの昔話さ」
老人は興味なさそうに箒を動かし始めた。アウレーリエは石碑の文様を日記帳にスケッチした。風化で失われた部分は推測で補い、迷宮の結び目の文様との差異を注記しておいた。
旧市街を歩き回りながら、他にも同じ文様がないか探した。古い建物の礎石、路地の奥の祠、井戸の縁——数カ所で、似た文様の痕跡を見つけた。いずれも著しく風化していて、意識して探さなければ見落とすような状態だった。
日記帳のスケッチが増えていく。一つ描くごとに、パターンの共通点と差異が浮かび上がってくる。結び目の文様と旧市街の文様は、同じ「根」から派生した変種のように見えた。幹は同じで、枝葉の形が違う。
精霊を鎮めるまじない、と老人は言った。
母が見せてくれた石碑も、同じ目的だったのだろうか。
『よく見ておきなさい、アウレーリエ。これは——』
途切れた言葉の続きが、どうしても聞こえない。
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赤虎亭に戻ると、レンが食堂にいた。帰りが早い。テーブルの上に大きな紙を広げて、何かを書き込んでいる。その表情がいつもと違うことに、アウレーリエはすぐに気づいた。
緊迫している、というのとは少し違う。覚悟を決めた人間の顔に近かった。
「おかえり、レン。ギルドでの話、どうだった?」
「座ってくれ」
アウレーリエは向かいの椅子に座った。レンの手元の紙は迷宮の概略図で、昨夜書き込んだ矢印に加えて、新しい線と記号が大量に追加されていた。
「結論から言う。私の仮説は、ヴォルフ調査官にほぼ認められた」
「本当? よかった——」
「よくない」
レンの声が硬かった。アウレーリエは口を閉じた。
「仮説が認められたということは、旧市街の地下への迷宮侵食が現実の脅威として扱われるということだ。ギルドと領主府の合同で対策会議が開かれる。最悪の場合、旧市街の住民の避難勧告が出る」
「……そんなに切迫してるの?」
「崩落区域の調査が進んで、新しいデータが出た。第四層の崩落は、迷宮の成長に伴う構造変化だという見解がほぼ確定した。そして成長の速度が——想定よりも速い」
「速い」
「これまでの迷宮拡大の記録と比較して、三倍から五倍の速度で進行しているらしい。なぜ加速しているかはわからない。だが、このまま進行すれば——」
「旧市街の地下に届く」
「早ければ数週間。遅くとも二、三ヶ月」
アウレーリエは黙って聞いていた。レンは概略図の上に指を置いた。
「ヴォルフ調査官が調査隊を編成する。目的は二つ。崩落区域の先——第四層南東部の新しい構造を確認すること。そして、迷宮の成長を制御する方法があるかどうかを探ること」
「制御する方法……あるの?」
「わからない。だが結び目が迷宮の成長に関わっているなら、結び目に何らかの介入を行うことで成長を遅延させられるかもしれない。——理論上は」
レンの声から、地図師としての冷静さが少しずつ剥がれ落ちていた。仮説の領域を超えた、未知の問題。正確な地図を描くだけでは解決できない種類の問題。
「調査隊に、レンも入るの?」
「入る。結び目の発見者として。そして——」
レンがアウレーリエを見た。
「あなたにも、参加を依頼したい。精霊術師として」
「もちろん行くよ」
即答だった。考える必要がなかった。
レンの肩から、わずかに力が抜けた。
「ヴォルフ調査官も同意している。精霊との対話能力は、結び目の調査に不可欠だと。調査隊は少数精鋭になる。ヴォルフ調査官、私、あなた、それと護衛の冒険者が数名」
「いつ?」
「崩落区域の最低限の安全確認が終わり次第。早ければ明後日」
「わかった」
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午後、アウレーリエは部屋に戻って準備をした。
トランクを開け、必要なものを確認する。蓋を開けた途端に中身が雪崩を起こすのはいつものことで、貝殻の首飾り、銀色の木の実、布人形、干し果実の袋、虹色の甲虫の抜け殻、香油の瓶——数え切れないほどの品々が寝台の上に散乱した。
「あー……」
一つ一つ拾い上げながら、トランクに戻していく。どれも捨てられない。どれも、どこかの世界の、どこかの瞬間の証だ。
手が止まった。
トランクの底の方から、一枚の紙片が出てきた。薄い羊皮紙に、細かい文字が書かれている。自分の字だ。でもインクの色が違う——今使っているものよりもずっと古い種類のインク。
読んでみた。
『大きな木の下で母さんと話した。母さんはこの世界にも結び目があると言っていた。世界と世界を繋ぐ根のようなもの。精霊はその根を通って行き来するのだと。ボクも精霊と一緒に根を辿れば、いつか全部の世界を見て回れるかもしれない。母さんは笑って、それはとても長い旅になるねと言った。ボクは平気だよと答えた。だってボクたちには時間がたくさんあるから。母さんも一緒に行こうと言ったら、母さんは少し黙って、それからボクの頭を撫でた。髪飾りの花が揺れた。赤い花』
手が震えていた。
自分が書いたものだ。間違いない。筆跡は自分のもの。でもこの記憶が——この日記の内容に対応する記憶が——ない。読んでも、その場面を思い出せない。大きな木がどんな木だったか。母の声がどんな声だったか。笑顔がどんな形だったか。何も浮かんでこない。
文字だけが残っている。記録だけが。
涙が一滴、羊皮紙に落ちた。慌てて拭ったが、インクがわずかに滲んだ。
「ごめん——」
誰に謝っているのかわからなかった。紙に対してか。過去の自分に対してか。母に対してか。
しばらくの間、寝台の上に座ったまま動けなかった。
それから、紙片をもう一度読んだ。
『世界と世界を繋ぐ根のようなもの。精霊はその根を通って行き来する』
結び目。世界を繋ぐ根。精霊の通り道。
迷宮の文様は——世界を繋ぐ根の、この世界における表出なのかもしれない。
アウレーリエが精霊の力を借りて世界を渡るとき、通っている道。その道の「結び目」が、それぞれの世界で迷宮や遺跡や石碑として現れている。
母はそのことを知っていた。
そしてアウレーリエに教えようとしていた。
何のために?
わからない。紙片にはそこまで書かれていない。その先の頁は——存在しない。日記帳が変わったのか、紛失したのか、そもそも書かなかったのか。
でも一つだけ、確かなことがある。
旅を始めた理由。忘れてしまったと思っていた理由。
全部の世界を見て回ること。結び目を辿って、世界の根を旅すること。
それ自体が目的だったのか、それとも旅の果てに何かを見つけるためだったのか——そこまではわからない。でも、出発点はここにあった。母との会話の中に。赤い花の髪飾りが揺れた、あの日の中に。
アウレーリエは紙片を丁寧に折りたたみ、日記帳の最新の頁に挟んだ。もう二度となくさないように。




