8話「追想と旅路2」
夕食の時間、食堂に降りるとレンがいた。
向かいに座ると、レンが顔を上げた。一瞬、何かを見つけたような目をした。
「……泣いたか」
「え、わかる?」
「目が赤い」
「あー……」
アウレーリエは目元を擦った。もう涙は止まっている。でも痕跡は残っていたらしい。
「大丈夫。悲しくて泣いたんじゃないよ。たぶん」
「たぶん?」
「自分でもよくわかんないの。嬉しいような、悲しいような、悔しいような——全部混ざった感じ」
レンは追及しなかった。代わりにマレーネが運んできたシチューの皿を受け取り、一つをアウレーリエの前に置いた。今夜は鶏肉と芋のシチュー。湯気が上がり、食堂の温かい光の中で白く揺れた。
スプーンを手に取りながら、アウレーリエは静かに話し始めた。
「ボクの旅の理由が、少しだけわかった」
レンの手が止まった。
「トランクの底から、昔の日記が出てきたの。すごく昔に書いたやつ。母さんと一緒にいた頃の。そこに書いてあった。世界を繋ぐ根のこと。結び目のこと」
レンは黙って聞いていた。
「迷宮の結び目と、ボクが世界を渡るときに通る道は——たぶん同じものなんだ。世界の根。精霊が行き来する通路。母さんはそのことを知ってて、ボクに教えてくれた。ボクはそれを辿って旅を始めた。——始めたはずだった」
「忘れていた」
「うん。何万年も経つと、最初の動機がぼやけちゃうんだ。旅を続けること自体が目的みたいになって、なぜ始めたのかは——水に溶けた絵の具みたいに、薄まっていく」
スプーンでシチューを掬い、口に運んだ。温かかった。
「でも今日、思い出した。全部じゃないけど、一番大事なところを。ボクは世界の根を辿ってるんだ。どこに繋がるのかはわからないけど、辿ること自体が——母さんが見せてくれた景色の続きを歩くこと、なんだと思う」
レンはしばらく何も言わなかった。シチューに目を落としたまま、考え込んでいるようだった。
やがて、低い声で言った。
「……あなたの話が本当なら、明後日の調査は——あなた個人にとっても意味があるものになる」
「うん」
「結び目に介入することで、迷宮の成長を制御できるかどうかはわからない。だが少なくとも、結び目の本質に近づくことはできるかもしれない。迷宮のためだけではなく——あなた自身の旅のためにも」
「そうだね」
「だから——」
レンが顔を上げた。灰色の目が、真っ直ぐにアウレーリエを見ていた。
「無茶はするな。結び目に近づいて、何かがあなたに影響を及ぼす可能性もある。精霊との対話の中で記憶が揺さぶられることは、今日だけでも十分に証明されている。自分を見失うな」
「レン——」
「あなたがこの街に来てから二週間だ。短い時間だ。でもその間に——私の仕事のやり方は変わった。一人で全部背負う必要はないと、あなたが教えた。だから今度は私が言う。一人で全部抱え込むな」
アウレーリエは目を瞬いた。
それから、ゆっくりと笑った。温かい、穏やかな笑みだった。
「ボクのほうが年上なのに、レンに説教されちゃった」
「年齢は関係ない」
「うん。関係ないね」
二人はシチューを食べ終え、マレーネが淹れてくれた茶を飲んだ。食堂の喧騒が夜の深まりとともに静かになっていく。酔った冒険者たちが一人、また一人と部屋に引き上げていく。暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる音だけが残った。
「ねえ、レン」
「何だ」
「調査が終わって、迷宮のことが落ち着いたら——ボクはたぶん、この世界を発つよ」
レンの手が、茶杯の縁で止まった。
「……そうか」
「次の世界に行く。結び目を辿って。それがボクの旅だから」
「わかっている」
短い答えだった。でもその声の底に沈んでいるものを、アウレーリエは聞き逃さなかった。
「レンに会えてよかった。本当に」
レンは茶杯を口に運び、一口飲んだ。それから杯をテーブルに置き、ほんの僅かだけ——本当に僅かだけ、口元を緩めた。
「……私もだ」
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翌日は終日、調査の準備に充てられた。
ヴォルフ調査官がギルドで調査隊の打ち合わせを行い、レンとアウレーリエも参加した。護衛の冒険者は三名。いずれも深層経験のある熟練者で、盾使い、剣士、弓手という構成だった。
打ち合わせの中で、アウレーリエは精霊術の能力について簡潔に説明した。索敵の範囲と精度、精霊との対話の特性、限界。ヴォルフは注意深く聞き、いくつか質問をした。
「結び目に触れたとき、精霊から情報を引き出せるか」
「前回はできました。ただ、情報の精度は保証できません。精霊の伝え方はとても抽象的なので」
「抽象的でも構わない。我々には手がかりが必要だ」
打ち合わせが終わった後、レンがアウレーリエを外に連れ出した。ギルドの裏手にある小さな中庭で、二人だけで話をした。
「一つ、渡しておきたいものがある」
レンが外套のポケットから、小さな折り畳まれた紙を取り出した。
「これは」
「第四層南東部の地図。崩落後の推定通路を含めた最新版。迷宮内で私とはぐれた場合に使え。帰り道がわかるように」
アウレーリエは紙を受け取り、広げた。レンの精密な字と線で描かれた地図。通路、分岐、道標の位置、危険箇所——すべてが正確に記されている。
「レンの地図だ」
「写しだ。原本はこっちにある」
「ありがとう。——でも、はぐれないようにするから」
「備えだ。最悪の事態を想定するのは、迷宮では当然のことだ」
レンの声は実務的だったが、地図を手渡すときの指先が少しだけ躊躇したことを、アウレーリエは感じ取っていた。
二年前の記憶。第九層で仲間を失ったこと。帰り道を見失った人。不完全な地図。
レンにとって、地図を渡すという行為には、単なる備え以上の意味がある。
「大事にする。レン」
「……ああ」
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十六日目の早朝。
調査隊は迷宮に入った。
ヴォルフ調査官を先頭に、護衛の冒険者三名、レン、アウレーリエの計六名。第一層から第三層までは慣れた道だったが、第四層に入ると空気が違った。崩落の影響で通路の構造が変わっている箇所がいくつもあり、レンが慎重に道を確認しながら進んだ。
アウレーリエは索敵を全開にしていた。地の精霊との繋がりは十六日間で最も深く、迷宮全体の気配が感覚の中に流れ込んでくる。
「前方の通路は安定しています。崩落の痕跡はあるけど、通行可能。左側の壁に亀裂が走ってるので、衝撃を与えないように」
「了解」ヴォルフが頷いた。「全員、壁に触れるな。静かに進め」
崩落区域を迂回し、洞窟に繋がる横穴を目指した。アウレーリエの索敵によれば、横穴自体は無事だった。ただし周辺の通路配置が崩落前と変わっているため、レンの地図を頼りに慎重にルートを選ぶ必要があった。
「ここだ」
レンが横穴の入口を示した。ヴォルフが内部を確認し、護衛の一人を入口に残して、残りの五人が横穴に入った。
洞窟に着いた。
ランタンの光が台座と文様を照らし出す。ヴォルフが無言で洞窟内を見回した。歴戦の地図師の目が、空間の構造を一目で把握している。
「これが結び目か」
「はい」レンが答えた。「台座根元の文様が明滅しています。前回観察時と同じリズムです」
「精霊術師」ヴォルフがアウレーリエに向いた。「始めてくれ」
アウレーリエは台座の前に膝をついた。両手を文様に触れる。
前回よりも深く。前回よりも注意深く。
精霊が応答した。地の精霊が、水の精霊が、この場所に集まっている。結び目の中心で、精霊たちの気配が渦を巻いている。
——教えて。この結び目は、どこに繋がっているの。
感覚が広がった。
根。地下深くに伸びる根。迷宮の全身を巡る脈管のような通路。その根は南東に向かって伸び続けている。成長している。加速している。
——なぜ加速しているの。
応答。
それは——呼んでいるから。
「呼んでいる?」
声に出していた。ヴォルフとレンが同時にこちらを見た。
「何が聞こえた」ヴォルフが問う。
「結び目の先に——何かが、呼んでいるそうです。迷宮の根はそれに向かって伸びている。呼ばれている方向に」
「何が呼んでいる?」
「わかりません。精霊も——正確にはわかっていないみたいです。ただ、古い。とても古いものだと」
「旧市街の地下に、何か古い遺構があるのか」
「坑道よりも古いものが——地下深くに」
沈黙が洞窟を満たした。ランタンの光が揺れ、影が壁面を這った。
「成長を止める方法は」ヴォルフが聞いた。
アウレーリエは再び精霊に問いかけた。
応答は、複雑だった。
止めることは——できない。根は伸びる。それが根の性質だから。でも——道を変えることはできる。
「完全に止めることは無理みたいです。でも、方向を変えることはできるかもしれない。結び目に働きかけて——根の向かう先を、旧市街から逸らすことが」
「具体的にどうやって」
「精霊を通じて結び目に——直接語りかける。迷宮の意志、というか成長の指向性に干渉する。ボクの精霊術で」
「リスクは」
「——わかりません。やったことがないから。でも、精霊たちは協力してくれると言っています」
ヴォルフはしばらく考え込み、それからレンを見た。
「レン。お前はどう思う」
「データが足りません。だが——他に方法がない以上、試す価値はあると思います」
レンの目がアウレーリエに向いた。
「ただし。危険を感じたら即座に中断すること。それが条件だ」
アウレーリエは頷いた。
そして台座の文様に両手を置き直し、目を閉じた。
意識を深く沈めていく。精霊との繋がりを極限まで広げ、結び目の中心に自分の意識を差し込む。
迷宮の脈動が、全身に伝わってきた。巨大な生き物の鼓動の中にいるような感覚。自分の体がとても小さく感じる。
根が伸びている。南東へ。古い何かに呼ばれて。
アウレーリエは根に語りかけた。言葉ではなく、感覚で。
——そっちじゃなくて、こっちへ。人がいない方へ。深い方へ。
根は応じなかった。呼び声の方向に引かれ続けている。
もっと強く。もっと深く。
アウレーリエは精霊術の全力を注いだ。聖槍を呼び出そうかと一瞬考えたが、今は必要ない。これは武器ではなく対話だ。力で制するのではなく——
母の声が、記憶の底から浮かび上がった。
『よく見ておきなさい、アウレーリエ。これは世界の根。全ての世界を繋ぐもの。根は止められない。でも、一緒に歩くことはできる。根が伸びる方向を、隣に立って示してあげることができる。それが精霊と生きるということ——』
途切れていた言葉の続きが、聞こえた。
泣きそうになった。でも今は泣いている場合ではない。
アウレーリエは根に寄り添った。力で押すのではなく、隣に立って歩くように。南東ではなく、もっと深い方向へ——人のいない地下深くへ——根が安全に伸びられる方向を示す。
根が、ゆっくりと応じた。
ほんの僅かだけ。成長の方向が——南東から、真下へ。数度の角度変化。だがそれは確かな変化だった。
文様の明滅のリズムが変わった。速くなり——そしてゆっくりと安定していく。新しいリズム。新しい方向。
アウレーリエは目を開けた。
視界がぐらりと揺れた。体の力が一気に抜けて、前のめりに倒れかけた。
腕が支えた。レンだった。
「アウリィ!」
「大丈夫……大丈夫。ちょっと疲れただけ。できた——向きが変わった。少しだけだけど」
レンがアウレーリエの体を支えたまま、台座の文様を見た。明滅のリズムが確かに変わっている。
「ヴォルフ調査官」レンが振り向いた。「文様の明滅パターンが変化しました。成長方向に変化があった可能性が高い」
ヴォルフは腕を組み、文様を見下ろした。その顔に、厳しくも確かな安堵が浮かんでいた。
「……検証が必要だ。だが、第一段階としては十分だ。撤収する」
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地上に戻ったのは、午後遅くだった。
アウレーリエは疲労困憊で、赤虎亭に戻るなり食堂の椅子に沈み込んだ。マレーネが何も聞かずに温かいスープを出してくれた。
「無理をした」レンが向かいに座って言った。
「うん。でも、できてよかった」
「結果は数日かけて検証する。地下の観測点からのデータが揃えば、成長方向の変化を数値で確認できる」
「うん……」
体は疲れていたが、心は凪いでいた。
母の言葉を思い出したからだ。途切れていた言葉の続き。世界の根と一緒に歩くこと。精霊と生きるということ。あの言葉が聞こえた瞬間、旅の意味が——ほんの少しだけ——輪郭を取り戻した気がした。
全部を思い出したわけではない。母の顔はまだ見えない。旅の最終的な目的もまだわからない。でも、一つだけ確かなものが手に入った。
自分は世界の根を辿っている。隣に立って、一緒に歩いている。それがアウレーリエ・リュコーリアスの旅だ。
「レン」
「何だ」
「ありがとう」
「何に対して」
「全部に。ボクをここに連れてきてくれたこと。地図を見せてくれたこと。一緒に迷宮に行ってくれたこと。記録は思い出すための道標だって言ってくれたこと」
レンは目を逸らした。でも、口元が動いた。
「……礼を言うのは私の方だ。あなたが来なければ、結び目は見つけられなかった。旧市街の危機も予見できなかった。迷宮の成長方向を変えることも」
「二人で見つけたんだよ」
「……ああ。二人で」




