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9話「追想と旅路3」

ヴェルムンド二十日目。


観測データが集まり、迷宮の成長方向の変化が確認された。完全に旧市街を逸れたわけではなかったが、成長の軸は明確に下方へ偏向していた。ギルドと領主府は追加の介入措置を検討しつつも、当面の危機は回避されたとの見解を出した。


旧市街の住民に避難勧告が出ることはなかった。


アウレーリエはその知らせを聞いて、静かに笑った。


そしてその夜、レンに告げた。


「そろそろ発つよ」


食堂の隅のテーブル。二人だけの時間。暖炉の火がぱちぱちと音を立てている。


レンは答えなかった。しばらくの沈黙の後、手元の茶杯に目を落としたまま聞いた。


「いつ」


「明後日の朝。準備が済んだら」


「……そうか」


「レンは怒る?」


「なぜ怒る」


「わかんない。でも、急だなって思うかもしれないから」


「急ではない。あなたは最初から旅人だった。ここに留まる人間ではないと——最初からわかっていた」


レンの声は平坦だったが、茶杯を持つ指に力が入っていた。アウレーリエにはそれが見えていた。


「レン。ボクね——」


「言わなくていい」


「聞いて。大事なことだから」


レンが顔を上げた。灰色の目が、暖炉の光を受けて琥珀色に揺れていた。


「ボクはたくさんの世界を旅してきた。たくさんの人に会って、たくさんの場所を見て、たくさんの別れをしてきた。数え切れないくらい。でもね——慣れないんだ、これだけは。何万年経っても」


「……」


「レンと過ごした二十日間は、ボクの旅の中で——とても大事な二十日間だった。母さんの言葉を思い出せたのも、旅の意味が少しわかったのも、全部この世界のおかげ。レンのおかげ」


「私は何もしていない。地図を描いて、報告書を書いて——」


「そうやってレンが正確に記録してくれたから、ボクは自分の記録を見直す気持ちになれたんだよ。レンの地図が道標になったみたいに、レンの姿がボクの道標になった。記録を続けることの意味を、レンが教えてくれた」


レンが唇を噛んだ。ほんの一瞬。


「ボクのことは日記に書くよ。レンのことも。この世界のことも。全部。忘れないように——忘れても思い出せるように。ボクの日記帳の中に、レンの名前がずっと残る」


「……記録は思い出すための道標だと——私が言ったのか」


「レンが言ったんだよ」


「そうか。なら——」


レンは外套のポケットに手を入れた。何かを探り、取り出す。


小さな深層灯石だった。


初日にアウレーリエが露店で貰ったものとは少し色が違う。もう少し深い藍色で、光が強い。


「第七層のものだ。私が初めて第七層に到達したときに持ち帰った。——お守りのようなものだった」


「レン——」


「持っていけ。あなたの蒐集品に加えてくれ」


アウレーリエは灯石を受け取った。掌の上で、藍色の光が穏やかに灯った。


「……荷物が増えるよ」


「構わない」


「壺も瓶も石も増えるよ」


「構わない」


アウレーリエの目から涙がこぼれた。笑いながら泣いていた。


「ありがとう、レン。大事にする。絶対に」


レンは何も言わなかった。ただ、その口元に——これまでで一番はっきりとした笑みが浮かんでいた。


--------------------------------------------


二十二日目の朝。


アウレーリエは赤虎亭の前に立っていた。トランクを背負い、マントを肩にかけ、旅の装備を整えて。


マレーネが扉の前で腕を組んでいた。


「もう行くのかい」


「うん。マレーネ、お世話になりました。ご飯、全部美味しかった」


「当たり前だ。うちの飯を不味いなんて言う奴がいたら、鍋で殴る」


マレーネはアウレーリエの頭をがしがしと撫でた。乱暴だが温かい手だった。


「気をつけな。どこに行くのか知らないけど、腹が減ったら食え。それだけだ」


「うん。ありがとう、マレーネ」


マレーネが中に戻った後、レンが出てきた。


いつもの灰色の外套。革鎧。短剣。ただし今朝は——帳面も炭筆も持っていなかった。地図師の道具を置いて、ただ一人の人間として、ここに立っている。


二人は向かい合った。


「元気でね、レン」


「……ああ」


「地図、描き続けてね。レンの地図は誰かの道標になるから」


「言われなくてもそうする」


「うん。知ってる」


朝の光が石畳を照らしている。運河の水面が光を反射して、建物の壁にゆらゆらと波紋を投げかけている。街はいつもの朝を始めている。


アウレーリエはベルトポーチに手を入れ、深層灯石——初日に露店で貰った方——を取り出した。


「これ、レンにあげる」


「……何?」


「ボクがこの世界で最初に手に入れたもの。ヴェルムンドに来た日の記念。レンに持っていてほしい。ボクの代わりに——ボクがここにいたって証に」


レンは灯石を受け取った。淡い青の光が、朝日の中でほんのりと輝いている。


「……交換か」


「うん。交換。レンの藍色の石はボクが持ってく。ボクの青い石はレンが持ってて。そしたら——」


「離れていても繋がっている——とでも言うつもりか」


「違うの?」


レンは灯石を握り込み、外套のポケットにしまった。


「……違わない」


アウレーリエは笑った。いつもの天真爛漫な笑顔で。でもその中に、二十二日間で積み重ねたものの全部が入っていた。


「じゃあね、レン」


「——ああ。達者で」


アウレーリエは踵を返し、通りを歩き出した。街の外れへ。人の少ない場所へ。精霊に呼びかけ、次の世界への道を開くために。


数歩歩いて、振り返った。


レンはまだそこに立っていた。朝日を背に、灰色の外套を風になびかせて。その顔が——泣いてはいなかった。ただ、とても静かな表情をしていた。


アウレーリエは片手を上げた。大きく振った。


レンが、ぎこちなく片手を上げた。小さく、一度だけ振った。


それだけで十分だった。


--------------------------------------------


街の外れの丘の上。


ヴェルムンドの街並みが眼下に広がっている。石造りの建物、赤茶色の屋根、青緑色に光る運河、迷宮区画の入口。そしてその全ての下に、今も脈打ち続けている巨大な迷宮。


アウレーリエはトランクを降ろし、マントを風になびかせながら日記帳を開いた。


最後の頁に、書く。


『ヴェルムンドの旅、おわり。二十二日間。迷宮の結び目を見つけた。世界の根のことを知った。母さんの言葉を思い出した。全部じゃないけど、大事なところを。レンに出会った。地図師のレン。無口で、正確で、不器用に優しい人。記録は思い出すための道標だと、彼女が教えてくれた。レンから貰った深層灯石、藍色のやつ。ボクの宝物。トランクには入れない。ベルトポーチに入れて、いつも持ち歩く。レンにはボクの青い石を渡した。交換。離れていても繋がっている石。今回もたくさんの物が増えた。蜂蜜の壺、香油の瓶、虹色の甲虫の殻、古い硬貨。全部大事。全部ここにいた証。捨てられない。捨てたくない。この悪癖は一生——一生よりずっと長いけど——治らないと思う。でもそれでいい。増え続ける荷物の一つ一つが、旅の道標だから。次の世界がどんな場所かはまだわからない。でも、また結び目を見つけるかもしれない。母さんが教えてくれたことの続きが、見つかるかもしれない。楽しみだな。ボクの旅はまだ続く。ずっとずっと、続く』


日記帳を閉じた。


ベルトポーチの中の藍色の灯石に触れた。ほんのりと温かかった。


髪飾りに触れた。赤い彼岸花。母の記憶。まだ顔は見えない。でも声が——ほんの少しだけ、近くなった気がする。


目を閉じて、精霊に呼びかけた。


——次の世界へ。


応答があった。世界の根が足元で脈打つ。精霊たちがアウレーリエを包み込み、虚空の道を開いていく。


風が強くなった。マントが大きく翻り、黄色い裏地が朝日を受けて輝いた。


足元の感覚が変わる。石畳が溶け、硬さが消えていく。浮遊感が戻ってくる。世界と世界の狭間の、柔らかな虚空。


最後に、目を開けた。


丘の下にヴェルムンドの街が見えた。朝の光に包まれた石の街。運河の水面がきらきらと光っている。どこかで鐘の音が鳴った。


良い世界だった。


アウレーリエ・リュコーリアスは笑って、次の世界へ踏み出した。


--------------------------------------------


赤虎亭の食堂で、レンは外套のポケットの中の灯石を握っていた。


テーブルの上には新しい地図の紙が広げてある。第四層南東部、崩落後の更新版。余白に、小さな文字で書き添えられた注釈。


『結び目——発見者:レン・フォーゲル、及び旅の精霊術師アウリィ』


灯石の青い光が、ポケットの中で静かに灯っていた。


レンは炭筆を手に取り、地図の続きを描き始めた。

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