表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/39

後日談「道標の灯」

レン・フォーゲルは夜明け前に目を覚ます。


それは三年前にこの街に来てからずっとそうだったし、あの旅人が去ってから四ヶ月が過ぎた今もそうだった。五時に起き、顔を洗い、革鎧を身につけ、短剣を腰の後ろに差す。外套を羽織り、帳面と炭筆を鞄に入れ、一階に降りる。


変わらない朝の手順。ただ一つだけ違うのは、階段を降りるとき、向かいの席に誰かが座っている光景を一瞬だけ思い浮かべてしまうことだった。黄金の髪と赤い髪飾り。パンに蜂蜜を塗りすぎる小さな手。子どもではないと怒る黄色い目。


四ヶ月経っても、その癖は抜けない。


「おはよう、レン。今日も早いね」


マレーネの声で意識が引き戻される。いつもの席に座ると、温かい茶と硬いパンが出てきた。蜂蜜の小壺はない。あれはアウレーリエのために出していたもので、レンが頼んだことは一度もなかった。


「マレーネ」


「ん?」


「……蜂蜜を」


マレーネの手が一瞬止まった。それからにやりと笑って、棚から小壺を取り出した。


「あの子の影響かい」


「パンに合うと思っただけだ」


「はいはい」


蜂蜜をパンに塗った。鉱物的な癖のある甘さが口に広がる。美味いと思った。前から美味いと思っていたが、言葉にしたことがなかった。


言葉にする意味を教えたのは、あの旅人だった。


--------------------------------------------


朝食を終えて赤虎亭を出ると、初冬の冷たい空気が頬を刺した。四ヶ月前にアウレーリエが発った日は晩夏の陽気だったが、季節はすっかり変わっている。運河の水面から薄い霧が立ち上り、灯石の青い光がぼんやりと滲んでいた。


迷宮区画の入口に向かう道すがら、露店の前を通りかかった。


灯石を売っていた露店だ。太った店主の姿はまだない。早朝だから当然だが、通り過ぎるたびにあの日のことを思い出す。銀貨三枚の深層灯石をサービスで渡した店主と、両手で受け取って頬を緩めた旅人。あの一個の石が、今はレンの外套のポケットに入っている。


灯石に触れた。冷たい石の表面。でも光はいつも温かい。


「……行くか」


--------------------------------------------


第四層南東部の崩落区域は、三ヶ月前に封鎖が解除されていた。


通路の配置は崩落前とは大きく変わり、レンは何度も足を運んで地図を更新した。新しい通路、消えた通路、変化した壁面。迷宮は生きている。成長し、変化し、脈動し続けている。


あの日アウレーリエが結び目に働きかけてから、迷宮の成長方向は確かに変わった。南東への侵食は大幅に減速し、代わりに真下への拡張が加速した。第十二層の下に新たな空間が生まれつつあるという報告が、先週ギルドに上がっている。未知の第十三層。


旧市街は守られた。少なくとも当面は。


レンは横穴を通り、洞窟に入った。ランタンの光が台座と文様を照らす。四ヶ月前と変わらない光景——いや、一つだけ変わっていた。


文様の明滅のリズム。


アウレーリエが介入した後に変わったリズムは、あれからさらに変化を続けていた。以前よりも穏やかで、深く、遅い脈動。まるで——眠りについたように。


レンは台座の前にしゃがみ、帳面を広げた。明滅の周期を計測し、数字を書き込む。前回の計測値と比較する。


「誤差〇・三秒。安定している」


独り言だった。が、以前ほど無味乾燥な独り言ではなくなっている自覚があった。誰もいない洞窟で声を出すのは、隣にいた誰かの影響だ。


計測を終えて帳面を閉じ、立ち上がる。本来ならこれで帰るところだ。月に一度の定期観測。それがレンに課された任務だった。


だが今日は、少しだけ足を止めた。


鞄の中から、一枚の紙を取り出す。封筒に入れた手紙——ではない。レンはそういうものを書く性分ではない。それは地図だった。


洞窟内部の精密な地図。台座の位置、文様の配置、通気口の方角、北西の亀裂から続く第五層への未登録接続路。すべてが正確に、丹念に描き込まれている。ただし、通常の地図にはない要素が一つ加えられていた。


余白に、小さな文字。


『この洞窟を発見したのは私一人ではない。旅の精霊術師アウリィが同行し、結び目の性質を解明した。彼女がいなければ、この場所はただの空洞として記録に埋もれていただろう。地図は道を記録する。だが道に意味を与えるのは、そこを歩いた人間だ。この地図を手に取る誰かが、いつかまた新しい意味を見つけることを願う。——レン・フォーゲル、地図師ギルド所属』


地図を封筒に入れ、ギルドの公文書保管庫に提出するための正式な書式で封をした。これは個人の感傷ではない。地図師としての記録だ。


そう自分に言い聞かせた。


信じてはいなかったが。


--------------------------------------------


地上に戻ると、昼を過ぎていた。


ギルドに立ち寄って定期観測の報告書と地図を提出し、赤虎亭に戻る。食堂はまだ昼の賑わいの中にあった。冒険者たちが卓を囲み、迷宮の話をしている。素材の値段がどうだ、第九層の新区画がどうだ——日常の喧騒。


レンがいつもの席に座ると、マレーネが昼食を運んできた。豆のスープと黒パン。


「ギルドに寄ってきたのかい」


「定期観測の報告」


「あの洞窟?」


「ああ」


マレーネは皿を置きながら、何気ない調子で言った。


「あの子のこと、まだ考えてるだろう」


「別に」


「嘘おっしゃい。蜂蜜を頼むようになったのも、独り言が増えたのも、全部あの子が来てからだ。三年間一言も無駄口叩かなかった女が、急に人間らしくなったんだから、わかるよ」


レンはスープに目を落とした。


「……人間らしくなかった自覚はある」


「過去形で言うんじゃないよ。今も十分に不愛想だ。ただ、前よりはまし」


マレーネはテーブルに手をついて、レンの顔を覗き込んだ。


「寂しいんだろう」


「……仕事に支障はない」


「支障があるかないかの話はしてない。寂しいかどうかの話をしてるんだ」


レンは答えなかった。マレーネはふんと鼻を鳴らして、厨房に引っ込んだ。


スープを啜りながら、レンは外套のポケットの中の灯石をそっと握った。


寂しい、という言葉が正確かどうかはわからない。欠落感はある。二十二日間だけ隣にいた存在が消えた後の、形のはっきりした空白。それは寂しさかもしれないし、もっと別の——名前のない何かかもしれない。


でも、それを不幸だとは思わなかった。


あの二十二日間があったことを、一度も後悔していない。


空白がある。それは、そこに何かがあった証拠だ。


レンは自分が何に似ているかを知っていた。地図の余白だ。何も描かれていない余白は、かつてそこに道がなかったことを意味するのではない。まだ誰も歩いていない道が、これからそこに生まれる可能性を意味している。


アウレーリエはどこかの世界を歩いている。結び目を辿って、世界の根を旅している。レンにはその旅路を想像することしかできないが、想像の中のアウレーリエはいつも笑っていた。知らないものを見つけて目を輝かせ、蒐集品を増やし、日記帳に一日の終わりを書き留めている。


それでいい。それがあの旅人の在り方だ。


レンの在り方は、ここにある。地図を描くこと。道を記録すること。帰り道を示す道標を作り続けること。


二年前に第九層で失った仲間のために。


二十二日間だけ隣にいた旅人のために。


そしてこれから迷宮を歩くすべての人のために。


--------------------------------------------


その日の夜。


レンは部屋に戻り、机の上にランタンを灯した。明日の作業の準備——第六層東側の定期更新のための地図を確認する。通路の幅、天井の高さ、分岐の角度。炭筆が紙の上を走る。


作業の合間に、ふとポケットから灯石を取り出した。


水差しの水を少し皿に注ぎ、石を沈めてみた。


青い光が強まった。水面が揺れ、光の波紋が天井に映る。あの旅人が赤虎亭の部屋で毎晩やっていたという、あの光。


レンはそれを初めて自分の部屋で再現した。四ヶ月間、一度もやらなかった。石はポケットの中にしまったまま、取り出すのは握るときだけだった。


水に沈んだ灯石の光を見つめる。


青い光。穏やかで、静かで、どこか懐かしい光。


ランタンを消した。灯石の光だけが部屋を満たした。壁に、天井に、水紋の影がゆらゆらと揺れる。


「……きれいだな」


声に出して言った。誰もいない部屋で。


アウレーリエならこう言うだろう。「でしょ?」と。あの屈託のない笑顔で。


レンは小さく息をついて、目を閉じた。


瞼の裏に青い光が残像として揺れていた。それはやがて、記憶の中の黄金の髪に重なり、溶けて、消えた。


消えたのではない。沈んだのだ。記憶の底に。道標として。いつか取り出せるように。


--------------------------------------------


翌朝。


レンは六時に食堂に降りた。いつもの席に座り、マレーネが出した朝食を食べる。硬いパンと干し肉と茶。そして——蜂蜜。


「マレーネ」


「何だい」


「美味い」


マレーネの太い腕が一瞬止まった。それから、皺だらけの顔に満面の笑みが広がった。


「……そうかい。そりゃよかった」


レンはパンを齧り、茶を飲み、鞄を肩にかけて立ち上がった。迷宮区画の入口に向かう。今日も地図を描く。明日も。明後日も。正確に。丹念に。道を歩く誰かのために。


外套のポケットの中で、青い灯石が静かに光っていた。


--------------------------------------------


同じ頃。


名前も知らない世界の、名前も知らない草原の真ん中で、アウレーリエ・リュコーリアスは目を覚ました。


見上げた空は、見たことのない色をしていた。薄い紫と橙が層になって重なり、二つの太陽が地平線の反対側からそれぞれ昇ろうとしている。


「わあ」


起き上がって、草の上に座ったまま空を見つめた。風が吹いて、マントの裏地の黄色が翻る。草の匂い。知らない花の匂い。遠くで何かの鳥が鳴いている。


ベルトポーチに手を入れた。藍色の深層灯石が指先に触れた。


「おはよう」


灯石に向かって呟いた。誰に言っているのか——石に対してか、石をくれた人に対してか、自分自身に対してか。たぶん全部。


日記帳を取り出した。新しい頁を開き、鉛筆を握る。


『新しい世界、一日目。草原。空が紫と橙の二層で、太陽が二つある。草の匂いがいい。風が暖かい。レンの灯石は今日も光ってる。ボクは元気だよ』


最後の一文は、日記に書く必要のないことだった。レンがこの日記を読むことは、おそらくない。でも書いておきたかった。書くことで、あの灰色の目をした地図師が、どこか遠い街でまだ地図を描いていることを思い出せるから。


記録は思い出すための道標だ。


アウレーリエは日記帳を閉じ、立ち上がった。トランクを背負い、草原の向こうに見える森の輪郭を確かめる。あそこに行ってみよう。何があるかわからない。でもそれがいい。


歩き出す前に、もう一度だけ空を見上げた。


二つの太陽が昇りきって、紫と橙の空が透明な青に変わりつつあった。ヴェルムンドの空とは全然違う色。でも空は空だ。どの世界でも、見上げれば空がある。


「さ、行こう」


アウレーリエは軽い足取りで歩き出した。


赤い彼岸花の髪飾りが、風に揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ