1話「石の芽の市場」
足の裏に、硬いものと柔いものが同時に触れた。
アウリィは目を開けた。靴底の下に石畳があるのはわかる。けれどその継ぎ目を白い菌糸が這い、ところどころ盛り上がって、踏むとわずかに弾力を返してくる。
「……ふうん」
声が漏れた。あたりを見まわす。
建物の間に、塔が生えていた。
正確には、それを塔と呼んでいいのかも怪しい。石と菌糸が絡み合い、地面を割って垂直に伸び上がった柱のようなもの。高さは二階建ての屋根を軽く越え、先端がゆるく傾いでいる。表面には鱗のような石片がびっしりと重なり、その隙間から糸状の白い何かがはみ出して風に揺れていた。
一本ではなかった。通りの先にも、広場にも、見える範囲だけで五つ、六つ。どれも微妙に太さや傾きが違い、まるで巨大な樹の若芽が一斉に地上へ顔を出したような光景だった。
「すごい」
アウリィは数歩走って、いちばん近い塔の根元にしゃがみこんだ。石畳を押し割って突き出した断面を指でなぞる。硬い。石そのものだ。でもその上にまとわりつく白い菌糸は確かに生きていて、触ると微かにぬるい温もりがあった。
足元から何かが応えた。
ささやきというほど明瞭でもない。ただ気配が、地面の下からふわりと持ち上がってくる感触。精霊に呼びかけたつもりはなかったのに、向こうから触れてくるような——
「おっと」
慌てて意識を引き戻す。迷宮が近い世界では、精霊との境界が薄いことがある。ここはそれが特に近い。呼ぶ前に応えようとしてくる。便利そうだし、厄介そうだ。
アウリィは立ち上がって、マントの裏地を払った。赤い表地がひるがえって、一瞬だけ裏の黄色が見える。何度目の世界か、もう正確には数えていない。ただ日記帳にはこれから書く。この塔のこと。この匂いのこと。
湿った石と、かすかに甘い腐葉の気配。嫌な匂いではなかった。生きているものが静かに朽ちて、また静かに育っていく、そういう循環の只中にある匂い。
通りを歩き始めると、人の暮らしが見えてきた。
石造りの家並みは、どれも低く頑丈に造られている。窓が小さいのは、塔が近すぎる場所では家ごと呑まれることがあるからだろうか。実際、通りの角を曲がったところで、壁の半分が塔に取り込まれた家を見た。石壁と塔の石片が途中で融合して、もうどこまでが家でどこからが塔なのかわからない。窓枠だけが歪んだ口のように残っていて、そこから菌糸が垂れ下がっている。
人が住んでいた気配は、まだかろうじてあった。軒先に取り残された乾いた靴紐。菌糸に半ば埋もれた表札の、読めない文字。
アウリィはしばらくそこに立ち止まった。髪飾りの赤い花弁に指を触れる癖が出て、自分で気づいてやめた。
——行こう。まず市場を探そう。
世界に来たらまずすることは決まっている。人が集まる場所を見つけて、空気を読む。物を売り買いしている場所には、その世界の事情が全部詰まっている。
広場は、塔のすぐ隣にあった。
むしろ塔を中心にして広場が形づくられていると言ったほうが近い。いちばん太い塔の根元をぐるりと囲むように露店が並び、天幕の端が塔の表面に直接結びつけられている。石片をフックの代わりに使っているらしかった。
売られているものがいちいち面白い。菌糸を圧縮して板状に固めたもの。石片を薄く剥がした容器。半透明の樹液が小壜に詰められて日光に透けている。食料品に混じって、明らかに迷宮から採ってきたらしい鉱石や結晶がごろごろ転がっている。
アウリィはまず樹液の小壜に釘付けになった。
「きれい……」
光にかざすと、琥珀色の液体の中にごく小さな泡が動いている。泡というより、光の粒。ゆっくりと沈んで、またゆっくりと浮き上がる。生きているみたいだった。
「触るなら買って」
声が横から来た。短くて低い。少女の声だった。
顔を上げると、露店の奥に座っている人影と目が合った。
アウリィより頭ひとつぶん高い。年の頃は人間なら十六、七に見える。黒い髪を無造作に後ろで束ねて、革の前掛けをしている。日に焼けた指先が帳面の上で止まっていた。何か書いていたらしい。
目が合っても、笑わなかった。
値踏みするように見ている。アウリィの髪飾り、マント、ベルトポーチ、ブーツ。順番にゆっくりと視線を動かして、最後に顔に戻ってきた。
「旅の人?」
「うん」
「壜は銀貨三枚。中身は迷宮の二層で採れる滲み樹液。飲めないし、塗れない。見て楽しむだけ」
ずいぶん実用から遠い商品だなとアウリィは思ったが、そこが気に入った。見て楽しむだけのものを売っている子は、きっと嫌いじゃない。
「この光の粒って何?」
「知らない。精霊の滓だっていう人もいる。勝手に動いてるだけ」
「勝手に動くのは精霊じゃないよ。もう少し——そう、何ていうか、反応が鈍い感じ。残り香みたいな」
少女の目がわずかに動いた。初めて表情らしきものが混じる。興味なのか警戒なのか、アウリィにはまだ読めなかった。
「詳しいの」
「詳しいっていうか、長いこと旅してるから。いろんな世界のいろんな精霊に会ったし」
「いろんな世界」
繰り返し方が平坦だった。信じていないのではなく、判断を保留している、という声だった。
「ボクはアウリィ。ここの町の名前、まだ聞いてないんだけど」
「エッサ」
町の名前なのか自分の名前なのかわからなかった。
「えっと——」
「町の名前。私はセラ」
「セラ。ありがとう。エッサって、この塔と一緒にできた町?」
「逆。町が先。塔が後から生えた」
セラはそれだけ言って、帳面に目を戻した。会話終了、という空気を全身で発している。
アウリィはまったく気にしなかった。
「この壜、ひとつもらうね。それと、あっちの石片の薄いの——あれ何に使うの?」
「器。干し肉を載せる」
「干し肉専用?」
「別に何でもいい。丈夫で軽いから迷宮に持っていくのに向いてる」
「へえ。じゃあそれもひとつ」
ベルトポーチから宝石を一粒取り出して、掌に載せた。小さな翠玉石。どこかの世界で拾った、換金しやすい種類のもの。
セラが翠玉石をじっと見て、指で弾いた。
「これ本物?」
「本物だよ。少なくとも、ボクがいた世界ではね」
「——銀貨で五枚分くらいか。壜と器で足りる。釣りはいらない?」
「うん、いらない」
セラは翠玉石を布で包んで手元の箱に入れた。動作が几帳面で迷いがない。帳面に何かを書き足している。取引の記録だろう。字が小さくて丁寧だった。
アウリィは壜を光にかざしながら、露店の品揃えをもう一度眺めた。菌糸の板、石片の器、樹液、乾燥した蔓の束。どれも迷宮から採ってきたものだ。
「セラは自分で潜るの? 迷宮」
「たまに。浅い層なら」
「ひとりで?」
「組んだほうが安全なのはわかってる。でも人に合わせると遅い」
口が悪いのではなく、たぶんこれが素だ。必要なことだけ言って、飾らない。そういう子なんだな、とアウリィは思った。
それから、少し離れた場所に座って壜を眺めながら、行き交う人を見ていた。
市場の客は多くない。冒険者風の装備をした数人が塔の根元から戻ってきて、素材を並べている。石片や菌糸の塊、変わった形の鉱石。買い取る露店の主人たちは慣れた手つきで品定めをして、相場を口にする。芽を刈る、と誰かが言った。今朝がた東の区画で新しいのが出たから、午後には剪定に入る、と。
塔は放っておくと際限なく育つらしい。刈るという言葉が自然に使われていることが、この町の日常を物語っていた。
壜の中で光の粒がゆっくりと浮沈している。アウリィはそれを見つめながら、地面の下の気配をもう一度感じた。呼んでいないのに、精霊たちが足の裏あたりまで上がってきている。くすぐったい。
「ねえ」
声がして顔を上げると、セラが立っていた。前掛けを外している。手に帳面とは違う、古びた別の帳面を持っていた。
「あんた、精霊が見えるの」
「見えるっていうか——うん、まあ、感じる。ここのは特に近い。足元にいっぱいいるよ」
セラは少し黙った。それから、古い帳面を軽く持ち上げた。
「これ、父さんの帳面。仕入れの記録。最後のページに——」
そこで口を閉じた。言いかけてやめた、のではない。言うべき言葉を選んでいる顔だった。
アウリィは待った。
「……東の区画に、前はうちがあった。塔に半分持っていかれて、今は誰も住んでない。父さんはそこで消えた。たぶん地下に落ちた」
「探してるの?」
「帳面。もう一冊あるはずなの。父さんがずっと持ち歩いてたやつ。仕入先とか、取引先とか、全部書いてあった」
「お父さんじゃなくて、帳面を?」
聞き返した瞬間、セラの目が鋭くなった。
「父さんはもう三年前の話。生きてるとは思ってない」
声は平坦だった。でも帳面を持つ指先が白かった。
アウリィはそれ以上踏み込まなかった。代わりに壜を片手に立ち上がって、セラのほうを見上げた。見上げるのには慣れている。大抵の人間はアウリィより背が高い。
「——ちっちゃいね、あんた」
「それ、ボクに言わないほうがいいよ」
にこにこしたまま言ったが、声に少しだけ棘があった。
セラが一瞬、きょとんとした。それからかすかに——ほんのかすかに——口の端が動いた。笑ったのかもしれない。すぐ消えたからわからなかったけれど。
「……悪かった」
「許す。で、その地下、ひとりで行くつもり?」
「まだ決めてない」
「嘘だ。前掛け外してるし、帳面もう持ってるし、行く気でしょ」
セラは答えなかった。ただ少し間を置いて、アウリィのブーツを見た。龍の革で造られた、見た目より遥かに丈夫なもの。それからベルトポーチ、マント。さっきと同じ値踏みの目。
「あんたが来て何になるの」
「精霊の気配が読めるから、道に迷いにくい。索敵もできる。あと戦えるよ、一応」
「一応」
「謙遜。けっこう強い」
セラの目が細くなった。まだ信じていない。でも、断らなかった。
「——邪魔したら置いていく」
「しないよ。むしろボクのほうが先に行きたがるかも。知らない場所に潜るの、すごく好きだから」
「好きで潜るやつが一番危ない」
「それはそう」
アウリィは笑った。セラは笑わなかった。でも背を向けて歩き出したということは、ついてこい、という意味だ。
市場を離れると、塔に呑まれた家並みが見えてきた。広場からそう遠くない。ほんの数本の通りを隔てただけで、暮らしの気配がすとんと消える。家の壁が塔に融合して、窓が塞がれ、軒が歪み、道が菌糸に覆われて白くなっている。
夕方の光が塔の表面に当たって、石片がぼんやり光った。
アウリィはポーチの日記帳に手を触れた。今夜、書くことがたくさんある。この町のこと。この塔のこと。壜の中の光の粒のこと。
それから、黙って前を歩く少女の、背中のこと。




