2話「根道の底へ」
半分だけ残った家の前で、セラは足を止めた。
壁の右半分がまだ立っている。左半分は塔に呑まれて、石片と菌糸のうねりの中に消えていた。玄関があったらしい場所は完全に塞がれていたが、右壁の裾に、人ひとりが屈めば通れるほどの穴が口を開けている。
「ここから入る」
セラは言いながら、腰の袋から火石を取り出した。こぶし大の鉱石で、表面を擦ると淡い白光を放つ。迷宮素材のひとつらしい。
「前にも入ったことある?」
「二回。どっちも浅い場所まで」
「どうして奥に行かなかったの」
「道が分かれて、わからなくなった」
短く、事実だけを答える。セラの癖だった。でもその事実の裏側に何があるか、アウリィにはもう少しだけ見えている。ひとりで来て、ひとりで迷って、ひとりで引き返した。二度も。
セラが穴の縁にしゃがみこんで中を覗いている間に、アウリィはそっと意識を足元に沈めた。
応答は即座だった。
精霊というより、気配の塊。地面の下にびっしりと詰まった何かが、アウリィの意識に触れた途端にざわりと動く。嬉しそうですらある。呼ばれた、と思っているのか、あるいはただ近くに来たものに反応しているだけなのか。
——近すぎるな、やっぱり。
呼吸をひとつ整えて、境界をはっきりさせる。こちらが精霊で、こちらがボク。馴染みのない世界の精霊と話すときの基本。ただ、ここの精霊たちはその線引きをあまり理解していないらしく、するりと滲んでこようとする。
「アウリィ」
セラの声で意識を戻した。
「ん。ごめん、ちょっと下の様子を探ってた」
「何かいる?」
「いるっていうか——この下、全部いる。迷宮そのものが精霊の巣みたいになってる」
セラの表情は変わらなかった。知っていたのかもしれないし、興味がないのかもしれない。ただ、次にやったことでアウリィは少し驚いた。
セラがアウリィの腰のベルトを指して言った。
「ポーチの留め金、緩い。締めて」
「え? ああ、本当だ」
「あと裾」
マントの裾を指している。穴に入るとき引っかかる、という意味だろう。アウリィが裾をたくし上げてブーツの中に押し込むと、セラは自分の袋の紐もきゅっと締め直してから、先に穴に体を入れた。
声をかけて心配するのではなく、装備を見て指摘する。そういう気遣いの仕方をする子だった。
穴を抜けると、かつての居間だったらしい空間に出た。天井の半分が崩れて、塔の石片が斜めに突き刺さっている。床には菌糸が薄く積もって白い絨毯のようで、踏むと乾いた音がした。
火石の光が壁を照らす。棚の残骸。割れた壺。布が何かの下敷きになって端だけ覗いている。
セラは棚の残骸を一瞥して、何も言わずに通り過ぎた。
「セラ。ここが、お家?」
「ここは隣の家。うちはもう少し奥。繋がってる」
潰れた壁の向こうに、さらに空間が続いていた。家と家の仕切りが崩れて、いくつかの部屋がひとつの洞穴のように連なっている。塔がすべてを串刺しにして繋げてしまったのだ。
三つめの部屋に入ったとき、セラの歩調がわずかに落ちた。
アウリィは気づいたが、何も言わなかった。
その部屋は他より少し広かった。壁の一面に焦げ跡のようなものがある。いや、煤ではない。菌糸が繁殖しすぎて黒ずんだ痕だ。天井は完全に塔に吞まれていて、見上げると石片の隙間から菌糸が垂れ下がり、火石の光をぼんやり反射していた。
「ここが」
「うちの台所だった」
セラの声は変わらなかった。でも足が止まっている。火石を持つ手が、角度を変えて部屋の隅々を照らした。何かを探しているのがわかる。
「帳面は台所に?」
「わからない。父さんはいつも持ち歩いてた。でも最後に見かけたのは台所の棚の上で——棚がない」
確かに、その壁際には棚の支えだった金具だけが残っていて、棚板そのものは崩れて菌糸に埋もれていた。
アウリィは屈んで、菌糸の層の下を手探りした。板の断片、錆びた金具、欠けた陶器の破片。帳面のようなものは触れない。
「もっと下かも。地面ごと沈んでる可能性がある」
セラが部屋の奥を指した。床の一部がごっそり抜け落ちて、暗い穴が開いている。穴の縁に菌糸が垂れ下がり、その先は火石の光でも届かなかった。
「前はここまで来た。この先が、根っこの道」
「根道」
「地元じゃそう呼んでる。塔の根が伸びた跡に沿って空洞ができてる。迷宮の浅い層につながってるらしい」
アウリィは穴の縁に立って、下を覗いた。
精霊の気配が、下から吹き上がってきた。
さっきまでの足裏のくすぐったさとは段違いだった。穴の下には、もっと濃い何かがいる。いくつもの気配が層になって重なっていて、アウリィの意識に触れた途端、一斉にこちらを向いた。
「——」
思わず半歩下がった。
「どうしたの」
「下、かなり深い。精霊の密度が全然違う。ここの上と比べものにならない」
セラがじっとアウリィを見た。
「危ない?」
「危なくはない——と思う。たぶん。ただ、ボクが呼びかけると全部応えちゃうから、加減が難しい。索敵に使おうとしたら、周りの精霊がわっと集まって、肝心の情報が埋もれるかも」
「使えないってこと?」
「使えなくはないけど、精度は落ちる。鮮明に見えすぎて、かえって何も見えない感じ。——ごめんね、頼りにならなくて」
「謝らなくていい。道がわかるだけでも充分」
セラは穴の縁に座り、足をぶらりと垂らした。高さを見ている。火石を落としてみると、二秒ほどで底に当たってころころと転がった。思ったほど深くはない。
「降りられる。紐、出して」
セラが自分の袋から細い麻紐を取り出し、壁に残った金具に結びつけた。手際がいい。結び目を二回引いて強度を確かめてから、自分の体重をかけてみせる。
「ボクが先に行こうか」
「重い方が先に試さないと意味ない。——あんた軽そうだし」
「……軽そうはまあ、事実だけど」
今のは子ども扱いではないな、とアウリィは判断した。体格の話だ。セラのほうが背も高いし、骨格もしっかりしている。純粋に実務的な判断。
セラが紐を握って降りていった。下から「来て」と短い声が上がる。
アウリィは紐を伝って降り、足が底に着いた瞬間、息を呑んだ。
根の道だった。
塔の根——石と菌糸が絡み合った太い柱が、天井にも壁にも走っている。地面はその根と根の隙間で、踏むと微かに弾む菌糸の層だった。道は一本ではなく、根の伸びた方向に沿って何本にも分岐している。火石の光が壁に反射して、白い菌糸がぼうっと浮かび上がる。
静かだった。でも無音ではない。どこか遠くで、何かが軋んでいるような音が断続的に聞こえる。根が伸びている音かもしれない。
「ここで前は迷ったんだね」
「右に行ったら行き止まり。左は三回分岐して、全部試す前に火石の光が弱くなった」
「今日は何本持ってきた?」
「三つ。ひとつは今使ってるこれ。残り二つで六刻分くらい」
「充分だと思う。ボク、道の感覚だけならわかるから」
精霊を索敵に使うのは精度が落ちるが、道の方向を感じることは別だ。迷宮の精霊は根に沿って動いている。その流れの向きを読めば、根がどこへ向かっているかは大雑把にわかる。
アウリィは目を閉じて、意識をほんの少しだけ開いた。
押し寄せてくる気配を、今度は流していく。ひとつひとつに応えるのではなく、全体の流れだけを感じ取る。川の水を掬うのではなく、流れの向きだけ見るようなもの。
「……左の道、三番目の分岐のさらに奥が、深い。一番太い根がそっちに伸びてる」
「帳面がそこにある根拠は?」
「ないよ。でも、ものが沈むなら太い根に巻き込まれやすいと思う。水が低い方に流れるのと同じで」
セラはしばらく黙っていた。それから頷いた。一度だけ。
歩き始めた。
根道の中を歩くのは、不思議な体験だった。道は狭くなったり広くなったりを繰り気なく繰り返し、天井の高さも一定しない。屈まなければ通れない場所があったかと思えば、次の空洞では見上げるほどの高さがある。壁の菌糸は場所によって色が違い、白、灰、薄い紫。火石の光を受けてそれぞれにぼんやりと光る。
「きれいだね」
「きれいでも食べられない」
「セラ、そういうとこほんと——」
「何」
「いや、いいや。嫌いじゃない」
セラが横目でこちらを見た。何か言いたそうだったが、結局言わなかった。
分岐を三つ越えた。アウリィの感覚どおり、三番目の分岐の先は道が一気に太くなった。天井を走る根も明らかに太く、表面の石片が大きくて、菌糸の層も厚い。
道の端に、何かが散らばっていた。
セラが火石を近づけると、それは家財の残骸だった。椅子の脚。鍋の蓋。布の切れ端。地上で塔に呑まれたものが、根を伝って下へ運ばれてきたのだ。
セラが膝をついて、ひとつひとつを確かめ始めた。
「これは違う。これも違う」
「何が目印?」
「父さんの帳面は、表紙が赤い革。角に鋲が打ってある」
アウリィも一緒にしゃがんで、散らばった残骸を手で分けた。布の下から錆びた包丁が出てきて、セラが無言でアウリィの手から取り上げた。
「刃物は私が触る」
「……ボク、刃物くらい扱えるよ」
「暗がりで錆びた刃物を素手で拾ったら誰でも危ない。怒ることじゃない」
正論だった。アウリィは口を閉じた。
散らばった家財を一通り調べたが、赤い革の帳面はなかった。セラの手が一瞬止まって、それからまた動き出す。
「もっと奥。もう少しだけ」
アウリィは頷いて立ち上がった。
歩いているうちに、精霊の気配が変わった。
さっきまでは全体がざわざわと動いているだけだったが、奥に進むにつれて、何か特定の方向に引かれるような流れが出てきた。根の中を何かが脈打つように動いている。
「セラ、ちょっと止まって」
アウリィは壁に手を触れた。
石片の下で菌糸がうごめいている。温かい。というより、熱い。生きている鼓動のようだった。
「この先に何かある。根が集まってる場所。——たぶん、芽の核」
「芽の核?」
「塔が地上に伸びるための起点みたいなもの。ここの精霊たちが集まってる中心。近づきすぎると、ボクの精霊術が暴走するかも」
「暴走って」
「呼んでないのに勝手に発動するとか。精霊がボクの術を通り道にして溢れ出すとか。——前にも似たようなことが別の世界であった。たぶん」
「たぶん?」
「昔のことは、あんまりはっきり覚えてないんだ。ボクも」
言ってから、自分の言葉に少し引っかかった。
セラが、父の帳面を探している。三年分の記憶に縋って、地下の暗がりに潜って。一方でアウリィは、何万年もの旅の記憶がすり減って、大事だったはずのことを思い出せなくなっている。
どちらが——。
「行けるの、行けないの」
セラの声が、思考を断ち切った。
「行ける。ただし、ボクが合図したら精霊術は使わない。道は自分たちの足で確かめる。それでいい?」
「最初からそのつもり。あんたの術がなくても、帰り道は確保してある」
セラは壁に小さな印をつけていた。石片に傷を入れて、進んだ方向を刻んでいる。いつの間にやっていたのか、アウリィはまったく気づいていなかった。
「……やるね」
「迷って帰れなくなるのが一番馬鹿らしい。それだけ」
根道はさらに下へ続いていた。
傾斜が急になり、道幅が広がった。天井の根が何本も束になって、巨大な管のように奥へ伸びている。その表面が——淡く、光っていた。
火石の光とは違う。菌糸の内側から滲み出す、青みがかった白い光。脈打つようにゆっくりと明滅している。
「夜の地上で見えるやつと同じだ。根道の光」
セラが言った。夜に地上から見えるのか。塔の根が地面の下で光って、それが地上まで透けて見えるのだろう。
「脈打ってる」
「昔はもっとゆっくりだった。最近速くなってるって、剪定の連中が言ってた」
「育ってるんだ。この塔、まだ」
道の先が開けた。
広い空洞だった。天井が高く、見上げると根が何十本も集束して一点に向かっている。その中心に——塔の核があった。
石の塊だった。人の背丈ほどの大きさで、表面にびっしりと菌糸が巻きついている。全体が心臓のようにゆっくりと脈打っていて、そのたびに青白い光が波紋のように広がった。
精霊の気配が、圧倒的だった。
アウリィの全身の毛が逆立つ。呼んでいない。呼んでいないのに精霊たちがアウリィの存在に気づいて、わっと押し寄せてくる。歓迎なのか、警戒なのか、あるいはただの反射なのか。意図が読めない。川に手を突っ込んだら急流だった、という感覚に近い。
「——っ」
足がふらついた。右手が勝手に光を帯びかけて、慌てて拳を握りしめる。
肩を掴まれた。
セラだった。無言で、しっかりと掴んでいる。その手の力で、アウリィの意識が自分の体に戻った。
「大丈夫。大丈夫、もう抑えた」
「顔色悪い」
「うん、ちょっと——持っていかれそうになった。ここの精霊、加減知らないな」
核の周囲の床に、また家財の残骸が散らばっていた。ここが最も深い到達点らしく、地上から吞まれたものが最終的に行き着く場所なのだろう。量はさっきの比ではなく、壁際にうず高く積もっている。
セラの目が、それを見て固まった。
帳面を探す前に、見えてしまったのだ。積もった残骸の中に、生活の破片がありありと残っている。割れた食器の柄の模様。潰れた木箱の焼き印。見覚えのある色の布。
自分の家の——父親が暮らしていた場所の中身が、ここに流れ着いていた。
セラは何も言わなかった。膝をついて、残骸の中に手を入れ始めた。
アウリィも隣に膝をついた。精霊の圧を意識の端に押しやりながら、菌糸に埋もれた残骸をひとつずつ丁寧に掘り出していく。
時間が過ぎた。火石の二本目に切り替わった。
「——あった」
セラの声が震えた。
菌糸の層の下から、赤い革の角が覗いていた。セラが慎重に引き出す。角に鋲の打たれた、小さな帳面。表紙は菌糸に覆われていたが、革がしっかりしていて形は保っていた。
セラが菌糸を指で剥がして、表紙を開いた。
中身は——半分以上が滲んで読めなくなっていた。
インクが湿気で流れ、菌糸が紙の繊維を侵して、文字がぼやけている。ところどころ判読できるものがある程度で、仕入先の一覧も、取引の記録も、大部分は失われていた。
セラの指先が、読めなくなったページの上をゆっくり撫でた。
「……知ってた」
小さな声だった。
「三年も経ったら、こうなるって。知ってた」
アウリィは何も言えなかった。
知っていて、それでも来た。来なければ確かめられなかったから。帳面がもう読めないということを、自分の目で確かめなければ、ずっとここに通い続けることになる——そう思ったのかもしれない。
セラが帳面を閉じた。閉じて、胸の前で抱えた。
その仕草が、小さくて、ひどくはっきりしていた。
「——帰ろう」
セラが立ち上がった。
アウリィも立ち上がりかけて、足元で光が動いたのに気づいた。
核の根元から、何かが滲み出している。小さな雫。琥珀色の、あの樹液と同じ色をしたもの。ただし市場の壜に入っていたものより遥かに澄んでいて、光の粒が中で激しく明滅していた。
精霊が——泣いているのか。応えているのか。
アウリィは手を伸ばしかけて、やめた。
「……帰ろう。セラ」
セラが刻んだ壁の印を辿って、二人は根道を引き返した。セラが前。アウリィが後ろ。来たときと同じ順番で、でも少しだけ歩調が遅かった。
穴を登り、潰れた家を抜け、地上に出たとき、空はもう暗くなりかけていた。
塔の表面が、夜の光を帯び始めている。地下で見たのと同じ、脈打つ青白い光。下から根を伝って上がってくる光が、石片の隙間から漏れて、塔全体がぼんやりと浮かび上がっていた。
セラは父の帳面を胸に抱えたまま、半壊した家の壁を見上げていた。
「セラ」
「何」
「明日も来る?」
長い沈黙があった。
「——わからない」
セラの横顔に、塔の光が淡く映っていた。




