3話「帳面を閉じる朝」
翌朝、アウリィは市場の隅で目を覚ました。
露店の天幕の下に寝袋を広げて眠ったのだ。セラが「そこ使っていい」とだけ言って帰っていった場所。屋根があるだけありがたい。
体を起こすと、朝の空気が冷たかった。塔の表面の光はもう消えていて、代わりに石片が朝日を浴びて鈍く白い。広場にはまだ人が少なく、遠くで荷車の轍が石畳を軋ませる音だけが聞こえた。
トランクから水筒と乾いた布を出して顔を拭き、髪飾りの赤い花弁を指先で整えた。花弁に触れると、いつも少しだけ安心する。いつ頃からそうなのかは思い出せないけれど。
寝袋を畳んでいると、足音が近づいた。
セラだった。
革の前掛けをして、帳面——父親のではなく、自分の帳面を手に持っている。もう一方の手には温かい何かを包んだ布があった。
「食べて」
布を差し出された。中身は菌糸を練り込んだ平たいパンで、ほのかに甘い匂いがした。
「ありがとう。——朝ごはん持ってきてくれるの、優しいね」
「余っただけ」
「ふうん」
余ったにしてはちょうど一人分で、まだ温かかった。アウリィは黙ってかじった。噛むともちっとした歯応えがあって、菌糸の甘みが口に広がる。美味しい。
セラは向かいに座って、自分のパンをちぎりながら食べていた。帳面は膝の上に開いたまま、昨日の取引記録の続きを書いている。時折、手を止めて考え込む。
「昨日の帳面は?」
「家に置いてある」
「読めたところ、あった?」
「少し。——仕入先の名前がいくつか。知ってる名前もあった」
セラはそれだけ言って、パンをちぎった。
アウリィはパンを食べ終えて指を舐め、市場を見まわした。朝が進むにつれて露店が開き始めている。迷宮素材を広げる店。干し肉を並べる店。昨日と同じ風景。でも昨日よりも少し、目に入るものの意味がわかる。
「セラ。あの根道の奥で——」
足元が揺れた。
小さな揺れだった。地震というほどでもない。ただ、石畳の隙間から菌糸がぴくりと動いて、広場の中央にある一番太い塔がわずかに軋んだ。
市場の何人かが顔を上げた。
「芽だ」
誰かが言った。すぐに別の声が続く。
「東区画じゃない、近い——広場の下だ」
足元の揺れが少し強くなった。石畳の一枚が持ち上がり、隙間から白い菌糸が噴き出すように溢れた。太い塔の根元で、新しい石片が地面を押し割ろうとしている。
芽が生える。ここに。
冒険者らしい数人がすぐに動いた。腰の道具を抜いて広場の中央に走る。露店の主人たちは慣れた手つきで品物を片づけ始めた。
セラも立ち上がっていた。帳面を袋にしまい、天幕の留め具を外している。
「手伝う」
「店の荷を退かすだけ。あんたは離れてて」
「ボクにもできることあるよ」
「邪魔」
きっぱり言われた。でもアウリィは動かなかった。足裏の下で、精霊たちが騒いでいるのを感じていたからだ。
昨日の地下とは違う動き方だった。核に向かって収束していた流れが、今は逆に——核から外へ向かって膨張している。芽を押し出す力。精霊たちがその力の通り道になって、地下から地上へ一斉に動いている。
「セラ、これ大きい」
「何が」
「芽。普通のと違う。昨日見た核から直接出てる」
セラの手が止まった。
石畳がもう一枚、跳ね上がった。破片が飛ぶ。冒険者のひとりが舌打ちして叫んだ。
「でかいぞ、これ! 剪定道具じゃ無理だ!」
地面の亀裂から、石片と菌糸の塊がせり上がってくる。速い。普段の芽の成長速度ではないのだろう、冒険者たちの動きに焦りが見えた。
アウリィは迷った。
精霊術を使えば芽の成長を遅らせることはできるかもしれない。地下の精霊に呼びかけて、核からの流れを逸らす。ただし、昨日の経験がある。ここの精霊は呼べば応えすぎる。加減を間違えれば暴走する。
セラがアウリィの顔を見た。
「やれるの」
「たぶん」
「たぶん、はなし。やれるか、やれないか」
「——精霊の流れを逸らせば、芽の伸びは遅くなる。でも精霊が応えすぎるかもしれない。暴走したらもっとひどくなる」
「じゃあやめて」
「でも、このままだと——」
「広場が壊れるだけ。人は逃げられる。町はこうやって何度も壊れてきた。あんたが暴走するほうが怖い」
冷静だった。この子はいつも冷静だ。感情を排して状況を見る目。帰り道を必ず確保する頭。
アウリィは深く息を吸った。
「わかった。精霊術は使わない。——でも、ひとつだけやらせて」
ミスリルの聖槍を呼び出した。掌に光が収束し、一五〇センチの短槍が実体化する。セラの目が一瞬だけ見開いて、すぐに元に戻った。
「芽の根元を物理的に折る。精霊じゃなくて、力で」
「折れるの、あれ」
「根元の石片がまだ薄いうちなら。——冒険者さんたち、ちょっとどいて!」
走った。
広場の中央で、芽が地面から一メートルほど突き出していた。石片はまだ薄く重なり始めた段階で、菌糸が接着剤のように巻きついている。太さは人の胴ほど。
アウリィは槍を両手で構え、根元めがけて突いた。
石片が砕けた。手応えは硬い。一撃では足りない。二撃、三撃。突くたびに石片が剥がれ、菌糸が千切れて白い糸を引く。根元の構造が崩れれば芽は自重で倒れる——はずだ。
四撃目で、芽が傾いだ。
冒険者のひとりが飛び出してきて、斧のような道具を芽の折れかけた根元に叩き込んだ。もうひとりが反対側から。三人がかりで、芽がゆっくりと広場の端へ倒れていった。
地響き。石片と菌糸の破片が散る。
倒れた芽はまだ微かに脈打っていたが、根元を断たれて成長は止まっていた。冒険者たちがすぐに切り分けにかかる。素材になるのだろう。
アウリィは槍を下ろし、息を整えた。腕が痺れている。四撃で折れたのは幸運だった。もう少し育っていたら槍では歯が立たなかっただろう。
「——大したもんだな、嬢ちゃん」
冒険者のひとりが声をかけてきた。大柄な男で、感心したように笑っている。
「嬢ちゃんじゃないよ」
笑顔で返したが、声にしっかり棘を乗せた。男はきょとんとして、それから「悪い悪い」と手を振った。
槍を収納して広場の端に戻ると、セラが天幕を張り直していた。荷物は退避させてあって、どれも無事らしい。手際がいい。
「怪我は」
「ない」
「手、見せて」
「だから、ない——」
セラがアウリィの右手を取って、掌を確認した。槍の柄を握りしめた跡が赤くなっている。セラは袋から布を出して、無言でアウリィの掌に巻いた。
「……ありがと」
「礼はいい。無茶する前に言って」
「言ったら止めるでしょ」
「止める」
当たり前だろう、という顔をしていた。アウリィは笑った。久しぶりに、こういう相手と旅をしている気がする。いつ以来かは思い出せないけれど。
広場が落ち着いたのは昼前だった。倒した芽は冒険者たちが解体して素材にし、市場はいつもの顔に戻っていく。石畳の割れた場所には土を詰めて踏み固め、菌糸を刈り取って、それでおしまい。町が壊れて、直して、続く。
セラの露店も再開していた。アウリィは露店の脇に座って日記帳を書きながら、セラが客と短いやり取りをするのを聞いていた。
昼すぎ、客が途切れた時間に、セラが唐突に言った。
「あの帳面、もう読めない部分のほうが多い」
「……うん」
「でも仕入先の名前が三つ読めた。父さんがどこから何を買ってたか、少しだけわかった」
セラは自分の帳面を開いて、新しいページを見せた。そこに三つの名前が書いてあった。その下に、セラ自身の字で品名と価格が並んでいる。父の記録から読み取れた情報を、自分の帳面に書き移しているのだ。
「これだけあれば、新しく取引を始められる。全部は無理でも」
「……そっか」
「父さんの帳面は家に置いておく。でも、もうあの地下には行かない」
アウリィは少し間を置いた。
「いいの?」
「よくはない。でも、あそこにあるのは崩れた家具と菌糸だけ。父さんはいない。帳面は見つけた。もう理由がない」
理由がない、とセラは言った。でもその声は、昨日の「わからない」よりもずっとはっきりしていた。わからないのではなく、決めたのだ。
アウリィは何も言わなかった。代わりに、ベルトポーチから昨日買った樹液の壜を取り出して、光にかざした。琥珀色の液体の中で、光の粒がゆっくり浮沈している。
「ボクさ」
「何」
「旅を続けてるのに、前の世界のことがだんだん薄くなっていくんだ。大事だったはずのことも。でも、こうやって何か持ってると——壜の中の光とか、拾った石とか、もらった布とか——それを見たときにだけ、少しだけ戻ってくるものがある。記憶って、そういうものなのかもしれない」
「全部は残らない」
「残らない。でも全部消えるわけでもない」
セラは壜を見ていた。それから、小さく頷いた。
「——帰りに、あの核の近くに寄れる?」
「え?」
「昨日、核の根元から何か滲んでたでしょ。樹液みたいなもの。あれ、採りたいの?」
見ていたのか。アウリィが手を伸ばしかけてやめたことを。
「……うん。採れるなら」
「私が案内する。道は覚えてる」
「でも、もう行かないって——」
「あんたのために行くのと、自分の未練で行くのは違う」
その言い方に、アウリィは少しだけ胸が詰まった。
夕方、二人は再び根道に潜った。
セラの刻んだ印を辿って、核の空洞まで一直線に。今度は迷わなかった。芽を出した直後だからか、精霊の圧は昨日よりいくらか穏やかだった。核の脈動もゆるやかで、青白い光が静かに明滅している。
根元に、樹液の雫がいくつか溜まっていた。
アウリィは空の小壜——トランクの奥から出した旅の備品——を近づけて、そっと雫を掬った。壜に収まった雫は、市場で売っていたものとは別物だった。光の粒がはっきりと動いていて、壜を傾けると中の光が壁を照らすほど明るい。
「きれい」
「……確かに、きれいだね」
セラが小さく言った。アウリィは顔を上げた。セラの目が壜の光を映して、一瞬だけ柔らかくなっていた。
地上に戻ったのは日没の直前で、塔が夜の光を帯び始める時間だった。
広場で別れるとき、セラが言った。
「いつ発つの」
「たぶん明日。——もう呼ばれてる気がする」
夕方から、精霊の気配が変わっていた。足元の迷宮の精霊とは別の、もっと遠い場所からの微かな牽引。世界と世界の境界が薄くなるときの感覚。次の世界の何かが、アウリィを呼んでいる。
「そう」
セラは短く答えた。
「寂しくなるよ、ボクは」
「一日しかいないくせに」
「一日でも一緒に地下に潜った相棒は相棒だよ」
セラは何も言わなかった。代わりに、袋から石片の器をひとつ取り出してアウリィに差し出した。
「これ」
「え、いいの?」
「干し肉載せるのに使って」
「売り物じゃん」
「余りもの」
パンのときと同じ言い方だった。アウリィは受け取って、トランクにしまった。
「ありがとう、セラ」
「——元気で」
それだけ言って、セラは背を向けた。帳面を手に、露店へ戻っていく。その帳面は父のものではなく、セラ自身のものだった。新しいページに新しい品名が並んでいるはずの、これからの帳面。
アウリィはしばらくその背中を見ていた。
翌朝、町を出た。
塔の並ぶ通りを抜けて、エッサの外れまで歩いた。町の境界の向こうには荒れた岩場が広がっていて、塔は一本も生えていない。迷宮の根が届かない場所。
足元の精霊の気配が薄くなり、代わりに別の気配が近づいてくる。空気の色が変わる感覚。世界の縁がほつれて、次の場所へつながろうとしている。
アウリィは立ち止まって、ベルトポーチから樹液の壜を取り出した。
核の雫は、まだ光っていた。小さな光の粒がゆっくりと浮沈して、壜の中だけ別の時間が流れているように見える。記憶の残り香。精霊の欠片。呼び方はどうでもいい。これを見れば、この世界のことを思い出せる。セラのこと。根道のこと。塔の脈動のこと。
壜をトランクにしまった。石片の器の隣に。
それから日記帳を開いて、短く書いた。
——石と菌糸の塔が芽吹く町、エッサ。迷宮の上に暮らす人たち。セラという露店商の女の子と、地下の核まで潜った。帳面を探していた。見つけたけれど、半分は読めなくなっていた。それでもセラは新しいページを書き始めていた。ボクもそうやって旅を続けている、のだと思う。たぶん。
日記帳を閉じた。
風が変わった。次の世界の匂いがする。まだ何の匂いかはわからない。
アウリィは一歩、踏み出した。




