1話「空に降り立つ」
世界が剥がれ落ちていく。
足元から、指先から、まるで古い壁紙のように——さっきまでそこにあった景色が、音が、匂いが、薄れて消えていく。この感覚にはもう名前をつけるのも諦めた。何千回、何万回と繰り返してきたのに、毎回少しずつ違う。今回は水の底に沈むような——いや、空に浮かび上がるような、どちらともつかない浮遊感だった。
アウレーリエ・リュコーリアスは目を閉じたまま、胸の前でトランクの取っ手を握りしめた。
これだけは離さない。身体ひとつで放り出された世界がいくつあったことか。回数はもう数えてもいないけれど、あの途方に暮れる感覚だけは、不思議とよく覚えている。
やがて——
風が吹いた。
冷たくもなく、温かくもない。でも確かに流れのある、生きた空気だった。鼻腔をくすぐる匂いに、わずかに金属の——それからなんだろう、油のような香りが混じっている。
アウリィは目を開けた。
「——わあ」
声が出た。思わず、というより、そうせずにはいられなかった。
空だ。
見渡す限りの空。
足元には草の生えた岩場があって、そこから数歩先は——何もない。断崖、ではなかった。島だ。この地面がそのまま、空に浮かんでいる。遥か下方には白い雲が海のように広がっていて、その上に大小さまざまな陸地の塊がぽつぽつと浮いていた。
「浮島……? ううん、たくさんある。群島だ」
遠くの島と島のあいだに、細い線のようなものが見えた。目を凝らすと——線路だ。鉄の橋が雲海の上に架け渡されている。そのひとつの上を、白い煙を吐きながら何かが走っていく。汽車だろうか。蒸気機関のある世界は見たことがある。でも、空に浮かぶ島の間を蒸気機関車が走る世界は初めてだった。
アウリィは小さく息を吸い込んで、それから満面の笑みを浮かべた。
「面白そう」
トランクを足元に置いて、まず体勢を確認する。旅装に変わりはない。真紅のマントが風を受けてはためき、裏地の黄色がちらりと覗く。ベルトポーチはふたつとも腰にある。赤褐色のブーツの紐もほどけていない。
右手を頭にやった。指先に触れた花弁の感触に、ほっと息をつく。
赤い彼岸花の髪飾り。これがなくなったら、さすがに泣く。
「さて、と」
アウリィは不釣り合いに大きなトランクを持ち上げて、周囲を見回した。島の端に立っているらしい。背後には低い灌木が茂り、その向こうに何やら建物の屋根らしきものが覗いている。煙突から白い蒸気が立ち上っている。
人がいる。文明がある。まずはそこからだ。
灌木の間を縫うように歩き出しながら、そっと意識を広げてみた。精霊を探る。新しい世界に来たとき、いちばん最初にやること。ここにどんな力があって、どんな理が支配しているのか——それを教えてくれるのは、いつだって精霊たちだ。
……いる。
けれど、感覚がぼんやりとしていた。いつもの——とは言っても「いつも」という基準がもはや曖昧だけれど——あの、葉に触れた朝露のように澄んだ応答ではなかった。精霊たちの声に雑音が混じっている。歯車の噛み合う音のような、蒸気の吹き出すような、この世界の独特なリズムが。
「ふうん。ここの精霊は、ちょっと騒がしい子たちなんだね」
合わせられないことはない。ただ、すぐには難しそうだ。まあ、いつものことだ。世界が違えば精霊も違う。焦ることはない。
灌木を抜けると、視界がひらけた。
石畳の道が一本、緩やかな坂を下って続いている。道の両側に建物が並んでいた。煉瓦造り、あるいは鉄骨と木材の混合。壁にはパイプが這い、ところどころから蒸気がしゅっと音を立てて噴き出している。看板が軋みながら風に揺れ、どこかで金属を叩く音がリズミカルに響いていた。
「町だ」
思ったより近くに人里があった。これは運がいい。世界によっては、最初の集落を見つけるまでに何日もかかることがある。
坂を下りながら、アウリィは目を輝かせてあちこちを見回した。建物の窓から漏れる灯りは、炎ではなく淡い白色の光。よく見ると光源のなかで小さな結晶が回転している。蒸気で動く街灯が通りの角ごとに佇み、行き交う人々は革のエプロンや厚手の作業着をまとい、額や首に真鍮のゴーグルをかけている者も多い。
人間だ。少なくとも外見は。耳は丸く、体格もさまざま。アウリィの尖った耳に気づいた何人かが怪訝そうな視線を向けてくる。
気にしない。この程度の好奇の目には慣れている。
それよりも。
「あ、あれ何だろう」
通りの脇に出ていた小さな屋台に、アウリィは吸い寄せられるように足を向けた。金属の枠に収められた精密な歯車たちが、からからと音を立てて回っている。その中心で、硝子でできた小鳥が羽ばたいていた。硝子の体に閉じ込められた淡い光が、羽ばたくたびにちかちかと明滅する。
「きれい……」
しゃがみ込んで見つめる。歯車の噛み合わせが実に精密で、小鳥の動きが本物のように自然だった。
「嬢ちゃん、それは飾りもんじゃないよ。輝石時計だ」
屋台の主人——恰幅のいい中年の女性——が、顎をしゃくって言った。
「輝石時計?」
「なんだい、知らないのかい。輝石の減り具合で時間を計るのさ。まあ、正確さじゃ本職の時計には負けるけど、こいつは可愛いだろう」
「うん、すごく可愛い!——ねえ、輝石って何?」
屋台の主人が目を丸くした。
「あんた、どこから来たんだい。輝石を知らないなんて」
「遠くから」
嘘ではない。果てしなく遠くから来た。ただし距離ではなく、世界の隔たりという意味で。
「変わった子だねえ。その耳、どうしたんだい? 怪我かい?」
「怪我じゃないよ。生まれつきこう」
「へえ……」
主人はまじまじとアウリィの耳を見つめ、それから肩をすくめた。深く追及するつもりはないらしい。アウリィはほっとしつつ、もう少し輝石時計を眺めていたかったが、一箇所に留まって注目を集めすぎるのもよくない。
「ありがとう、おばさん。綺麗なもの見せてくれて」
「おう。買わないのかい」
「ごめんね、この町のお金がまだないんだ」
正直に言ったら、主人は呆れたように笑った。アウリィは手を振って屋台を離れ、通りをまた歩き出す。
---
換金できる場所を探さないと。ベルトポーチの中に宝石はいくつか入っている。でも、まずはこの世界の通貨と相場を把握しなければ。それに宿も必要だ。
もう少し町の中心部へ行けば商人がいるだろうか。アウリィは人の流れに沿って歩いた。
町は思ったより活気があった。工房から蒸気が噴き出す音、金槌で鉄を打つ音、呼び込みの声。通りを走る子供たちの間を、犬に似た——けれど背中に小さな歯車状の器官をもつ——生き物がきゃんきゃんと駆けていく。
「あの子たち、何だろう……」
しゃがみ込んで見ようとした瞬間、横合いから飛び出してきた誰かとぶつかった。
がしゃん、と金属の部品が石畳に散らばる音。アウリィもよろめいてトランクを取り落としそうになったが、踏ん張って持ちこたえた。
「——っと、悪い!」
若い男の声。地面に膝をつき、散乱した部品を慌てて拾い集めている。
「大丈夫? ボクの方こそごめん、しゃがもうとしてて——」
「いや、こっちが前見てなかった。怪我ないか、嬢ちゃ——」
顔を上げた青年の言葉が途切れた。
茶色い髪。額に押し上げた真鍮のゴーグル。あちこちに油の染みがついた作業着。年齢は人間の基準で二十歳前後だろうか。切れ長の目が、アウリィの顔をまじまじと捉えている。いや、正確には——耳を。
それはそれとして。
「……嬢ちゃん、じゃないんだけど」
「え?」
「ボク、嬢ちゃんって呼ばれるほど子供じゃないから」
アウリィはむっとした。——わかっている。百四十七センチの身長とエルフの相貌は、人間の基準では幼く見えるのだと。何千回指摘されたかわからない。わかっていても、毎回むっとする。これだけは慣れる気がしない。
青年はぱちぱちと瞬きをした。
「あ——いや、すまん。けど、その……背が……」
「背は関係ないでしょ」
「……そうだな。悪かった」
意外と素直に謝る人だった。部品を拾い集め終えた青年は、立ち上がってあらためてアウリィに向き直った。アウリィの頭ひとつ分以上は高い。
「けど、見かけない顔だな。アステリアは小さい島だから、住人の顔は大体わかるんだが。——その耳は?」
「生まれつき」
「尖ってるんだな」
「うん」
「……こっちの方じゃ見ない形だ。北群島の方にはそういう種族がいるって聞いたことはあるけど」
知らない地名。わからない情報。でも、それがいい。アウリィは内心で目を輝かせた。新しい世界。新しい常識。知らないことだらけ。
「北群島の人じゃないけどね。もっと遠くから来たんだ」
「もっと遠く? 南端か? それとも——まさか雲海の向こうから?」
最後の言葉に冗談めかした響きがあった。けれどアウリィには、その冗談がどういう意味を持つのかわからない。
「雲海の向こうって、行けるの?」
今度は青年が面食らった顔をした。
「行けるわけないだろ。雲海の下に何があるかなんて、誰も知らないんだぞ。——本当にどこから来たんだ、あんた」
「ボク、アウリィだよ。アウレーリエ・リュコーリアス。あなたは?」
質問に質問で返すのは少し意地が悪いかと思ったけれど、名前を知らない相手と長く話すのは落ち着かない。
「……カイだ。カイ・ヘルダー。この島で運び屋をやってる」
「運び屋?」
「島と島の間で荷物を運ぶ仕事だよ。——って、そんなことよりだな」
カイは散らばった部品を抱え直しながら、困惑した表情を浮かべた。
「あんた、マジでどこから来たんだ。旅人にしたって、輝石を知らないとか、雲海の向こうがどうとか、ちょっと常識がなさすぎないか」
「常識は場所によって違うからね」
さらりと言ったら、カイの困惑が深くなった。
---
「……まあいいか。とにかく、怪我がないならよかった」
カイが踵を返そうとするのを、アウリィは慌てて引き止めた。
「ねえ、カイ。この町のこと少し教えてもらえないかな。宿とか、お金を換えられる場所とか」
「金を換える?」
「うん。この地域のお金を持ってないんだ。代わりに宝石があるんだけど」
ベルトポーチを軽く叩いてみせると、カイは訝しげに眉を寄せた。
「宝石って……どんな」
アウリィはポーチから小さな布袋を取り出し、口を開いてひとつ掌に転がした。小指の爪ほどの、深い青色をした石。光を受けて静かに煌めく。
カイの目が見開かれた。
「——それ、蒼玉じゃないか。しかもこの透明度……どこで手に入れた」
「前にいた場所で」
嘘ではない。どの世界で手に入れたかは正直もう定かではないけれど。
「蒼玉ならラストン通りの鑑定所で換金できる。……ただ、こんなの持ち込んだら逆に怪しまれるぞ。盗品と思われかねない」
「盗んでないよ」
「俺に言われても困る」
カイは頭を掻いた。油で汚れた指先が茶色い髪をくしゃくしゃにする。それからしばらく何かを考えるように、顎に手を当てた。
「……しょうがないな。うちに来いよ」
「え?」
「盗品じゃないっていうなら、知り合いの鑑定士を紹介してやる。偏屈なじいさんだけど腕は確かだ。俺の紹介なら、変な対応はしないと思う」
思いがけない申し出だった。アウリィはカイの顔を見上げた。ちゃんと見上げないと目が合わない身長差。カイは困ったような、面倒くさそうな、でも放っておけないような、複雑な表情をしていた。
「……いいの?」
「よくはない。よくはないが、あんたをこのまま放り出すとなんか大事になりそうな気がする」
「ボク、そんなに危なっかしく見える?」
「見える」
即答だった。
アウリィは唇を尖らせたが、反論する材料を持ち合わせていなかった。実際、この世界について何も知らないのは事実だし、親切な案内人がいるならそれに越したことはない。
「じゃあ、お言葉に甘えるね。ありがとう、カイ」
にっこりと笑うと、カイは少し面食らったように視線を逸らした。
「……ああ。ついて来い」
---
カイの仕事場は、町の外れに近い一角にあった。
「運び屋」と名乗っていたけれど、実態は半分工房のようなものらしい。石造りの低い建物の前に、金属の骨組みで作られた——翼のある乗り物が停めてあった。翼の下面に小型の蒸気機関が取り付けられ、真鍮のパイプが複雑に絡み合っている。
「これ、飛ぶの?」
「飛ぶよ。蒸気翼艇。島と島の間を飛ぶための機体だ。——まあ、うちのは中古を改造したボロだけどな」
カイは部品を工房の作業台に降ろしながら、どこか自嘲気味に言った。けれど機体を見るその目には、隠しきれない愛着がにじんでいる。
アウリィは蒸気翼艇の周りをぐるりと歩いた。骨組みの継ぎ目、蒸気管の取り回し、翼の角度。細部を見るほどに、丁寧な手入れの跡がわかった。
「ボロじゃないよ。大事にされてるのが、わかるもの」
「…………」
カイがわずかに驚いた顔をして、それからぽりと頬を掻いた。
「わかるのか。見た目で判断しない奴は珍しい」
「見た目で全部わかるんだったら、ボクだって子供扱いされてないよ」
「……まだ根に持ってるのか」
「持ってる」
にこりと笑って言ったら、カイは降参するように両手を上げた。
工房の中は、部品と道具で雑然としていた。壁には図面が何枚も貼られ、棚には大小さまざまな歯車やパイプが分類——されているようで、されていない。奥に小さな居住スペースがあるらしく、カーテンの向こうにベッドの端が見えた。
「散らかってるのは勘弁してくれ」
「ボクも人のこと言えないから大丈夫」
アウリィは自分のトランクの中身を思い浮かべた。この工房とは比べものにならないくらいひどいことになっている。いったい何千年分の荷物を、ろくに整理もせず詰め込んできたのやら。
カイは棚から瓶とカップを取り出し、銅のやかんをコンロにかけた。コンロの中心で小さな結晶——あれが輝石というものだろう——が淡く発光し、熱を放っている。
「茶でいいか。上等なもんは出せないが」
「うん、ありがとう。——あ、そうだ」
アウリィはトランクの蓋を開けた。見た目の寸法からは考えられない量の荷物がぎっしり詰まっているのを前に、カイの目が点になる。それを横目に手を突っ込んで、がさごそと探った。
「えっと……どこだっけ……あ、これは違う。これも違う。……あった」
取り出したのは小さな包み。中身は前の世界でもらった焼き菓子の残りだ。世界を跨いでもトランクの中では劣化しないらしく——正確な理屈はアウリィにもわからないけれど——まだ焼きたてに近い香りが漂う。
「お茶請けに。人からもらったやつなんだけど」
「……あのトランク、中身どうなってるんだ」
「聞かない方がいいよ」
カイは呆れた顔で茶を淹れた。独特の香ばしい匂いが工房に広がる。乾いた穀物を焙じたような、素朴な香りだった。
作業台の端に並んで腰掛けて、茶を飲んだ。温かくて、少し苦い。けれど後味にふっくらとした甘みがあって、悪くなかった。
「……で、鑑定士のことだけどな。ゲオルグじいさんは明日の午前中なら店にいるはずだ。朝一で行けば、そう待たされない」
「ありがとう。助かるよ」
「それまではどうするんだ。宿を取る金もないんだろ」
「うーん……野宿は慣れてるから、適当な場所を見つけて——」
「アステリアで野宿はやめとけ。夜は風が強くなる。島の端にいたら、最悪吹き飛ばされるぞ」
風で。空に浮かぶ島で。吹き飛ばされたら——その下は雲海。
「……それは困るね」
「だろ。——仕方ない、今晩はうちの工房で寝ろよ。予備の毛布くらいはある」
「いいの? 会ったばかりなのに」
「別に深い意味はない。寝場所がなくて困ってる奴を放っておけないだけだ。それと——」
カイは茶をすすり、ちらりとアウリィを見た。
「——正直、あんたのことが気になるんだよ。輝石を知らない。雲海の向こうのことを普通に聞く。見たことのない耳。名前だって聞いたこともない響きだ。その、なんつーか……ただの旅人にしちゃ、浮世離れしすぎてる」
浮世離れ。上手いことを言う。文字通り、世を離れて浮いている存在なのだから。
アウリィは茶碗を両手で包みながら、少し考えた。どこまで話すべきか。新しい世界に来るたびに迷う問題だ。真実をすべて話せば、大抵の人は信じない。かといって嘘をつくのは好きじゃない。
「ボクはね、旅人だよ。ただ、ちょっと普通じゃない旅をしてるだけ」
「普通じゃない旅」
「うん。いろんな場所を渡り歩いてるんだ。ここに来たのも自分で選んだわけじゃない。気がついたら、あの島の端に立ってたの」
カイの眉が寄った。信じていないというより、理解が追いつかないという顔だ。
「……どういう意味だ?」
「そのままの意味。ボクにもこの旅の仕組みはよくわからないんだ。ただ、しばらくしたらまた別の場所に移ることになる。それだけは確かなの」
沈黙が落ちた。工房の片隅で、小さな歯車仕掛けの時計がかちかちと拍子を刻んでいた。
カイは長いこと黙っていた。何を考えているのか、表情からは読み取れない。やがて小さく息を吐いた。
「……変な奴だな」
「よく言われる」
「嘘をついてるようには見えない。けど、本当だとしたら相当おかしな話だ」
「おかしな話だよ。ボク自身がいちばんそう思ってる」
アウリィは笑った。笑って茶を飲んだ。温かい液体が喉を通っていく。
ふと、窓の外に目をやった。
空が色を変えていた。昼間の青が淡い橙色に溶け、その上に紫が滲んでいく。雲海の表面が夕陽を受けて、一面の金色に染まっていた。遠くの島々が黒いシルエットになり、島と島を繋ぐ鉄の橋梁が、最後の光を受けて一筋の糸のように煌めいている。
「……きれい」
呟いた声は、自分でも意外なほど静かだった。
何度も見てきた。いくつもの世界で、いくつもの夕暮れを。それなのに、毎回こうして息を呑む。これにだけは、慣れないでいたい。
「気に入ったか。この景色」
カイの声がした。振り返ると、彼も同じ夕焼けを眺めていた。
「ずっと住んでると当たり前になっちまうけどな。アステリアの夕暮れは他の島の連中にも評判がいいらしい」
「贅沢だよ。毎日これが見られるなんて」
「そうか?……そういうもんかもな」
カイが少し不思議そうに、けれどまんざらでもなさそうに、口の端を持ち上げた。
---
夜になった。
カイは言葉どおり予備の毛布を引っ張り出してきて、工房の隅の比較的片付いたスペースにアウリィの寝床をこしらえてくれた。彼自身は奥の居住スペースに引っ込んでいる。
「何かあったら声かけろ。あと、工房の道具には触るなよ」
「はーい」
「子供みたいな返事するから子供扱いされるんだぞ」
「むっ」
カーテン越しのやり取りを最後に、工房は静かになった。
アウリィは毛布にくるまりながら、ベルトポーチから日記帳を取り出した。革の表紙はすっかり使い込まれて手に馴染んでいる。これは何冊目だろう。前の日記帳はトランクの奥底に沈んでいるはずだ。何十冊も。何百冊も。
ペンを握り、日付を書こうとして——この世界の暦をまだ知らないことに気づく。仕方なく空欄のまま書き出した。
『新しい世界。空に浮かぶ島の世界。雲の海の上にたくさんの島が浮いていて、鉄の橋と蒸気の乗り物で繋がっている。輝石という石がエネルギー源みたい。精霊はいるけどまだうまく話せない。もう少し時間がかかりそう。
カイという青年に出会った。運び屋で、蒸気翼艇に乗って島と島の間を飛ぶお仕事をしてる人。ぶっきらぼうだけど親切。ボクのことを嬢ちゃんと呼んだ。許していない。
夕暮れがきれいだった。雲海が金色になるの。』
ペンが止まった。
もう少し何か書き足そうとして、やめた。代わりにぼんやりと天井を見上げる。パイプが走る見慣れない天井。見知らぬ世界の、見知らぬ工房の天井。
こんな天井を、いくつ見上げてきたっけ。
……最初の世界のことを思い出そうとした。自分が生まれた場所のこと。母の顔。故郷の匂い。
霞がかかったように、ぼやけている。
赤い彼岸花の髪飾りに、そっと指を触れた。これをくれた人の手の温もりが——もう、思い出せない。顔も、声も。大切だったということだけが残っている。記憶は摩耗するのに、感情の残滓だけが化石のように消えずに在り続ける。長い時間を生きるというのは、そういうことだ。
旅を続ける理由。
最初は、なんだったっけ。
探しものをしていた気がする。あるいは逃げていたのか。それとも——ただ歩き続けることしか知らなかっただけなのか。
今となっては、わからない。わからないけれど足は止まらない。止められない。新しい世界に降り立つたびに胸が躍る。知らないものを見るたびに心が弾む。それは嘘偽りのない感情だ。
でも、その奥に何があるのか。喜びの底に沈んでいるものが何なのか。
——考えるのは、よそう。
アウリィは日記帳を閉じてポーチにしまった。真紅のマントを毛布の上に掛けると、加護の力がふわりと温もりを広げてくれた。
目を閉じた。
遠くで風の音が鳴っている。カイの言った通り、夜風は強い。工房の壁がかすかに軋む。
その隙間に——何か、聞こえた。
低い音。風の音とは違う。もっと深くて、もっと遠くて、もっと——生き物じみた響き。
アウリィは毛布を跳ねのけて窓に駆け寄った。
夜の雲海。月明かりに照らされた、見渡す限りの白い雲の海。
その中を——何かが、泳いでいた。
巨大な影。雲を裂いて悠然と進む、途方もなく大きな何か。月の光を受けてかすかに輝く体表。長い鰭のようなものが、ゆっくりと上下している。
「…………」
息を呑んだ。言葉が、出ない。
あまりにも美しかった。
影はゆっくりと雲海の彼方へ遠ざかっていく。もう一度、あの低い声が響いた。夜の空気を震わせて、島全体を優しく包み込むような——歌のような、鳴き声。
「——空鯨だ」
背後から声がした。カイが、カーテンを半分開けた状態で立っていた。寝巻き姿で、髪がくしゃくしゃだ。
「空鯨?」
「雲海に棲む生き物だよ。普段は雲の奥深くにいるんだが、たまに夜、ああやって上に出てくる。——珍しいぞ。この時期に姿を見せるのは」
カイは窓辺まで歩いてきて、アウリィの隣に立った。二人の視線が、もう見えなくなりかけた影の残像を追う。
「……大きかった」
「ああ。でかい個体だったな。この辺りで出たのは久しぶりだ」
「空鯨は何を食べてるの? どこから来るの? 雲の中に何があるの? あの声は何を——」
「おい、質問が多い」
カイが苦笑した。
「俺だって全部は知らないよ。空鯨は謎が多いんだ。学者連中がずっと研究してるけど、わかってないことだらけだ」
「わかってないことだらけ」
アウリィはその言葉を、噛みしめるように繰り返した。
わかっていないこと。まだ誰も知らないこと。この世界にしかないもの。
胸の奥で、小さな炎が灯った。
知りたい。見たい。触れたい。この世界がボクを受け入れてくれている間に、できるだけたくさんのことを。
「——ねえ、カイ」
「ん」
「明日、鑑定士さんのところに行った後でいいんだけど。この島のこと、もっと教えてくれない? 他の島のことも。空鯨のことも。ボク、知りたいことがいっぱいあるんだ」
カイはしばらくアウリィの顔を見ていた。月明かりに照らされた黄金の髪と、黄色い瞳。まっすぐで曇りのない目。
「……まあ、仕事の合間でよけりゃ」
ぶっきらぼうに言って、カイは踵を返した。
「寝ろ。明日は早い」
「うん。おやすみなさい、カイ」
「……おやすみ」
カーテンが閉まった。
アウリィはもう一度だけ窓の外を見た。雲海は静けさを取り戻し、月光だけがその白い表面を照らしている。あの巨大な影はもう見えない。
でも、歌のような声が、まだ耳の奥に残っていた。
アウリィは小さく微笑んで、寝床に戻った。マントの温もりに包まれながら、今度こそ目を閉じる。
明日から、この世界を知る旅が始まる。




