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2話「島を繋ぐもの」

 朝は、歯車の音で始まった。


 かちかちと正確に時を刻む壁掛け時計。それから工房の外を通る何かの車輪の音、遠くで響く蒸気笛、そして——がしゃんがしゃんと金属をぶつけ合うような騒がしい物音。


 アウリィは毛布の中で寝返りを打った。


「…………んん」


 まだ眠い。マントの加護が心地よい温もりを保ってくれていたこともあって、意外と深く眠れたらしい。でも、あの金属音はなんだろう。


 もそもそと上体を起こし、目をこすった。工房の中はうっすらと朝の光が差し込んでいる。壁に貼られた図面、棚に並ぶ歯車、散乱した工具。ここが見知らぬ世界の見知らぬ場所であることを思い出すのに、数秒かかった。


 がしゃん。


 音は外からだった。工房の入口の扉が半開きになっていて、そこからカイの声が聞こえてくる。


「——だから蒸気弁の接合が甘いんだって言ったろ。ここ、ガスケット替えないと圧が逃げるんだよ」


 独り言にしては声が大きい。アウリィは髪飾りの位置を確かめてから立ち上がり、マントの埃を払い、扉のところまで歩いた。


 外に出ると、朝の空気が頬を撫でた。真紅のマントがさらりと風を受ける。空は薄い乳白色で、雲海の端から淡い朝陽がのぼりつつある。


 カイは蒸気翼艇の下に潜り込んでいた。機体の腹から突き出た配管を工具で外しにかかっている。その傍らに——昨日はいなかった人影がひとつ。


「だからって新品のガスケット、どこから持ってくんのよ」


 低めだが明瞭な女性の声。話し手はカイより少し年上に見える、がっしりした体格の女性だった。背中まで伸ばした黒髪を無造作にひとつに束ね、カイと同じように額にゴーグルを押し上げている。腕まくりした袖から覗く腕には、やけどの痕がいくつか走っていた。


「ゲオルグじいさんとこの倉庫に、古いストラウス機のパーツがあったはずだ。あれの蒸気弁なら口径が——」


「おはよう」


 アウリィが声をかけると、二人の動きが止まった。


 カイが機体の下から顔を出す。女性がアウリィをまじまじと見る。


 沈黙が、三秒。


「——カイ。この子が昨日言ってた?」


「ああ。——おはよう、アウリィ。早いな」


「歯車の音で起きた。この世界の朝って歯車の音で始まるんだね」


「歯車の音で始まらない世界があるのか?」


 カイが本気で不思議そうな顔をした。あるよ、と答えかけて、やめた。あまり突飛なことを言うと話がややこしくなる。


「——で、この方は?」


「ナディ。ナディヤ・ボルトン。こいつの幼馴染で、同業の運び屋だ」


 カイの紹介に、ナディと呼ばれた女性が軽く手を挙げた。


「ナディヤでいいよ。——へえ、本当に耳が尖ってる。北群島のエルダ族かと思ったけど、ちょっと違うね」


「エルダ族?」


「北群島に住んでる少数部族。耳が長いんだ。あんたほどじゃないけど」


 知らない情報がまた増えた。この世界にも耳の長い種族がいるらしい。アウリィはふむふむと頷きながら、ナディヤの顔をよく見た。人間だ。カイとは顔立ちの系統が少し違うが、丸い耳に丸い瞳。


「ボク、アウリィ。アウレーリエ・リュコーリアス。よろしくね、ナディヤ」


「長い名前だね。——カイからちょっと聞いたよ。遠くから来た旅人で、輝石も知らないって」


「うん」


「で、宝石を換金したいんだって?」


「うん。カイがゲオルグさんっていう鑑定士さんを紹介してくれるって」


 ナディヤがカイの方を見た。カイは工具を手にしたまま、なぜかばつの悪そうな顔で視線を逸らしている。


「……あんたが人助けなんて珍しいこともあるもんだ」


「うるさいな。行きがかり上だよ」


「はいはい。——アウリィ、朝飯は?」


「まだ」


「じゃあ一緒に食べよう。あたしが買ってきた」


 ナディヤが布に包んだものを掲げてみせた。香ばしいにおいがふわりと漂う。焼きたてのパンらしい。


---


 三人で工房の作業台に腰掛け、朝食を摂った。


 ナディヤが持ってきたのは、丸い平たいパンと干し肉の薄切り、それから固い果物を削ったサラダのようなもの。パンの中に小さな輝石の粒が混ぜ込んであるのか、噛むとほんのりとした甘さと、微かに鉱物めいた風味がした。


「この味は初めて」


「石粉パンだよ。輝石の粉を生地に練り込んであるんだ。栄養があるし、日持ちする。運び屋の定番食」


「輝石って食べられるんだ……」


「精製したやつだけな」ナディヤが釘を刺した。「そこらの輝石を噛り出すなよ」


「さすがにそんなことしないよ」


 そう言いながらも、アウリィの目は興味深そうにパンの断面を見つめていた。光の加減で、生地に混ざった微細な粒がきらきらと光っている。きれいだ。


 カイは黙々と食べている。朝はあまり喋らない性質らしい。代わりにナディヤがよく喋った。


「ゲオルグじいさんのとこは中央通りの突き当たりだよ。看板に輝石の形をした飾りがついてるから、すぐわかる。——カイ、今日は便があるのか?」


「午後にリドル島まで一件。部品の納品」


「あたしも昼からヴェルデまで往復。天気は持ちそうだけど、南風が強いかもしれない」


「翼艇って、風の影響を受けるの?」


 アウリィが聞くと、ナディヤが頷いた。


「そりゃあね。特に島と島の間は遮るものがないから。雲海から吹き上げる突風なんて、まともに食らったら小型機じゃひっくり返るよ」


「ナディヤも自分の翼艇を持ってるの?」


「うん。カイのとはメーカーが違うけどね。あたしのは新型のクレール機。こいつのボロとは格が違う」


「ボロじゃないって。——うちのは旧型のストラウスだけど、手を入れれば新型に負けない」


「入れてから言えよ。蒸気弁が漏れてる機体で」


 二人のやり取りには、長い付き合いでなければ生まれない気安さがあった。アウリィはパンをかじりながら、それを心地よく眺めた。


「ねえ。ここ、アステリアの島って、どのくらいの大きさなの?」


「端から端まで歩いて半日ってところかな」とナディヤ。「小さい島だよ。人口は三百人くらい。——大きい島だと数千人規模のもあるけど」


「島はぜんぶでいくつくらいあるの?」


「さあ……確認されてるのは百以上。でも雲海の奥には未発見の島もあるかもしれない」


「百以上……」


 胸が弾んだ。百以上の島が、雲海の上に浮かんでいる。それぞれに人がいて、暮らしがあって、景色がある。全部見て回りたい——いや、全部は無理だ。この世界にいられる時間は限られている。


 その考えが頭をよぎった瞬間、ほんの少しだけ胸が軋んだ。いつものことだ。出会ったものを全て見届けることはできない。それがこの旅の規則で——自分で決めたことでもある。


 長居はしない。情が移りすぎないように。


「——じゃあ、行こうか。ゲオルグのじいさんのとこ」


 カイが最後のパンを口に放り込んで立ち上がった。ナディヤは「あたしはここで翼艇の点検してるよ」と手を振った。


---


 アステリアの朝の町は、昨日の夕方とはまた違った顔をしていた。


 石畳の通りに朝陽が斜めに差し込み、蒸気が白く光る。あちこちの工房が稼働を始めて、島全体がかすかに振動しているような——生きている機械のような感触があった。


 カイの横を歩きながら、アウリィはきょろきょろと辺りを見回した。通りの角に設置された蒸気式の掲示板に、文字と数字が回転式の板で表示されている。定期便の時刻表か何かだろうか。


「あれ、何?」


「便覧盤。各島への定期便の発着時刻と、雲海の気象情報が出る。運び屋には必需品だ」


「へええ……天気予報もあるんだ」


「天気予報って言い方は初めて聞いたな。こっちじゃ気象預報って言う。——ま、意味は同じか」


 歩きながら、アウリィはそっと意識を広げてみた。精霊への呼びかけ。昨夜は寝る前にも試したけれど、やはりうまくいかなかった。


 今朝は——少しだけ手応えがあった。


 この世界の精霊たちは、蒸気と歯車と輝石のリズムの中にいる。自然の精霊というよりは、もっと——機構に寄り添った存在。金属のパイプの中を流れる蒸気に乗り、歯車の回転と共に呼吸している。


 合わせなきゃ。この世界のリズムに。


 精霊たちの声を拾おうとすると、雑音の向こうにかすかな応答が返ってくる。言葉にはならない。でも、拒絶されているわけでもない。ただ、波長が合うまでにもう少し時間が要る。


「——おい、アウリィ」


「え?」


「ぼうっとするな。人にぶつかるぞ」


「あ、ごめん」


 慌てて歩く人を避けた。通りは少しずつ賑わいを増していて、行き交う人の数も多い。


 中央通りという場所は、アステリアのいわば目抜き通りらしかった。道幅が広く、両側に店が軒を連ねている。工具を扱う金物屋、輝石を並べた専門店、衣料品店、食堂。看板はどれも真鍮や鉄で作られていて、蒸気仕掛けの装飾が凝っている。ある看板はゆっくり回転し、別の看板は蒸気を吹いてシュッシュッと音を立てていた。


「あった。あれだ」


 カイが指差した先に、一軒の古びた店があった。他の店より控えめな構えだが、看板に大きな輝石の模型が据えられていて、内部に仕込まれた本物の小さな輝石が淡い光を放っている。


 扉を開けると、内部は薄暗かった。天井の低い店内に、棚という棚が鑑定用の道具や石のサンプルで埋め尽くされている。奥のカウンターの向こうに、白髪の老人が座っていた。分厚い拡大鏡を片目に当てて、何か小さな石を検分している。


「じいさん、客だ」


「見りゃわかる。——少し待て」


 しわがれた声。老人は石を検分する手を止めず、十数秒かけて作業を終えてから、ようやく顔を上げた。深い皺が刻まれた顔、鋭い灰色の目。拡大鏡を外して、まずカイを見、次にアウリィを見た。


「……こりゃまた、見かけん顔だな」


「旅人だよ。宝石の換金をしたいんだと」


「旅人。——耳が尖っとるな。北群島の?」


「違うよ。もっと遠くから」


「ふん」


 ゲオルグはカウンターに両肘をつき、アウリィを値踏みするような目で見た。職人の目だ。物の価値を見抜くことに人生を費やしてきた人間の目。


「見せてみな」


 アウリィはベルトポーチから布袋を取り出し、蒼玉をカウンターの上に置いた。昨日カイに見せたのと同じ石。


 ゲオルグが石を手に取り、拡大鏡を当てた。


 沈黙が流れた。老人の眉がわずかに動く。


「…………」


 拡大鏡を外し、石を光にかざし、再び拡大鏡を当てる。それを三度繰り返してから、ゲオルグは石をカウンターに戻した。


「本物の蒼玉だ。内包物がほぼない。こいつは上物だぞ」


 カイが横でほっとしたような顔をしている。盗品ではないかと心配していたのかもしれない。


「これ一粒で、まあ……五百ギルトは堅いな。石の状態次第じゃもう少し出せる。他にもあるのか」


「うん、何種類か」


 アウリィは布袋の中身をそっとカウンターに広げた。蒼玉がもう一粒、赤い石がひとつ、小さな透明の石が三粒。


 ゲオルグの目の色が変わった。


「——紅玉に、光晶石。こいつは……おい、嬢ちゃん。あんた一体どこでこんなもんを」


「嬢ちゃんじゃないんだけど」


「あ?」


「……ボク、アウリィです。旅先で集めたものだよ」


 ゲオルグは怪訝そうに目を細めたが、石に対する興味が上回ったらしく、それ以上は追及しなかった。一粒一粒を丁寧に鑑定していく。その手つきは老いていても正確で、迷いがない。


「全部まとめて二千ギルトってところだ。悪い取引じゃないはずだぞ」


「二千ギルト」


 金額の感覚がわからない。アウリィがカイの方を見ると、カイは小声で教えてくれた。


「俺の運び賃が一回の便で五十ギルトから百ギルトくらいだ。二千あれば、しばらくは困らない」


「じゃあ、それでお願いします」


「よし。少し待ってな、金を用意する」


 ゲオルグが奥の部屋に消えた。カイとアウリィは店内に二人きりで残された。


「……助かったよ、カイ。ありがとう」


「礼はじいさんに言え。俺は連れてきただけだ」


「連れてきてくれなかったら、ここに辿り着けなかったよ」


 カイは答えず、棚に並ぶ石のサンプルをなんとなく眺めていた。何か言いたそうで、でも言い出せないような——そんな顔をしている。


「どうしたの?」


「……いや。あのさ、アウリィ」


「うん」


「昨日の話。気がついたらあの島の端に立ってた、っていうの。——あれ、マジなのか」


 真剣な声だった。


 アウリィは少し考えてから、頷いた。


「マジだよ」


「どっからともなく現れて、いずれまたどっかに消えるってことか」


「消えるって言うとちょっと寂しい響きだけど……まあ、そういうこと」


「それは——」


 カイが何かを言いかけたところで、ゲオルグが戻ってきた。革の袋に入った硬貨を手渡される。ずしりとした重み。金属製の硬貨で、表面に輝石を模した刻印が入っていた。


「毎度あり。——嬢ちゃん、いい石を持ってるな。また換えるもんがあったら来な」


「ありがとう、ゲオルグさん。嬢ちゃんじゃないけど」


「何歳だ」


 不意に聞かれて、一瞬詰まった。


 何歳か。正確な数字はもう自分でもわからない。数万年。でもそんなことを言ったら話がおかしくなる。


「……秘密」


「ふん。まあいい。気をつけてな、旅人」


---


 店を出ると、通りは午前の活気で満ちていた。


「お金ができたから、宿を探そうかな」


「宿なら港の近くに何軒かある。安いところでいいなら、マレットばあさんのところが無難だ」


「港?」


「翼艇の発着場だよ。うちの工房もそっちの方角だ」


 カイは歩きながら、通りの先を指差した。建物の屋根越しに、鉄骨で組まれた高い塔が見える。てっぺんに風向計と蒸気旗が据えられている。


「あれが管制塔。翼艇の離着陸を管理してる。——アウリィ、午後は暇か?」


「暇っていうか、やることが全部初めてで何をすればいいのかまだわからないんだけど」


「だったら、午後のリドル島行きの便に付き合うか。他の島を見てみたいって言ってただろ」


 アウリィの足が止まった。


「——いいの?」


「荷物のスペースに余裕があるからな。身体が小さい分——」


「身体が小さいは余計」


「……乗客一人分くらいは問題ないってことだよ。翼艇に乗ったことないだろ」


「ないよ。乗りたい。すごく乗りたい」


 アウリィは目を輝かせた。空を飛ぶ。島と島の間を。雲海の上を。考えただけで胸が躍る。


「じゃあ決まりだ。昼過ぎに工房に来い。——それまでに宿を取って、荷物を置いてこい」


「うん!」


---


 マレットばあさんの宿は、港に面した二階建ての煉瓦造りだった。一階が食堂を兼ねた共有スペース、二階が客室。


 宿の主人は名前の通りの老婦人で、白髪を高く結い上げ、背筋をぴんと伸ばした人だった。アウリィを見るなり「まあ、可愛らしい子」と言ったが、アウリィが「子供じゃないです」と言う前にカイが「こいつ、それ言われると怒るんで」と釘を刺してくれた。


 少しだけ見直した。


 部屋は小さいが清潔で、窓から港と雲海が見えた。蒸気式の暖房装置がかすかに唸りを上げている。一泊十五ギルト。相場はわからないが、カイの反応を見る限り妥当な値段らしい。


 トランクを部屋に置き、身軽になって一階に降りた。


 カイは一足先に工房に戻っている。午前中の残りの時間を使って、蒸気弁の修理を終わらせるらしい。午後の便までにはまだ間がある。


 一人になったアウリィは、宿の食堂で茶を頼んで——昨日カイが淹れてくれたのと同じ穀物焙煎の茶だった——ベルトポーチから日記帳を取り出した。


 昨日の続きを書く。


『ゲオルグさんという鑑定士のおじいさんに蒼玉や紅玉を換金してもらった。二千ギルト。当分は大丈夫そう。ゲオルグさんは目が鋭くて、職人って感じの人。嬢ちゃんって呼ばれた。やっぱりむっとした。


 カイの幼馴染のナディヤさんにも会った。同じ運び屋の人で、さっぱりした性格。石粉パンというのを食べた。輝石の粉が入ってるパンで、不思議な味。きらきら光ってきれい。


 午後、カイの翼艇に乗せてもらえることになった。空を飛ぶ。楽しみ。


 精霊たちとはまだうまく話せない。この世界の精霊は、蒸気と歯車のリズムに乗って存在してる。今まで出会った精霊たちとはずいぶん違う。でも、敵意はない。もう少し時間をかければ繋がれる気がする。


 夜に見た空鯨のことがまだ頭から離れない。あの声。あの大きさ。』


 ペンが止まった。


 空鯨。あの巨大な影と、歌のような声。カイは「謎が多い」と言っていた。誰も全容を知らない存在。雲海の奥に棲む、この世界の——


 ふと、胸の奥がざわりとした。


 何かが引っかかる。精霊への感覚を広げたときに——ほんのかすかに、だけど——あの空鯨の声に似た振動を感じた気がした。気のせいかもしれない。でも。


「……もう少し精霊と話せるようになったら、わかるかな」


 独り言を呟いて、日記帳を閉じた。


---


 昼過ぎ。


 工房に戻ると、カイは蒸気翼艇の整備を終えていた。機体の脇に荷物——中型の木箱がいくつかと、布に包まれた長い棒状のもの——が積まれている。


「来たか。——準備はいいか」


「うん。身軽にしてきた」


 トランクは宿に置いてきた。ベルトポーチだけ腰に提げ、マントを羽織った姿。髪飾りの赤い花弁が風に揺れる。


「よし。乗れ」


 蒸気翼艇は思ったより小さかった。操縦席とその隣に一席、後方に貨物スペース。カイは荷物を手際よく固定してから操縦席に座り、計器類を確認し始めた。


 アウリィは助手席に収まった。座面が硬い。足が床に届かない——けど、それは別にいい。正面の風防越しに、空と雲海が広がっている。


「初めてだよな。翼艇は」


「うん。蒸気で飛ぶ乗り物は初めて」


「蒸気じゃない乗り物で飛んだことはあるのか」


「……あるよ。違う場所で」


 カイは一瞬こちらを見たが、それ以上は聞かなかった。代わりに操縦桿の横にあるレバーを引いた。機体の下から、蒸気機関が目覚める低い唸りが伝わってくる。


「蒸気圧上昇。翼角度固定。——管制塔、こちらカイ・ヘルダー。アステリア発、リドル島行き。離陸許可を」


 操縦席の横に設置された管状の通信機から、くぐもった返答がある。


「許可した。南風に注意せよ」


「了解」


 カイがもうひとつのレバーを押し込んだ。蒸気機関の唸りが高まり、翼の下面から白い蒸気が噴出する。がたがたと機体が揺れ——


 ふわり、と。


 身体が軽くなった。


 地面が離れていく。工房が、港が、アステリアの町並みが、見る見るうちに小さくなっていく。蒸気翼艇は滑るように上昇し、島の縁を越え——


 眼下に雲海が広がった。


「わ——」


 声にならない声が漏れた。


 白い。どこまでも白い雲の海。その上を滑るように飛んでいく。風防を透かして見る空は、地上から見上げるのとは全く違う青さだった。深くて、近くて、手が届きそうで——届かない。


「すごい……」


「風が強くなるぞ。しっかり掴まっとけ」


 カイが操縦桿を倒すと、機体が右に傾いた。雲海が斜めに流れる。アウリィは座席の縁を両手で握りしめながら、それでも目を離せなかった。


 風が吹き抜けていく。マントがばたばたとはためく。髪が顔にかかる。三つ編みにしたおさげが肩の上で跳ねる。


「あ——見て、カイ。あの島、花が咲いてる」


「ガレシア島だ。温泉が出るから、年中花が咲く」


「あっちの小さいのは?」


「見張り台の島。無人だけど、気象観測の装置が置いてある」


「じゃあ、あの下に見える鉄の橋は?」


「リーガル架橋。三十年前に架けられた大型橋だ。あの上を蒸気機関車が走る。——質問多いな、あんた」


「だって全部初めてなんだもの」


 カイが呆れたように、でも口元は笑っている。


 飛行は順調だった。アステリアを離れてしばらくは中規模の島々の間を縫うように飛び、やがて視界が開けて雲海だけの空間に出た。島影がない。ただ空と雲だけの世界。


「ここから先は島間空域だ。次の島まで少し距離がある」


「島がないところを飛ぶのって、怖くない?」


「慣れだよ。——それに、方向さえ間違えなけりゃ必ずどこかの島に着く。羅針盤と高度計がある限り、迷うことはない」


 カイが計器盤の真鍮の羅針盤を指で軽く叩いた。針が微かに揺れる。


「もし壊れたら?」


「壊れないように整備する。それが運び屋の仕事だ。——まあ、万が一のために星の位置で方角を読む技術は叩き込まれてるけどな」


「星で方角を?」


「ああ。夜空の星の配置で、自分がどのあたりにいるかを割り出す。古い技術だ。今は羅針盤があるからあまり使わないけど、運び屋の基本中の基本だって親父に……」


 カイの声が途切れた。


 一瞬、何かを飲み込むような間があった。


「……まあ、とにかく。迷うことはないってことだ」


 アウリィはカイの横顔を見た。何か触れてはいけないものに触れかけた——そんな空気を感じて、聞き返さなかった。誰にだって、言いたくないことのひとつやふたつはある。


 代わりに、別のことを口にした。


「ねえ、カイ。空鯨って、この辺りにも出るの?」


「出ることもある。けど、昼間はまず見ない。雲海の深いところにいるんだ」


「深いところって……雲の中?」


「そう。雲海は見た目より深い。上から見ると白い雲が広がってるだけに見えるけど、実際は何層にも重なってる。空鯨はその奥深くに棲んでいて、夜になるとたまに上層まで浮かび上がってくるんだ」


「誰か潜ったことはないの? 雲海の中に」


 カイがちらりとアウリィを見た。


「……何人かは挑戦した。でも、ある深さから先は視界がゼロになる。計器も狂う。輝石が異常な挙動をするんだ。何人か戻ってこなかった」


「そう……」


「俺の——」


 また、言葉が途切れた。


 カイは操縦桿を握り直し、前方を見据えた。


「……リドル島が見えてきた」


 確かに、雲海の向こうに島影が現れていた。アステリアより少し大きく、島の上に工場らしい建物群が並んでいる。何本もの煙突から白い蒸気が立ち上り、まるで島自体が巨大な機械であるかのようだった。


---


 リドル島の港は、アステリアとは雰囲気が違った。


 鉄と油の匂いが濃い。翼艇の発着場の周囲に大きな倉庫がいくつも並び、作業員たちが忙しく荷物を運んでいる。蒸気起重機がぎしぎしと唸りながらコンテナを持ち上げ、蒸気機関車の貨車に積み込んでいく。


「リドル島は工業島だ。輝石の加工と機械部品の製造が主な産業」


 カイは慣れた様子で翼艇を着陸させ、荷物を降ろし始めた。アウリィも手伝おうとしたが、「いい、俺がやる」と制された。


「その代わり、納品先に荷物を届ける間、港で待っててくれ。あまりうろつかない方がいい」


「なんで?」


「リドル島は気性の荒い連中が多い。見慣れない顔——特にあんたみたいな目立つ奴がふらふらしてると、絡まれる可能性がある」


「絡まれても大丈夫だよ。護身術は心得てるから」


「……いや、そういう問題じゃなくて」


 カイが何か言いかけたとき、背後から声がかかった。


「おう、カイじゃねえか。久しぶりだな」


 振り返ると、大柄な男が二人、こちらに歩いてくるところだった。作業着姿で、一人は坊主頭、もう一人は顎髭を蓄えている。体格はカイより一回り以上大きい。


「……バートン。ダグ」


 カイの声が微妙に硬くなった。


「おっと、誰だこの嬢ちゃんは。カイの妹か?——いや、耳が変だな。なんだこりゃ」


 坊主頭のバートンがアウリィを見下ろし、にやにやと笑った。アウリィの頭ひとつ半以上は高い。


「……嬢ちゃんでも妹でもないし、耳は変じゃないよ」


「おお、怖い怖い」


 からかうような口調。もう一人のダグが低く笑う。


「カイ。お前まだあのポンコツ翼艇で飛んでんのか。いい加減、新しいの買えよ。親父みたいにあの機体に固執して——」


「——黙れ」


 カイの声が鋭くなった。


 空気が変わった。バートンが目を細める。ダグが一歩前に出る。


 アウリィはカイとバートンの間に立ちはだかるように一歩、前へ出た。百四十七センチの身体は壁になるには小さすぎたが、意思を示すには十分だった。


「ねえ、おじさんたち。ボクの友達に失礼なこと言わないでくれる?」


「おじ……」


 バートンが目を丸くし、ダグが口をぽかんと開けた。カイが後ろで「おい」と小声で焦っている。


「知り合いの翼艇をポンコツって言うのは、よくないと思うよ。あの翼艇、ちゃんと手入れされてるもの」


 にっこりと笑って言った。笑っているけれど、目は笑っていない。数万年の旅で培われた——威圧とも違う、けれど一線を踏み越えることを許さないという静かな意志。


 バートンが何秒か沈黙した。


「…………ガキに庇われてんじゃねえよ、カイ」


 吐き捨てるように言って、二人は去っていった。


 残されたカイが、大きく息を吐いた。


「……あんた、度胸あるな。あいつらリドル島の組合でも荒くれ者で通ってるんだぞ」


「荒くれ者っていうより、ただの意地悪な人たちに見えたけど」


「まあ……否定はしない」


 カイは口の端に力のない笑みを浮かべた。


「悪かったな。面倒な場面を見せた」


「ボクは別に構わないよ。——カイ、あの人たち何か言いかけてたけど。親父さんのこと」


 カイの表情がかすかに翳った。


「……親父は、運び屋だった。俺に翼艇の操縦を教えてくれたのも親父だ。——二年前に、雲海の嵐で行方不明になった」


 静かな声だった。


 アウリィは黙って聞いた。


「あの翼艇は親父から受け継いだ機体だ。型は古い。確かにポンコツかもしれない。でも——」


「ポンコツじゃないよ」


 アウリィの声に、カイが目を向けた。


「昨日も言ったけど、あの翼艇はちゃんと大事にされてるのがわかる。古いからって悪いわけじゃない。時間が経ったものには、経った分だけの重みがあるんだよ」


 ——ボクはそれを、たぶん誰よりも知ってる。


 その言葉は飲み込んだ。代わりに微笑んだ。


 カイは何か言おうとして、結局何も言わず、前を向いた。


「……荷物、届けてくる。少し待っててくれ」


「うん。待ってる」


---


 港の端に腰掛けて、アウリィはリドル島の空を眺めた。


 蒸気と煙が混じった空は、アステリアほど澄んでいない。でも、雲海を渡る風が時折煙を散らして、その合間に青空が覗く。


 そっと目を閉じて、意識を広げた。


 精霊を呼ぶ。


 この世界のリズムに合わせて。蒸気の流れに乗って。歯車の回転と共に。


 ——応答があった。


 昨日より、はっきりと。言葉ではない。感覚だ。温度。質感。方角。


 精霊たちは蒸気管の中を流れ、輝石の光の中で瞬き、歯車の軸で回転していた。彼らはこの世界の機構そのものに宿っている。自然と機械の区別がない世界。ここでは鉄のパイプも、雲海の風も、等しく精霊たちの棲み処なのだ。


「……やっと、少し聞こえるようになってきた」


 まだぼんやりとしているけれど——周囲の気配を感じ取れる。索敵というほど精密ではない。でも、人の動き、風の流れ、蒸気の圧力。世界の輪郭が、少しずつ見え始めている。


 そして——やはり。


 深い場所から、かすかな振動が伝わってくる。


 雲海の底から。空鯨の——いや、もっと大きな何かの。


 アウリィは目を開けた。


「…………なんだろう」


 気になる。とても気になる。でも今は手がかりが足りない。もう少し精霊との繋がりを深めてから、もう一度探ってみよう。


 やがてカイが戻ってきた。荷物を全て届け終えたらしく、肩の力が抜けている。


「待たせたな。帰るぞ」


「うん」


 翼艇に乗り込み、リドル島を離れた。帰路は追い風で、機体が滑るように雲海の上を飛んでいく。


 西に傾き始めた陽を浴びて、雲海の表面が琥珀色に染まっていた。


「カイ」


「ん」


「今日はありがとう。翼艇、楽しかった」


「そうか」


「明日もどこかに飛ぶの?」


「明日は便がない。整備日だ。……なんだ、また乗りたいのか」


「乗りたい。でも無理にとは言わないよ」


「…………」


 カイが前を向いたまま、ぽつりと言った。


「ナディヤにも言われたよ。珍しいって。俺が他人を翼艇に乗せるなんて」


「そうなの?」


「親父がいなくなってから、この機体に他の人間を乗せたのは初めてだ」


 アウリィは横からカイの顔を見た。ゴーグル越しに見える横顔は、夕陽に照らされて穏やかだった。


「……なんでだろうな。あんたには、乗せてもいいと思った」


「ボクが軽いから?」


「そういう意味じゃねえよ」


 二人で笑った。風に乗って、笑い声が雲海に溶けていった。


 アステリアの島影が見えてきた。管制塔の蒸気旗が夕陽に翻っている。


 帰る場所があるということ。たとえそれが一時の宿でも——温かい食事と、親切な人がいる場所。それがどれだけ贅沢なことか。


 アウリィは知っている。


 だからこそ——長居はしすぎてはいけないのだ。


 ここが好きになりすぎる前に。この人たちに情が移りすぎる前に。


 世界が自分を手放す日は、必ず来る。


 それがいつかは、わからないけれど。


---


 宿に戻って、夕食を食べて、部屋に上がった。


 日記を広げる。


『リドル島に行った。カイの翼艇に乗って空を飛んだ。すごかった。雲海の上を飛ぶのは、今まで経験した「飛ぶ」とは全然違う感覚だった。下に地面がないっていうのは、怖いはずなのに——自由だった。


 カイのお父さんは二年前に雲海の嵐で行方不明になったらしい。あの翼艇はお父さんの形見なんだ。大切にしてるのが伝わってくる。


 精霊たちとの接続が少し進んだ。この世界の精霊は蒸気と機械に宿っている。もう少しで索敵くらいはできるようになりそう。


 雲海の深い場所から、何かの振動を感じる。空鯨なのか、もっと別の何かなのか。まだわからない。


 明日はアステリアの島をもう少し歩いてみよう。』


 ペンを置いた。


 窓の外では夜の雲海が月光に照らされている。耳を澄ますと——昨夜のような低い声は聞こえない。今夜は空鯨は現れないらしい。


 赤い彼岸花の髪飾りを外して、枕元に置いた。花弁がかすかに揺れる。


「……いい世界だよ、ここ」


 誰に向かってでもなく、呟いた。


 いい世界だ。だからこそ。


 アウリィは目を閉じた。マントの加護が、異世界の夜からそっと守ってくれている。

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