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3話「止まった熱の底で」

夜の機関都市セラフィノアは、昼より静かで、昼より騒がしい。


変な言い方だけれど、本当にそうなのだ。


人の声は減る。

工房の槌音もまばらになる。

商店の呼び声も、運搬車の往来も、夕方を過ぎれば落ち着いていく。


でも、そのぶん街の“本体”の音が前へ出る。


配管の中を走る蒸気の脈。

排熱塔の奥で唸る巨大送風機。

中央塔の深部で回転する主機関の低い振動。

壁の内側、床の下、頭上の梁、その全部から、機械仕掛けの息づかいがする。


街が眠らずに働いている音だ。


ボクはその音を聞きながら、管理局の仮眠室の窓辺に腰かけていた。

夕方から少しだけ休むように言われたのだけれど、初めて来た世界の、初めて来た街の、しかもこれから夜の地下探検が待っているときに、ぐっすり眠れるほど図太くはない。


……いや、わりと図太いほうかもしれないけど。

それでも、今日は眠るより考えたい気分だった。


窓の外には煤色の夜。

遠く、層をまたぐ橋の上を飛行艇の灯りが流れていく。

そのさらに向こう、中央塔の上層部では魔導灯が輪のように輝いていた。まるで空に浮かぶ歯車みたいだ。


ポーチから日記帳を取り出して、昼に書いたページを開く。

字は少しだけ急いでいて、自分でも落ち着かないのがわかる。


――この街の“傷”は地下へ向かっている。

――今夜、さらに下へ行く予定。


「予定、じゃなくて行くんだけどね」


小さく声に出してみる。

すると、自分の言葉なのに、なんだか他人事みたいに聞こえた。


旅のたび、ボクは記憶を封じる。

それは知っている。

理由も、詳しくはわからなくても、自分がそうしたほうがいいと決めたことだと知っている。


でも、こうして日記を見返していると、時々不思議になる。


ボクは何回、こういうふうに夜の前でわくわくしてきたんだろう。

何回、知らない街で、新しい人と出会って、危ない場所へ足を踏み入れてきたんだろう。


思い出せない。

ぜんぜん思い出せない。


なのに、胸のどこかでは“いつものこと”みたいに感じている。


「へんなの」


笑って、ページを閉じる。


そのとき、扉が控えめに叩かれた。


「起きていますか」

「起きてるよー」


入ってきたのはイーゼルだった。

昼間の制服コートの上に、さらに防塵用の長外套を羽織っている。手には小さな金属箱。顔色は相変わらずあまり良くないけれど、朝よりは少し整っていた。休めたのか、それとも“これから動く”と決めてかえって冴えたのか。


「準備が整いました」

「もう行く?」

「ええ。セラとマグダ班長は先に下で待っています」

「了解」


立ち上がって、マントの留め具を確かめる。識別章も、まだついている。

聖槍を持つと、やっぱりしっくりくる。

忘れていても、身体が知っているというのは、便利でもあり、少しだけ寂しくもある。


イーゼルがボクを見て言った。

「少しだけ確認を」

「うん」

「地下では、昼の旧路より精霊の流れが複雑になります。あなたの感知に頼る場面が増える」

「大丈夫、やるよ」

「無理はしないこと」

「イーゼルもね」

「私は仕事です」

「仕事の人が無理しないとは限らないでしょ」


そう言うと、彼は一瞬だけ目を伏せた。

それから、静かに息を吐く。


「……あなたは、思ったよりよく見ていますね」

「そう?」

「ええ」

「イーゼルも思ったより無理するタイプだよ」

「否定はしません」


素直だなあ、とちょっと思う。

セラだったら「しないって!」と言ってから無理をするだろうけれど、イーゼルはちゃんと自覚してそうだ。


「じゃあ、お互い無理しすぎないようにしよう」

「善処します」

「お、イーゼルが善処って言った」

「……取り消します」

「だめ」

「横暴ですね」

「旅人特権だよ」

「そんな特権はありません」


そんなことを言い合いながら、ボクたちは仮眠室を出た。


          *


旧排熱坑道へ向かう“非公式な保守導線”の入口は、管理局のさらに奥、資料保管区の裏手にあった。


通路の灯りは落とされ、夜間警備用の青白い光だけが足元を照らしている。

昼間はあれほど人が行き交っていた建物が、夜になると途端に空洞みたいに広く感じられるのが不思議だ。


階段をいくつか下り、物資庫の脇を抜け、最後に分厚い保守扉を三つ。

その最下段の扉の前で、セラとマグダ班長、そしてエルミナ主任まで待っていた。


「遅い」

とセラ。

「予定時刻ぴったりです」

とイーゼル。

「イーゼルといると時間感覚が整備表になるよね」

「不健康な比喩はやめて」


マグダ班長は完全装備だった。

昼間の短銃に加え、腰には工具兼用の長刃、左腕の外骨格フレームには新しい補助板がついている。エルミナ主任は白衣ではなく、濃紺の作業衣姿だ。袖口まできっちり留めていて、片手には細長い金属ケースを持っていた。


「主任も来るの?」

とボクが訊くと、彼女は涼しい顔で答えた。

「私しか開け方を知らない扉があるから」

「頼もしい」

「褒め言葉として受け取っておくわ」


保守扉の前には、煤けた銘板がひっそりと打ち付けられていた。


《旧排熱補路 封印区画》

《無許可立入厳禁》


いい響きだなあと思ってしまうあたり、やっぱりボクはだいぶ危険なものが好きなのかもしれない。


イーゼルがすぐに釘を刺してきた。

「顔に出ています」

「わくわくしてるだけだよ」

「そのわくわくで先走らないでください」

「努力する」

「遵守を」

「はいはい」

「返事が軽い」

「夜だからね」

「関係ありますか?」


セラが肩を揺らして笑う。

マグダ班長は「静かにしろ」と言いながらも、口元だけ少し緩んでいた。


エルミナ主任が扉の前へ進む。

封印区画の鍵は、物理錠だけではなかった。扉の表面に円形の刻印板があり、その周囲を細かな術式が何層にも囲んでいる。彼女は金属ケースを開き、そこから薄い結晶板を三枚取り出した。


「古い封印は、古い手順でしか開かないの」

そう言って、結晶板を刻印板に順番に当てる。

青、緑、白。

光が点り、術式がかちりかちりと回転していく。


「こういうの好き?」

ボクが小声で訊くと、セラが即答した。

「好き」

「だよね」

「でもイーゼルは“手順確認”って顔で見てる」

「実際その通りです」

「もったいな」

「感心する余裕があるなら記録してください」

「はいはい主任補佐殿」


最後に、エルミナ主任が指先で中央の刻印へ触れた。

小さく唱えた言葉は聞き取れない。

けれど術式が一斉に白く光り、重い音を立てて封印が解けた。


扉が開く。


向こうから吹いてきた空気は、冷たいわけではないのに、ひどく古かった。


熱がある。

でも、動いていない熱だ。

長く閉じ込められて、息だけ残ったみたいな温度。


「うわ」

セラが鼻をしかめる。

「古い鉄と、湿気と……なんだこれ。焦げた薬みたいな匂い」

「排熱坑道の匂いよ」

エルミナ主任が言う。

「昔の熱は、こういう匂いをしてる」


その言い方が、少し詩みたいで、ちょっと好きだった。


          *


旧排熱坑道は、旧路よりさらに下にあった。


入口から延びる鉄製の螺旋階段を、かなり深くまで降りる。

周囲の壁は途中から煉瓦から黒い耐熱石へ変わり、配管も太くなっていく。昔の都市は、下に行くほど熱かったのだろう。いまは主系統が変わって使われなくなったせいか、温度はぬるく、残り香だけが強い。


灯りはほとんどない。

イーゼルの杖先、エルミナ主任の携行灯、マグダ班長の肩灯。その光が床と壁を撫でるたび、古い計器や閉ざされた弁、朽ちかけた点検札が浮かび上がる。


歩く音が響く。

かつ、かつ、かつ。

その反響が遅れて戻ってきて、人数が増えたみたいに聞こえる。


「ねえ」

ボクは小声で言った。

「ここ、昼よりもっと歌ってる」

「やめろって、その表現こわい」

セラがすぐ返す。

「だってそうなんだもん」

「どういう感じなんです」

イーゼルが訊く。

「んー……上の旧路は、昔の道の癖が残ってる感じ。ここは、熱の通り道の癖が残ってる。ずっと何かが流れてたから、壁も床もその向きで覚えてる」

「流路記憶、のようなものか」

エルミナ主任が呟く。

「魔導材でたまに観測される現象だけど、ここまで広域となると興味深いわね」

「主任、いま研究者の顔してる」

セラが言う。

「普段からしてるわ」

「してた」

「知ってます」


イーゼルの返事が早い。

この三人、仕事の付き合いは長そうだなと思う。


階段を降りきると、横長の主坑道へ出た。

中央に太い主管。左右に補助管。足元には排液溝。天井は高いけれど圧迫感がある。ところどころ、壁の向こうでまだ熱が残っているのか、かすかに赤く滲む石が見えた。


ボクは意識を広げる。

地上の風の精霊はほとんど届かない。

代わりに、石と熱と、眠たい煙の気配が濃い。ここの精霊たちは重い。動きが遅く、古く、話しかけてもすぐには返事が来ない。


「きみたち、変なもの見なかった?」

心の中で問いかける。

しばらくして、底のほうからゆっくりと返る。


『とおる』

『くろいくぎ』

『ねつをかえる』

『いたい』

『ふかいところ』


「やっぱりあるんだ」


「何か?」

イーゼルが気づく。

「黒い釘、だって」

「その表現、定着してきたなあ」

セラがぼそっと言う。


マグダ班長が地図板を開く。

「深いところ、というなら主坑道の終端か、廃熱集積室のあたりだ」

「そちらへ」

イーゼルが即座に言う。

「途中の枝路も警戒しながら進む」


隊列が少し緊張を増す。

ボクも槍を持つ手に力を入れた。


攻撃は得意じゃない。

でも、“来る”を先に掴むのはたぶん得意だ。


旅の中でそればかり磨いてきたのだろうか。

誰かを守る動き。危険を嗅ぎ取る感覚。逃がす、逸らす、支える、見つける。

そういうものだけが、記憶のないボクにもはっきり残っている。


それって、どうしてなんだろう。


……まあ、いま考えてもわからないか。


主坑道を進むにつれ、壁や配管のあちこちに黒い侵食痕が見え始めた。

昼に見たものと同じだ。

けれど範囲が違う。こちらのほうが古く、深く、根を張っている。


「思ったよりひどいわね」

エルミナ主任が低く言う。

「これだけ侵食されていて、上層で大事故になっていないのが不思議なくらい」

「変換量が小さいから、目立たない不調で済んでいるのかも」

イーゼルが壁面を観察する。

「いや……違うな。意図的に“致命傷にならない程度”に抑えている?」

「そんな器用なことできる?」

とセラ。

「できる人がいるなら、です」

「やな感じ」

「ええ」


やな感じ。

ほんとうにそうだ。


街を壊したいなら、もっと派手にやればいい。

なのに、誰かはあえてギリギリを刻んでいる。

事故と断定されず、でも確実に街の内側へ爪を立てる程度に。


それは破壊より、むしろ“調律”に近い行為に見えた。

街を、別の何かへ合わせようとしているみたいな。


「……うわ」

思わず漏れた。


「どうした」

マグダ班長が振り向く。


「この先、なんか大きいのいる」


全員が止まる。

坑道の先は暗い。光は届いているのに、その先だけ黒さが濃い気がした。


イーゼルが一歩前へ出る。

「どの程度」

「影一個、って感じじゃない。もっと……集まってる」

「群体?」

エルミナ主任が呟く。

「可能性はあります」

「数は」

「うまく数えられない。重なってる」


セラが工具ベルトから小型の照明弾を取り出した。

「投げるよ」

「待って」

ボクは手を上げる。

「たぶん、音で寄る」


「……根拠は?」

イーゼルの問いに、ボクは首を傾げる。

「なんとなく」

「雑だなあ」

セラが言う。

「でも当たるんだよなあ」

と、マグダ班長。


イーゼルが短く考える。

「灯りは据え置き、静かに前進。接敵したら班長を中心に迎撃、アウリィは後衛保護と感知継続」

「了解」

「りょーかい」

「ええ」

「いいわよ」


前進する。


足音をできるだけ殺す。

坑道に響くのは、配管の微かな軋みと、自分たちの呼吸だけ。


その先の広い空間に出た瞬間、ボクはぞくりとした。


廃熱集積室。

おそらく、昔この都市の余熱を一時的に集めて流し分けていた場所だ。

円形の巨大な部屋で、中央には深い穴、その周囲を取り巻くように同心円状の通路がある。天井からは何本もの太い管が垂れ下がり、いまは乾いた音だけを残して静止していた。


そして。


その床や壁、管の表面に、黒い影がいくつも貼りついていた。


人型に近いもの。

獣みたいな四足のもの。

ただの靄の塊。

それらが、まるで眠っているみたいにじっとしている。


「……うそ」

セラが息を呑む。

「こんなに」


ボクは小声で言う。

「起こさないほうがいい」


けれど、その願いはたぶん遅かった。


部屋の中央、深い穴の向こう側。

そこに、人が立っていた。


黒いロングコート。

細身の長身。

顔の半分を覆う呼吸面。

手には杖ではなく、長い計測槍みたいな器具。

こちらを向いている。


「侵入者か」

面越しでもわかるくらい、静かな声だった。

若くもなく老いてもいない、中間の年齢の男の声。


マグダ班長がすぐに銃を構える。

「管理局第四保安班! その場を動くな!」

「管理局、か」

男は少しだけ首を傾げた。

「予想より早い」


イーゼルが前へ出る。

「あなたは誰だ」

「それを名乗る義理が、いまあるか?」


挑発ではなく、純粋に確認するみたいな言い方だった。

その平坦さが、かえって不気味だ。


「では質問を変えます」

イーゼルの声も冷える。

「この侵食痕と核片を設置したのはあなたですか」

「核片。なるほど、そう呼んでいるのか」

男は計測槍を軽く回した。

「いい名だ。釘よりは上品だ」

「釘でも伝わるよ」

思わず言うと、全員の視線が一瞬こっちへ来た。

しまった。


でも男は、面の奥で少し笑った気がした。

「君が観測者か」

「旅人だよ」

「どちらでも大差ない」


なんだろう、この人。

敵っぽいのに、話し方が妙に落ち着いている。

それが余計に怖い。


「質問に答えてください」

イーゼルが一歩も引かず言う。

「この都市に干渉している目的は何です」


男は少しの間、沈黙した。

周囲の黒い影たちが、彼の気配に呼応するみたいにわずかに揺れる。


「観測だ」

やがて男は言った。

「この都市は大きすぎる。成熟しすぎている。ゆえに変質の閾値が興味深い」

「……は?」

セラが声を漏らす。

「つまり?」

「どの程度まで“別の流れ”を混ぜても、都市機関は都市であり続けるか。どこで齟齬が顕在化し、どこで順応するのか。その境界を知りたい」


ぞくり、とした。


ああ、そうか。

この人は、街を部品か実験器具みたいに見ている。


「ふざけんな」

セラが吐き捨てた。

「ここで人が暮らしてんだぞ」

「知っている」

「なら!」

「だからこそ価値がある」


その言葉に、マグダ班長が引き金に指をかける。

でもイーゼルが片手で制した。


「あなたは研究者か」

「そう呼ばれたこともある」

「四年前の旧路事故にも関わった?」

「……あれは、少し早すぎた」


男は淡々と答える。

後悔ではない。

ただ手順の誤差を振り返るみたいな口調。


イーゼルの目が、はっきりと怒りを帯びたのがわかった。

今まで見たことのない顔だった。

静かな人の怒りは、熱より冷たい。


「死者が出た」

「出た」

「それを“早すぎた”で済ませるのか」

「結果として、封鎖は進んだ。観測環境は整った」


セラが一歩踏み出しかける。

ボクはとっさに腕を掴んだ。

「待って」

「でも!」

「いま飛び込むと、周りが起きる」


本当に、影たちが揺れている。

この男の声か、こちらの感情か、どちらに反応しているのかわからないけれど、眠りが浅くなっていた。


男の面が、わずかにボクへ向く。

「よく見えているな」

「見えちゃうんだよ」

「それは厄介だ」


次の瞬間、彼が計測槍を床へ突き立てた。


金属音。

それに続いて、床の黒い筋が一斉に光る。


「来る!」

叫ぶ。


影たちが起きた。


壁から、床から、管から、いくつもの黒い残滓が剥がれ落ちるように動き出す。

人型、獣型、靄。

数が多い。昼の広場の一体とは比べものにならない。


「迎撃!」

マグダ班長の号令。


青白い魔導弾が飛ぶ。

セラの貫入杭が火花を散らす。

イーゼルの杖から防護網が広がる。


でも、多い。

そして男自身は、その騒ぎの向こうで一歩、また一歩と中央穴の奥へ下がっていく。


「逃がすか!」

セラが叫ぶ。


「だめ!」

ボクは即座に言った。

「今はこっち!」


目の前の残滓が飛びかかってくる。

人型だけど、人の関節じゃない動きだ。だから読みにくい。けれど“流れ”はある。床の黒線を通るたび、ほんのわずかに軌道が固定される。


そこを読む。


槍で受けない。

逸らす。

足を払うように、ではなく、進路の横へ薄く押し流す。

一体、二体、三体。

真正面から倒せないなら、味方の撃ちやすい位置へ送る。


「右から二! 低いの!」

「了解!」

マグダ班長が撃つ。


「セラ、後ろ!」

「っと!」


セラが振り向きざまに杭を叩きつけ、獣型の胸の核を弾き出す。

イーゼルがそれを青い術式で固定する。

「核露出! 班長!」

「見えてる!」


連携が回り始める。

昼よりずっと速い。


でも敵は尽きない。


「多すぎる……!」

セラが歯を食いしばる。


ボクは息を整える。

攻撃は低い。でも、支えることはできる。


「イーゼル!」

「なんです!」

「この部屋全体の黒線、切れる?」

「切る?」

「流れを一回途切れさせたい!」

「理論上は可能だが、この規模では出力が」

「足りない?」

「一人では」

「じゃあボクが繋ぐ!」


言いながら、自分でも半分くらいは勘だった。

でも、この部屋の“歌”がそう告げている気がした。

黒い釘でねじ曲げられた流れなら、元の熱の通り道を少しだけ呼び戻せるかもしれない。


「やります」

イーゼルが即答した。

一拍も迷わなかった。


「セラ、班長! 二十秒稼いで!」

「雑な注文!」

「やる!」

「了解だ!」


ボクとイーゼルは中央の制御盤跡へ走る。

古い配熱弁の残骸。錆びてはいるけれど、都市の古い中心のひとつだった場所だ。


「何をすれば」

イーゼルが問う。


「この部屋の“元の流れ”を思い出させる」

「詩的すぎてわかりません」

「だよね! えっと、熱が通ってた道を、一瞬だけ逆に撫でる感じ」

「余計わかりません」

「でもイーゼルならできそう」

「信頼が雑ですね!」

「すごく信じてるよ!」

「……わかりました!」


彼は杖を制御盤へ突き立てる。

青い術式環が何重にも展開し、床の下の古い弁機構へ接続していく。ボクはその横で、石と熱と煙の精霊たちへ一気に呼びかけた。


「お願い、ちょっとだけ力を貸して」

『おもい』

『ねむい』

『でもきく』

『きいろいの』

『へんなの』

「うん、へんでいいから!」


この世界の精霊は素直じゃない。

でも、全く応じないわけじゃない。

上の風たちみたいな軽やかさはないけれど、そのぶん深く噛み合えば大きい。


ボクは床に片手をつく。

熱の古い道筋をなぞる。

ここを通っていた。ここも。あの管から、中央へ、そこから左右へ。

忘れた街の循環を、一瞬だけ呼び戻す。


イーゼルが低く詠唱する。

術式の青と、ボクの拾った古い熱の赤が重なる。


「いま!」

ボクが叫ぶ。


イーゼルが杖を振り下ろした。


ごう、と低い音が部屋全体を走る。


止まっていたはずの古い配熱溝に、一瞬だけ熱の幻みたいな光が流れた。

黒線がそれに押し返される。

床を這っていた侵食痕が、ぱきぱきとひび割れた。


同時に、動いていた残滓たちの身体が大きく揺らぐ。

糸を切られた操り人形みたいに、輪郭が乱れる。


「効いた!」

セラが叫ぶ。


「核を狙え!」

マグダ班長の号令。


そこからは速かった。

セラの杭が次々に核を弾き、班長の魔導弾が撃ち抜き、イーゼルの固定術が逃がさない。ボクは前に出すぎる残滓をひたすら逸らし、味方へ流す。壊す力はなくても、倒す形へ持っていくことはできる。


一体、また一体。

黒い影が崩れていく。


けれど。


「男がいない!」

セラが振り向く。


中央穴の向こう側。

さっきまでいたはずの男の姿が消えていた。


「くそっ」

マグダ班長が舌打ちする。


最後の一体が崩れたあと、部屋には荒い呼吸だけが残った。


黒い煤の匂い。

熱の名残。

足元には核片の残骸がいくつも転がっている。


「全員無事?」

ボクが訊く。

「擦り傷程度!」

「こちらも」

「問題ない」

「私は平気」

エルミナ主任も少し煤けていたが、落ち着いていた。


イーゼルが中央穴の縁へ進む。

覗き込むと、その下にはさらに細い保守路が走っているらしい。暗くて深さはわからない。


「逃走経路か」

「追う?」

セラが訊く。

その目はもう追う気満々だ。


でもマグダ班長が首を振る。

「だめだ。未知の深部にこの人数で突っ込むのは無謀すぎる」

「でも!」

「証拠は取れた。痕跡も核片も大量にある。いま必要なのは回収と上申だ」

「……っ」


セラは悔しそうに唇を噛んだ。

イーゼルも、追いたい気持ちはあるのだろう。でも彼は目を伏せ、一度だけ深く息をついてから言った。


「班長の判断に従います」


それが正しい。

たぶん正しい。


わかっていても、少しだけ悔しい気持ちが残る。

あの男の正体も、目的の全部も、まだ掴めていない。

でも、ゼロではなくなった。

それは大きい。


「ねえ」

ボクは中央穴の縁でしゃがみ、下を覗いた。

「まだ下に“本体”がある気がする」

「本体?」

イーゼルが隣へ来る。

「うん。ここは中継点みたい。黒い釘をまとめてる、もっと太い流れが下」

「中心核……あるいは制御基部か」

エルミナ主任が静かに言う。

「だったら、次は正式な隊で潜るべきね」


次。

その言葉に、セラが顔を上げた。

「じゃあ、また行ける?」

「上を説得できれば」

イーゼルが答える。

「今日の成果なら可能性は高い」


その声には、昼よりずっと確かな芯があった。


          *


回収作業は時間がかかった。


黒い核片の残骸。

侵食痕の削り片。

床に残った術式の痕。

男が使っていたらしい計測槍の欠片まで、一部が落ちていた。


その間、ボクは少し離れた場所に座って呼吸を整えていた。

精霊たちを大きく使うと、体力とは違うところがじんわり疲れる。この世界の精霊は重いから、なおさらだ。


イーゼルが水筒を差し出してくる。

「飲んでください」

「ありがと」


口をつける。

冷たくはないけれど、喉に染みた。


「助かりました」

彼が言った。


「こっちこそ。イーゼルがすぐ合わせてくれたからだよ」

「かなり無茶な説明でしたが」

「でもわかったでしょ?」

「……なぜかわかりました」

「すごい」

「褒めても何も出ません」

「じゃあ褒めるだけにしとく」


すると彼は、珍しく少しだけ笑った。

ほんの短い笑みだったけれど、ちゃんとわかった。


「アウリィ」

「ん?」

「あなたは、その……」

言い淀む。

珍しい。


「すごい、と思います」

「おお」

「ただ、同時に危うい」

「危うい?」

「自分の限界を、たぶん感覚で越えてしまう」

「イーゼルに言われたくないなあ」

「……その通りですね」


お互いさま、というやつだ。


「でも」

ボクは水筒を返しながら言う。

「一人で越えるのは危ないけど、誰かが一緒なら大丈夫なこともあるよ」

「……」

「今日だって、ボクだけじゃあれはできなかった」

「私も一人では無理でした」

「じゃあ、よかったじゃない」


イーゼルは少し黙ってから、小さく頷いた。

その頷きは、仕事上の合意より、もう少し個人的なものに見えた。


少し離れたところで、セラがエルミナ主任に絞られていた。

「だから、残滓に素手で近づくなって言ってるでしょ」

「だって形見たかったし」

「見たいで触るな」

「はい……」

「反省してる?」

「半分」

「足りない」

「ですよねー」


その会話に、ボクはくすっと笑う。

緊張のあとに、こういうやりとりがあると、ちゃんと戻ってこられた感じがする。


旅の途中で出会う人たちは、たぶんいつもそうだ。

最初は他人で、少しだけ一緒に動いて、危ないことを越えるうちに、ふと気づけば“この旅の仲間”みたいになる。


でもボクは、いつかこの旅を終えて、記憶を統合したら、次の世界ではまたそれを忘れる。


そのことを思うと、胸のどこかが少しだけ空く。


楽しい。

嬉しい。

好きになる。

知りたいと思う。


その全部を、次の旅では持っていけない。


いや、持っていけないわけじゃないのかもしれない。

旅が終われば統合されるのだから、消えるわけではない。

でも、いまのボクの手には残らない。

次のボクは、また新しい世界へ、何も知らない顔で立つ。


「……それって、ぜいたくかな」


思わず呟いていた。


「何がです」

隣のイーゼルが聞き返す。


少し迷ったけれど、なんとなく話してみたくなった。


「ボクね、旅が終わると記憶が戻るらしいんだ」

「らしい、というのも変な言い方ですね」

「自分で決めたってことしか、いまはちゃんとわかんないから」

「ええ」

「だから、たぶん今こうしてることも、あとでは“全部あったこと”になる。でも、次の旅のボクは、それを知らない」

「……」

「それって、ちゃんと持ってるって言えるのかなって」


坑道の古い熱が、ゆっくり頬を撫でた。

少しだけ、返事が怖かった。

何を言われるのか、じゃなくて、こういうことを口にした自分が、少しだけ知らないボクみたいだったから。


イーゼルはすぐには答えなかった。

しばらく考えてから、低く言う。


「記録があるなら、持っていると思います」

「日記?」

「ええ。記憶そのものではなくても、あなたがその時に見て、感じて、書き残したものなら」

「でも、書いたボクと読むボクは、ちがうかも」

「それでも」

彼はボクの日記帳を見る。

「違うからこそ、意味があるのかもしれない」


ボクは瞬きをした。


「……どういうこと?」

「人は、同じ一日を二度は生きられない」

イーゼルは静かに言う。

「昨日の自分と今日の自分も、厳密には同じではない。なのに、多くの人はその連続を“自分”と呼ぶ」

「うん」

「あなたは、その変化の幅が大きいだけです。なら、なおさら記録が橋になる」


橋。

その言葉が、妙に胸に残った。


「橋、かあ」

「ええ。少なくとも私はそう思います」

「イーゼルって、たまにすごくいいこと言うね」

「たまに、は余計です」

「でもほんとだよ。なんかちょっと、救われた」

「……それは、よかった」


声がほんの少し柔らかい。

こういう瞬間があると、この人は本当に深いところでやさしいのだとわかる。


ボクは日記帳を取り出し、その場で一行だけ書いた。


――記録は橋になるかもしれない。


それを見たイーゼルが、少しだけ目を細める。

「早いですね」

「忘れたくないから」

「そうですか」

「いまのは、たぶん大事」


ページを閉じた。


          *


地上へ戻るころには、もう夜もだいぶ更けていた。


管理局の上層窓から見る街は、昼間より灯りが少なくて、そのぶん輪郭がきれいだった。蒸気の白さも夜には銀色に見える。眠らない街なのに、どこか夢の中みたいだ。


分析室では、回収した核片の処理がすぐに始まった。

エルミナ主任は寝る気がまるでなさそうだったし、セラも目がぎらぎらしている。マグダ班長は「私は報告書だ」と言って去っていった。たいへんそうだなあと思う。


イーゼルも当然、報告へ向かうはずだった。

けれどその前に、廊下の途中で足を止める。


「アウリィ」

「なに?」

「今日はここまでです。あなたは休んでください」

「イーゼルたちは?」

「まだ終わりません」

「じゃあボクも」

「だめです」

きっぱり。

「あなたは外部協力者です。これ以上拘束する権限はありません」

「それ、追い返し文句?」

「保護です」

「むう」


不満げな顔をしたら、彼は少し困ったように眉を下げた。


「明日、おそらく正式な捜索許可が下ります」

「ほんと?」

「今日の証拠が十分なら」

「じゃあ、明日も行ける?」

「……望むなら」

「望む!」

「でしょうね」


セラが後ろから割り込んでくる。

「望まなくても連れてくよ、あたしは」

「勝手に決めないでください」

「でも必要でしょ?」

「それは」

「ほら」

「……」

「イーゼル、最近ほらって言われると黙るよね」

「黙らざるを得ないだけです」

「負けてるじゃん」

「負けてません」


二人のやりとりを見ていると、なんだか口元がゆるむ。


この街に来たばかりなのに、もうこんなふうに笑える相手がいる。

それはすごく、ありがたいことだ。


「じゃあ、明日に備えて寝る」

ボクは言った。

「でもその前に、ちょっとだけ外の空気吸いたいな」

「一人で遠くへは行かないでください」

「門前まで」

「十分で戻ること」

「保護者みたい」

「監督者です」

「似たようなものだよ」

「違います」

セラがにやにやしている。

「いや、だいぶ似てる」

「ノクス」

「はーい黙ります」


          *


管理局の前の広場は、深夜になると昼間とは別の顔をしていた。


人通りは少ない。

清掃用の小型機械が石畳を静かに磨き、遠くで夜間便の飛行艇が低く唸る。空気は冷たくはないけれど、蒸気を含んでしっとりしている。


ボクは時計塔の見える位置まで歩いて、深く息を吸った。


この世界の空気。

鉄と煤と熱と、少しの雨の匂い。


好きだなあ、と思う。


まだ二日か三日しかいないのに、もう好きになるなんて単純かもしれない。

でも、旅ってたぶんそういうものだ。

長くいるから好きになるんじゃなくて、ふっと心に引っかかる何かがあるから、その先を知りたくなる。


ポーチから日記帳を出す。


――夜。

――旧排熱坑道で、黒い残滓の群れと、それを操る男に遭遇。

――目的は“観測”だと言った。

――街を実験台みたいに扱う人だ。

――でも、少しだけ気になる。あの人は何を見たいのだろう。

――たぶん、次で中心へ行く。


そこまで書いて、ペン先が止まる。


少し迷って、さらに足した。


――記録は橋になる。

――なら、いまのボクは、未来のボクに橋をかけている途中なのかもしれない。


書き終えると、胸の奥の空白が少しだけやわらいだ気がした。


そのとき、広場の隅で誰かが手を振った。


「アウリィさん!」


ルカだった。

朝の新聞配達の少年。今日は夜番なのか、もう配達を終えたのか、小さな紙袋を抱えている。


「ルカくん! こんな時間にどうしたの?」

「帰り道です! っていうか、昼に局の人から聞いて、あなたすごいことになってるって……」

「すごいこと?」

「なんか旧路の封鎖とか、管理局がバタバタしてるとか」

「まあ、ちょっと」

「やっぱり関わってるんだ……」


ルカは目を丸くしてから、紙袋を差し出した。

「これ、昼に親方が焼いてくれたやつです。朝のお礼」

中にはまだ少し温かい小さな焼き菓子が入っていた。香辛料の匂いがする。


「わ、ありがとう!」

「いえ! 本当に助かったんで」


ボクはひとつ摘んで食べる。

外はさっくり、中はしっとり。甘さは控えめで、胡椒みたいな香りが最後に残る。

おいしい。


「おいしい……!」

「でしょ」

ルカが嬉しそうに笑う。


その笑顔を見て、昼にあの男が言った“だからこそ価値がある”という言葉を思い出して、少しだけ胸の奥が冷えた。


価値、なんて簡単に言っていいものじゃない。

街には人がいて、朝ごはんがあって、配達があって、親方が焼き菓子を焼いて、誰かが怒られて、誰かが笑っている。


そういうもの全部をまとめて、ひとつの“街”なんだ。


壊れ方を見れば秘密がわかる。

たしかにそうかもしれない。

でも、壊していい理由にはならない。


「アウリィさん?」

ルカが不思議そうに首を傾げる。

「ん、なんでもないよ」

ボクは笑って、紙袋を大事に抱えた。

「ありがとう。すごく元気出た」

「ならよかった!」


ルカは帽子を押さえて、元気よく手を振って帰っていく。

その背中を見送りながら、ボクは静かに思う。


明日、たぶん決着に向かう。

この街の地下に打ち込まれた黒い釘の、いちばん深いところへ。


ボクは旅人だ。

いずれこの街を去る。

でも、去る前に、この街の傷を少しでもましな形にできたらいい。


そう思うのは、旅人としてはおせっかいだろうか。


……ううん。

たぶん、そういうおせっかいが好きだから、ボクは旅をしているんだ。


管理局の方から、イーゼルの声がした。

「十分経ちましたよ!」

「はーい!」


返事をして、ボクは駆け出す。

紙袋と日記帳を抱えて、夜の広場を横切る。


蒸気の街の灯りが、遠くで瞬いていた。

その下で、止まった熱がまだ眠っている。


明日、そこへもう一度降りる。

今度はきっと、もっと深く。もっと核心へ。


そして旅は、少しずつ終わりの形を見せ始めていた。

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