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4話「旅の終わりに灯るもの」

朝は、いつだって少しだけ残酷だ。


夜のあいだ胸の中で育てていた決意も、不安も、怒りも、期待も、朝の光に照らされると急に輪郭がはっきりしてしまう。ぼんやりしたままではいられない。今日は何をする日なのか、身体にまでわからされる。


機関都市セラフィノアの朝は、薄い煤色の空から始まる。

東の空が白んでも、街の輪郭はすぐにはやわらかくならない。配管の影、煙突の列、中央塔の鋼骨。すべてが機械の線でできている。


でも、その中で灯る朝の窓明かりはあたたかい。

パンを焼く匂いも、湯を沸かす蒸気も、人の生活のほうの熱だ。


ボクは管理局の宿直室で目を覚まして、天井を見上げたまま少しだけぼんやりした。

昨夜はちゃんと眠れた、と思う。

深く眠ったかと言われると怪しいけれど、少なくとも身体は軽い。


今日はたぶん、決着の日になる。


そのことを考えても、意外なくらい、頭の中は静かだった。


怖くないわけじゃない。

相手はまだ正体の全部がわからないし、地下の“本体”がどんな形なのかもわからない。

でも、やることははっきりしている。


この街に打ち込まれた黒い釘の根を見つけて、止める。

それだけだ。


ベッドから起き上がり、窓辺へ寄る。

中央塔の向こうに、上層の飛行艇が小さく横切っていく。

その下で、セラフィノアは今日も動き始めていた。


「おはよう、街」


なんとなくそう呟く。

返事のかわりに、遠くで汽笛が鳴った。


          *


朝食は、やっぱり《暁の釜》だった。


ミラさんはボクたちが入るなり、顔をしかめた。

「ひどい顔だねえ、みんな」

「徹夜気味なので」

とイーゼル。

「わかりやすい」

とセラ。

「私は平常運転よ」

とエルミナ主任。

「班長は?」

とボク。

「寝た」

とマグダ班長。


本当に短くしか喋らない人だなあと思うけれど、そのぶん一言の信頼感がすごい。


ボクの前に置かれたのは、焼いた薄パンに卵と燻製肉を挟んだものと、熱い豆乳茶。

ひとくち食べて、やっぱりおいしいと思った。


「この街、最初から最後までごはんが強い」

「最後って決めないでおくれよ」

ミラさんが言う。

「また食べに来ればいいじゃないか」

「それはそうなんだけど」


言いながら、少しだけ胸の奥がちくりとした。


旅は終わる。

この街の旅も、たぶん今日で終わりに近づく。


もちろん、完全に“最後”とは限らない。

旅人なのだから、また立ち寄ることだって理屈の上ではあるかもしれない。

でも、そういう約束を簡単に口にするのは、なんだかずるい気がした。


次の旅のボクは、いまのボクを知らない。

それでも戻ってくることがあるのか、ボクにはわからない。


「アウリィ?」

セラが顔を覗き込んでくる。

「ぼーっとしてる」

「朝ごはんがおいしくて幸せ噛みしめてた」

「たまに本気でわかんないんだよね、その感情の比重」

「大事だよ、ごはん」

「それはまあ、そう」


イーゼルが手元の資料束を広げる。

「正式許可が下りました」

「やった」

「やっと」

「想定より早かったわね」

エルミナ主任が言う。

「証拠量が十分でした」

イーゼルは書面をめくった。

「旧排熱坑道深部、廃熱集積室下方の封鎖解除。第三保全部門、第四保安班、分析室合同で制御基部の確認と停止措置を行う」

「要するに」

セラが言う。

「今日こそ根っこを叩く」

「乱暴ですが、概ねその通りです」

「人員は?」

マグダ班長が訊く。

「先行班は我々と補助員二名。後続に封鎖班と回収班」

「補助員二名?」

ボクが首を傾げる。


そのとき、食堂の扉がからんと鳴った。


「お、おはようございます!」


入ってきたのは、局内工房のフィンだった。

背中に大きな工具袋を背負い、寝癖を必死に押さえた形跡がある。


「なんでいるの」

セラが素で言う。

「工房主任推薦の補助要員です!」

フィンが胸を張る。

「父さんが、旧式弁機構ならおれのほうが手が速いって」

「速いのと危険は別だろ」

「でもちゃんと許可もらった!」

「ほんとに?」

「書面ある!」

「うわ、ほんとだ……」


もう一人の補助員は、東三層の整備工の親方だった。

朝に暴走運搬車の件で会った、あの髭の男だ。

本名はガルム・デッカー。工房街では旧式配管の修繕で有名らしい。


「嬢ちゃん、また会ったな」

「親方!」

「親方って呼ぶな、他所もんにまで定着する」

「じゃあガルムさん」

「それはそれでむず痒い」


でも、少し嬉しそうだった。


こうしてみると、管理局だけじゃなく、この街そのものが動き始めている感じがした。

黒い釘は街全体の傷だ。

なら、街の人たちがそれを止めに行くのは自然なのかもしれない。


「今回は正面から行く」

マグダ班長が短く言う。

「先行班で深部へ到達、制御基部を確認。敵性存在があれば排除、あるいは停止。最優先は都市機関の保全だ」

「はい」

と全員。


ボクも頷く。

心臓が、ひとつだけ大きく跳ねた。


          *


出発前、ボクはひとりだけ少し早く席を立って、店の外の路地へ出た。


朝の空気はまだ冷たくはないけれど、夜よりは乾いている。

石畳の上に白い蒸気がうっすら流れ、遠くで市場の準備が始まる音がした。


ポーチから日記帳を出す。


――たぶん今日は終わりの日。

――でも、終わりは嫌なことばかりじゃない。

――決着がつくのは、ちゃんと向き合った証拠でもある。


そこまで書いて、ペン先を止める。


次に何を書くべきか、少し迷った。

旅の最後の日に何を書くのかなんて、いまのボクには見当もつかない。

いや、たぶん過去のボクは何度もやってきたのだろうけれど、やっぱりいまのボクには初めてみたいなものだ。


ふと、横に気配が来た。


「やはりここでしたか」

イーゼルだった。


「探してた?」

「集合前に姿が見えなかったので」

「ちゃんと戻るよ」

「知っています」

「じゃあなんで来たの?」

「……少し、話を」


珍しいな、と思った。

イーゼルからそういう言い方をするのは。


「どうぞ」

ボクが日記帳を閉じると、彼は一拍だけ空を見てから言った。


「もし今日、あなたがいなければ、我々はここまで早く辿り着けなかった」

「みんながいたからだよ」

「それでも、です」

彼は視線をまっすぐ向ける。

「ありがとう」


朝の薄い光の中で、その言葉は不思議なくらいまっすぐだった。


ボクは少しだけ目を丸くする。

この人、ちゃんとこういうこと言うんだなあ。

いや、言う人だとは思っていたけれど、仕事のあととか、もっと全部終わってからかと思っていた。


「こちらこそ」

ボクは笑って返した。

「この街を案内してくれてありがとう」

「案内は……十分ではなかった気がします」

「そんなことないよ。朝ごはんおいしかったし、旧路も見たし、地下も行ったし、変な事件にも巻き込まれた」

「最後のは案内に含めたくありません」

「でも旅としては満点に近い」

「基準がおかしい」


そこで二人とも少し笑う。

朝の緊張が、ほんの少しだけやわらいだ。


「アウリィ」

イーゼルが、今度は少し躊躇いがちに続ける。

「以前、記録は橋になると言いました」

「うん」

「……もしこの旅が終わって、あなたが私たちを忘れても」

「うん」

「橋の向こうに、我々がいたという事実は残る」

「……うん」

「それで十分です。少なくとも、私はそう思いたい」


言葉の最後が少しだけ弱くなった。

たぶん、それは本心だからだ。


ボクは胸の奥がきゅっとなるのを感じた。

やさしいな、と思う。

それから、ずるいな、とも少し思った。

そんなふうに言われたら、忘れることが少しだけ痛くなる。


でも、その痛みをくれること自体が、たぶん大切なんだろう。


「じゃあ、ちゃんと書いとく」

ボクは日記帳を持ち上げる。

「橋、落ちないように」

「それはよかった」

イーゼルは静かに頷いた。


そこへ食堂の中からセラの声が飛んでくる。

「二人ともー! 雰囲気のある会話してるなら置いてくよー!」

「置いてかれる!」

「行きましょう」

「うん!」


ボクたちは駆け足で店へ戻った。


          *


深部への突入は、昨日よりずっと大掛かりだった。


管理局の正規許可のもと、封鎖班が先に旧排熱坑道の主要分岐を押さえ、回収班が後方支援の準備を整える。ボクたち先行班は、そのさらに前へ出る役目だ。


隊列は昨日より長い。

そのぶん緊張も強い。


フィンは明らかに興奮していたけれど、工具袋の留め具を確認する手はきっちりしていた。

ガルムさんは無口に見えて、要所要所で若い隊員たちに声をかけている。親方気質なのだろう。


「アウリィさん」

フィンが小声で寄ってくる。

「今日、歌聞こえたら教えて」

「歌?」

「昨日の怪談のやつ」

「ほんとに怪談好きだね」

「旧路好きだから」

「わかる」

「わかるんだ」

「すごく」


フィンが嬉しそうに笑う。

その顔を見ていると、こういう子がこの街の未来なんだろうなあと思う。


封印区画の扉を抜け、螺旋階段を下り、主坑道へ。

昨日戦った廃熱集積室までは比較的順調に進んだ。回収班が昨日の残滓の跡を確認し、侵食痕を記録している。


廃熱集積室に入ると、昨日の戦闘の名残がはっきり見えた。

ひび割れた黒線。

崩れた核片。

煤の染み。


でも、中央の深穴から上がってくる気配は、昨日よりはるかに濃かった。


「下、起きてる」

ボクが言う。

「数は?」

マグダ班長。

「多くはない。でも、ひとつ大きい」

「制御基部に近いと見ていいか」

イーゼルが呟く。


集積室中央の深穴には、今日は正式な降下設備が設置された。

固定杭、巻上機、補助ロープ。管理局はやると決めると早い。


「先に私が降りる」

マグダ班長が言う。

「次にヴァルハイト、アウリィ、ノクス。技術補助はその後」

「了解」


順に降りる。

穴の内壁は熱で黒く焼け、ところどころ古い保守足場が残っていた。途中から横穴がいくつも見えたけれど、どれも今は封じられているか崩れている。


底に降り立った瞬間、空気が変わった。


そこは坑道というより、古い心臓部だった。


巨大な円筒室。

周囲を取り巻く配熱輪。

中央には、いまは止まっているはずの古代機関――いや、古代というほどではないのかもしれないけれど、この都市の現行機構から見ればかなり古い大型炉心があった。主機関から外され、補助系として眠っていたものだろうか。

その周囲に、黒い侵食痕が根のように這い回っている。


そして、その炉心の前に、あの男がいた。


昨日と同じ黒いロングコート。

呼吸面。

長い計測槍。


「再会だ」

男は静かに言った。

「ずいぶん賑やかになったな」


「終わりだ」

マグダ班長が銃口を向ける。

「手を上げろ」


男は従わなかった。

代わりに、ゆっくりと炉心へ片手を置く。


「終わるとも」

「何を」

イーゼルの声が鋭い。


男は面の奥で微笑んだ気がした。

「観測が」


その瞬間、炉心を這う黒い根が一斉に光った。


低い、腹に響くような音。

止まっていたはずの古い炉心が、わずかに回転を始める。


「まずい!」

エルミナ主任が叫ぶ。

「あれが起動したら旧系統の残圧が全部跳ねる!」


「止めろ!」

マグダ班長が発砲する。

魔導弾は男の肩を掠めた。確かに当たった。

けれど彼はよろめくだけで、炉心から手を離さない。


黒い根が床を走る。

壁を伝う。

部屋全体が唸り出した。


「制御盤は!?」

イーゼルが叫ぶ。

「左右にある! でも侵食が深い!」

エルミナ主任。

「ガルム、フィン、左系統を見ろ! セラ、右!」

「了解!」

「はい!」

「任せて!」


男の周囲に、黒い残滓が立ち上がる。

昨日のものより大きい。数は少ないが、一体一体が濃い。


「アウリィ!」

イーゼルの声。


「わかってる!」


ボクは槍を構える。

攻撃じゃない。

守る。


残滓が飛ぶ。

一体はフィンのほうへ。もう一体は制御盤へ向かうセラへ。三体目は真正面、イーゼルへ。


まずフィン。

足場が悪い。若い。技術はあっても戦い慣れてはいない。

ボクは一気に踏み込み、槍の柄で残滓の下半身を払う。実体は薄い。でも床を這う黒線の上に乗った一瞬だけ、重さが生じる。その瞬間を狙って軸を崩す。


残滓が横滑りし、壁へ。

マグダ班長の弾が核を掠める。


次、セラ。

彼女は避けるより前へ出るタイプだ。だからこそ、横から来るものに弱い。

ボクはマントを翻しながら残滓の進路へ身体ごと滑り込み、槍を立てて角度を変える。ぶつけるのではなく、流す。

残滓はセラの肩先を外れて、制御盤の支柱へ突っ込んだ。


「ありがと!」

「あとで!」


三体目。

イーゼルは自力でも捌ける。でもいまは術式展開に集中し始めている。

だから邪魔をさせない。


ボクは床を蹴り、イーゼルと残滓の間へ入った。

残滓の腕が伸びる。

その軌道を最低限で見切り、手首の位置へ槍柄を差し込む。てこの原理で外へ開き、身体の向きを半歩だけずらす。

それだけで、残滓の進路は狂う。

イーゼルの頬をかすめるはずだった黒い爪は、空を切った。


「助かります」

「どういたしまして!」


でも次々に来る。

数は少なくても、濃い。強い。しかも炉心の回転が速くなるほど、部屋のあちこちで圧が乱れ始めた。配熱輪の継ぎ目から白蒸気が漏れ、視界を邪魔する。


「アウリィ、炉心の流れは読めますか!」

イーゼルが訊く。

「読めるけど、すごく嫌!」

「嫌でも!」

「やるよ!」


ボクは一瞬目を閉じ、部屋全体へ意識を伸ばした。


熱。

圧。

古い金属の疲労。

黒い釘に変えられた流れ。

そして、炉心の奥にある、もっと古い“都市の癖”。


見える。

いま、黒い根がやっているのは、止まっていた補助炉心を無理やり“別の律動”に合わせて揺らすことだ。都市全体の脈とずらした、異物の拍動。

だから上層で脈動が起きる。


「これ、止めるだけじゃだめかも!」

「どういうことです!」

「黒い根の中心が、炉心の中に刺さってる! 外側切っても回る!」


エルミナ主任が顔を上げる。

「中心核が炉内!?」

「たぶん!」

「だったら炉心停止と同時に核を引き剥がすしかないわ!」

「言うのは簡単だな!」

ガルムさんが唸る。

「旧式炉心だぞこれ!」


フィンが左制御盤にしがみつきながら叫ぶ。

「親方! 左弁、半分死んでる!」

「叩いて起こせ!」

「はい!」

「雑ぅ!」

セラが叫び返す。


こういうときでも、ちょっとだけ笑いそうになるから不思議だ。

でもその軽さが、怖さを押し返してくれる。


男はその騒ぎの向こうで、まだ炉心に手を当てたままだった。

黒い根は彼から伸びているわけではない。

でも、彼が“観測”しているから、あれは動いている。

なら――


「イーゼル!」

「はい!」

「男を炉心から離せば、少し止まるかも!」

「同意します!」


マグダ班長がすぐに動いた。

「私が行く! 援護!」

銃を撃ちながら前進する。男の周囲の残滓がそれを遮る。

ボクも走る。


攻撃力は低い。

でも、人と人の間に割って入るのは得意だ。


男を守る残滓二体。

片方を班長が引きつける。

もう片方はボクへ向く。


速い。

でも、濃いぶん、重さがある。


「よし」


ボクは半身になり、残滓の踏み込みに合わせて足を引く。真正面から受けない。右手で槍の中程を持ち、左手を柄尻へ。残滓の腕が届く瞬間、その脇下へ柄を差し込み、回転軸だけをずらす。


重い。

でもずれた。


残滓はそのままボクの横を滑っていき、炉心側の手すりに激突する。

マグダ班長の弾が核を撃ち抜いた。


「今だ!」

班長が叫ぶ。


ボクは男との距離を詰める。

彼はようやくこちらを見た。


「君は本当に、壊すためではなく、変えるために動くんだな」

「そういうの、よくわかんないけど」

ボクは言う。

「きみのやってることは好きじゃない」


男が計測槍を振るう。

長い。軌道が読みづらい。しかも殺傷目的というより、測るみたいな奇妙な間合いだ。


でも、わかる。


槍の先端が来る前に、持ち手の肘が少し浮く。

その癖だけで十分だった。


ボクは踏み込みを外し、槍の軌道の内側へ滑り込む。

男の手首に自分の槍柄を軽く当てる。

叩かない。押しもしない。向きを変えるだけ。


計測槍が上へ逸れる。


そのまま身体を半回転。

肩を入れて、男の重心を炉心から引き剥がす。


どん、と鈍い音。

男が一歩、二歩と後退した。


「班長!」

「見えてる!」


魔導弾が床の黒根へ撃ち込まれる。

男の手が炉心から離れた瞬間、回転がわずかに鈍った。


「いける!」

エルミナ主任。

「いまのうちに制御輪を合わせて!」


イーゼルとセラ、ガルムさんとフィンがそれぞれの制御盤へ張りつく。

古い弁輪が軋みを上げる。


「右、硬っ!」

「回せ!」

「回してる!」

「フィン、左七番!」

「はい!」

「弁がずれてる、噛ませ直せ!」

「無茶言うな!」

「できる!」

「やるけど!」


怒鳴り声と金属音が響く。


男はよろめきながらもすぐ体勢を立て直した。

その面の奥の目が、初めてほんの少しだけ感情を帯びた気がした。

苛立ち。

あるいは、興味の更新。


「……なるほど」

彼は低く言う。

「街そのものに愛着を持つ個体が揃うと、観測値がずれる」

「当たり前だよ」

ボクは眉をひそめる。

「街ってそういうものじゃないの?」

「だから面白い」


やっぱり、話が噛み合わない。


噛み合わないからこそ、止めなければいけないのだと思う。

この人はたぶん、悪意だけでやっているわけではない。

でも、悪意がないことは免罪符にならない。

人の暮らしを、街の営みを、実験の条件みたいに扱うなら、それは止められるべきだ。


炉心の回転が再びわずかに上がる。

まだ終わっていない。


「アウリィ!」

イーゼルが叫ぶ。

「中心核の位置、見えますか!」

「……見える!」


見えた。

炉心の胸部、という表現が正しいのかわからないけれど、中央回転軸の少し下。黒い根の束がひときわ濃く集まる場所。

でも深い。届かせるには、たぶん炉心の外殻を一瞬だけ開かなければならない。


「開ける隙、いる!」

「何秒!」

「三秒!」

「長いですね!」

「無茶言わないで!」

「言ってるのはあなたです!」


なのにイーゼルの声は、どこか笑いそうでもあった。

もう、やるしかないと決めた声だ。


「セラ!」

「おう!」

「右制御盤、第三固定を外して主輪を逆転!」

「壊れるって!」

「壊さない程度に!」

「いつも雑だなあもう!」


「ガルムさん! 左の圧逃がしを!」

「任せろ!」

「フィン! 補助レバー支えて!」

「はい!」


動きが一気に揃う。


部屋の中にいる全員が、ひとつの大きな機械の部品みたいだった。

でも、部品じゃない。

意思がある。怒りがある。守りたいものがある。

だからこそ、揃う。


弁輪が回る。

圧がずれる。

炉心外殻の一部が、ぎぃぃ、と悲鳴みたいな音を立てて開いた。


「いま!」


ボクは走った。


男が何かしようとする。

でもマグダ班長が射線で止める。

黒い残滓が割り込もうとする。

でもセラが投げた貫入杭がその核を鈍らせる。

イーゼルの術式網が、炉心周囲の圧をほんの一拍だけ安定させる。


その全部の真ん中を、ボクは駆けた。


届く。


届くけど、壊せない。

ボクにはその力が足りない。


だから、壊さないやり方で終わらせる。


炉心外殻の隙間へ身体を滑り込ませ、聖槍の石突きを中心核へ当てる。

黒い、脈打つ塊。

核片よりずっと大きい。人の拳ほどの、歪んだ金属と結晶の塊。


「きみ、そこじゃないよ」


誰に言ったのかわからない。

核にか、街にか、自分にか。


でも言葉と一緒に、精霊たちへ最後の呼びかけを投げる。


「お願い、元の道を教えて」


重い熱たちが、ゆっくりと応える。

石が、管が、古い炉心が、都市の昔の癖を思い出す。


黒い釘は異物だ。

なら、異物が居座れない向きへ、流れを戻せばいい。


ボクは槍を押し込まない。

逆に、ほんのわずかに引く。

核の“向き”をずらす。


力じゃない。

角度と流れだ。


かち、と小さな音がした。


次の瞬間、黒い塊が脈を乱した。

根が一斉に痙攣する。


「外れた!」

エルミナ主任が叫ぶ。

「いま引き剥がせる!」


イーゼルの術式が集中する。

青い光が核を包む。

セラが炉心縁へ飛び乗り、補助杭を叩き込む。

ガルムさんが左弁を全開へ回し、フィンがレバーを体重で支える。

マグダ班長は男の前進を許さない。


ボクは最後に槍の柄尻を捻った。


ばきん、と。

硬質な破断音。


黒い中心核が、炉心から剥がれ落ちた。


その瞬間、部屋全体の唸りが変わる。

不快な脈動が途切れ、代わりに古い炉心が深い息を吐くみたいに、長い蒸気を一度だけ噴いた。


白い蒸気が視界を埋める。


熱い。

でも、嫌な熱じゃない。


「圧力低下!」

「回転止まる!」

「まだ余震ある、下がれ!」

声が飛び交う。


ボクは炉心縁から飛び降り、着地の勢いを殺して転がる。

すぐ横へイーゼルが駆け寄ってきた。


「無事ですか!」

「うん、たぶん!」

「たぶん禁止です!」

「じゃあ平気!」


蒸気が晴れていく。


中央には、完全に停止した古い炉心。

床には、青い術式に封じられた黒い中心核。

そして男は――


「いない!」

セラが叫ぶ。


本当に、いなかった。

さっきまでマグダ班長が射線で押さえていたはずなのに、蒸気の混乱の一瞬で姿を消している。


「逃がしたか」

班長が低く吐く。

悔しそうだったが、致し方ないという顔でもあった。


エルミナ主任が中心核へ駆け寄る。

「封印箱! 早く!」

回収班が前へ出て、重層術式の施された保管容器へ核を収める。

蓋が閉じると、部屋の空気が一段軽くなった気がした。


「……止まった」

フィンが呆然と呟く。

「ほんとに」


ガルムさんが大きく息をつき、髭を撫でた。

「やれやれだ」

セラはその場にへたり込み、笑うような泣くような顔で言う。

「終わったー……?」

「少なくとも、ここは」

イーゼルが答える。

「上層の脈動も、これで収まるはずです」


ボクは止まった炉心を見上げた。

黒い根はもうただの汚れみたいに力を失っている。

この街の中にずっと刺さっていた棘が、ようやく抜けたのだ。


その実感が、遅れて胸に広がってくる。


「よかった」


自然に、そう言葉が出た。


          *


後処理は大変だった。


核の封印。

炉心の完全停止確認。

上層各区画への圧変動報告。

封鎖班との連携。

残留侵食痕の記録。


けれど、街の脈は確かに落ち着いていった。

管理局の観測板に並んでいた異常値がひとつずつ消え、断続的だった蒸気圧の揺れも収束していく。


地上へ戻るころには、もう昼を少し過ぎていた。


管理局のホールは朝よりずっと慌ただしかったが、その慌ただしさには昨日までの不穏さが少ない。皆の顔に、ちゃんと先が見えている色があった。


リネットさんが受付からこちらを見て、ボクの識別章に目を留める。

「生きて戻りましたか」

「戻ったよ」

「なら結構」

「それだけ?」

「十分です」

でも、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。


分析室ではエルミナ主任がすでに中心核の封印状態を確認しながら、誰より楽しそうな顔をしていた。

「興味深いわね、本当に」

「研究者だ」

セラが呆れる。

「でも今度はちゃんと封印下でね」

「もちろんよ。街を止める気はないもの」

「それならよし」


マグダ班長は報告のため上へ呼ばれ、ガルムさんは工房街へ戻る前に「嬢ちゃん、今度はもっと平和なとこで会いてえな」と言ってくれた。フィンは「今日のこと一生自慢する」と胸を張っていたけれど、たぶんしばらくは工房主任にこってり叱られる気がする。


そして夕方近く、ようやくボクたちは《暁の釜》で遅い昼兼早い夕食を取ることになった。


「結局ここなんだね」

ボクが言うと、ミラさんが笑う。

「始まりがここなら、一区切りもここさ」


出てきたのは、柔らかく煮た肉と根菜の皿、それに厚切りパンと甘い焼き林檎。

疲れた身体に染みる味だった。


「おいしい……」

「知ってる」

セラが半分眠そうに言う。

「アウリィそれ今日何回目」

「おいしいものは毎回ちゃんと言いたい」

「大事ですね」

イーゼルが珍しくすんなり同意した。


ミラさんが腕を組んでボクたちを見る。

「で、どうだったんだい。街の底は」

「ひどかったよ」

セラが言う。

「でも、なんとかした」

「そうかい」


ミラさんはそれ以上は聞かなかった。

たぶん、街で長く店をやっている人は、聞きすぎない優しさも知っている。


食事のあいだ、みんな少しずつ肩の力が抜けていった。

緊張の糸が切れたのだろう。セラは途中で本気で船を漕ぎ始め、イーゼルに「寝るなら食べ終えてから」と真顔で言われていた。フィンは自分がどこで何を支えたかを身振り手振りで説明し、ガルムさんに「盛るな」と頭を小突かれていた。


ボクはその様子を眺めながら、ふと思う。


ああ、これが旅の“終わりの手触り”なんだろうか。

事件が片付き、誰かが笑って、誰かが眠そうで、ごはんがおいしい。

大きな何かが終わったあとに残る、あたたかくて少しだけさみしい時間。


「アウリィ」

イーゼルが声をかける。

「食後、少し時間をもらえますか」

「うん?」

「渡したいものが」

「なにそれ、気になる」

「秘密です」

「秘密って言えるんだ」

「言えます」


少し得意げなのが面白い。


          *


夕方、中央塔の外縁回廊は、街を見渡すのにちょうどいい場所だった。


イーゼルに連れられて上がると、セラフィノアの層が夕暮れの中で色を変えていた。下層の工房街は赤銅色、中層の橋や回廊は青灰色、上層の塔群は淡い金色。煙は相変わらず空へ流れているのに、不思議と今日はきれいに見える。


「わあ」

やっぱり、声が出た。


「反応が予想通りですね」

「だってきれいだよ」

「ええ」


イーゼルは手すりのそばに立ち、小さな包みを差し出した。

布に包まれた、手のひらに乗るくらいのもの。


「これ」

「開けていい?」

「どうぞ」


包みを開く。

中から出てきたのは、小さな真鍮の歯車細工だった。

歯車を模しているけれど、ただの歯車じゃない。花の形に近い。中心から細い花弁みたいな歯が伸びていて、横から見ると彼岸花のようにも見える。


「わ……」

思わず息が漏れる。


「旧路の時計工房跡で見つかった意匠資料をもとに、工房に頼んで作ってもらいました」

「いつの間に」

「昼の後処理の合間にフィンが走りました」

「使い走り扱い!?」

後ろからセラの声がした。

振り向くと、いつの間にか来ていた。フィンもいる。ガルムさんまでいた。

どうやら秘密ではなかったらしい。


「いやー、こういうの一人で渡すのも違うかなって」

セラがにやにやする。

「ノクス」

イーゼルが眉を寄せる。

「でも似合うよ、それ」

フィンが言う。

「花っぽい歯車。アウリィさんにぴったり」

「……ありがとう」


胸の奥が、あたたかくて、少しだけ苦しい。


「旅の記録にでも」

イーゼルが静かに言う。

「橋の飾りにしてください」

「うん」

ボクは強く頷いた。

「大事にする」


本当に。

これはたぶん、次の旅へは持っていける。

少なくとも、物としては。

そして日記に挟んでおけば、橋のたもとに置く印みたいになる。


「ボクからも何か渡したいなあ」

と言うと、セラが笑う。

「じゃあ元気な感想文で」

「それ雑すぎない?」

「アウリィの感想って妙に刺さるから案外あり」

「否定できませんね」

イーゼルが言う。

「ひどい」

「褒めてる褒めてる」

フィンが手を振る。


ボクは少し考えてから、ポーチから日記帳とは別の小さな紙束を取り出した。

旅用のメモ紙だ。


「じゃあ、これ」

一枚ずつ千切って、そこに短く書く。


セラへ――まっすぐ進む火花みたい。

イーゼルへ――静かな橋と、よく切れる視線。

フィンへ――旧いものを好きでいられる、未来の手。

ガルムさんへ――街の骨を知ってる、頼れる腕。

ミラさんへ――朝と夜の間にある、あたたかい釜。

リネットさんへ――きびしい門は、やさしい街の輪郭。


「なにこれ」

セラが紙片を見て笑う。

「一言メモ?」

「ボクなりの記録のおすそわけ」

「……いいじゃん、これ」

フィンが照れくさそうに言う。

ガルムさんは「気恥ずかしいな」と言いながらも、ちゃんと畳んで胸ポケットへ入れた。


イーゼルは自分の紙片を見つめ、それからボクを見た。

「橋、ですか」

「うん」

「覚えていてくれた」

「書いたからね」


そう言うと、彼はゆっくり頷いた。


          *


別れは、いつも急に来る。


夕暮れが終わり、街に夜の灯りがひとつずつ点っていくころには、ボクはもう“次へ行く時刻”が近いことを知っていた。


誰かに教えられるわけではない。

でも、わかる。

旅の終わりが近づくと、世界の縁みたいなものが少しだけ薄くなる。

ボクだけが感じる、出発の気配だ。


それはさみしい。

でも、嫌いじゃない。

次があると知っているから。

そして、ここでの旅がちゃんと終われると知っているから。


夜、管理局前の広場。

最初にこの世界へ降りた場所から少し離れた時計塔の下で、ボクはみんなに見送られていた。


「ほんとにもう行くの?」

セラが腕を組んで言う。

「せっかく街案内の続きできると思ったのに」

「続きがあるの?」

「いっぱいあるよ! 上層の庭園とか、飛行艇の格納庫とか、あと工房祭」

「それは惜しい」

「だろ!」

「でも、旅だからね」

「……だよなあ」


セラは口を尖らせたけれど、最後には笑った。

「じゃあ、次に来たら絶対連れてく」

「もし来られたら、そのときはまたよろしく」

「約束」

「うん」


フィンが勢いよく手を挙げる。

「次は旧路のもっと安全なとこ案内します!」

「安全、大事」

「たぶん安全!」

「たぶんなんだ」

「そこは親方がなんとか」

「なんとかしねえよ」

ガルムさんが頭を小突く。

「嬢ちゃん、達者でな」

「ガルムさんも」

「変な機械は勘弁だが、あんたみたいな変な旅人なら歓迎だ」


褒められてるのかな、それ。


リネットさんも来ていた。

「識別章、返却を」

「はーい」

外して返すと、彼女は受け取って言う。

「今回は特例です。次があるなら、最初からもっとまともな申請を」

「善処する!」

「不安です」

でもやっぱり、口調は前より少しだけやさしい。


ミラさんは紙袋を押し付けてきた。

「旅の途中で食べな」

「また!?」

「景気づけだよ」

「うれしい!」

中を見ると、焼き菓子がぎっしりだった。

この街は本当にごはんが強い。


最後に、イーゼルが前へ出る。


少しの沈黙。

街の夜音が、そのあいだを埋める。


「アウリィ」

「うん」

「よい旅を」

「うん」

「どの世界でも、無事で」

「イーゼルたちも、この街で元気でね」


彼は一度だけ目を閉じ、それから言った。

「記録を、忘れないでください」

「忘れても、橋は残るから」

ボクは日記帳を軽く掲げる。

「大丈夫」


その答えに、彼はわずかに笑った。

最初に会ったときより、ずっとやわらかい顔だった。


胸の奥が痛いくらい、あたたかい。


ああ。

この感じを、ボクはたぶん何度も知っているのだろう。

でも、そのたびに新しい。

だから旅はやめられないのかもしれない。


「じゃあ、行くね」


ボクは一歩下がる。

世界の縁が、もう手の届くところにある。


金色の髪が夜風に揺れる。

彼岸花の飾りが、かすかに触れ合って鳴った。


「またね」

そう言って、ボクは微笑む。


誰が何を返したのか、最後は少しだけ混ざって聞こえた。

「またな」

「また!」

「気をつけて!」

「ええ、また」

「焼き菓子食べるんだよ!」


その声に背中を押されるみたいに、ボクは夜の空気の中へ溶けるように一歩を踏み出した。


          *


境界を越える瞬間は、いつも静かだ。


派手な光も、大きな音もない。

ただ、足元の感覚が一瞬だけ曖昧になって、世界の匂いが遠ざかる。

鉄と煤と熱の匂い。

セラフィノアの匂い。


そのかわりに、封じていた記憶たちが、薄い膜の向こうからゆっくりと戻ってくる気配がある。


全部が一気に流れ込むわけじゃない。

でも、輪郭はわかる。

いまの旅が、膨大な他の旅の列へ静かに繋がっていく感覚。


ああ、そうだ。

ボクはずっとこうしてきた。

知らない世界へ降りて、知らないまま出会って、別れて、記録して、それをまた束ねてきた。


そして今回の旅も、そのひとつになる。


セラフィノア。

蒸気と歯車の都市。

止まった熱。

黒い釘。

朝ごはん。

旧路の歌。

橋になる記録。


それらが、いまのボクから“次のボク”へは直接渡らないとしても、統合されたボクの中にはちゃんと残る。


だから、さよならではない。

消えるわけではない。

ただ、旅がひとつ終わるだけだ。


その認識が、胸のさみしさを少しだけやわらげる。


暗がりの中で、ボクは日記帳を開いた。

最後のページに、旅の締めを書き込む。


――機関都市セラフィノアの旅、ここに終わり。

――街は壊れ方の中に秘密を持っていた。

――でも、秘密より強かったのは、街を街として愛する人たちだった。

――記録は橋になる。

――だから、また忘れても、ボクはきっとどこかでこの旅に繋がっている。


少しだけ考えて、最後に一行。


――朝ごはんが、とてもおいしかった。


書き終えて、思わず笑う。


うん。

やっぱり、そういうことも大事だ。


ページを閉じる。

日記帳のあいだには、真鍮の彼岸花歯車が挟まっている。

かすかに冷たいその感触が、確かな重みとして手の中にあった。


次の世界へ行くとき、ボクはまた記憶を封じる。

新しく見るために。

新しく出会うために。

たぶん、それがボクの選んだ旅のかたちだから。


でも、橋は残る。

花の形をした小さな歯車みたいに、静かに。


ボクは顔を上げた。

次の世界の気配が、もうそこまで来ている。


「さて」

小さく呟く。

「次はどんな世界かな」


胸の奥には、さみしさと、楽しみと、言葉にならないたくさんのもの。

それらを抱えたまま、ボクはまた一歩を踏み出した。


新しい空の下へ。

新しい旅のはじまりへ。

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