2話「煤煙の街路と旧路の歌」
機関都市セラフィノアの鼓動は、近くで聞くと少しうるさい。
いや、かなりうるさい。
蒸気管の唸り。
圧送路の脈動。
遠くで鳴る警鈴。
工房の槌音。
飛行艇の回転翼が刻む高い振動。
その全部が何層にも重なって、街そのものが大きな肺と心臓を持っているみたいに息をしている。
東三層第四圧送路の補助管が破裂した現場で、管理局の応援が到着したころには、通路の一角はあっという間に封鎖されていた。
黄色と黒の警戒布が張られ、整備員たちが蒸気圧の遮断弁を順に閉じていく。青灰色の制服を着た保全部門の職員たちは手際がいい。誰が何をすべきか決まっている動きだ。そういう組織的な整然さを見ると、少しだけ安心する。
でも、その整然さの裏で、イーゼルの表情は硬いままだった。
「こちらが現場記録です」
「裂断部の回収は慎重に。触媒残滓の採取班を呼んでください」
「はい」
「周辺工房には一時停止要請を。東西の補機圧も再計測します」
「了解しました」
次々に指示を出す声は落ち着いている。
けれど、その指先が手帳をめくるたび、ほんの少しだけ速い。
セラはそんな彼の横で、工具箱を抱えたまま落ち着きなくつま先を鳴らしていた。
「なあ、これ絶対おかしいって」
「わかっています」
「じゃあもっと騒ごうよ。上に一気に」
「証拠が足りません」
「いつもそれ」
「いつもそれで正しいからです」
「でも間に合わなかったら意味ないじゃん!」
セラの言葉に、イーゼルが一瞬だけ黙った。
その沈黙が、少し痛かった。
ボクは二人を見比べる。
たぶん、どっちも間違っていない。
セラは現場の熱で動く人で、イーゼルは仕組みと責任で動く人だ。早さと確かさ。どちらかだけでは街は守れないのだろう。
「アウリィ」
イーゼルがこちらを向く。
「これから中央局へ戻って一次報告を行います。その後、許可が出れば旧路の点検に向かう」
「旧路?」
「今回の圧力の揺れが、現行の主路だけでなく旧式の補助網を経由している可能性があります」
「立入制限区域って言ってたとこだ」
「ええ」
わくわくする響きだった。
旧路。古い街路と排熱坑道。都市が大きくなる前の名残。
そういう場所には、その世界の“昔”が残る。
「行っていいの?」
「あなたが協力者として臨時登録されれば」
「されなかったら?」
「見送ってください」
「登録されたい!」
「でしょうね」
彼はそう言って、ほんのわずかに口元を緩めた。
*
市央機関管理局は、中央塔の中層部にあった。
外から見ても大きかったけれど、中はもっと大きい。吹き抜けの玄関ホールは何階分もの高さがあり、真鍮の骨組みに支えられたガラス天井から白い光が落ちてくる。壁一面には複雑な配管図と都市断面図が掲げられ、青い光点が各区画の状態を示して明滅していた。
「すごい……」
思わず立ち止まる。
「迷子になりますよ」
「ちょっとなりたい」
「困るのでやめてください」
イーゼルの返しが早くなっている気がする。
だいぶ慣れてきたのかもしれない。
受付カウンターには、制服姿の女性が座っていた。髪をきっちりまとめ、眼鏡の奥の目が鋭い。イーゼルが身分証板を示し、短く事情を説明する。すると彼女の視線がすっとボクへ移った。
「……外部協力者?」
「現場で二件、異常検知に寄与しています」
「身元保証は」
「私が」
「責任所在は」
「第三保全部門」
「主任許可は」
「これから取ります」
「先に取ってください」
ぴしゃり。
つよい。
セラが横で「ですよねー」と小声で言った。
どうやらいつものことらしい。
「こちら、総務受付主任のリネットさん」
イーゼルが小さく紹介する。
「管理局の門番みたいな人です」
「“みたい”ではありません。実質そうです」
と、リネットさん。
「外部者を簡単に通した結果がどうなるか、あなたも過去に学んだでしょう、ヴァルハイト主任補佐」
「はい」
「なら話は早い。書類」
「……はい」
イーゼルが素直にしゅんとしたので、ちょっとびっくりした。
この人にも頭が上がらない相手がいるんだ。
「あなた、名前は」
「アウレーリエ・リュコーリアス。アウリィ」
「年齢」
「わからない」
「は?」
「えっと、見た目よりは上」
「……」
「……」
「イーゼル、説明」
「長くなります」
「三行で」
「記憶を自主封印して旅をする旅行者です。精霊術師で、現場対応力は高い。危険人物ではないと判断します」
「一行目の時点で十分危険です」
リネットさんの正論が鋭い。
セラが横で肩を震わせている。笑いをこらえているな。
「でも、いい人だよ?」
ボクが言うと、リネットさんは冷静に返した。
「悪い人はだいたい最初そう見えます」
「そうかなあ」
「そうです」
反論の余地がない。
それでも彼女は、しばらくボクの顔を見つめたあと、小さく息をついた。
「……仮登録。識別章は赤。行動範囲は第三保全部門同伴時のみ。独断行動、記録施設への無断接触、危険物搬出は厳禁」
「はーい」
「返事が軽い」
「でも守るよ」
「その言葉、記録しておきます」
彼女は引き出しから小さな金属章を取り出し、ボクに渡した。赤い琺瑯がはめ込まれた歯車型の識別章だ。
なんだかちょっと嬉しい。
「旅の記念品みたい」
「記念に持ち帰らないでください。返却物です」
「残念」
「残念がらない」
リネットさんは厳しいけれど、嫌な感じではなかった。
きっと、街を守るために厳しいのだ。
識別章をマントの留め具の近くにつける。
金属の冷たさが少し新鮮だった。
*
報告は、思ったより長引いた。
ボクは会議室の外の待合で待つことになったのだけれど、待合から見えるものが全部珍しくて、ちっとも退屈しなかった。壁を走る伝声管、書類を運ぶ小型自動車輪、魔導式の掲示板、各層の圧力変動を示す針盤。時々、職員たちが忙しそうに行き来して、誰もが早足だ。
街が大きいと、守る仕組みも大きいんだなあと思う。
ポーチから日記帳を出して、さらさらと書きつける。
――管理局は巨大で、みんな忙しい。
――受付主任のリネットさんは強い。
――イーゼルは怒られても反論しない。えらい。
――セラは怒られ慣れていそう。
書いていると、ふいに影が差した。
「それ、日記?」
顔を上げると、見知らぬ男の子が立っていた。
年は十歳くらい。局員の子どもだろうか、濃紺のベストを着て、片手に工具の詰まった木箱を抱えている。明るい灰色の髪がぴょんと跳ねていた。
「うん。旅の記録」
「旅人なんだ」
「そうだよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
男の子はじろじろとボクを見た。
長い耳で納得したように頷く。
「ハイエルフってやつ?」
「たぶん」
「また“たぶん”だ」
「便利な言葉だよ」
彼はくすっと笑った。
「おれ、フィン。局内工房の手伝い。父さんが技師」
「フィンくん。こんにちは」
「こんにちは。あんた、朝の事故の人でしょ。もう噂になってる」
「噂、早いなあ」
「この建物、みんなすぐしゃべるから」
フィンは木箱を床に置き、ボクの隣の椅子にぴょんと座った。
「ねえ、外ってどんな感じ?」
「外?」
「セラフィノアの外。おれ、まだ二層より上と東区しか行ったことないんだ」
その言い方に、少し胸がちくりとした。
街の中だけで育つ人もいるのだ。大きな都市の中に、世界の大半が詰まってしまっている人も。
「うーん、ボクもこの世界の外はまだ知らないけど」
「この世界の、って変な言い方」
「あはは、そうかも」
「でも旅人っぽい」
フィンは肘をついて、少し夢見るような目をした。
「旧路って知ってる?」
「今日これから行くかもしれない」
「いいなあ! あそこ、昔の街がそのまま残ってるって噂だよ。封鎖されてるけど」
「噂?」
「時計が止まった広場とか、誰も使ってない路面電車とか、廃工房に住んでる精霊とか」
「へえ……!」
思わず身を乗り出す。
フィンは満足そうに笑った。
「でも変な音がするって。夜になると歌みたいなのが聞こえるとか、姿のない人影が通るとか」
「怪談だ」
「怪談だよ。でも最近、父さんたちも旧路の話すると顔がこわい」
「どうして」
「知らない。子どもは気にするなってさ」
そのとき、会議室の扉が開いた。
イーゼルとセラが出てくる。セラは不満そうで、イーゼルはいつも以上に無表情だった。
「アウリィ、許可が下りました」
「行ける?」
「ええ。ただし条件つきで」
「条件?」
「旧路への立入は第四保安班と合同。あなたはあくまで補助員。戦闘行為は禁止」
「もともとあんまり得意じゃないから大丈夫」
「そういう意味ではありませんが……まあいいでしょう」
フィンがぱっと顔を輝かせた。
「行くの!? いいなあ!」
「フィン」
イーゼルの視線が少し和らぐ。
「廊下をうろつく前に、その工具を工房に届けなさい」
「あ、やば。忘れてた」
「忘れないでください」
「はーい、主任補佐殿」
敬礼の真似をして、フィンは木箱を抱えて走っていった。
去り際に「旧路で歌聞いたら教えて!」と叫んでいく。
元気な子だ。
「知り合い?」
とボクが訊くと、イーゼルは短く答えた。
「工房主任の息子です。よく迷い込んできます」
「迷子仲間だ」
「あなたと一緒にしないでください」
セラがぶすっと言う。
「で、会議の結果は?」
「旧路第七接続街路の点検許可。原因究明よりも、まずは事故予防優先」
「つまり上はまだ本腰じゃない、と」
「現時点では」
「ちぇー」
セラは口を尖らせる。
イーゼルの横顔は静かだったが、その静けさはたぶん諦めじゃない。
焦りを奥に押し込めている顔だ。
「じゃ、行こう」
ボクは立ち上がって言った。
「早くしないと、歌う影に先越されるかも」
「その怪談、もう採用するんですか……」
イーゼルが呆れたように言う。
セラは「いいじゃん、雰囲気あるし」と笑った。
*
旧路へ通じる入口は、東三層のさらに外れにあった。
現役の通路から外れた細い保守路を進み、使われなくなった搬送台の横を抜け、二重の鉄扉を二枚。そこから先は空気が変わる。
あたたかさはある。
でも、人の気配が薄い。
さっきまでの工房街は、音が外へ溢れていた。ここは違う。音が壁の内側に閉じ込められて、古くなって澱んでいる。鉄と油の匂いに混じって、湿り気のある石の匂いがした。
「旧路第七接続街路」
先導する第四保安班の隊長が言う。
女の人だった。背が高く、短い黒髪に傷跡のある頬。左腕には補助外骨格の金属フレームを装着している。名前はマグダ班長。
「都市拡張以前の下街と排熱坑道が重なる区域だ。足場の悪い場所もある。勝手に離れるな」
「はい」
「了解」
「はーい」
ボクとセラの返事の軽さに、イーゼルがひとり分だけ深いため息をついた。
旧路へ一歩踏み込む。
そこは、別の街だった。
頭上は低い煉瓦のアーチ。壁には古いガス灯の名残と、あとから増設された蒸気管が無理やり這わされている。通りは石畳だけれど、ところどころ亀裂が走り、そこから白い鉱物みたいな析出が広がっていた。古い看板の文字は煤で黒ずみ、半分読めない。
《時計工房》
《乳菓舗》
《北路……宿》
《……書館》
途切れ途切れの痕跡。
昔ここで、誰かが生活していたのがわかる。
「わあ……」
胸がぎゅっとした。
知らないのに、懐かしい感じがする。
それは自分の記憶ではなく、場所の記憶だ。長く生きた建物や通りには、そういうものが滲むことがある。たぶん。
「好きそうですね、こういう場所」
イーゼルが横で言った。
「好き。すごく」
「顔に出ています」
「イーゼルも、ちょっと好きでしょ」
「業務上の興味です」
「つまり好き」
「……否定はしません」
セラが後ろから笑う。
「二人とも、遺構見ると目がきらきらしてんの似てる」
「似てない」
「似てません」
「そこもそっくり!」
マグダ班長が振り返りもせずに言う。
「私語はいいが足元見ろ。右側、床抜けしてる」
「はーい」
言われた通り右を見ると、本当に床が崩れていた。下にはさらに古い層らしい暗い空間があり、配管だけが蜘蛛の巣みたいに走っている。落ちたら面倒そうだ。
ボクはそっと意識を広げた。
この旧路は、上の街と違って精霊の気配が落ち着いている。
風は薄く、土と石が強い。水も地下に近い分だけ濃い。でも、完全な自然ではない。長年ここを流れた熱と蒸気と、人の営みの残り香が混ざって、古い街そのものが小さな精霊のように眠っている感じがする。
「……ねえ」
ボクは小声で言った。
「ここ、歌ってる」
「え」
セラがぎょっとする。
「いきなり怪談の補強やめて!」
「いや、ほんとに。歌ってるっていうか、響きがあるんだ」
「音が?」
イーゼルが問う。
「ううん、音より流れかな。昔の道の癖みたいな……うまく言えないけど」
マグダ班長が足を止める。
「精霊術師の感覚か」
「たぶん」
「なら、その“響き”が乱れる地点を探せるか?」
「やってみる」
隊列の少し前へ出る。
目を閉じ、呼吸を合わせる。
石。
古い煉瓦。
湿気。
錆。
眠い熱。
遠くを走る圧の脈。
その全部が重なって、旧路の底に低い音を作っている。
その中に、不自然な綻びがある。
一本ではない。
点々と。
誰かが道の上に、小さな針穴をいくつも空けたみたいに。
「……こっち」
導かれるまま進む。
左へ曲がり、階段を降り、閉ざされた店舗跡の前を抜ける。すると広めの空間へ出た。丸い広場だ。中央には止まった大時計の塔があり、針は十一時四分で止まっている。フィンの言っていた時計の止まった広場だろうか。
「ほんとにあった」
思わず呟く。
広場の周囲には古い路面軌条が残っていた。さびた小型車両が一台、半分傾いて止まっている。その窓硝子は煤で曇り、中は暗い。
「第七接続街路の旧転車場です」
イーゼルが言う。
「都市拡張以前に使われていた搬送路の結節点」
「こういうの、なんだかいいねえ」
「観光気分はあとにしてください」
「でもイーゼル、説明がちょっと楽しそう」
「気のせいです」
そのとき、マグダ班長が片手を上げた。
「止まれ」
全員が止まる。
広場の中央、大時計塔の台座付近。
石畳の隙間から、細い蒸気が漏れていた。
不定期に、しゅ、と。
「地表漏れ?」
セラが眉を寄せる。
「圧は止めたんじゃ」
「主路はな」
マグダ班長が低く言う。
「旧路側の残圧か、別系統だ」
ボクは蒸気のそばへ近づいた。
しゃがみこみ、手をかざす。熱は弱い。でも、その中に混じる気配がある。
「ここ、傷が深い」
「傷?」
イーゼルが隣に来る。
「うん。上の配管より、ずっと」
「開けられますか、班長」
「やる」
マグダ班長が外骨格の補助を使い、塔の台座脇の点検蓋をこじ開ける。重い鉄板が軋んで持ち上がり、地下の狭いシャフトが口を開いた。暗い。熱気がわずかに上がってくる。
イーゼルが杖先を光らせ、内部を照らした。
その光で、全員が息を呑む。
管の表面に、黒い染みのようなものが這っていた。
錆ではない。
煤でもない。
液体が乾いて残った跡にも見えるし、植物の根みたいにも見える。細い筋が配管の継ぎ目に沿って伸び、ところどころ脈打つみたいに鈍く光っていた。
「……なんだ、これ」
セラが小さく呟く。
イーゼルは即座に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触れないでください」
「わかってる!」
「あなたに言ったんじゃありません」
「え」
「アウリィです」
「なんでボク!?」
「好奇心で触りそうなので」
「う……ちょっと思った」
「でしょうね」
正直だねえ、と自分でも思う。
だって珍しいし。
「術式侵食の痕に似ています」
イーゼルは目を細める。
「ただし、こんな有機的な広がり方は……見たことがない」
「菌とか?」
セラが言う。
「魔菌の類ならもっと生体反応がある」
マグダ班長が答える。
「これは金属側を変質させてる」
ボクはその黒い筋を見つめる。
精霊の流れにひどく嫌われていた。
煙の小さな精霊たちが、そこだけ避けて通っている。まるで毒みたいに。
「これ、流れを食べてる」
「食べる?」
イーゼルがこちらを向く。
「うん。蒸気とか熱とか、そういう“通るもの”を少しずつ削って、道の形を変えてる感じ。だから圧が脈打つんだ」
「……だから、事故が散発的に起こる」
「たぶんね」
マグダ班長が通信筒に手を伸ばした、その瞬間だった。
広場の向こう、古い路面車両の中で、がたん、と音がした。
全員の視線がそちらへ向く。
「誰かいる?」
セラが小声で言う。
二度目の音。
窓の内側を、影が横切った。
マグダ班長が腰の短銃を抜く。第四保安班の隊員たちも散開する。
イーゼルはボクの前に一歩出た。庇うつもりなのか、それとも勝手に飛び出させないためか。たぶん両方だ。
「出てきなさい」
班長の声が広場に響く。
「管理局第四保安班だ。武装しているなら捨てろ」
返事はない。
ただ、車両の扉が、ぎ……とゆっくり開いた。
中から出てきたのは、人ではなかった。
人の形をしている。
でも違う。
古い整備員の作業服みたいなものを着ていて、帽子も被っている。けれど顔のあるべきところは黒い靄に覆われ、輪郭が定まらない。足はちゃんと地面に触れているようで、触れていないようでもある。身体の端が煙みたいにゆらいでいた。
「な、にあれ」
セラの声が裏返る。
ボクは息を呑む。
精霊でも、生霊でも、普通の魔導残滓でもない。
街の記憶に、何か別のものがこびりついて形を取ったみたいな存在。
それが、こちらを見た。
顔はないのに、見られたとわかった。
次の瞬間、影は滑るように動いた。
速い。
でも、直線的。
「左!」
叫ぶと同時に、ボクはセラの肩を引いて横へ倒れ込む。
影はセラのいた場所を掠め、背後の石柱にぶつかった。ぶつかった、というより、半分溶け込んで、その一部を黒く染める。石の表面がじゅっと嫌な音を立てた。
「撃つ!」
班長が短銃を構える。
青白い魔導弾が発射され、影の胴を貫いた。
けれど、効いた感じが薄い。
煙を撃ち抜いたように、穴が空いて、すぐ塞がる。
「実体が安定してない!」
イーゼルが叫ぶ。
「核を探せ!」
核。
そういうタイプか。
ボクは影の動きを見る。
速いが、どこかぎこちない。滑るたび、床の黒い筋に沿っている。
道があるのだ。あれ自身の“流れる道”が。
「イーゼル! 足元!」
「え?」
「床の汚れを追って!」
彼は一瞬で理解したらしく、杖先を床へ向けた。青い光が石畳の上を走り、普段は見えない細い黒線が浮かび上がる。広場の中央から車両まで、そしてさらに塔の下へ伸びていた。
「やはり、あの侵食痕と同系統……!」
影が再び動く。
今度はボクへ向かってきた。
真正面。
ふわりと、しかし殺意だけは妙に重い。
怖い、と思うより先に身体が動く。
槍を横に寝かせ、最小限の接触で軌道を逸らす。煙みたいな身体は掴めない。でも、動きの癖はある。向いている重心をずらせば、流れは変えられる。
影の肩口を槍柄で払う。
するり、と抜ける感触。けれどわずかに軸がずれた。
その瞬間、ボクは右足で石畳を踏み込む。
「こっち!」
風を呼ぶ。
この街の風は薄いけれど、ゼロじゃない。蒸気に混じる軽い流れを束ねて、影の輪郭へ押し当てる。押すというより、“散らす”。
影はわずかに形を崩した。
顔のない靄の奥で、何かがぎちりと軋む。
「見えた!」
ボクは叫ぶ。
「胸のあたりに、固いのがある!」
「了解!」
セラが応じる。
いつの間にか彼女は工具箱から短い銛みたいな器具を引き抜いていた。先端に結晶刃が付いた、整備用の貫入杭らしい。
戦闘用ではないだろう。でも、この子は迷いがない。
「イーゼル、固定!」
「いま!」
イーゼルの杖先から網のような青光が放たれ、影の周囲に絡みつく。完全には止められない。けれど一拍、ほんの一拍だけ遅くなる。
その隙にセラが踏み込む。
低い姿勢から、黒影の胸へ貫入杭を叩き込んだ。
硬い音。
金属を打ったような、甲高い衝突音。
影の身体が大きくぶれる。
胸の中心から、真っ黒な小片が飛び出した。歯車の欠片みたいな、妙に人工的なもの。
「それだ!」
ボクは滑り込んで、その小片に槍の石突きを当てた。
壊す力はない。だから弾く。遠くへ逃がす。
かつん、と軽い音。
小片は石畳を跳ね、広場の縁へ転がった。
同時に影の身体が一気に崩れた。
煙が風にほどけるみたいに散って、あとには薄い煤の匂いだけが残る。
静寂。
数秒してから、セラが息を吐いた。
「……倒した?」
「消えましたね」
イーゼルが慎重に周囲を見回す。
「少なくとも一時的には」
マグダ班長が短銃を下ろし、小片のそばへ近づく。
「誰も触るな。布を」
隊員が絶縁布を差し出し、班長はそれで小片を包み上げた。
近くで見ると、それは歯車ではなかった。
歯車を模した護符か、装置の部品か。真鍮とも鉄とも違う黒い金属で、中心に小さな空洞がある。縁には極細の紋様が刻まれていた。
「こんなの、工房製じゃない」
セラが眉をしかめる。
「少なくとも正規品ではありません」
イーゼルも言う。
「街の規格に合致していない」
ボクは広場を見回す。
黒い影のいた場所は、まだ少し冷たかった。
熱い蒸気の街なのに、そこだけ妙に冷える。嫌な感じだ。
「ねえ」
ボクは小さく言った。
「これ、一個じゃないと思う」
「理由は」
イーゼルの問いに、ボクは床の黒線を指す。
「流れが、広場だけじゃないから。もっと向こうまで続いてる。たぶん、いくつも刺さってる」
「杭みたいに?」
セラが訊く。
「うん。街の中に、変な釘を打ち込んでるみたい」
マグダ班長が短く舌打ちする。
「面倒な話だな」
「面倒で済めばいいんだけど」
とセラ。
イーゼルは何も言わず、広場の中心の大時計を見上げていた。
止まった針。
十一時四分。
「どうしたの?」
と訊くと、彼は少し考えてから答えた。
「この旧転車場の時計が止まった記録を思い出していました」
「原因、残ってるの?」
「火災です。四年前の旧路封鎖直前、小規模な爆発事故があった」
「爆発」
「表向きは老朽化した圧送路の破損。しかし……」
彼は広場を見渡す。
その目は記録を追っているだけじゃない。過去の説明に納得していない目だ。
「ずっと、引っかかっていたんです」
*
調査は一旦打ち切られた。
広場とシャフト周辺は封鎖。
黒い小片は管理局の分析室へ。
旧路の別区域にも第四保安班が派遣されることになった。
地上――という言い方で合っているのかわからないけれど、少なくとも現役区画へ戻るころには、もう昼を回っていた。旧路のひんやりした空気から工房街の熱気に戻ると、身体が少しだけ現実へ引き戻される感じがする。
セラは「腹減った」と第一声で言った。
たくましい。
「約束だから昼飯奢る!」
「やった」
「待ってください」
イーゼルが即座に言う。
「勝手に経費外の交友を増やさないで」
「昼飯くらいいいじゃん」
「私も行きます」
「結局来るんじゃん」
「監督です」
「監督って言いながら一番食べなさそう」
「そんなことは」
「ある」
「ありますね」
と、なぜかマグダ班長まで言った。
結果、東三層の工房労働者向け食堂で、四人で昼を取ることになった。
店は《鉄鴉亭》。朝の《暁の釜》よりずっと気安く、騒がしい。長テーブルがいくつも並び、誰も彼も大きな声で話している。出てきたのは肉たっぷりの煮込み麺と、辛い漬物と、炭酸の効いた果汁飲料だった。
「おいしい!」
ボクは即座に感動した。
「この街、ほんとにごはんが強い」
「そこは同意」
セラが麺をすすりながら言う。
「工房街は量も正義だからね」
「アウリィ、食べるの綺麗だな」
マグダ班長が少し意外そうに言う。
「そう?」
「見た目より年上っての、あながち冗談じゃない感じする」
「たぶん冗談じゃないよ」
「軽く言うなあ」
イーゼルはやっぱり食べ方が整っていた。
でも朝より少しだけ早い。空腹だったのか、緊張が続いているのか。
「ねえ」
ボクは麺を巻きながら訊く。
「さっきの影、あれ何だと思う?」
「現時点では仮称“侵食性残滓”です」
イーゼルが即答する。
「仮称かっこいい」
「雑とも言います」
「いいじゃん、わかりやすいし」
セラが果汁飲料を飲みながら割り込む。
「要は“残った何かが変な部品で動いてる”ってことでしょ」
「雑ですね」
「でも間違ってなくない?」
「否定はしません」
マグダ班長が腕を組む。
「私の見立てじゃ、あれは誰かが作った警備犬みたいなもんだ。侵食痕の近くを巡回して、近づくものを排除する」
「街の中にそんなものを?」
ボクが訊く。
「事故を隠したいか、何かを守りたいか」
班長の言葉は重い。
「あるいは、試してるか、だな」
試す。
その言葉に、少しぞっとした。
街の配管や圧送路を、誰かが実験台みたいに扱っているのだとしたら。
「イーゼルはどう思う?」
「……まだ仮説です」
彼は少し間を置いた。
「ですが、今回の事象が四年前の旧路事故と連続している可能性は考えています」
「四年前に何があったの」
「公式記録上は、旧転車場付近で圧送路の局所爆発。死者三名、負傷者多数。その後、旧路の一部が閉鎖された」
「公式記録上は、ってことは?」
「納得していないんです」
イーゼルは静かに言った。
「事故にしては、記録の欠落が多い。報告書の参照欄が不自然に差し替えられている箇所もある」
「隠された?」
「少なくとも、整理された」
セラが顔をしかめる。
「それ、もっと早く言ってよ」
「根拠が薄かった」
「でも今日ので濃くなった」
「ええ」
「なら上に噛みつけるじゃん」
「順番があります」
「その順番が遅いんだってば!」
また同じ言い合いになる。
でも今度は、朝より少しだけ空気が違った。
イーゼルもセラも、相手の言葉を前より真剣に受けている。
ボクは二人を見ながら、ふと思う。
この街で生きてきた人には、この街を守りたい理由がちゃんとある。ボクはまだ旅人で、外から来た目で面白がっているだけだ。でも、だからこそ見えるものもあるはずだ。
その“外からの目”を、うまく使えたらいい。
「ねえ」
ボクは日記帳を取り出した。
「整理しよう」
「え」
セラがきょとんとする。
「何を」
「いまわかってること。こういうの、言葉にすると見えることあるよ」
ページを開き、書く。
――一、圧送路や補助管に不自然な脈動がある。
――二、旧路の配管に黒い侵食痕。
――三、侵食痕に連なる黒い小片。
――四、小片を核にしたみたいな影が出た。
――五、四年前の旧路事故と関連の可能性。
「あと何?」
ボクが訊くと、セラが指を折る。
「事故が起きてる場所、ばらけてるようで“流れ”はつながってる」
「うん」
イーゼルが続ける。
「侵食は主路ではなく、旧式補助網を経由して広がっている可能性が高い」
マグダ班長が付け足す。
「敵が人間なら、街の構造に詳しい。かなり、な」
書き足していく。
日記帳は本来、旅の記録のためのものだ。
でも、こうして考えを並べると、ただの出来事が“筋”になる。記録って便利だ。
「アウリィ」
イーゼルがじっとページを見て言う。
「そのまとめ方、慣れていますね」
「そうかな」
「おそらく」
「たぶん、旅の途中でよくやってるのかも」
「自分のことなのに他人事みたいに言うなあ」
セラが笑う。
そう。
自分のことなのに、少し他人事だ。
ボクは昔のことを知らない。
たくさん旅をしたことも、たぶん知識としてしか知らない。
でも、手が覚えている。体が覚えている。考え方の癖が残っている。
それが時々、不思議で、ちょっとだけさみしい。
さみしい?
いま、自分でそう思ったことに少し驚いた。
ボクは記憶を封じると決めた。
それが必要だと知っている。
なら、さみしいと思うのは変だろうか。
……ううん。
変じゃないのかもしれない。
選んだことと、その代わりに失う感覚は、別の話だ。
「アウリィ?」
イーゼルの声で、我に返る。
「どうしました」
「なんでもないよ」
笑ってごまかす。
「ただ、旅ってへんな感じだなあって思って」
「いまさら?」
セラが首を傾げる。
「いまさら」
「変なやつ」
「よく言われる」
そう返すと、三人とも少しだけ笑った。
*
昼食後、ボクたちは分析室へ向かった。
黒い小片の一次検査結果を確認するためだ。分析室は管理局のさらに奥、厚い防音扉の向こうにあった。中は薬品と熱い金属の匂いが混じっていて、机の上には分解された部品や測定器具がずらりと並んでいる。
白衣の女性がこちらへ振り向いた。
長い黒髪をひとつに束ね、片目に拡大鏡をかけている。年齢はわからないけれど、落ち着いた雰囲気の人だ。
「遅かったわね、ヴァルハイト」
「検査結果は」
「挨拶が先」
「失礼しました。お疲れさまです、エルミナ主任」
「よろしい」
エルミナ主任。
彼女はボクたちを順に見て、最後にボクの耳で少しだけ目を留めた。
「この子が噂の外部協力者?」
「参考人じゃなくなった?」
ボクが言うと、セラが吹き出す。
エルミナ主任は口元だけで笑った。
「気に入ったわ。で、あなたがあれを見つけたのね」
「みんなで見つけたよ」
「謙遜は美徳だけど、観測者の価値は下がらないわ」
言いながら、彼女は布に包まれた黒い小片を机上の隔離皿へ置いた。
燐光を帯びる青い枠が周囲を囲んでいる。
「結論から言うと、材質は不明」
「不明?」
セラが眉を上げる。
「市内流通の金属規格には一致しない。真鍮系でも鉄系でもない。魔導結晶の粉末と、何らかの炭素系物質が高密度で焼結されてる」
「人工物ではある?」
イーゼルが訊く。
「ええ。天然じゃない。しかも精巧」
エルミナ主任は小片の中心空洞を指した。
「ここ、見える? 空洞の内壁に微細な刻印がある。自己循環式の小型術式よ」
「術式核」
イーゼルが低く言う。
「ただし一般的な魔導機構とは違うわ。エネルギーを放出するんじゃなく、“通るものの質”を変える方向に働いてる」
「通るものの質……」
ボクは思わず繰り返した。
「流れを食べてるって感じ?」
エルミナ主任の目が細くなる。
「面白い表現ね。たしかに近い。蒸気圧、熱量、魔導液の導性、そういうものを少しずつ削いで、別の形に変換しているみたい」
「じゃあ、事故の原因そのものだ」
セラが言う。
「ええ。でもそれだけじゃない」
エルミナ主任は机の奥から別の皿を持ってきた。
そこには、黒い粉末のようなものが少量入っていた。
「広場の侵食痕から採取した残滓よ。こちらにも同じ変換痕がある。しかも――」
彼女が小さなスイッチを入れると、皿の周囲の光が強くなる。
すると黒い粉が、ほんのわずかに震えた。
「反応してる」
ボクが呟く。
「周辺に同系統の核が存在すると、微弱に共鳴するの」
エルミナ主任は言った。
「つまりこの都市のどこかに、同じものが複数ある可能性が高い」
部屋が少しだけ静かになる。
イーゼルが口を開いた。
「追跡は」
「精度は低い。街自体が巨大な機関だから、雑音が多すぎる」
「それでも方向くらいは」
「下方」
エルミナ主任は即答した。
「旧路よりさらに下、旧排熱坑道の深部へ向かう傾向がある」
セラが眉をひそめる。
「そんなとこ、ほぼ閉鎖区域じゃん」
「ええ。正式許可がないと降りられない」
「許可、取れる?」
「難しいでしょうね」
イーゼルの声は冷静だった。
「現時点の被害規模では」
セラが机を軽く叩く。
「またそれだ」
「現実です」
「でも待ってたら向こうは進む」
「わかっています」
「わかってるなら」
二人の間にぴりっとしたものが走る。
そのとき、エルミナ主任がぽん、と隔離皿の蓋を閉じた。
乾いた音が、会話を切る。
「だったら、正面から行かなければいいじゃない」
「主任?」
イーゼルが眉を寄せる。
「言ったでしょ、旧排熱坑道は“ほぼ”閉鎖。完全じゃない」
「非公式な保守導線が?」
「昔の工事記録に一本だけ残ってる。封印扱いで閲覧制限中だけど、私は知ってる」
「なぜ」
「私が封印手続きに関わったから」
にこり、と彼女は微笑んだ。
なんだろう、この人。静かなのにちょっと怖い。
「ただし」
エルミナ主任はボクを見る。
「行くなら夜ね。昼は人目が多い」
「夜の旧路かあ」
「わくわくしてる場合じゃない」
イーゼルがすぐ言う。
「危険すぎる」
「でも行くんでしょ?」
ボクが訊く。
彼は答えなかった。
答えないということは、たぶん心は決まっている。
セラが腕を組む。
「行こう、イーゼル」
「……」
「いまここで渋って、明日また誰か怪我したら後悔する」
「……」
「責任は取る。あたしも」
「君はいつも先に飛び出す」
「でも今日は、アウリィがいる」
「それは安心材料なのか不安材料なのか」
「半々!」
ひどいなあ。
でも、イーゼルは少しだけ考えてから、ゆっくりと息を吐いた。
「準備を整えます」
「ってことは」
「今夜、旧排熱坑道へ向かう」
セラが拳を握る。
ボクの胸も高鳴った。
新しい世界の、新しい夜。
蒸気の街のさらに下。
古い坑道の先に、誰が、何を埋めているのか。
「やった」
つい言うと、イーゼルが即座に返した。
「喜び方を間違えています」
「でも楽しみ」
「でしょうね」
「イーゼルも、ちょっとは楽しみでしょ」
「……業務上の興味です」
「またそれだ」
セラが笑う。
エルミナ主任はそんなボクたちを見て、小さく肩をすくめた。
「若いわねえ」
「ボク、若いのかな」
「見た目はね」
「そこは肯定するんだ」
「観測結果に基づいているもの」
分析室を出るころには、窓の外の光が少し傾き始めていた。
機関都市セラフィノアは昼でも薄く煙っていて、夕方の境目が曖昧だ。塔の外を飛ぶ飛行艇の影が、煤色の空を横切っていく。
今夜、ボクたちはこの街のもっと深いところへ降りる。
そのことを思うと、胸の奥で期待と、ほんの少しの不安が混ざり合った。
不安。
それも悪くない。
知らないことの前に立つときの、足元が少しだけふわつく感じ。旅ではいつも、それがある。
ポーチから日記帳を出し、廊下の窓辺で書く。
――二日目、昼。
――旧路で黒い影と遭遇。核のような小片あり。
――この街の“傷”は地下へ向かっている。
――今夜、さらに下へ行く予定。
少し迷って、最後にこう足した。
――イーゼルは慎重で、セラはまっすぐで、どちらもこの街を大事にしている。
――たぶん、だから一緒に動ける。
書き終えてページを閉じる。
窓の外では、街の歯車が今日も休まず回っている。
その音を聞きながら、ボクはふと、旧路の広場で感じた“歌”を思い出した。
古い道の響き。
眠った街の声。
その下に、もっと暗い何かが潜んでいる。
でもきっと、そこへ行けば、また新しいものが見える。
「アウリィ」
少し離れたところからイーゼルが呼ぶ。
「夜まで時間があります。装備確認と休憩を」
「はーい!」
ボクは日記帳をしまい、駆け寄った。
今度は夜の旅だ。
蒸気と煤煙の都市の、まだ誰も見せてくれない底のほうへ。
止まった時計の、その先へ。




