1話「機関都市」
夜明け前の空は、世界がまだ名前を持たないみたいな色をしている。
薄い藍と、灰色と、ほんの少しの金色。
その境目に、ボクは立っていた。
足もとには黒い石畳。雨に濡れたように艶があって、けれど雨粒はどこにも落ちていない。見上げれば、空を横切るように何本もの鉄骨の橋が渡され、その下を巨大な歯車がゆっくりと回っている。歯車の外周に埋め込まれた青白い灯りが、規則正しく明滅していた。蒸気機関みたいな筒からは白い息が吐き出されて、朝の冷気に溶けていく。
知らない世界だ。
うん。
とても、いい。
「……わあ」
思わず声が漏れた。
声に出してしまうくらい、胸が弾んだ。
毎回そうだ。知らない匂い、知らない空気、知らない建物、知らない音。その全部が、ボクの心を小さな子どもみたいにわくわくさせる。
もっとも。
「……今回も、きれいさっぱりだねえ」
自分の頭を、こつんと軽く小突く。
当然だけど、返事はない。
ボク――アウレーリエ・リュコーリアス。
愛称はアウリィ。
それ以外のことは、ほとんど覚えていない。
いや、正確には違う。
覚えていないようにしている、が近い。
新しい世界を訪れるとき、ボクは自分で記憶を封じる。
理由は知っている。詳しい事情や、昔の旅の中身はぜんぜん思い出せないけれど、「そうしたほうがいい」と判断したのが自分だということだけはわかる。旅が終われば統合されて、封じた記憶も戻る。だから、たぶん困ることはない。たぶん。
……うん、たぶん。
「まあ、なんとかなるよね!」
元気よく言ってみると、空気に声が吸い込まれていった。
肩から提げたポーチを確かめる。右のポーチには日記帳と筆記具、左のポーチには簡易の食糧と小物。背中に背負ったトランクは、見た目よりずっと重いはずなのに不思議と身体に負担がない。内部拡張。たぶん便利な術式が組み込まれている。ボクのものだから、きっとそうなのだろう。
腰に下げたミスリルの聖槍は、冷たい朝の光を受けて淡く白く光っていた。
手に取ると、驚くくらい馴染む。
これは覚えていなくてもわかる。ボクはこれを長いこと使ってきた。
マントの裾を押さえ、周囲を見回す。
建物は高い。石と鉄とガラスでできた塔がいくつも立っていて、壁面には銅管や蒸気管のようなものが這っている。遠くで汽笛みたいな低い音がした。鳥の代わりに、小型の飛行艇みたいなものが空を横切る。後部についた回転翼が甲高く唸っていた。
「へえ……」
「飛んでる……」
「すごいなあ……」
目に入るもの全部に感心してしまう。
ここは駅前広場、だろうか。
中央には大きな時計塔があり、文字盤の外周を魔法陣みたいな輪が回っている。時刻は、五時十二分。まだ人通りは少ないけれど、新聞を抱えた少年や、金属製のケースを引く女の人、煤けた作業服の男たちがちらほら行き交っていた。
そして、彼らがみんな、ボクを見て少しだけ足を止める。
……うん。
それはそうかもしれない。
黄金の髪に黄色い瞳。耳は長い。身長は低い。赤龍の皮のベストに生成り色のワンピース、その上から旅用のマント。背中に大きなトランク。髪には彼岸花の飾り。槍まで持っている。
どう考えても、地元の人ではない。
「まずは情報収集だね」
そう呟いて、ボクは目を閉じる。
深呼吸をひとつ。
この世界の空気を吸い、吐く。
精霊たち、と呼んでいいものに、そっと意識を伸ばした。
世界ごとに相性が違う。
それも知っている。どこでも同じように働きかけられるわけじゃない。反応の良い世界もあれば、ほとんど沈黙している世界もある。
さて、今回は――
「……あ、いる」
風の端に、微かなさざめき。
金属の軋みに紛れて、小さな囁きみたいなものが返ってくる。
水は遠い。土は重い。火はせわしなく、落ち着きがない。でも風と、あと“煙”に近い何かが、変に懐いてくる感じがあった。
おもしろい。
煙の精霊、なんて呼び方が正しいのかわからないけれど、蒸気や熱気に紛れて漂う小さな意志が、ボクの指先にまとわりつく。くすぐったい。
「きみたち、この辺で朝ごはん食べられるところ知ってる?」
『しってる』
『においのするみち』
『パン』
『まめのにおい』
『あついやつ』
「ありがとう」
目を開く。
ボクの視線の先、駅舎の横手に細い路地があり、その向こうから香ばしい匂いが流れてきていた。パンと、炒めた豆と、たぶん肉のスープ。朝ごはんだ。
「よし、まずは腹ごしらえ!」
旅は体力。
知らないことを知るには、元気が必要だ。
ボクが路地に向かって歩き出した、そのときだった。
――きゃああっ!
高い悲鳴。
反射的に身体が動いた。
考えるより先に、石畳を蹴っていた。
路地の入口近く。荷車の前で、新聞束を抱えた少年が尻もちをついている。その目の前で、機械仕掛けの運搬車が火花を散らしながら暴走していた。積み荷の金属箱が傾き、今にも倒れそうになっている。制御輪が壊れたのか、蒸気を吹きながらまっすぐ少年に突っ込んでいた。
「危ない!」
槍は抜かない。
攻撃力が低いのは、自分でなんとなくわかる。壊すより、逸らすほうが得意だ。
ボクは滑り込むように少年の前へ入り、聖槍の柄を地面に当てて支点を作る。左手で槍を押し、右手で運搬車の側面をほんの一瞬だけ叩くように触れた。
がつん、ではない。
とん、と軽く。
その一打で、車体の重心がわずかにずれる。
突進の線が数度だけ外れた。
同時に、足もとに集めていた風を解放する。
風、というより圧力の薄い膜。押すのではなく、滑らせる。
運搬車は少年の髪先をかすめて横へ逸れ、路地の壁にぶつかって大きな音を立てて止まった。積み荷の箱が一つ落ちたが、中身は無事らしい。
数拍遅れて、静寂。
それから、ざわっと周囲がどよめいた。
「だ、大丈夫?」
ボクはしゃがみ込んで、少年に手を差し出した。
少年は十四、五歳くらいだろうか。茶色い髪を帽子で押さえつけ、すすだらけの頬をしている。目だけが丸くなっていた。
「え、あ……は、はい」
「どこか打った?」
「い、いえ……たぶん」
「たぶんはちょっと心配だなあ」
少年の肩や腕を軽く見て、骨折やひどい擦り傷がないことを確認する。自然に手が動く。こういう確認は慣れているらしい。自分のことなのに、少しだけ他人事みたいで変な感じだった。
「立てる?」
「はい」
少年が立ち上がる。
そのとき、運搬車の持ち主らしい髭の男が慌てて駆けてきた。
「おい、坊主! 無事か!?」
「だ、大丈夫、親方……」
「制御弁がいきなり吹っ飛びやがって……って、嬢ちゃんが助けたのか?」
嬢ちゃん。
うん、そう見えるだろうなあ。
「たまたまだよ。間に合ってよかった」
「たまたまで済む動きじゃなかったぞ……」
男は呆れたようにボクを見た。作業服の胸元には、真鍮の歯車を模した徽章が留められている。整備工かなにかだろうか。
「怪我人がなくてなによりです」
少し離れたところから、落ち着いた声がした。
振り向くと、黒いロングコートを着た青年がこちらへ歩いてくるところだった。長身で、銀縁のゴーグルを額に上げている。黒髪はきっちり後ろへ流し、青灰色の瞳は寝不足そうに少しだけ陰っていた。年は二十代半ばくらい。片手には革表紙の手帳、もう片方には細い金属杖を持っている。
役人、かな。
あるいは技師。
彼は壊れた運搬車を一瞥し、次にボクを見る。
観察する目だった。失礼なほどではないけれど、細かいところまで見逃さない類の。
「あなた、旅行者ですか」
「うん、たぶん」
「たぶん?」
「この世界に来たばかりなんだ。右も左もわからなくて」
青年の眉がほんの少しだけ動いた。
“この世界”という言い方がおかしかったのかもしれない。しまった、と思ったけれど、いまさら言い直すのも変だ。
「……地方から出てきたばかり、という意味で受け取っておきます」
「助かるよ」
そう答えると、彼は小さくため息をついた。
表情の変化は薄いのに、妙にわかりやすい人だ。
「私はイーゼル・ヴァルハイト。市央機関管理局、第三保全部門所属です」
「しおう……?」
「この都市の、機関設備と魔導路の保守管理を担当する役所です」
「へえ! じゃあ、このおっきな歯車とか飛んでるのとか、詳しい?」
「一応は」
少しだけ、彼の声音が柔らかくなった気がした。
「ボクはアウレーリエ・リュコーリアス。アウリィでいいよ」
「……アウリィさん」
「さん、なくていいのに」
「では、アウリィ。そちらの少年を助けた礼を、市として述べます」
律儀な人だなあ。
「あ、別に礼なんて」
「手続き上、必要です」
きっぱり言われる。
まじめだ。
そのとき、さっきの少年が勢いよく頭を下げた。
「あの、ありがとうございました! 俺、ルカっていいます! 新聞配達してて……本当に、もう駄目かと……」
「ルカくん。無事でよかった」
「アウリィさん、すげえ強いんですね!」
「んー、強いっていうか、避けるのが得意なんだ」
本当だ。
ボクはたぶん、誰かを倒すより守るほうが得意だ。
相手を崩し、逸らし、逃がし、生き残る。そのための技量だけが異様に身体に染みついている。
どうしてそんなふうになったのかは、覚えていないけれど。
「アウリィ」
イーゼルが口を開いた。
「よければ、事故報告のため簡単な事情聴取にご協力ください」
「え、いま?」
「五分で終わります」
「朝ごはん前に?」
「……食べていないんですか」
「まだ」
そう答えると、彼はほんのわずかに視線を逸らし、考える間を置いてから言った。
「でしたら、近くに食堂があります。そこで話を聞いても?」
「いいの?」
「私もまだです」
「やった!」
思わず両手を上げる。
イーゼルはまた少しだけ目を細めた。呆れているのか、面白がっているのかはわからない。
「親方、こっちは俺が片づけます!」
とルカが言う。
「馬鹿、先に配達だ! 遅れただろうが」
「でもっ」
「無事ならそれでいい。嬢ちゃんにも礼はあとで言え」
髭の親方が豪快に手を振る。ボクも振り返した。
ルカは名残惜しそうにしながらも、落とした新聞束を抱えて走っていく。朝の街は、もう動き始めていた。
*
その食堂は、路地をひとつ曲がった先にあった。
赤煉瓦の壁に真鍮の看板。店名は《暁の釜》。
扉を開けると、鈴がからんと鳴って、温かな空気と香りが一気に押し寄せてくる。焼きたての黒パン、玉ねぎを炒める匂い、濃い豆のスープ、それに甘いミルク茶。
「わあ……」
また声が漏れた。
店内は木と金属の取り合わせが妙におしゃれで、天井からは小さな歯車の飾りがいくつも吊るされている。カウンターの奥では恰幅の良い女将さんが、大鍋をかき混ぜていた。
「おや、イーゼル坊やじゃないか。珍しいね、朝に来るなんて」
「仕事の途中です、ミラさん」
「仕事の途中で朝飯を食うのは良い仕事だよ。そっちのお嬢ちゃんは?」
「参考人です」
「言い方!」
ボクが思わず突っ込むと、女将さん――ミラさんは、豪快に笑った。
「ははは! かわいい子だねえ。さ、座んな。豆煮込みとパンでいいかい?」
「いい!」
「即答だねえ」
イーゼルは窓際の席を選んだ。ボクは向かいに座る。椅子は少し高いけれど、ブーツのつま先でなんとか床に届く。
彼は手帳を開き、ペンを構えた。
「では、簡単に。名前」
「アウレーリエ・リュコーリアス。アウリィ」
「年齢」
「……わからない」
「わからない?」
「えっと、見た目よりはたぶん上」
「まったく参考になりませんね」
「だよねえ」
ボクが笑うと、イーゼルはこめかみを押さえた。
「出身地は」
「それも、いまはあんまり」
「記憶に問題が?」
「自主的に封印してるからね」
「……はい?」
「旅に出るたび、前の記憶をだいたい閉じるんだ」
「なぜ」
「そのほうが、新しく見られるから」
言ったあとで、少しだけ変な沈黙が落ちた。
イーゼルの視線が鋭くなる。
そりゃそうだ。初対面でこんなことを言われたら、怪しいにもほどがある。
でも、嘘をつく理由もない。
「信じなくてもいいよ」
ボクは肩をすくめた。
「ボクも説明しろって言われると、困るし」
「……いえ」
彼はペン先を止めたまま、しばらく考えてから言った。
「あなたが嘘をついているようには見えない」
「ほんと?」
「ええ。ただ、常識から外れているだけで」
「それはよく言われる気がする」
気がする、という表現もおかしいけれど。
そこへ、どん、とテーブルに皿が置かれた。
分厚い黒パン、白いバター、豆と根菜の煮込み、香草入りのソーセージ、半熟の卵。湯気が立ちのぼる。
「先に食べな。事情聴取は逃げないからね」
とミラさん。
「ありがとうございます!」
「イーゼル坊やはちゃんと食っとくれよ。最近また顔色悪い」
「……善処します」
「しないやつの返事だね」
会話のテンポが気持ちいい。
こういうの、好きだなあと思う。
パンをちぎって煮込みにつける。
ひとくち食べて、目を見開いた。
「おいしい……!」
豆はほくほく、塩気は強め、でも香草の香りで重くない。スープに溶けた玉ねぎの甘みがあとからじんわり来る。黒パンは外が固いのに中はしっとりしていて、バターが溶けるとほんのり酸味が立つ。
「おいしい、おいしいよ、イーゼル!」
「それはよかったですね」
「この世界、来てよかった!」
「朝食だけで判断しないでください」
「旅の満足度って、朝食でかなり変わるよ」
「妙に説得力がありますね……」
イーゼルも食べ始める。
食べ方まで几帳面だった。パンを一定の大きさで切り、ソーセージを無駄なく分け、ミルク茶を飲むタイミングまで整っている。
「イーゼルって、几帳面だねえ」
「よく言われます」
「疲れない?」
「疲れます」
「疲れるんだ」
「ですが、そうしないと回らない仕事です」
彼の言い方が、少しだけ硬くなった。
仕事の話に触れられるのは、あまり好きじゃないのかもしれない。
ボクはスプーンを置いて、尋ねる。
「この街、なんていうの?」
「街ではなく都市です。名称は機関都市セラフィノア」
「せらふぃのあ」
「大陸西部最大の蒸機魔導複合都市。中央塔《天蓋機関》を核として、十三層の都市区画が積層しています」
「十三層!?」
思わず前のめりになった。
「積み重なってるの?」
「ええ。上層は行政区と富裕層居住区、中層は工房や研究施設、下層は工業地帯と労働区、さらにその下に旧路があります」
「旧路」
「都市が拡張される前の街路と排熱坑道です。現在は立入制限区域も多い」
「おもしろそう」
「興味を持つところが危険です」
即座に釘を刺された。
でも、おもしろそうなのは事実だ。
「飛んでたのは?」
「飛行艇です。定期便と貨物便、それから保全部門の巡視艇」
「蒸気で飛ぶの?」
「蒸気だけではありません。軽量化の魔導式と昇空結晶を併用しています」
「へええ……」
知らない技術。
知らない理屈。
たまらなく胸が躍る。
「精霊の気配も、ちょっと変わってるね」
何気なくそう言うと、イーゼルの手が止まった。
「……精霊術を使うんですか」
「うん。索敵とか、道を聞いたりとか」
「道を」
「聞いたりとか」
「精霊に?」
「うん」
イーゼルはしばらく無言だった。
その沈黙の意味を測りかねていると、彼は低く言った。
「この都市では、精霊術師は珍しい」
「そうなの?」
「古い地方にはいますが、セラフィノアでは機関術と魔導工学が主流です。精霊は制御が難しく、再現性に乏しいとされる」
「ふうん」
たしかに、この街の空気は人工物の匂いが濃い。
それでも完全に精霊が遠いわけではない。むしろ、自然の四大というより、蒸気や煙や振動みたいな、この街特有の“気配”に寄った存在がいる。
「じゃあ、ボクって珍獣扱い?」
「そこまでは言っていません」
「でもちょっと思ったでしょ」
「少しだけ」
「正直だなあ」
そこで、店の扉が勢いよく開いた。
朝の空気と一緒に、甲高い声が飛び込んでくる。
「イーゼル! やっぱりここにいた!」
入ってきたのは、鮮やかな赤銅色の髪を短く切った少女だった。ボクより少し年上に見えるけれど、小柄で活発そうだ。整備服の袖を肘までまくり、腰には工具ベルト。額に煤がついている。背には細長いケースを背負っていた。
彼女はイーゼルを見るなり、ずかずかと近づいてきて、テーブルに両手をついた。
「朝一番で保安通報が二件、そのうち一件は東三層の圧力弁異常! なのに当の主任補佐が優雅に朝飯!?」
「優雅ではありません。事情聴取中です」
「見たまんま朝飯じゃん!」
「朝飯を食べながら事情聴取しているんです」
「屁理屈!」
勢いがすごい。
ボクはちょっと楽しくなって、スプーンを持ったまま二人を見比べた。
イーゼルがため息をつく。
「紹介します。第三保全部門所属、技師見習いのセラ・ノクス」
「見習いじゃない、准技師!」
「昇格したのは先週でしたね」
「忘れてたの!?」
「忙しかったので」
セラはぎりぎりと奥歯を噛みしめ、それからようやくボクに気づいた。
「……誰?」
「参考人です」
「だから言い方!」
また同じことを言ってしまった。
セラがぱちぱちと瞬きする。
「え、なに、息合ってるの?」
「合ってないよ?」
「合ってません」
「ほら!」
「そこ一致するのかよ!」
彼女は頭を抱えた。
忙しい朝に気の毒だけど、ちょっと面白い。
「ボクはアウリィ。今朝来た旅人」
「今朝来た……? へえ、変わった格好。って、耳、長っ。ハイエルフ?」
「たぶん」
「たぶん!?」
この反応、今日は何度目だろう。
でも、セラの驚き方は嫌な感じがしない。思ったことがそのまま口から出るタイプだ。
「で、その旅人さんがなにしたの」
「暴走した運搬車から新聞配達の少年を救助しました」
イーゼルが事務的に答える。
「へえ。そりゃすご――」
セラの目が、テーブル脇に立てかけた聖槍へ移った。
「……って、それ、本物?」
「本物だよ」
「飾りじゃなく?」
「使うよ」
「それで運搬車止めたの?」
「んー、ちょっと逸らした」
「ちょっとで済むか!」
彼女は遠慮なくボクの向かいの席にどかっと座った。
ミラさんが「この子にも茶を」と勝手に運んでくる。
「アウリィ、だっけ。あんた、いま暇?」
「旅人はだいたい暇だよ」
「いい返事!」
セラが身を乗り出す。
嫌な予感、とまではいかないけれど、面倒事の匂いはする。
「東三層の圧力弁異常、ちょっと変なの。ここ数日、似たような事故が続いてるんだよね。暴走車両、小規模な蒸気漏れ、魔導灯の瞬断。どれも大きな被害はないけど、発生場所が妙に散ってる」
「セラ」
イーゼルが低く制止する。
「部外者に話しすぎです」
「だって、この人なんか勘いい気がするし」
「勘で保全業務を進めないでください」
「でもイーゼルも気にしてるだろ?」
「……それは」
「ほら」
セラは勝ち誇った顔をしてから、ボクをじっと見た。
「精霊術、使えるんでしょ」
「うん」
「だったら、機関の“流れ”の違和感とか見えたりしない?」
「やってみないとわからないかなあ」
「報酬は出す」
「公費では出ません」
「じゃああたしの昼飯奢り!」
「軽いなあ」
でも、悪くない提案だった。
この世界を知るには、歩くのが一番だ。
しかもただの観光じゃなく、問題の匂いを追うとなれば、街の裏側まで覗けるかもしれない。
「ねえ、イーゼル」
「なんです」
「ボク、街を見たいんだ。案内してくれる?」
「業務のついでなら」
「じゃあ決まり!」
イーゼルは眉間を押さえた。
「まだ決めていません」
「決めたよ、ボクが」
「あなたに決定権は」
「イーゼル坊や」
ミラさんがカウンターの向こうから声をかける。
「その子、朝から人助けしたんだろ。ひとりで放っとくより、目の届くとこに置いたほうが安全じゃないかい?」
「……」
「それに、あんたが気にしてる“変な不調”とやらも、外の目があったほうが見えることもある」
イーゼルはミラさんを見た。
次にセラを。
最後にボクを。
「……絶対に、勝手な行動はしないこと」
「善処する!」
「善処ではなく遵守を」
「がんばる!」
「不安しかありません」
「でも連れてってくれるんでしょ?」
「……ええ」
やった。
思わず頬が緩む。
新しい街。新しい食べ物。新しい人たち。そして、少し奇妙な事件。
旅のはじまりとしては、申し分ない。
*
食堂を出るころには、空はすっかり朝の色になっていた。
セラは仕事に戻るため先に走っていき、ボクとイーゼルは東三層へ向かう昇降機に乗ることになった。セラは去り際に「逃げんなよ!」と叫んでいたけれど、たぶん逃げるのは彼女のほうが得意そうだ。
昇降機は、都市中央を貫く巨大な塔の外縁に設けられていた。
円筒形の籠に乗り込むと、格子扉が閉まり、足もとで低い振動が唸る。外壁に沿って上昇していくと、セラフィノアの全景が見えた。
「わあ……!」
本日何度目かわからない感嘆が、また口からこぼれる。
層になった街。
本当に積み重なっている。
下層には煙突の林があり、白と灰の蒸気が何本も天へ昇っている。中層には橋と回廊が網のように走り、ガラス屋根の工房や丸屋根の研究棟が並ぶ。さらに上には緑地帯や白い尖塔、青銅の屋根を持つ館が見える。街全体がひとつの巨大な機械であり、同時に生き物みたいだった。
「すごいねえ」
「初めて見た者はたいていそう言います」
「イーゼルは?」
「見慣れています」
「でも、ちょっと好きでしょ」
「……仕事柄、愛着はあります」
その言い方が、なんだか少しだけ嬉しそうだった。
「イーゼルはこの街で生まれたの?」
「ええ」
「ずっと?」
「ほぼ。上層の学院に通い、そのまま管理局へ」
「へえ。頭よさそう」
「そう見えるなら何よりです」
「実際は?」
「寝不足です」
「そこ否定しないんだ」
くすっと笑うと、彼も少しだけ口元を緩めた。
本当に、少しだけ。
籠が東三層で止まる。
扉が開くと、熱気が流れ込んできた。
ここは工房街らしい。通路の両側に大小さまざまな工房が並び、金属を打つ音、旋盤の唸り、蒸気の噴き出す音がひっきりなしに響いている。油と鉄と熱石の匂い。頭上には配管が走り、ところどころから蒸気が白く漏れていた。
「異常が出たのは、こっち?」
「ええ。正確には東三層第四圧送路」
「圧送路って、蒸気の?」
「蒸気と魔導液の混合ラインです。各工房に圧力と熱量を分配している」
歩きながら、ボクはさりげなく意識を広げる。
風は忙しない。煙の精霊はご機嫌で、きゃらきゃらと騒いでいる。熱に寄る小さな火の気配も多い。でも、その流れの中に、ときどき妙な淀みがあった。
「……あれ」
足を止める。
イーゼルが振り返った。
「どうしました」
「いま、なんか変な感じした」
「どこで」
「左上。配管の継ぎ目……いや、その奥かな」
ボクは通路脇の壁に近づく。
鉄板の裏を、圧力が走っている。普通ならまっすぐ流れるはずの気配が、ほんの一瞬だけ引っかかった。小さな棘みたいに。
「このへん、最近いじった?」
「保守記録では昨日、弁交換が一件……」
「記録上は、だよね」
「ええ」
イーゼルの目つきが変わる。
仕事の顔だ。
彼は壁面の点検蓋を開き、内部計器を覗き込んだ。真鍮の針が微かに揺れている。
「圧は正常範囲内……いや、待て」
「なにかあった?」
「脈動している。ごく小さいが、周期が不自然だ」
彼は素早く手帳に数字を書きつけ、金属杖の先端を弁座に当てた。杖先の結晶が淡く光り、内部構造が透視されるみたいに青線で浮かび上がる。
「通常摩耗ではない……」
「壊されてる?」
「断定はできませんが」
そこへ、前方からセラが駆けてきた。
「イーゼル! 西側の補機も似た揺れ出てる! って、もう見つけたの!?」
「アウリィが」
「やっぱ役立つじゃん!」
セラは息を切らしながらボクの肩をばんばん叩いた。元気だなあ。
でもその直後、上方で甲高い金属音が響いた。
きいん、と。
耳に刺さるような、不吉な音。
次の瞬間、頭上の細い補助管が弾けた。
「下がって!」
叫びながら、ボクは二人を突き飛ばす。
熱い蒸気が白く噴き出し、通路を覆った。
視界が真っ白になる。
でも、音と流れでわかる。
右から落ちる。金属片が三つ。
手前に熱圧、奥に火花。
人影は二つ、左へ転倒。
ボクはマントを翻して蒸気の向きを一瞬だけ逸らし、聖槍の柄で落ちてくる金属片を受け流す。真正面から叩き落とす力はない。だから角度を変える。回転を足す。落下点をずらす。
がん、がん、きん。
金属片は壁と床へ跳ねて転がった。
蒸気の向こうでセラが咳き込む。
イーゼルが低い声で何か術式を唱え、杖先から青白い膜が広がる。防熱結界の一種だろうか。噴出した蒸気が膜にぶつかって左右に散った。
数秒。
それだけで、白煙は薄れた。
「二人とも無事!?」
「げほっ、なんとか!」
「こちらも。あなたは」
「平気!」
答えながら、ボクは配管の裂け目を見る。
ただの老朽化じゃない。裂断面が妙だった。内側から圧がかかっただけなら、もっと自然に裂けるはずなのに、まるで一部だけが先に脆くなっていたみたいに、金属の色が違う。
イーゼルも同じものを見たらしい。
彼は険しい顔で呟いた。
「腐食、ではない……術式侵食?」
「そんなのできるの?」とセラ。
「可能な者は限られるはずです」
「じゃあ、誰かがやってるってこと?」
「まだ断定は」
イーゼルはそう言いながらも、明らかに警戒していた。
ボクは裂けた管に指先を近づける。
熱い。けれど、その奥に、かすかな“意志の傷跡”みたいなものが残っていた。精霊そのものではない。むしろ、精霊の流れを無理やりねじ曲げたような、人工的な歪み。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
「……これ、いやだな」
「なにがです」
イーゼルの声が低い。
ボクは少し迷ってから答えた。
「うまく言えないけど、自然に壊れた感じじゃない。街の流れに、誰かが爪を立ててるみたい」
「爪」
「傷つけたいのか、確かめたいのかまではわかんない。でも、わざと触ってる」
セラが顔をしかめる。
「いたずらで済まないやつじゃん、それ」
「ええ」
イーゼルが短く頷いた。
「管理局に正式報告を上げます。東三層の一部封鎖も必要かもしれない」
彼は立ち上がり、周囲へ視線を巡らせた。
その目は、もう最初に食堂で会ったときの寝不足の役人のそれだけではなかった。この街を守るために常に何かを測り、疑い、組み立てている人の目だ。
「アウリィ」
「なに?」
「あなたに、ひとつ頼みがあります」
「うん」
「今日一日だけで構いません。私たちに協力してもらえませんか」
その言葉に、胸が少しだけ高鳴った。
ただ街を歩くだけじゃない。
この街の中で起きている、まだ見えない何かを追う。
知らない世界の表と裏を、一緒に覗くことになる。
それはきっと、面白い。
そしてたぶん、少しだけ危ない。
でも。
「もちろん!」
ボクは笑って答えた。
「旅って、そういうほうが楽しいからね」
イーゼルが、呆れたように、けれど確かに安堵したように息をつく。
セラは「よっしゃ!」と拳を握った。
頭上では、張り巡らされた蒸気管が絶えず低く唸っている。
巨大な機関都市セラフィノアは、まるで眠らない心臓みたいに脈打っていた。
その鼓動のどこかに、異物が混じっている。
ボクは彼岸花の髪飾りに指先で触れ、それからそっとポーチから日記帳を取り出した。
通路の隅、まだ温かい鉄の壁に背を預けて、走り書きをする。
――旅の一日目。
機関都市セラフィノア。
街は積層し、空は蒸気で白い。
朝食がとてもおいしい。
ルカという少年を助け、イーゼルとセラに出会った。
この街の流れには、なにか妙な傷がある。
そこまで書いて、ペンを止める。
少し考えてから、最後に一行だけ足した。
――たぶん、ここでは“壊れ方”を見れば、街の秘密がわかる。
ページを閉じる。
胸の奥で、理由のわからない懐かしさが一瞬だけ揺れた気がした。
もちろん、それが何なのかは思い出せない。
思い出すこともない。
いまのボクは、この世界に来たばかりの旅人だ。
それでいい。
「アウリィ、行きますよ」
イーゼルが呼ぶ。
「はーい!」
ボクは日記帳をしまい、槍を手に取って駆け出した。
蒸気と歯車の街の中へ。
次の異常が、どこで待っているのかも知らないまま。




