4話「彼岸の花、此岸の風」
リシャール・メイエル教授がローデンツに到着したのは、装置の実証実験から六日後のことだった。
朝の定期馬車から降り立ったのは、白髪交じりの髪を後ろに撫でつけた長身の紳士だった。仕立ての良いフロックコートを着て、片手に革のカバンを提げている。年齢は六十を超えているように見えたが、背筋はまっすぐで、灰青色の目には知性と温かみが同居していた。
ボクは広場の噴水のそばで精霊との朝の対話をしていたところだった。馬車が止まる音に顔を上げると、降りてきた紳士と目が合った。
紳士はボクの耳を見て、黄金の髪を見て、黄色い瞳を見た。そして——深く、丁寧に頭を下げた。
「アウレーリエ・リュコーリアス殿とお見受けする。テオドーラの手紙に書かれていた通りだ。リシャール・メイエルです」
「あ、教授! 来てくれたんだ! ボクはアウリィって呼んでね!」
リシャールは微笑んだ。穏やかだが、どこか悲しみを含んだ笑みだった。後で知ったことだが、リシャールの研究テーマはかつてこの世界に存在したエルフの文明だった。滅びた種族の末裔——いや、種族そのものが目の前に立っている。その感慨は、きっとボクには想像もつかないものだろう。
「テオのところに案内するよ! すぐ近く!」
ボクがリシャールの手を引いて工房に向かうと、道行く人々がこちらを見ていた。見知らぬ紳士と小さなエルフの取り合わせは、さぞ奇妙に見えたことだろう。
工房の扉を開けると、テオが中にいた。装置の最終調整をしていたらしく、手は油だらけで、髪は乱れていて、頬に煤がついていた。
テオは入り口に立つリシャールを見て——固まった。
「……先生」
「久しぶりだね、テオドーラ」
リシャールの声は静かだった。でもその中に、五年間の歳月が凝縮されていた。
テオは油まみれの手を服で拭った。何度も何度も拭って、それでも汚れは取れなくて、最後にはその手のまま——リシャールの前に歩いていった。
「すみませんでした。五年も——何の連絡もしないで」
「謝る必要はない。君が無事で、研究を続けていた。それだけで十分だ」
リシャールがテオの肩に手を置いた。テオの目から涙がこぼれた。でも今度は——声を上げて泣きはしなかった。唇を引き結んで、涙だけを静かに流して、それから大きく息を吸い込んだ。
「見てください、先生。これが——ボクの、五年間の答えです」
テオが装置の前にリシャールを案内した。蛇行する真鍮の導管、脈動するエーテル結晶、変調機構を備えた小型蒸気機関。リシャールは装置を長い時間かけて観察し、設計図を読み、データノートに目を通した。
その間、ボクは工房の隅で静かに見守っていた。これはテオと教授の再会の時間だ。ボクが割り込むべきではない。
やがてリシャールが顔を上げた。
「素晴らしい」
一言だった。でもその一言に込められた重みを、テオは受け止めた。
「振動によるエーテル共振——これは旧魔法学と蒸気工学の真の融合だ。学術院の誰にも成し遂げられなかったことを、君はここでやった。一人で」
「一人じゃありません」テオがボクの方を見た。「アウリィがいなかったら、ここには辿り着けませんでした」
リシャールがボクの方に向き直った。
「精霊と対話できるエルフ。千年前にこの地を去った種族の——最後の一人」
「最後かどうかは分からないけど、少なくともこの世界ではボクだけみたいだね」
「聞きたいことが山ほどある。だが——まずは目の前の問題を片付けよう」
リシャールはカバンから書類の束を取り出した。
「特許の仮登録は完了した。ここに証書がある。加えて——」
もう一枚の書類を出す。
「学術院総長名義の保護命令書だ。この発明に対するいかなる妨害行為も、帝国法に基づき処罰される。ヴァルター学長も最終的には署名してくれた」
テオが書類を受け取る手が震えていた。
「蒸気工学派の学長が——どうやって?」
「彼も学者だよ。データを見せれば分かる。君の研究が本物だと理解すれば、学派の面子より学問の進歩を選ぶだけの知性はある——まぁ、少々説得に苦労はしたが」
リシャールの目が悪戯っぽく光った。この人は穏やかに見えるけれど、内側にはかなりの策略家が隠れているらしい。
「これで——ボルツは?」
「帝国蒸気工業連盟への不正な査察依頼についても、学術院から正式に問い合わせを行った。連盟側も穏便に済ませたいようでね。査察官のクルト・シュテルン氏は既に召還されている」
テオが脱力して椅子にへたり込んだ。
「終わった——の?」
「法的にはね。ボルツ個人がどう動くかは別の問題だが——もう以前ほどの力はないだろう」
ボクは小さくガッツポーズをした。
「やったね、テオ!」
テオは椅子に座ったまま、天井を仰いで目を閉じた。その顔に浮かんでいたのは、安堵と疲労と喜びが混ざり合った、複雑な表情だった。
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その日の夜、歯車亭で祝宴が開かれた。
ドリーの発案だった。「目出度いことがあったら宴会、それがこの町の流儀だよ」と言って、食堂の椅子を壁際に寄せ、大きなテーブルを中央に据え、ありったけの料理を並べた。
テオとリシャール教授、ミラン、レーヴェン、八百屋のおかみさん、パン屋の親方、製材所の若い衆たち——町のあちこちから人が集まってきた。ボクがこの町に来てからの十日間で、ここまで多くの人と顔を合わせたのは初めてだった。
リシャール教授は、町の人々に装置の意義を分かりやすく説明してくれた。
「テオドーラの発明は、蒸気機関を通じて精霊を目覚めさせるものです。これは蒸気文明を否定するのではなく——蒸気文明の新しい可能性を開くものです。精霊の力を蒸気機関に取り込めれば、より効率的な動力源が得られる。農業にも工業にも、計り知れない恩恵をもたらすでしょう」
町の人々は半信半疑だったが、広場で起きたことを目の当たりにした人たちは頷いていた。石畳から芽吹いた新芽は今も育ち続けていて、小さな双葉を広げている。
「あれはなんの芽なんだい?」おかみさんが聞いた。
「まだ分からない。でも精霊が育ててるから、きっときれいな花が咲くよ」
ボクが答えると、おかみさんは「楽しみだねぇ」と笑った。
宴会は賑やかだった。ドリーの料理は相変わらず美味しくて、パン屋が焼いてきた特製の祝い菓子は蜂蜜がたっぷりで甘かった。製材所の若い衆たちが調子っぱずれの歌を歌い、レーヴェンが昔話を語り、子どもたちが食堂を走り回っていた。
ボクは蜂蜜湯を飲みながら、その光景を見ていた。
温かかった。この場所が、この時間が、この人たちが——全部、温かかった。
ミランがカウンターの隅で麦酒を飲んでいた。いつもの定位置だ。ボクはその隣に座った。
「ミラン、楽しい?」
「騒がしいのは得意じゃない」
「でも、来てくれたでしょ」
「……ドリーに引きずり出された」
嘘だ、とボクは思った。ミランは自分の足で来ている。来たくなかったなら、ドリーがどんなに言っても来ないような人だ。
「ミラン。ボク、ミランにすごく感謝してるんだ」
「大したことはしてない」
「してるよ。最初の日、一緒に歩いてくれたでしょ。テオの工房が荒らされた夜、見張りをしてくれたでしょ。査察官が来たとき、法律で守ってくれたでしょ。全部、大したことだよ」
ミランは麦酒を一口飲んで、何も言わなかった。でもその横顔が、少しだけ柔らかくなった気がした。
「あんた——いつまでこの町にいるんだ」
不意の問いだった。ボクは蜂蜜湯のカップを両手で包んだ。
「分からない。でも——そんなに長くはいられないと思う」
「次の世界とやらに行くのか」
「うん。多分」
ミランは麦酒のジョッキをカウンターに置いた。こつん、と小さな音がした。
「そうか」
それだけだった。でもその二文字に、ミランの感情が全部詰まっているような気がした。引き止めない。嘆かない。ただ——そうか、と。
ボクはミランの大きな手の上に、自分の小さな手を重ねた。ミランは振り払わなかった。
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宴会が終わって、みんなが帰っていった後。
ボクは二階の部屋で日記を書いていた。
『リシャール教授が来てくれた。特許も保護命令も手に入った。テオの研究は守られた。宴会が楽しかった。みんなの笑顔が見られて嬉しかった。ミランに聞かれた。いつまでいるのかって。答えられなかった。分からないから。でも——』
ペンが止まった。
ボクは窓辺に移動して、夜の空を見上げた。星が瞬いている。この世界の星を、ボクはまだ一つも名前を知らない。レーヴェンに聞こうと思っていたのに、まだ聞いていない。
胸の奥で、何かが動いた。
記憶ではない。記憶は封じられていて、靄の向こうに沈んでいる。でも——身体が知っている感覚が、少しずつ表面に浮かび上がってきていた。旅の終わりが近いという予感。世界と世界の境界が薄くなっていく感覚。
まだだ。まだ少し、時間がある。
でも——長くはない。
彼岸花の髪飾りに触れた。指先に、冷たい金属の感触。この髪飾りが何を意味しているのか、記憶のないボクには分からない。でも——彼岸花は、あちらとこちらの境に咲く花だと、身体のどこかが覚えている。此岸と彼岸。この世界と、次の世界。
「もう少しだけ」
囁いて、日記の続きを書いた。
『でも——まだ終わってない。テオの装置はまだ完成していない。精霊たちとの対話もまだ途中。やり残したことがある。だから、もう少しだけ。もう少しだけ、ここにいさせて』
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翌朝、事件が起きた。
ドリーの悲鳴で目が覚めた。
飛び起きて階段を駆け下りると、食堂の窓が割られていた。石が投げ込まれたらしい。散らばったガラスの破片の中に、紙切れが一枚。
ドリーが震える手でそれを拾い上げた。
『エルフを差し出せ。さもなくば工房に火を放つ』
ボクの血が引いた。テオの工房——あそこには装置がある。テオの五年間が、二年間が、全部あそこにある。
「テオ——!」
ボクはマントを掴んで飛び出した。裸足だった。ブーツを履く時間も惜しんで、石畳を蹴って走った。
精霊の感覚を全開にした。水の精霊に呼びかける。町中の水——井戸水、水路の水、噴水の水、朝露——全てを通じて、工房の周辺を探る。
——いる。三人。工房の前に。一人が油の入った容器を持っている。
「風——!」
走りながら叫んだ。風の精霊に呼びかけた。応えてくれ。今だけでいい。ボクの声を、テオに届けて——。
風が応えた。
突風が町の通りを駆け抜けた。ボクの叫びを載せて、工房の方角へ。
「テオ、逃げて——!」
風が声を運んだかどうかは分からない。でも走った。とにかく走った。小さな身体で、全力で。
工房が見えた。三人の男がいた。グスタフはいない。取り巻きの二人と、もう一人見知らぬ男。取り巻きの一人が油の入った壺を持ち、もう一人が火打石を構えている。
ボクは走りながら聖槍を背中から抜いた。ミスリルの穂先が朝日を弾いて白く光る。
「やめて——!」
男たちがボクに気づいた。小さなエルフが槍を構えて突進してくる姿に、一瞬怯んだ。でもすぐに態勢を立て直す。
火打石を持った男が火を起こそうとした。
ボクは槍を振った。攻撃ではない。聖槍の柄を地面に叩きつけた。ミスリルが大地に触れた瞬間、衝撃波のような振動が走った——精霊術で増幅された振動。
地面が揺れた。
土の精霊が応えた。工房の前の地面が波打ち、男たちの足元がぐらついた。火打石を持った男がよろめいて膝をつく。油の壺を持った男が壺を取り落とした。壺は地面で砕け、油が石畳に広がった——だが火は着いていない。
しかしボクの攻撃力は低い。地面を揺らしただけで、男たちを倒すことはできない。
三人目の男がナイフを抜いて、ボクに向かってきた。
護身術の動きが身体を動かした。考えるより先に、身体が反応していた。ナイフの軌道を読み、半歩横に逸れ、男の手首を聖槍の柄で打つ。ナイフが飛ぶ。続けて男の膝裏を槍の石突で打って崩し、倒れたところを地面に押さえつけた。
一人目。
残りの二人が同時に来た。
水の精霊が叫んだ。右から——と。
ボクは右に跳んだ。左から来た男の拳が空を切る。右から来た男にはマントの裾をかぶせて視界を奪い、その隙に背後に回って膝裏を蹴る。男が前のめりに倒れた。
二人目。
最後の一人——火打石の男——がもう一度火を起こそうとしていた。油が広がった石畳の上で。
「——やめて!」
ボクは聖槍を投げた。投げたのではない——滑らせた。石畳の上を滑走した槍が、男の足をすくった。男が仰向けに倒れ、火打石が手から離れて転がっていった。
三人。全員、地面に転がっている。
ボクは息を切らしていた。裸足の足の裏が、石畳で擦れて痛い。でも——工房は無事だった。火は着かなかった。
「アウリィ!」
テオが工房の中から飛び出してきた。中にいたのだ。風がボクの声を届けてくれたのか、それとも物音で気づいたのか。
「大丈夫? 怪我は——」
「ボクは大丈夫。テオこそ——装置は?」
「無事。中にいたから——でもあんた、裸足じゃない! 足、血が出てる!」
見下ろすと、確かに右足の裏から血が滲んでいた。ガラスの破片を踏んだか、石畳で切ったか。痛みを感じていなかった。身体が戦闘態勢のまま、痛覚を後回しにしている。
「あ、本当だ。痛い」
認識した途端、痛みが来た。ボクはその場にしゃがみ込んだ。
「ばか。ばか、ばかっ」テオがボクを支えながら叫んだ。「なんで裸足で——なんで一人で——」
「だってテオの装置が——」
「装置より、あんたの方が大事に決まってるでしょ——!」
テオの声が裏返った。怒っているのか泣いているのか分からない顔だった。多分、両方だ。
駆けつけてきたミランが、倒れている三人の男を手際よく縛り上げた。元近衛兵の手慣れた動きだった。縄で手足を拘束し、一人ずつ身元を確認していく。
「ボルツの雇った傭崩れだな。ボルツ本人はいない——尻尾を出さないように、汚れ仕事は他人にやらせる」
「ミラン、グスタフは——」
「こいつらの証言を取れば、ボルツに繋がる。今度こそ逃がさん」
リシャール教授も駆けつけてきた。状況を見て取ると、すぐにカバンから紙と筆を出し、現場の記録を取り始めた。学者は記録が習い性なのだろう。
「帝国法上、放火未遂は重罪です。教唆者も同罪。これでボルツを法的に追い詰められる」
ドリーが毛布と救急箱を持って走ってきた。ボクの足の傷を手当てしながら、目を赤くしていた。
「あんたって子は——本当に——」
「ごめんね、ドリー。心配かけて」
「心配なんてもんじゃないよ。十年は寿命が縮んだ」
レーヴェンが杖をついてゆっくりとやってきた。倒れている男たちと、足を手当てされているボクと、油の広がった石畳を見渡して、低い声で言った。
「エルフの嬢ちゃん。大した腕だな」
「護身術だけだよ。攻撃力はぜんぜんないの」
「三人を一人で無力化して攻撃力がないとは、大した謙遜だ」
レーヴェンが枯れた笑みを浮かべた。ボクも笑った。足は痛かったけれど。
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グスタフ・ボルツは、その日のうちに町から逃走を図った。
だがミランが先手を打っていた。朝のうちに町の出入り口に見張りを立てていたのだ。伐採場の仲間たちが、荷馬車で出ようとしたグスタフを取り押さえた。
リシャール教授が学術院の権限で発行した告発状と、拘束した三人の男たちの証言を合わせて、グスタフは帝国法に基づき地方長官に引き渡された。放火未遂教唆、発明の権利侵害の教唆、不正な査察依頼——罪状は複数に及んだ。
全てが終わったのは、夕方だった。
ボクは歯車亭のベッドで足を包帯に巻かれたまま横になっていた。ドリーが絶対安静を言い渡したのだ。
窓から夕日が差し込んでいた。橙色の光がベッドの上に伸びて、ボクの黄金の髪を染めている。
テオが部屋に来た。椅子を引いてベッドの横に座り、しばらく何も言わなかった。
「テオ?」
「……怒ってるんだよ、あたしは」
「うん」
「なんで一人で行ったの。なんで裸足で走ったの。なんであんなに——あんなに無茶するの」
「だってテオの装置が——」
「装置なんかまた作れる。何度壊されても作り直せる。でもあんたは一人しかいないでしょ」
テオの声が震えていた。ボクはベッドの上で身を起こして、テオの顔を見た。泣いていた。また泣いている。この旅の間、テオが泣くのを何度見ただろう。
「ごめんね」
「謝らないでよ。謝られると余計に——」
テオが言葉を詰まらせた。ボクはテオの手を取った。
「ボクは大丈夫だよ。足はちょっと痛いけど、すぐ治る。ハイエルフは頑丈だから——多分」
「多分って何」
「記憶ないから、自分が頑丈かどうかも確信がないの」
テオは呆れたように笑って、それからまた泣いた。忙しい人だ。でもその忙しさが——テオらしかった。
「ねぇ、テオ」
「何」
「装置、完成させよう。明日。ボクの足が動けるうちに」
テオがボクの顔を見た。
「……急ぐ理由があるの?」
ボクは少し迷って、それから正直に言った。
「ボク——もうすぐ、この世界からいなくなると思う」
テオの手がびくりと強張った。
「いつ」
「分からない。でも——身体が知ってるの。旅の終わりが近いって。長くてもあと数日だと思う」
沈黙が落ちた。夕日が少しずつ傾いて、部屋の中の光が赤から紫に変わっていく。
「……知ってた」テオが小さく言った。「なんとなく。あんたがここに来たときから——あんたはいつかいなくなるんだろうって。旅人だから。色々な世界を歩く人だから」
「うん」
「それでも——分かってても——」
テオは唇を噛んだ。言葉を探している。言いたいことがあるのに、形にならない。
「あんたがいなくなったら、精霊との対話は——」
「装置があるよ。テオの装置が精霊と人間の橋になる。ボクがいなくても、蒸気機関の振動で精霊に語りかけられる。テオがそれを証明したでしょ」
「でも——あたしは精霊の声を聞けない。あんたみたいに」
「今はね。でもそのうち聞こえるようになるかもしれない。精霊が目覚めて、人間たちがまた精霊を信じるようになったら——レーヴェンのおばあさんみたいに、精霊の気配を感じられる人がきっと増える。テオもその一人になれるよ」
テオはしばらく黙っていた。それから、立ち上がった。
「明日、装置を完成させる。あんたがいるうちに」
「うん」
テオが部屋を出ていく直前、振り返って言った。
「あんたに会えて良かった。それだけは——何があっても変わらない」
「ボクもだよ、テオ」
扉が閉まった。ボクは一人になって、窓の外の夕空を見た。紫から紺に変わりゆく空に、最初の星が一つ、灯った。
日記帳を取り出した。
『テオが泣いた。ボクのために泣いてくれた。嬉しいけど、胸が痛い。ボクは旅人だ。いつかいなくなる。それは変えられない。でも——ここで過ごした時間は本物だ。テオも、ミランも、ドリーも、レーヴェンも、みんな本物だ。記憶を封印しても、日記に書いた言葉は消えない。次のボクが読めるかどうかは分からないけど——いつか、全部思い出す。そのとき、この世界のことを、きっと泣くほど懐かしく思うんだろう』
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翌日。
ボクの足は、驚くほど治りが早かった。ハイエルフの身体は頑丈らしい——やっぱり多分だけど。包帯を巻いたままブーツを履いて、工房に向かった。
テオは夜通し準備をしていた。装置の最終部品——蒸気機関と変調機構の接合点に、最後のボルトを入れるだけの状態まで仕上げてある。
「あとは——これを締めるだけ。でも、最初の起動のとき、精霊に呼びかけてほしい」
「任せて」
今日は広場ではなく、工房の中で起動する。リシャール教授が立ち会い、ミランが外で見張りをしてくれている。ドリーは「あたしは料理担当」と言って、完成祝いの食事を準備している。
テオが最後のボルトを締めた。工具の音が静かに響いて、やがて止んだ。
「……できた」
完成した装置は、工房の中で静かに佇んでいた。真鍮と鉄と水晶と蒸気。機械と魔法。人間の知恵と精霊の力。その全てが一つになった、小さくて美しい装置。
「起動するよ」
テオがボイラーに火を入れた。蒸気が立ち上り、圧力が高まり、ピストンが動き始める。変調機構が作動し、特定のパターンの振動が生まれる。
真鍮の蛇行導管が共鳴した。あの音だ。川のせせらぎと蒸気の吐息が混ざり合った、自然と機械の境目にある音。
エーテル結晶が光った。今度は藍色だけではなかった。光が虹色に変化していく。水の藍、風の白、土の緑——三つの精霊の色が、結晶の中で渦を巻いている。
ボクは装置に手を添えた。目を閉じて、精霊たちに語りかけた。
ここにいるよ。ボクはここにいる。あなたたちの声を聞きたい。あなたたちの言葉を伝えたい。この装置は——人間たちがあなたたちに語りかけるために作ったものだよ。
精霊たちが応えた。
水と風と土——三つの精霊が、同時にボクの意識に触れた。それぞれが異なる感触で、異なる感情で、でも同じことを伝えていた。
——ありがとう。
——忘れないでいてくれて。
——もう一度、呼んでくれて。
ボクの目から涙がこぼれた。こらえようとしたけど、だめだった。
「アウリィ? どうしたの?」
「嬉しいんだよ。精霊たちが——喜んでくれてる。忘れないでくれてありがとうって——もう一度呼んでくれてありがとうって——」
テオの目も潤んだ。リシャール教授が静かにノートに記録を取っている。その手も震えていた。
装置が安定稼働を始めた。蒸気の脈動と精霊の鼓動が完全に同期して、工房全体が穏やかな光に包まれた。窓の外からは風が吹き込み、床からは微かな温もりが伝わってくる。
成功だった。
テオドーラ・ヴィントの——五年間の夢が、ここに結実した。
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それから二日が過ぎた。
ボクの身体は、少しずつ「ここではないどこか」に引かれ始めていた。
目に見える変化はない。でも——朝起きるたびに、指先が微かに透けるような感覚がある。この世界との繋がりが、少しずつ薄くなっていく感覚。
旅の終わりが来る。
最後の日だと分かったのは、朝目覚めたとき、マントの裾がかすかに光っていたからだった。これが合図なのだと、身体が知っていた。
今日だ。
ボクは身支度を整えた。いつもと同じ朝の儀式。ワンピースの皺を伸ばし、ベストを着直し、マントを羽織る。三つ編みのおさげを結い直す。髪飾りの位置を確認する。聖槍を背負う。ポーチの中身を確認する。ブーツの紐を結び直す。
日記帳を取り出して、最後のページを書いた。
『今日、この世界を離れる。十二日間の旅だった。短かったけど——いや、短くなかった。十分だった。テオ、ミラン、ドリー、レーヴェン。みんなに会えて良かった。テオの装置は完成した。精霊たちは目覚めた。ボクがいなくなっても、この世界は大丈夫。だって——こんなに素敵な人たちがいるんだから。さよならは言わない。だって、ボクはいつかこの日記を読み返す。そのとき、みんなのことを思い出す。だからこれは、さよならじゃなくて——また会おうね、だ。追想。陽気。元気な心。深い思いやり。——独立。情熱。悲しい記憶。諦め。全部、ボクだ。全部、ボクの花だ』
ペンを置いた。日記帳を閉じて、トランクにしまった。
一階に降りた。
ドリーが竈の前にいた。
「おはよう、アウリィ。今日もパンとスープかい?」
「うん。ドリーの朝ごはん、大好き」
「なに改まって——」
ドリーがボクの顔を見て、手を止めた。何かを感じ取ったのだろう。母親のような人だから。
「……行くのかい」
「うん」
ドリーは何も言わずに、いつもより大きなパンを切って、いつもより具沢山のスープをよそってくれた。
「食べな。しっかり食べて、行きな」
「ありがとう、ドリー。ボク、ここのごはんが一番好きだった」
「過去形で言うんじゃないよ。いつでも帰っておいで。あんたの部屋は空けとくからね」
ボクは泣きそうになって、でも笑った。パンを頬張って、スープを啜って、全部食べた。美味しかった。最後の一口まで、温かかった。
工房に行った。
テオがいた。装置の前で、データの整理をしていた。ボクが入ると、振り返って——すぐに分かったようだった。
「今日?」
「うん」
テオは立ち上がって、ボクの前に来た。しばらく見下ろして、それからしゃがんで、ボクと目の高さを合わせた。
「泣かないよ。もう泣かないって決めたから」
「うん」
「あんたのおかげで——あたしは前に進めた。一人じゃないって分かった。精霊がいるって分かった。あんたが教えてくれた。全部」
「テオが自分で見つけたんだよ。ボクはちょっと手伝っただけ」
「ちょっとじゃないよ、ばか」
テオの声がかすれた。泣かないと言ったけれど、目は赤かった。
「これ——あんたに」
テオがポケットから何かを取り出した。小さな歯車だった。真鍮の、装置に使ったのと同じ素材の歯車。その中央に、小さなエーテル結晶の欠片が嵌め込まれている。
「お守り。精霊が宿る歯車。あんたが次の世界に行っても——これがあれば、この世界の精霊が少しだけ、あんたのそばにいてくれる。……かもしれない。理論上は」
「理論上は、って言うの、テオらしいね」
ボクは歯車を受け取った。掌の上で、微かにエーテル結晶が光った。確かに——精霊の気配がある。とても小さいけれど、確かに。
「ありがとう、テオ。大事にする。ボクのトランクの中で、ずっと」
ポーチではなくトランクに入れた。記憶を封印しても、トランクの中身は残る。いつか——もしかしたら何万年も先に——この歯車を見つけて、何だろうと首を傾げるかもしれない。でもそれでいい。その疑問も含めて、テオからの贈り物だ。
テオを抱きしめた。テオもボクを抱きしめ返してくれた。テオの腕は油と金属の匂いがした。この世界の匂いだ。蒸気と鉄と、精霊の光の匂い。
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広場に行った。
レーヴェンがベンチにいた。噴水の水音を聞いている。
「レーヴェン」
「おう、嬢ちゃん。——行くのか」
「うん。おばあさんの噴水、守ってあげてね」
「言われんでも。——嬢ちゃん」
「なに?」
「婆さんが生きてるうちに来てくれたら良かったのにな」
ボクは少し泣いた。ほんの少しだけ。
「おばあさんに会いたかったな。きっと素敵な人だったんだろうね」
「ああ。精霊が見える、変な婆さんだった」
レーヴェンが笑った。目の端に光るものがあったけれど、ボクは気づかないふりをした。
広場の石畳の隙間から伸びた芽は、小さな蕾をつけていた。何の花が咲くのだろう。見届けられないのが少しだけ残念だった。
製材所の裏手に行った。
ミランが薪を割っていた。ボクの姿を見て、斧を下ろした。
「ミラン」
「ん」
「今日、行くよ」
ミランは何も言わなかった。斧を薪割り台に立てかけて、ボクの前に来た。大きな体。日に焼けた肌。不器用な目。
「あんたがいなくなったら、テオの面倒は誰が見るんだ」
「ミランが見てよ」
「……勝手に押しつけるな」
「お願い。ミランにしか頼めない」
ミランは大きく息を吐いた。
「最初に言っただろう。一人で抱え込むなと。——それはテオにも言ってやる」
「ありがとう、ミラン」
ボクはミランの腰に抱きついた。ミランの体は大きくて硬くて温かかった。ミランの手が、ぎこちなくボクの頭に置かれた。ぽんぽん、と二度叩かれた。
「……元気でな。エルフの嬢ちゃん」
「ミランも。木、切りすぎないようにね。森が泣いちゃうよ」
「余計なお世話だ」
ミランの声がかすかに震えていた。ボクは聞こえないふりをした。
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町外れの丘に登った。
ボクが最初に目覚めた場所だ。十二日前、何も知らないまま空を見上げた、あの丘。
今は一人ではなかった。テオが、ミランが、ドリーが、レーヴェンが、リシャール教授が——そして町の人たちが、何人も付いてきてくれていた。
「見送りなんて大袈裟だよ」
「大袈裟なもんか」ドリーが鼻をすすりながら言った。「たった十二日だけど——あんたはこの町を変えてくれたんだよ」
丘の上に立った。風が吹いていた。風の精霊が、ボクの髪を優しく梳いてくれている。足元では土の精霊が微かに大地を震わせ、遠くの川からは水の精霊の気配が届いていた。
精霊たちが、見送ってくれている。
マントが光り始めた。淡い金色の光。世界と世界の境界が開きかけている。
「みんな」
ボクは振り返った。みんなの顔を見た。一人一人の顔を、しっかりと見た。
「ありがとう。ボクはきっと、この世界のことを忘れる。次の世界に行くとき、また記憶を封じるから。でも——日記に全部書いてある。いつか旅が終わったら、全部思い出す。だから——忘れても、忘れてない。ちゃんと覚えてる。ボクの中に、みんながいる」
テオが口を開いた。泣かないと決めたはずのテオの目から、涙が流れていた。
「忘れても——いいよ。あんたが忘れても、あたしたちが覚えてる。この町が覚えてる。精霊が覚えてる。だから——」
テオの声が震えた。それでも、最後まで言った。
「安心して、行っておいで」
ボクの視界が滲んだ。涙だ。たくさんの涙だ。こらえようとしたけど、全然だめだった。
「うん。——行ってくるね」
マントの光が強くなった。足元の草が金色に染まっていく。身体が軽くなる。この世界との繋がりが、一本ずつ解けていく。
最後に——風の精霊がボクの頬に触れた。おやすみ、とでも言うように。
ボクは日記帳を胸に抱きしめた。トランクの中の歯車が、微かに脈動していた。
みんなの姿が光の中に溶けていく。テオの涙。ミランの大きな手。ドリーの温かい笑顔。レーヴェンの枯れた微笑み。噴水の水音。蒸気の白い煙。赤褐色の瓦屋根。歯車の紋章。
全部、全部、きれいだった。
「さよならじゃないよ」
光に包まれながら、ボクは囁いた。
「追想——ボクは、いつか全部思い出す。だからこれは——」
光が弾けた。
世界が白くなった。
---
**エピローグ**
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目を開けた瞬間、世界は何もなかった。
視界には、知らない色の空が広がっていた。紫がかった、不思議な色の空。頬には冷たい石の感触があって、風は金属の匂いを含んでいた。どこか遠くから、聞いたことのない鐘の音が聞こえていた。
何もなかったのは、ボクの中だ。
名前は——アウレーリエ・リュコーリアス。愛称はアウリィ。ハイエルフ。それは知っている。自分が何者であるかという根本の部分だけは、いつも残している。でもそれ以外のこと——どこから来たのか、何を見てきたのか、誰と出会い誰と別れたのか——そういったものは全て、靄の向こうに沈んでいる。
ボクが自分でそうした。
体を起こすと、手元にトランクとポーチがあった。背中には聖槍。マントを羽織って、頭に手をやると、彼岸花の髪飾りがある。なぜこれをつけているのかは分からないけれど、外してはいけないという確信がある。
新しい日記帳を一冊取り出した。真っ白なページ。古い日記帳もあるが、文字はぼやけて読めない。いつか読めるようになるだろう。
トランクの中に、不思議なものが一つあった。
真鍮の歯車。中央に青い結晶が嵌め込まれていて、微かに光っている。何だろう、これ。どこで手に入れたのだろう。分からない。でも——大事なものだという感覚がある。理由は分からないけれど。
ポーチにしまって、立ち上がった。紫色の空の下、知らない世界が広がっている。
新しい日記帳の最初のページに、ボクは書いた。
『新しい世界に来た。紫の空。金属の匂い。まだ何も知らない。トランクの中に真鍮の歯車があった。きれいな青い光を放っている。誰がくれたのか分からないけど、大事にしよう。——だからこれから、知りにいく』
ペンを置いて、ボクは歩き出した。
一歩目が、いつだって一番楽しい。
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ローデンツの広場の噴水のそばで、あの日芽吹いた蕾が花を咲かせた。
黄色い彼岸花だった。




