3話「目覚めの振動」
工房の荒らされた翌朝、ボクは夜明け前に目を覚ました。
窓の外はまだ薄闇に包まれていて、東の空の端だけがわずかに白み始めている。昨夜の風の精霊の気配は残っていなかったけれど、空気そのものが以前より少しだけ柔らかい気がした。
身支度を整えて一階に降りると、ドリーが竈の前にいた。いつもより早い。
「おや、アウリィ。今日も早いね」
「うん。テオのところに行かなきゃ」
「そうだろうと思って、弁当を作っておいたよ。テオの分もね」
カウンターの上に、布に包まれた二人分の弁当が置かれていた。ボクはドリーの顔を見上げた。大きくて温かくて、世界中の母親を一人に煮詰めたような人だ。
「ドリー、ありがとう」
「礼なんかいいよ。あんたたちが元気でいてくれりゃそれでいい。——それとね」
ドリーは声を落とした。
「昨夜、ボルツが宿に来たよ。あんたに会いたいってね。追い返しておいた」
「……来たんだ」
「ああ。しつこい男だよ。でも大丈夫、あたしの宿に手出しはさせないさ」
ドリーが腕まくりをして見せた。その太い腕には、確かな頼もしさがあった。
弁当を受け取って外に出ると、朝露に濡れた石畳が薄明かりに光っていた。製材所の蒸気機関がまだ動き出す前の、この一日で一番静かな時間。ブーツの足音だけが通りに響く。
工房に向かう途中、広場の噴水の前を通った。昨日の実験の後も水は流れ続けていて、夜明け前の薄暗がりの中で白い水柱が幽かに光っている。
足を止めて、水に指を浸した。
精霊はいた。夜の間もここに留まっていてくれたのだ。その気配は昨日より少し濃くなっている。まるで——この場所に根を下ろし始めたかのように。
「おはよう」
囁くと、水面にさざ波が生まれた。おはよう、と返してくれたわけではないだろう。でもボクにはそう感じられた。
---
工房に着くと、灯りがついていた。テオは結局一晩中ここにいたらしい。
中に入ると、昨夜の惨状から一変していた。散乱していた工具は棚に戻され、ひっくり返された作業台は起こされ、床は掃き清められている。そして——壊された装置の部品が、作業台の上に整然と並べられていた。使えるもの、修理が必要なもの、完全に駄目なものの三つに分類されている。
テオは作業台に向かって、黙々と歯車の歯を一つ一つ確認していた。
「テオ、おはよう。寝てないでしょ」
「……少し仮眠は取った。ミランが毛布持ってきてくれたから」
「ドリーがお弁当くれたよ。一緒に食べよう」
テオが振り返った。目の下に隈ができていたけれど、その瞳は——昨夜とは違っていた。泣き腫らした赤みは残っていたが、奥に火が灯っている。
「ありがとう。腹減ってたんだ」
二人で作業台の端に並んで座り、ドリーの弁当を開いた。厚切りのパンに燻製肉を挟んだものと、蒸気梨、チーズ。素朴だけれど栄養のある食事だった。
「ドリーって最高だよね」
「うん。この町に来て最初に優しくしてくれたのがドリーだった」
テオが蒸気梨をかじりながら、ぽつりと言った。
「二年前、首都から逃げるようにここに来たとき——お金もなくて、紹介状もなくて、知り合いもいなくて。ドリーの宿に転がり込んで、しばらくは宿賃も払えなかった。それでもドリーは追い出さなかった。『技術がある人間はどこでだって食べていける、焦りなさんな』って」
「ドリーらしいね」
「うん。あの人がいなかったら、あたしはここにいない」
テオの声には深い感謝があった。そしてそれは同時に、この町に対する愛着でもあるのだろう。テオがローデンツを離れない理由は、研究の環境だけではない。ここに居場所をくれた人たちがいるからだ。
食事を終えて、テオは立ち上がった。
「さて。作り直すよ、装置」
「手伝う! 何すればいい?」
「まず部品の調達だ。歯車とピストンは製材所の親方に頼めば分けてもらえる。問題は水晶——エーテル捕捉用の特殊な水晶は、この辺りじゃ手に入らない」
テオが壊された水晶の破片を手のひらに載せた。青い光は完全に失われていて、ただの白っぽい石の欠片になっている。
「前のは学術院にいた頃に実験室から持ち出したものだ。もう手に入らない——正規のルートじゃ」
「正規じゃないルートはある?」
「ボルツなら持ってるかもしれないけどね」テオは苦笑した。「あいつ、裏で色々やってるから。でもあいつに頼るのだけは死んでも嫌だ」
ボクは考えた。ポーチの中を探る。蒼玉石の欠片がまだいくつか残っている。それとは別に——トランクの中を漁ると、布に包まれた小さな結晶がいくつか出てきた。
「テオ、これは?」
テオに見せると、テオの目が丸くなった。
「——これ、エーテル結晶じゃない。しかも純度が桁違いに高い。どこで手に入れたの?」
「分からない。ボクのトランクに入ってたんだけど、前のことは覚えてなくて」
テオは結晶を光に透かした。深い藍色の光が内部で脈打っている。
「これ一つあれば——いや、これがあれば前の水晶より遥かに精度の高い装置が作れる。信じられない」
ボクはこっそりトランクの中身に感謝した。過去の自分——記憶を封印する前のボクが、こういう場面を予想して入れてくれたのか、それともたまたま入っていたのか。どちらにしても、ありがたい。
「使って。ボクには使い方分からないし、テオの装置のためになるなら嬉しい」
「本当にいいの? これ相当な価値が——」
「いいよ。だってそのためにあるんだと思うもの」
テオはしばらく結晶を握りしめて、それから大切そうにワークベンチの引き出しにしまった。
「ありがとう。これで——いける。今度こそ」
---
装置の再建作業は、思ったより時間がかかった。
テオは一人で黙々と作業できるタイプだったが、ボクがいることで「思考を声に出す」習慣ができたらしく、設計の意図や迷いをリアルタイムで共有してくれるようになった。
「ここの接続部——前は銅管だったけど、今回は真鍮にしてみる。真鍮の方が振動の伝導率が高いから」
「なるほど。振動で精霊に語りかけるなら、伝導率が高い方がいいもんね」
「そう。それに真鍮なら加工もしやすい。曲線的な導管にできる——精霊の反応が有機的な波形だったことを考えると、直線的な管より曲線の方が適してるかも」
「あ、それ面白い! 川も真っ直ぐじゃなくて蛇行してるでしょ? 水の精霊は曲がった流れの方が好きなのかも」
テオが手を止めて、ボクを見た。
「……今のアイデア、すごくいい。自然界の水流のパターンを導管の形状に反映させる——バイオミミクリーの概念を蒸気工学に応用するってことか。論文書けるよこれ」
「ばいおみ?」
「自然の構造を技術に模倣すること。学術院じゃ異端扱いされる考え方だけどね」
テオは嬉しそうに設計を修正し始めた。直線だった導管の設計図が、緩やかなS字カーブを描くものに変わっていく。
ボクはその横で工具を手渡したり、水瓶の精霊に反応を聞いたりしながら、テオの作業を見守っていた。
三日が経った。
装置の骨格が出来上がった。前の装置より一回り小さいが、設計思想は遥かに洗練されている。蛇行する真鍮の導管が蒸気機関の心臓部と繋がり、中央にはあのエーテル結晶を収める台座が据えられている。まだ完成ではないが、形が見えてきた。
そしてこの三日間で、もう一つ変化があった。
精霊との関係が、深まっていた。
水の精霊はもう、ボクが話しかけなくても近くにいてくれるようになった。工房の水瓶だけでなく、ボクが歩く道すがらの水溜まりや井戸水からも、微かな気配を感じる。
風の精霊も、少しずつ応えてくれるようになっていた。まだ言葉にはならないけれど、風向きや気配の変化で簡単な情報を伝えてくれる。近くに人がいるとか、天候が変わりそうだとか。
そして——土の精霊が、初めて反応した。
工房の裸の地面に手をついたとき、大地の奥底から微かな振動が返ってきた。それはまるで、長い眠りから薄目を開けたような、覚束ない気配だった。
「起きてきてる……」
ボクの声に、テオが顔を上げた。
「精霊?」
「うん。土の精霊も。この世界の精霊たち——眠ってただけなのかもしれない。忘れられて、誰にも呼ばれなくなって、眠りに落ちてた。でも——誰かが呼べば、起きてくれる」
テオはしばらく黙って、それから静かに言った。
「百年前、蒸気機関が普及し始めたとき——精霊が消えたんじゃなくて、人間が精霊を呼ぶのをやめたから、精霊が眠ったのかもしれないってこと?」
「多分」
「だとしたら——あたしの装置の意味が変わる。蒸気機関と精霊を融合させるだけじゃなくて、蒸気機関そのものが精霊を呼び覚ます装置になり得る。蒸気文明を否定するんじゃなくて、蒸気文明を通じて精霊との関係を取り戻す——」
テオの目が輝いた。それは発見の喜びであり、同時に——自分の研究が世界にとってどういう意味を持つかを理解した瞬間の、重みのある輝きだった。
「テオ、すごい。ボクはそんなこと考えてなかった。ただ精霊と仲良くなりたいだけだったのに」
「だからいいんだよ。あんたはそういう人だから——純粋に、目の前のことに向き合えるから——あたしが見落としてたものが見える」
テオがぽんとボクの頭を叩いた。ミランと同じ仕草。この世界の人たちは、頭を叩いて愛情を示すのだろうか。ボクの頭は叩かれ放題だ。
---
四日目の朝、手紙の返事が届いた。
予想より早かった。定期便ではなく、早馬の特急便で届いたらしい。それだけでも差出人の本気度が窺える。
テオが震える手で封を切った。
「リシャール教授からだ」
中には便箋が三枚。テオは黙読し始めたが、すぐに目が潤んだ。
「……読んで。ボクには読めないだろうけど、声に出して読んで」
テオは深呼吸して、声に出して読んだ。
「『テオドーラへ。五年間の沈黙を破る手紙を受け取り、驚くと同時に安堵した。君が生きていること、研究を続けていること、そして遂に突破口を見出したこと——全てが嬉しい。振動によるエーテル共振理論は、旧魔法学の根幹に関わる発見だ。ぜひ詳細を聞かせてほしい。特許の件——学術院の正規手続きは時間がかかるが、緊急措置として仮登録を行う手段がある。同封の書類に必要事項を記入し、返送されたし。この書類をもって、発明の優先権が暫定的に保護される。なお、蒸気工学派のヴァルター学長には既に根回しをしてある。君の研究を妨害する者がいれば、学術院として対応する用意がある。——追伸。エルフの協力者がいるとのこと。ぜひ会いたい。可能であれば、近いうちにそちらを訪問したい。リシャール・メイエル』」
テオの声は途中から震えていた。読み終えた便箋を胸に押し当てて、天井を仰ぐ。
「五年も連絡しなかったのに——こんなに早く、こんなにちゃんと動いてくれるなんて」
「テオのこと、ずっと心配してたんだよ。きっと」
「……うん。そうかもしれない」
同封の書類は特許の仮登録申請書だった。テオはすぐに記入を始めた。発明の名称、概要、技術的特徴、発明者の署名——迷いなくペンが走る。
「これを出せば、少なくとも法的にはテオの発明だって認められるんだね」
「仮登録だけどね。正式な審査はまだ先だ。でも——これがあるだけで全然違う。ボルツが大商会を連れてきても、優先権はあたしにある」
テオの顔に、久しぶりの安堵が広がった。
ボクも嬉しかった。手紙を書こうと提案して本当に良かった。一人で抱え込まなくて良かった。テオにはちゃんと味方がいたのだ。離れていても、五年間音沙汰がなくても、それでも手を差し伸べてくれる人が。
申請書は即日、特急便でルクシェンブルクに送った。リシャール教授が根回ししてくれているなら、処理は早いだろう。
---
その日の午後、ボクはミランに会いに行った。
製材所の裏手にある伐採場で、ミランは一人で薪を割っていた。規則正しい斧の音が、乾いた空気に響いている。
「ミラン」
「ん」
「手紙の返事が来たよ。学術院の教授が力を貸してくれることになった。特許の仮登録もできそう」
「そうか」
ミランは薪を一つ割り終えてから、斧を下ろした。額の汗を腕で拭う。
「良かったな。だが——油断はするなよ。ボルツは法的に詰められると分かったら、別の手を使う可能性がある」
「別の手って?」
「この辺りの木材利権は、首都の大商会と繋がってる。ボルツはその中間業者だ。大商会が本気で動けば、特許の仮登録くらい——まぁ、そう簡単にはひっくり返せんだろうが」
ミランは薪割り台に腰を下ろして、水筒の水を飲んだ。ボクはその隣に座った。ミランの大きな体の横に座ると、自分の小ささがよく分かる。
「ミランは何で知ってるの? 利権とか、大商会のこととか」
ミランは少し黙った。水筒の蓋を開けたり閉めたりしている。迷っているのだ。
「……昔の話だ。ワシはここに来る前、首都で兵士をやっていた」
「兵士?」
「帝国近衛兵だ。十五年やった。辞めたのは——色々あってな」
「色々」の中身を聞くべきかどうか、ボクは迷った。でもミランの表情が、話してもいいと言っている気がした。
「大商会の汚い仕事に手を貸させられたんだ。権力者の私兵みたいなもんだった。嫌気が差して辞めた。ここに来て木を切ってる方が、余程人間らしい暮らしだ」
「そっか。ミランは逃げたんじゃなくて、自分で選んだんだね」
ミランがボクを見た。意外そうな顔だった。
「……逃げたと言ってくれた方が楽なんだがな」
「だって逃げる人は、他の人のことを心配したりしないもの。ミランはテオのことも、ボクのことも、気にかけてくれてるでしょ。それは逃げた人のやることじゃないよ」
ミランは何も言わなかった。でも、その目の奥の硬さが少しだけ緩んだ気がした。
「ボルツが何かしてきたら——ワシに言え。あの手の連中の扱い方は知ってる」
「うん。ありがとう、ミラン」
ボクはミランの腕にぽんと手を置いた。太い腕だった。斧を振るう人の腕。でもその力は、木を割るためだけでなく、大切なものを守るためにもあるのだと思った。
---
五日目。
装置の再建が大詰めを迎えていた。
エーテル結晶を台座に収め、真鍮の蛇行導管と接続する。蒸気機関のピストンとの連結部分にテオが新たに設計した変調機構を組み込む。この機構が、ピストンの一定の振動を精霊に届く「呼びかけ」のパターンに変換する。
「理論上は——動くはず」
テオの声に、緊張が滲んでいた。
「動くよ」
「根拠は?」
「ないけど、なんとなく」
「なんとなくって——」
テオが呆れたように笑った。でもその笑顔には、ボクの「なんとなく」を信じてくれる気配があった。
最後の部品をはめ込み、ボルトを締める。テオの油まみれの手が、小さく震えていた。
「……できた」
装置は美しかった。前のものよりずっと小さく、ずっと洗練されている。真鍮の曲線が蒸気機関の角張った構造と有機的に融合して、まるで機械の中に川が流れているかのようだった。中央のエーテル結晶が、静かな藍色の光を放っている。
「すぐに試す?」
「いや——」テオは首を振った。「広場でやりたい。噴水のそばで。精霊がいる場所で」
「うん。その方がいい」
装置を慎重に台車に載せて、工房から広場まで運んだ。午後の日差しが暖かい時間帯で、広場には人がちらほらといた。子どもたちが噴水の周りで遊んでいる。レーヴェンがいつものベンチに座っている。
テオが装置を噴水のそばに設置している間に、人だかりができ始めた。八百屋のおかみさん、パン屋の親方、製材所の若い衆——噴水の修理のときに見物した人たちが、「また何かやるのか」と集まってきた。
ドリーも店を抜けてきた。ミランも伐採場から降りてきた。
「テオ、準備はいい?」
「いい。——嘘、ちょっと怖い」
テオは正直だった。ボクはその正直さが好きだった。
「大丈夫。ボクがそばにいるよ」
「……うん」
テオが蒸気機関に火を入れた。小型のボイラーが温まり、蒸気が生まれる。圧力計の針が上がっていく。
「蒸気圧、安定。ピストン起動——」
がこん、と最初の一打が響いた。ピストンが動き始める。装置全体が微かに震え、変調機構が作動して、振動が特定のパターンに整形される。
真鍮の蛇行導管が——共鳴し始めた。
低い、柔らかい音。機械の音なのに、どこか自然の音に似ている。川のせせらぎと、蒸気の吐息が混ざり合ったような。
エーテル結晶が光った。
淡い藍色だった光が、段階的に輝きを増していく。脈動するリズムは、ピストンの振動と同期している。蒸気機関の鼓動が、そのまま結晶の鼓動になっている。
ボクは噴水の水に手を浸した。
「——来る」
水の精霊が応えた。結晶を通じて伝わる振動のパターンを受け取って、明確な反応を返してきた。驚きと——歓喜。誰かに呼ばれた喜び。長い長い眠りから目覚めた瞬間の、あの覚束ない、でも確かな喜び。
それだけではなかった。
風が変わった。
広場を吹き抜ける風が、装置の周囲でくるくると渦を巻いた。子どもたちの髪が舞い上がり、おかみさんたちのスカートが翻る。風の精霊が——はっきりと目覚めて、ここに来ていた。
地面が微かに震えた。
噴水の石畳の隙間から、ほんの小さな芽が——緑の芽が、にょきりと顔を出した。季節外れの新芽。土の精霊の応答だった。
「嘘——」テオが声を失った。「これ——全部、精霊の?」
「うん。来てくれたよ。水も、風も、土も。テオの装置に呼ばれて、みんな来てくれた」
エーテル結晶の光が安定し、装置全体が穏やかなリズムで駆動を続けている。蒸気の白い煙と、結晶の藍い光が混ざり合って、不思議な色の靄が装置を包んだ。
広場にいた人々が、息を呑んで立ち尽くしていた。
レーヴェンが立ち上がった。杖を突いて、ゆっくりと噴水に近づく。水面に手を伸ばし——微かに震える指で水に触れた。
「……おるな。確かに、おる」
老人の目から、涙がこぼれた。
「婆さん。やっぱりおったよ。あんたの言う通りだった」
広場が静まり返った。誰も笑わなかった。誰も茶化さなかった。ただ——目の前で起きていることの意味を、それぞれが受け止めようとしていた。
子どもの一人が、石畳の隙間から出た新芽をそっと指先で触れた。
「ママ、お花が出てきた」
その無邪気な声が、広場の沈黙を破った。
おかみさんが泣き笑いの声を上げた。パン屋の親方が帽子を取って頭を掻いた。製材所の若い衆が「すげぇ」と呟いた。
ドリーが大きな体で人だかりをかき分けてきて、テオの肩を叩いた。
「やったねぇ、テオ。大したもんだよ」
テオは装置の前に立ち尽くしていた。震える唇で、何かを言おうとしている。でも言葉にならない。二年間——いや、学術院にいた頃から数えれば何年になるのか——ずっと信じてきたものが、今、目の前で形になっている。
ボクはテオの隣に立って、その手をぎゅっと握った。
「テオ。見て。みんな見てるよ」
テオの目から涙が溢れた。
でもその涙は——二日前の、壊された夜の涙とは全く違うものだった。
---
しかし歓喜は長くは続かなかった。
装置の実証実験の翌日。ボクが朝食を食べていると、歯車亭の扉が開いて、見覚えのない男が入ってきた。
背広を着て、丸い眼鏡をかけた痩せた男だった。後ろにはグスタフ・ボルツと、その取り巻き二人が控えている。
背広の男がカウンターに歩み寄り、懐から名刺を出した。
「帝国蒸気工業連盟、査察官のクルト・シュテルンと申します。テオドーラ・ヴィント氏にお会いしたいのですが」
ドリーがカウンター越しに男を見据えた。
「テオは工房だよ。何の用だい?」
「広場で行われた無許可の蒸気機関運転について、調査に参りました。帝国法第三十七条により、蒸気機関の公共空間での運転には事前の許可が必要です。違反者には罰金、もしくは機材の没収が科されます」
ドリーの顔が強張った。ボクは椅子から下りて、背広の男の前に立った。
「それはテオの研究のための実験だよ。町の人たちにも見てもらうために広場でやったの」
クルト・シュテルンがボクを見下ろした。ボクの耳を見て、わずかに眉を上げる。
「エルフ——なるほど、噂通りですか。失礼ですが、これは法的な問題です。善意や動機は考慮の対象になりません」
グスタフが後ろでにやりと笑っているのが見えた。これは仕組まれたものだ。ボルツが帝国の官僚を連れてきた。法律を武器にして、テオの装置を取り上げようとしている。
ミランの警告が頭をよぎった。法的に詰められると分かったら、別の手を使う。
「ボクたちの仲間に特許の仮登録の手続きをしている人がいます。学術院のリシャール・メイエル教授の支援を受けています」
クルトの表情が微かに動いた。メイエル教授の名前は、それなりの重みがあるらしい。
「仮登録が完了していれば話は別ですが——現時点では?」
「まだ処理中だと思います」
「では、現時点では未登録の発明を用いた無許可の蒸気機関運転、ということになります。法的には——」
「おい」
低い声が割って入った。
ミランだった。いつの間にか食堂の隅にいた。薪割りの斧ではなく、腰に古い軍用の短剣を帯びている。元近衛兵の目で、クルトとグスタフを見据えていた。
「帝国法第三十七条は、常設の蒸気機関に適用される条項だ。一時的な試験運転には第四十二条の例外規定が適用される。——ワシが兵士だった頃、法務官の下で書類仕事もやらされたんでな」
クルトの眼鏡の奥の目が、わずかに揺れた。
「……第四十二条。確かに例外規定はありますが——」
「さらに言えば、査察官の現地調査には事前の通告義務がある。第二十九条だ。あんた、通告なしで来てるだろう」
クルトの顔色が変わった。グスタフの笑顔も消えた。
ミランが一歩前に出た。大きな体が、クルトの前に壁のように立ちはだかる。
「正規の手続きで来るなら相手にする。だが——裏から手を回して嫌がらせをするなら、こちらにも考えがある。ワシは首都の法務院に知り合いがいる。あんたの査察権限が正当なものかどうか、問い合わせることもできるぞ」
沈黙が落ちた。
クルトはしばらくミランの目を見つめていたが、やがて視線を逸らした。
「……今回は予備調査ということにしておきます。正式な調査は、しかるべき手続きの後に——」
「そうしてくれ。手続きがこの町をなめるなよ」
クルトが踵を返した。グスタフがその後に続く。扉の前で、グスタフがちらりとボクの方を振り返った。その目には——怒りと、それ以上の何かがあった。焦りだ。
扉が閉まった後、ボクは大きく息を吐いた。
「ミラン——すごい。法律に詳しいなんて」
「伊達に十五年兵士をやってたわけじゃない。あの手の連中はな、法律を盾にしてくるが、法律は盾にも矛にもなる。使い方を知ってるかどうかだ」
ドリーが棚からとっておきの蒸留酒を出してきた。
「ミラン、朝っぱらから悪いけど一杯やりな。よくやったよ」
「……まだ朝だぞ」
「いいじゃないか。特別だよ」
ミランは仏頂面のまま蒸留酒を受け取って、一口だけ飲んだ。その頬がほんの少し赤くなったのは、酒のせいだけではないとボクは思った。
---
テオの工房に向かう道すがら、ボクは考えていた。
グスタフは諦めていない。今日は引き下がったけれど、また別の手を使ってくるだろう。特許の仮登録が完了するまでの間が、一番危険だ。
でも——ボクたちには味方がいる。ミランがいて、ドリーがいて、レーヴェンがいて、町の人たちがいて、遠くにはリシャール教授がいる。一人じゃない。テオは一人じゃない。
工房の扉を開けると、テオは装置の微調整をしていた。昨日の実験データをもとに、変調パターンを最適化しているらしい。
「テオ、さっき査察官が来たよ」
事情を話すと、テオの顔が青ざめた。
「帝国蒸気工業連盟——ボルツ、そこまで手を回してたのか」
「でもミランが追い返してくれた。大丈夫、まだ時間はある。教授の返事が来れば——」
「アウリィ」
テオの声が、静かだった。いつもの快活さがない。ボクの名前を呼ぶ声が、少し重い。
「あんたに迷惑をかけてる。ボルツの件も、査察の件も——あんたがこの町に来てから巻き込まれたことだ」
「巻き込まれたなんて思ってないよ」
「でも——」
「テオ」
ボクはテオの前に立った。147センチの身体で、テオを見上げる。
「ボクはね、この世界に来たとき、何も知らなかった。何も覚えてなかった。でもテオに会って、ミランに会って、ドリーやレーヴェンに会って——この世界のことが好きになった。この町のことが好きになった。好きなものを守りたいと思うのは、巻き込まれたんじゃなくて、ボクが選んだことだよ」
テオがボクの顔を見つめた。黄色い瞳に映る自分の姿を、テオは何を思って見ているのだろう。
「……あんたさ」
「うん?」
「本当に記憶がないの? 数万年生きてるんでしょ? そんなに——まっすぐに人を好きになれるのは、覚えてないからなの? それとも、覚えてても同じなの?」
ボクは少し考えた。
「分からない。覚えてないから。でもね——ボクは毎回、自分で記憶を封じてるんだよ。つまり、毎回まっさらな状態で世界と向き合うって、ボク自身が決めてるってこと。それには多分、理由があるの。覚えてないけど」
「どんな理由?」
「分からない。でも——もしかしたら、まっさらじゃないと見えないものがあるのかもしれない。記憶に染まった目じゃ、この世界のきれいなものが見えなくなるのかもしれない。テオの情熱とか、ミランの優しさとか、ドリーの温かさとか——全部、初めて出会うから、全部きれいに見える。それってすごく大事なことだと思うの」
テオの目が潤んだ。でも今度は泣かなかった。代わりに、ボクの頭をくしゃくしゃに撫でた。
「……あんたに会えて良かった」
「ボクも。テオに会えて良かった」
静かな午後だった。工房の窓から差し込む光の中で、装置のエーテル結晶が穏やかに脈動していた。蒸気の白い息と、精霊の藍い光が溶け合って、小さな虹が生まれていた。
ボクは日記帳を取り出して、書いた。
『テオに、なぜ記憶を封じるのか聞かれた。分からないと答えた。でも少し、分かった気もする。まっさらでいることには意味がある。毎回、世界を初めて見ること。毎回、人を初めて好きになること。それは多分——ボクなりの、世界への敬意なんだと思う。たぶん。記憶を取り戻したら答え合わせをしよう』
---
日が暮れた。
夕食後、ボクは歯車亭の屋根に上った。窓から屋根に出る方法を見つけたのは二日前のことで、ドリーには「落ちたら承知しないよ」と釘を刺されている。
赤褐色の瓦の上に座って、夜空を見上げた。星が多い。この世界の星座を、まだ一つも知らない。誰かに教えてもらおう。レーヴェンなら知っているかもしれない。
風が吹いた。冷たい夜風。でもその中に——風の精霊の気配が、はっきりとあった。
「ねぇ」
風に向かって話しかけた。
「ボク、もうすぐこの世界からいなくなるかもしれない。いつかは分からないけど。でも——テオの装置が完成したら、あなたたちと人間たちの間に橋ができる。ボクがいなくなっても、その橋は残る。だから——」
風が応えた。言葉ではなく、気配で。
大丈夫だよ、と言っている——ような気がした。
ボクは膝を抱えて、星を見た。彼岸花の髪飾りが、星明かりに照らされて微かに光っていた。
この世界での旅が、いつ終わるのか。ボクには分からない。世界を渡る仕組みも、タイミングも、記憶の中に封じられている。ただ——終わりが近づいている予感は、身体のどこかにあった。
だからこそ、残り時間を大切にしたかった。この世界で出会った人たちのために、できることを全部やりたかった。
「もう少しだけ、ここにいさせてね」
誰に言ったのか分からない言葉が、夜の風に溶けていった。




