2話「沈黙の歯車」
テオの工房で過ごす三日目の朝だった。
ボクは作業台の隅に腰かけて、足をぶらぶらさせながらテオの作業を観察していた。テオは装置の接続部分を分解し、内部構造を一つ一つ確認している。油まみれの指先が、驚くほど繊細に歯車やバルブを扱う。
「ねぇテオ、この管はなんのためにあるの?」
「エーテル導管。水晶が捕捉したエーテルを蒸気機関側に送るための通路——のつもりなんだけど、ここでいつも拡散しちゃうんだよね」
テオは導管を持ち上げて光に透かした。銅製の細い管で、内壁に微細な紋様が刻まれている。旧魔法学の導術式だとテオは言った。
「この紋様が、エーテルの流れを制御するはずなんだけど。理論上は合ってるはずなのに」
「触っていい?」
テオが頷いたので、導管を受け取った。指先で表面をなぞる。冷たい金属の感触。でもそれとは別に——何かが足りないという感覚があった。身体が知っている感覚だ。
「テオ、この紋様、精霊に読めるかな」
「読める? 紋様を?」
「紋様っていうのは、人間が考えた記号でしょう? 精霊にとってはそれが意味のある言葉になってるとは限らないんじゃないかなって」
テオの手が止まった。スパナを持ったまま、ボクの方を凝視する。
「……つまり、エーテルが拡散するのは導管の設計が悪いんじゃなくて、精霊に対する『呼びかけ方』が間違ってるってこと?」
「かもしれない。ボクもまだよく分からないけど」
テオは導管を受け取り直して、しばらく黙って見つめていた。それから設計図の貼られた壁の方へ歩いていき、一枚の図面を引き剥がして裏返し、炭筆で何かを書き始めた。
「待って。待って待って。つまり——導術式そのものを見直す必要がある? 精霊が理解できる形式で? でもそれには精霊の『言語体系』を知る必要があって——」
「ボクが聞いてみるよ」
「聞けるの?」
「分からない。でも試してみる」
ボクは作業台から飛び降りて、工房の隅に据えられた水瓶の前にしゃがんだ。テオが作業用に置いている水瓶だ。水面は静かに揺れている。
目を閉じて、意識を集中した。水に語りかける。言葉ではなく、感覚で。ここにいるよ、とだけ伝える。
長い沈黙があった。
テオが息を詰めて見守っているのが気配で分かった。
やがて——本当にかすかに——水面がひとりでに波紋を立てた。
「……いる」
ボクは囁いた。水の精霊が、ほんの指先ほどの距離まで近づいてきていた。三日前より、ずっと近い。毎日ここに来て、毎日語りかけ続けた成果だろうか。
精霊の気配は言葉にならない。感情にすらならない。ただ「在る」という事実だけが、水を通じて伝わってくる。
ボクはその気配に向かって、一つだけ問いかけた。あなたたちに届く言葉は、どんな形をしているの?
返ってきたのは——音だった。
水の中で生まれる、微かな振動。一定のリズムを持った、とても原始的な波形。
ボクは目を開けた。
「テオ。紋様じゃなくて、振動かもしれない」
「振動?」
「精霊が教えてくれたの。精霊にとっての言葉は、目に見える記号じゃなくて、振動なんだと思う。特定の周波数の振動が、精霊にとっての意味のある『呼びかけ』になるんじゃないかな」
テオの目が見開かれた。炭筆を取り落としそうになって、慌てて掴み直す。
「振動——蒸気機関はピストン運動で振動を生む——つまり蒸気機関そのものを、精霊への呼びかけ装置として機能させる? 紋様じゃなくてピストンの周波数で?」
「そういうことかも!」
テオは壁に向かって猛然と計算を始めた。数式と図が、驚くべき速さで紙の上に展開されていく。ボクにはその半分も理解できなかったけれど、テオの背中から溢れる興奮は伝わってきた。
「これだ。これかもしれない。二年間——二年間ずっと、目で見える紋様にこだわっていた。でも精霊の知覚系が視覚じゃなくて振動だとしたら——全部やり直しだ。全部やり直しだけど——」
テオが振り返った。その顔は、笑っていた。
「やり直せる。方向が見えた」
ボクも笑った。
「よかった! テオ、すごいよ。ボクはヒントを聞いただけなのに、もう計算してる」
「ヒントがなかったら百年かかっても辿り着けなかったよ。ありがとう、アウリィ」
テオの声が少し震えていた。二年間の孤独な研究が、ようやく光を見出した瞬間だった。
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その日の午後、ボクは工房を出て町を歩いた。
テオは計算に没頭していて、しばらくは一人で集中したいと言った。研究者にはそういう時間が必要なのだろう。ボクはそれを尊重して、ローデンツの探索を続けることにした。
三日間で町の大まかな構造は把握していた。中央の時計塔を中心に、北に住宅地、南に商店街、東に製材所と工場、西に農地が広がっている。人口はざっと五百人ほど。辺境の小さな町だけれど、蒸気機関による製材業で周辺の村々を支えている、地域の要のような存在だった。
商店街を歩いていると、八百屋のおかみさんに声をかけられた。初日は遠巻きにされていたけれど、三日も滞在していると顔を覚えてもらえるらしい。
「エルフちゃん、今日もお散歩かい?」
「うん! あ、この果物なに? 見たことない形!」
「蒸気梨だよ。蒸気で温めた温室で育てるんだ。甘いよ、一つ持ってきな」
「えっ、いいの? ありがとう!」
蒸気梨は確かに甘かった。果汁が口の中に広がって、ほんのりと温かい余韻が残る。温室育ちだから温かいのか、それとも蒸気の何かが果実に残っているのか。面白い。
かじりながら歩いていると、時計塔の広場に出た。広場の中央には石造りの噴水があり——今は止まっていた。水盤に落ち葉が溜まっている。
「この噴水、動いてないんだね」
独り言のつもりだったが、近くのベンチに座っていた老人が聞きとがめた。
「動かんよ。もう三月になる。蒸気ポンプが壊れてな」
老人は白髪を短く刈り込んだ、背筋のまっすぐな人だった。杖を一本、膝の間に立てている。目は濁りかけているが、その奥には鋭さが残っていた。
「直せないの?」
「テオの嬢ちゃんに頼めば直せるだろうが、嬢ちゃんも忙しいからな。それに——まぁ、噴水なんぞなくても困りはせん」
老人はそう言いながらも、止まった噴水をどこか寂しそうに見ていた。
「おじいさん、この噴水、好き?」
「……ワシの婆さんがな。毎日ここに来て、水の音を聞くのが好きだった。去年の冬に逝っちまったが」
ボクは老人の隣に腰かけた。
「そっか。おばあさん、水の音が好きだったんだね」
「ああ。精霊がおるんだと言ってた。水の中に。馬鹿なことを、と笑っていたが——」
老人の声が少し揺れた。杖を握る手に力が入る。
「馬鹿なことじゃないよ」
ボクは静かに言った。
「水の精霊はいるよ。この噴水にも——今は水が止まってるから離れちゃってるけど、水が戻ったら、きっとまた来てくれる」
老人はボクを見た。エルフの耳を見て、黄金の髪を見て、黄色い瞳を見た。
「……あんた、本当にエルフかね」
「うん。ボクの名前はアウリィ」
「レーヴェンだ。レーヴェン・フォーゲル。元は鍛冶屋をやっておった」
レーヴェンは枯れた手でボクの頭をぽんと叩いた。乱暴ではなく、孫にするような仕草だった。
「婆さんが聞いたら喜んだろうな。精霊がおるんだと」
「おばあさんには聞こえてたのかもしれないね。精霊の気配を感じられる人は、この世界にもいるんだと思う。ただ、みんなそれを忘れちゃっただけで」
レーヴェンは何も言わずに、止まった噴水を見つめていた。
ボクは立ち上がって、水盤に手を伸ばした。溜まった雨水に指先を浸す。冷たい。でも——微かに、ほんの微かに、水の精霊の残滓を感じた。ここにかつて精霊がいた痕跡。おばあさんが毎日ここに来て、水の音を聞いて、精霊がいると信じていた——その思いが、精霊の居場所を守っていたのかもしれない。
「……噴水、直してもらおうかな」
テオに頼んでみよう。きっと忙しいだろうけど、蒸気ポンプの修理くらいなら——。
「おい、嬢ちゃん」
背後から、別の声がした。
振り返ると、三人の男が立っていた。一人は大柄で顎髭を蓄えた男、残りの二人はその取り巻きのような体格の男たちだ。全員が革のコートを着て、腰に短剣を提げている。旅人というより——商人か、あるいはもっと物騒な何かか。
顎髭の男がボクを値踏みするような目で見た。
「エルフだって聞いたが、本当だったとはな」
「こんにちは。あなたたちは?」
「グスタフ・ボルツだ。この辺りで少々商いをしている」
レーヴェンがベンチから立ち上がった。杖を強く握って、グスタフを睨みつけている。
「ボルツ。何の用だ」
「爺さんに用はないよ。エルフのお嬢さんに少し話があるだけだ」
グスタフの笑顔は整っていたが、目が笑っていなかった。ボクの精霊感覚が微かに警告を発する。川から離れた広場では水の精霊の力はほとんど届かないけれど、それでも空気の中に含まれるわずかな水分が、この男の周囲にある空気の緊張を伝えてくれた。
危険ではない——まだ。でも、油断すべきでもない。
「なんの話?」
「あんた、テオドーラの工房に出入りしてるだろう。あの嬢ちゃんが変な機械を作ってるのは知ってる。で、エルフのあんたが来てから、嬢ちゃんの研究が進み始めたとも聞いた。小さい町だからな、噂は早い」
「それがどうしたの?」
「あの装置が完成したら、相当な価値になる。蒸気機関と魔法の融合——首都の学術院どころか、帝国中の工業都市が欲しがるだろう。俺はそういう価値のあるものに投資するのが仕事でな」
グスタフが一歩近づいた。ボクは動かなかった。
「あんたに頼みがある。テオドーラに口添えしてくれないか。俺が資金を出す代わりに、完成した装置の権利を半分譲ってもらう。悪い話じゃないだろう?」
「テオに直接言えばいいのに」
「言った。断られた」
グスタフの声に、初めて苛立ちが混じった。
「嬢ちゃんは頑固でな。金を出すと言っても聞かん。だが、あんたの言うことなら聞くんじゃないか? 最近やたらと仲良くしているようだし」
ボクは首を傾げた。
「テオが断ったなら、それが答えだと思うけど」
「おい——」
「ボクはテオの友達だから、テオが嫌だって言ったことを無理にやらせたりしないよ。ごめんね」
にっこり笑って言った。グスタフの顔が強張る。
取り巻きの一人が前に出ようとした。が、ボクの背中にある聖槍の輝きに気づいて足を止めた。ミスリルの光沢は、武器を知る人間には一目で分かる——それが並の装備ではないことを。
「……まぁいい。今日のところはな」
グスタフは作った笑顔を貼り直して、踵を返した。
「考えておいてくれ、エルフのお嬢さん。良い取引だと思うがね」
三人の男たちが去っていくのを見送ってから、レーヴェンが低い声で言った。
「あの男には気をつけろ。表向きは商人だが、裏では碌なことをしとらん。この辺りの木材利権を牛耳ろうとしている」
「うん。ありがとう、レーヴェン。気をつけるね」
ボクは穏やかに答えたが、内心では少し考え込んでいた。テオの装置のことが、既に町の外にまで知られている。それが良いことなのか悪いことなのか——多分、両方だろう。
日記帳を取り出して、歩きながら書いた。
『グスタフ・ボルツという商人に会った。テオの装置に目をつけている。あまり良い感じの人じゃなかった。レーヴェンというおじいさんにも会った。亡くなったおばあさんが精霊を信じてた人で、噴水の水の音が好きだったんだって。噴水、直してあげたい』
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工房に戻ると、テオは床に設計図を広げて座り込んでいた。周囲には丸められた紙くずが散乱している。計算用紙の山だ。
「テオ、どう?」
「進んでる。進んでるけど——ここが分からない」
テオは一枚の図面を指差した。ピストンの振動数と、精霊が反応する周波数の対応表を作ろうとしているようだが、肝心の精霊側のデータが不足している。
「精霊がどの振動数で反応するか——ボクが試してみるよ」
「でもどうやって? 特定の振動数を精密に発生させる装置が必要で——」
「装置なんかいらないよ」
ボクは聖槍を背中から下ろした。ミスリルの槍は、ボクの手の中で低い音を立てた。
「この槍、叩くと音が出るんだ。ミスリルは純度が高いから、叩き方で振動数が変わる」
テオが目を丸くした。
「ミスリルの共振特性を利用する——なるほど、ミスリルなら振動の減衰が極めて少ないから、精密な周波数制御が可能——あんた天才?」
「天才じゃないよ。なんとなく知ってただけ」
本当に「なんとなく」だった。記憶はない。でも身体が知っている。この槍がどういう性質を持っていて、どう使えば精霊と対話できるか。数万年の——知らない——経験が、ボクの指先に宿っている。
水瓶の前に聖槍を構えた。槍の柄を、指の関節で軽く弾く。
——きん。
高く澄んだ音が工房に響いた。ミスリル特有の、どこまでも伸びていく倍音。
水面が微かに震えた。
「今のは?」
「反応はあるけど、ちょっと高い。もう少し低い方がいいかも」
弾く位置を変えて、もう一度。
——こん。
低めの、丸い音。水面の震えが大きくなった。
「これだ。この辺り。テオ、今の音の振動数、計算できる?」
テオは既に計測器具を引っ張り出していた。音叉と共振管を使って、ボクが出した音の周波数を特定していく。
「——三百二十ヘルツ前後。水の共振周波数に近い。面白い、水の物理的な共振点と精霊の反応点が重なってる」
「じゃあ他の精霊も、対応する元素の共振周波数に反応するのかな? 風なら空気の、土なら大地の」
「仮説としては美しいね。検証してみたい——けどこの町で風や土の精霊と接触するのは難しいか」
「うん……水の子以外は、まだ全然こっちを向いてくれない」
ボクは少し寂しそうに言って、それからすぐに笑顔に戻った。
「でも大丈夫。水の精霊との対話だけでも、いっぱい分かることがあるはずだよ。ねぇテオ、一つお願いがあるんだけど」
「何?」
「広場の噴水、直せない? 蒸気ポンプが壊れて止まってるんだって」
テオは意外そうな顔をした。
「噴水? ……ああ、確かに壊れてるのは知ってたけど。別に急ぎでもないから後回しにしてた」
「水の精霊がね、あそこにいた痕跡があるの。噴水が動いてた頃は、きっとあそこに住んでたんだと思う。水が戻れば、精霊も戻ってくるかもしれない。それにね——」
レーヴェンのおばあさんの話をした。毎日噴水に来て、水の音を聞いて、精霊がいると信じていた人の話を。
テオは黙って聞いていた。そして聞き終わると、立ち上がって工具ベルトを締め直した。
「行こう。ポンプの修理くらいなら今日中にできる」
「本当? ありがとう、テオ!」
「礼を言うのはあたしの方だよ。精霊の観測ポイントが増えるなら研究にも役立つ。それに——」
テオは少し照れたように目を逸らした。
「おばあさんが正しかったって、証明できるかもしれないしね」
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噴水の蒸気ポンプは、工房から持ってきた工具で二時間ほどで修理できた。テオは手際よくバルブを交換し、配管の詰まりを取り除き、蒸気の供給管を繋ぎ直した。
ボクはその間、テオに工具を手渡したり、精霊の気配を探ったりしていた。
修理が終わり、テオがバルブを開いた。
しゅうう、という蒸気の音。それから配管が震え、ポンプが動き始める。がこん、がこん、とピストンが地下水を汲み上げる音が響いた。
やがて——水が噴き出した。
噴水の中央から、白い水柱が立ち上る。水は放物線を描いて水盤に落ち、石の縁を乗り越えて小さな水流を作った。夕方の光を受けて、水滴が金色に輝く。
「わぁ……!」
ボクは思わず声を上げた。
「きれい。すごくきれい!」
通りかかった人々が足を止めて噴水を見ていた。子どもたちが駆け寄ってきて、水に手を伸ばす。おかみさんたちが「あら、直ったの」と口々に言う。
レーヴェンが杖をついてゆっくりとやってきた。噴水を見上げて、その目が潤んだ。
「……動いたか」
「レーヴェン! テオが直してくれたよ!」
レーヴェンはテオの方を見た。テオは油まみれの手を服で拭きながら、ぶっきらぼうに言った。
「壊れたまま放っておくのは技師として寝覚めが悪いんで」
「そうか。……ありがとうよ、嬢ちゃん」
レーヴェンが噴水のそばのベンチに座った。水の音を聞きながら、目を閉じる。その横顔に、安らぎが広がっていくのが見えた。
ボクは噴水の縁に手を置いた。流れ落ちる水に指を浸す。
——いた。
水の精霊が、戻ってきていた。
噴水の水が動き始めたことで、かつてここに住んでいた精霊が引き寄せられたのだ。まだとても弱い気配だけれど、川のそばで感じるよりも近い。この場所には精霊にとっての「記憶」があるからだろう。レーヴェンのおばあさんが毎日ここに来て語りかけていた——その積み重ねが、精霊の居場所を作っていたのだ。
「テオ」
ボクは小さく呼んだ。
「精霊がいる。ここに。戻ってきたよ」
テオが噴水の水に手を浸した。何も感じないだろう。テオには精霊を知覚する力はない。でも——。
「……なんか、温かい気がする」
「気のせいじゃないよ。精霊が歓迎してるんだと思う」
テオは水の中で指を動かして、不思議そうな顔をしていた。科学者の顔ではなく、初めて不思議なものに触れた子どものような顔。ボクはその表情が好きだった。
「ねぇテオ。この噴水で実験できないかな? 水の精霊がいる場所で、振動の実験をしたら、もっと精密なデータが取れるかも」
「広場のど真ん中で? 目立つけど——いや、逆にいいかもしれない。町の人たちに見てもらえれば、理解を得やすくなる」
テオの目に光が戻った。研究者の光。でもその奥には、もう一つの光もあった。自分の研究が、誰かの役に立つかもしれないという希望の光。
ボクたちは翌日から、噴水のそばで実験を行うことにした。
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その夜、歯車亭に戻ると、食堂にミランがいた。
珍しいことだった。ミランは普段、酒場に来るような社交的な人ではない。カウンターの隅で麦酒を飲みながら、ボクの姿を見つけると手招きした。
「ミラン! 珍しいね。どうしたの?」
「座れ」
短い言葉だった。ミランの表情が硬い。ドリーも心配そうな顔でこちらを見ている。
「ボルツのことだ」
「グスタフ? 今日、広場で会ったよ」
「知ってる。あいつが町外れで手下と話してるのを聞いた。テオの装置のことを、首都の大商会に売り込もうとしている」
ボクの眉が寄った。
「売り込むって——テオの装置はまだ完成もしてないのに」
「完成の目処が立ったという噂が広まったんだろう。あんたが来てから、テオの研究が動き出したという話は町中に知れ渡ってる」
ミランは麦酒のジョッキを置いた。
「大商会が動けば、テオ一人じゃ太刀打ちできん。最悪、研究ごと奪われる可能性がある」
「奪われるって……そんなことが許されるの?」
「法的にはグレーだが、金と権力がある側が勝つのが世の常だ。学術院を追われたテオには後ろ盾がない」
ボクは蜂蜜湯のカップを両手で包んで、しばらく黙っていた。温かいはずの液体が、あまり温かく感じなかった。
テオの二年間の努力。孤独な研究。両派閥から異端扱いされて、それでも信じたものを追い続けた時間。それを奪おうとする人がいる。
怒りが湧いた。でも——それと同時に、どこか深いところで、既視感のようなものがあった。記憶はない。でも身体が覚えている。こういう場面を、ボクは何度も見てきたのではないか。人の善意と情熱が、別の人の欲望に踏みにじられそうになる瞬間を。
「ミラン」
「ん」
「ありがとう、教えてくれて。ボクにできることを考えるよ」
「一人で抱え込むなよ」
ミランの声は素っ気なかったが、そこに確かな気遣いがあった。この人は出会った日からずっとそうだ。不器用だけれど、大事なときにはちゃんとそこにいてくれる。
ドリーがボクの前に温かいスープを置いた。
「食べな。考え事は腹が減ってちゃできないよ」
「……うん。ありがとう、ドリー」
スープを啜りながら、ボクは考えた。
ボクには戦う力がある。護身術と精霊術。でもそれは「守る」ための力であって、「攻める」ための力ではない。グスタフのような相手に対抗するには——力ではなく、知恵がいる。
テオの装置を守る方法。テオの権利を守る方法。力ずくではなく、この世界のルールの中で。
でもボクはこの世界のルールをまだよく知らない。
「ねぇドリー、この国の法律って、発明品の権利はどうなってるの?」
「あたしに聞かれても難しいことは分かんないけどね。特許ってのがあるよ。学術院に登録すれば、発明の権利が保護される」
「学術院に……テオは学術院を出てるんだよね。それでも登録できるの?」
「さぁねぇ。でも、学術院に知り合いがいれば口を利いてもらえるかもしれない」
テオが学術院に知り合いを残しているかどうか。追われるように出たのなら、難しいかもしれない。でも聞いてみる価値はある。
二階の部屋に戻って、日記を書いた。
『グスタフがテオの装置を奪おうとしているかもしれない。ミランが教えてくれた。テオを守りたい。でもどうすればいいか、まだ分からない。噴水は直った。精霊が戻ってきた。レーヴェンが喜んでた。いいことと心配なことが同時に来る。でも、いいことの方が多い日だった。そう思うことにする』
ペンを置いて、窓の外を見た。夜のローデンツは静かだった。蒸気機関の低い唸りと、虫の声だけが聞こえる。
彼岸花の髪飾りに触れた。指先に、冷たい金属の感触。
「ボクは——前の世界でも、こういうことがあったのかな」
答えはない。記憶の壁は厚く、その向こうは完全な闇だ。
でも、身体が知っている。こういうときに自分がどうするかを。逃げない。諦めない。できることを、できるだけやる。
それがボクのやり方だ。記憶がなくても、それだけは変わらない。
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翌朝、ボクは早朝にテオの工房を訪ねた。
テオは徹夜で計算をしていたらしく、作業台に突っ伏して眠っていた。髪が乱れ、頬に炭筆の跡がついている。その寝顔はひどく無防備で、ボクは少しだけ胸が痛んだ。
この人は、一人で戦ってきたのだ。二年間ずっと。
「テオ、起きて。大事な話があるの」
肩を揺すると、テオはうめきながら目を開けた。
「……ん、アウリィ? 何時……」
「朝だよ。顔洗って。話がある」
テオが水で顔を洗い、ボクが入れた茶を飲んで目が覚めた頃、ボクはグスタフの件を話した。
テオの表情が曇った。
「……やっぱりか。あいつ、前にも来たんだよ。金を出すから権利を寄越せって。断ったら、しばらく大人しくしてたけど——研究が進んだって聞いて、また動き出したか」
「テオ、特許ってどうすれば取れるの?」
「学術院に申請書を出して、審査を通れば登録される。でも——あたしは学術院を破門同然に出てるから。申請を受理してもらえるかどうか」
「学術院に味方はいない?」
テオは茶碗を両手で包んで、しばらく考え込んだ。
「……一人だけ。旧魔法学派のリシャール・メイエル教授。あたしが学術院にいた頃、唯一この研究を面白がってくれた人だ。でももう五年以上連絡を取ってない」
「手紙を書こうよ」
「書いたところで——」
「書くだけ書いてみよう。返事が来るかどうかは分からないけど、何もしないよりはいいでしょ?」
テオはボクの顔を見た。ボクはにっこり笑った。
「ボクはテオの研究を手伝いたくてここにいるんだよ。研究だけじゃなくて、テオ自身も守りたい。だってテオは友達だから」
テオの目が揺れた。それからふっと笑って、目元を手の甲で拭った。
「……出会って四日で友達って、早くない?」
「早いかな? ボクは初日から友達だと思ってたけど」
「あんたってさ、ほんと——ほんと、眩しいね」
テオの声が少しかすれていた。ボクはそれに気づかないふりをして、棚からペンとインクと便箋を探し出した。
「はい、書こう。ボクが代筆してもいいよ?」
「自分で書くよ。ばか」
テオは笑いながら便箋を受け取った。
手紙を書くテオの横で、ボクは工房の窓辺に座って精霊との対話を試みた。窓の外から微かに風が入ってくる。その風の中に——昨日までは感じなかった、ごく微かな気配があった。
風の精霊?
いや、まだ精霊と呼べるほどはっきりしたものではない。でも——何かが変わり始めている。水の精霊との対話が、他の精霊にも波及し始めているのかもしれない。精霊同士は繋がっている。一つの精霊との関係が深まれば、他の精霊もこちらを認識し始める。
「ボクはここにいるよ」
風に向かって囁いた。風はほんの少しだけ、ボクの三つ編みを揺らして通り過ぎた。
---
手紙は昼前に書き上がり、町の郵便局から首都行きの定期便に託した。ルクシェンブルクまで馬車で三日。返事が来るとしても一週間以上はかかるだろう。
その間にできることをしよう、とボクたちは噴水での実験を始めた。
テオが小型の蒸気振動発生装置を即席で組み立て、噴水のそばに設置した。ピストンの速度を変えることで、様々な周波数の振動を発生させることができる仕組みだ。
「さて、アウリィ。これで振動数を変えていくから、精霊の反応を教えてくれ」
「了解!」
ボクは噴水の縁に座り、水に両手を浸した。テオが装置を動かし始める。
低い振動から始めて、少しずつ周波数を上げていく。
「……まだ。……まだ。……あ、ちょっと反応した」
「今、何ヘルツだ——二百八十。続けるよ」
「……来た。ここ。ここがすごく近い」
「三百十五ヘルツ。昨日の結果とほぼ一致する」
テオが嬉しそうにノートに記録する。ボクも精霊の反応の細かなニュアンスを言語化しようと努力した。
「三百十五のとき、精霊が『聞こえる』って感じなの。でもまだ『話しかけられてる』とは思ってない感じ。もう少し何か——そうだ、振動を一定じゃなくて、波のように強弱をつけられない?」
「変調をかけるってことか。やってみる」
テオが装置を調整し、振動に緩やかな強弱のうねりを加えた。
水面が変わった。
それまでの機械的な振動ではなく、まるで呼吸するような波紋が水面に広がった。
精霊が——応えた。
水の中から、はっきりとした意思が伝わってきた。言葉ではない。でも感情に近い何か。驚きと、喜びと——懐かしさ。
「テオ——聞こえてる。精霊に、届いてる」
テオの手が震えた。装置のバルブを握る指が、小刻みに震えている。
「嘘でしょ。本当に?」
「本当だよ。すごいよテオ。蒸気機関の振動で、精霊に語りかけることができた。これが——テオが探してたものでしょう?」
テオは装置の前にしゃがみ込んだ。震える手でノートに数値を書き留めながら、何度も何度も深呼吸をしている。
「二年——二年かかった。たった一つの仮説の転換で——ありがとう。ありがとう、アウリィ」
「ボクは精霊の声を聞いただけだよ。仮説を形にしたのはテオだ」
広場には、いつの間にか人だかりができていた。蒸気装置と噴水の前でうずくまる二人の姿は、町の人々の好奇心を引いたらしい。子どもたちが噴水の水を触って、「あったかい!」と歓声を上げている。精霊の気配に触れた水は、ほんの少しだけ温度が上がっていた。
八百屋のおかみさんが「何やってるんだい?」と聞いてきて、テオが簡単に説明すると、「へぇ、精霊ねぇ」と半信半疑ながらも興味深そうに水に触れていた。
レーヴェンが杖をついてやってきて、噴水の水に手を浸した。そして——微かに、本当に微かに微笑んだ。
「婆さん。おったよ。精霊が」
その言葉を聞いて、ボクの目に涙が滲みそうになった。こらえた。泣くのは変だ。嬉しいのだから、笑うべきだ。
だから笑った。いっぱい笑った。
---
その日の夜、事件が起きた。
歯車亭で夕食を食べていると、扉が乱暴に開いて、テオが飛び込んできた。息を切らして、顔が蒼白だった。
「アウリィ——工房が」
「どうしたの?」
「荒らされた。装置が——壊されてる」
ボクは立ち上がった。蜂蜜湯のカップが倒れて、テーブルに甘い液体が広がる。
ドリーが「何があったんだい!」と声を上げ、食堂にいた客たちがざわめいた。ミランが席を立ってこちらに来る。
「行こう」
ボクはマントを翻して食堂を出た。テオとミランが後に続く。
工房に着くと、扉が半開きになっていた。中に入ると——滅茶苦茶だった。
作業台がひっくり返され、工具が床に散乱している。設計図は壁から引き剥がされ、踏みにじられていた。そして——テオが二年かけて作った融合装置が、無残に破壊されていた。水晶は割れ、導管は曲げられ、歯車は引きちぎられている。
テオが装置の前で膝をついた。
「……なんで」
声が震えていた。怒りではなく——悲しみだった。
ボクは工房の中を見回した。精霊の感覚を研ぎ澄ませる。水瓶の水を通じて、残留する気配を探る。
——三人。ここに三人の人間が来た。一人は大柄。残りの二人は中程度の体格。
グスタフと、その取り巻きたち。
証拠はない。精霊の感覚は法的な証拠にはならないだろう。でもボクには分かった。
ミランが床に落ちていた何かを拾い上げた。ボタンだった。革のコートのボタン。
「ボルツの手下の野郎どもだな。あいつらはいつも揃いの革コートを着てる」
「ミラン、これで訴え出ることはできるの?」
「ボタン一つじゃ弱いな。だが——」
ミランの目が鋭くなった。木こりの目ではなく、もっと険しい——何かの経験を持つ者の目だった。
「町長に報告はできる。ボルツはまだこの町で大きな権力は持っていない。町の人間の信用を失えば、商売に差し障る」
テオは壊れた装置を抱きかかえるようにして、黙っていた。肩が小さく震えている。
ボクはテオの隣にしゃがんだ。
「テオ」
「……二年」
「うん」
「二年かけて——やっと、やっと動き始めたのに——」
テオの声が途切れた。唇を噛んで、涙をこらえている。
ボクはテオの背中に手を置いた。小さい手だ。テオの背中には全然足りない。でも、それしかできることがない。
「設計図は覚えてる?」
「……覚えてる。全部、頭の中にある」
「データは?」
「ノートは——」テオが周囲を見回した。散乱した紙の中から、一冊のノートを見つけ出す。「あった。これは無事だ」
「じゃあ大丈夫。装置は作り直せる。前よりもっと良いものが作れる。だって今のテオには、前にはなかったものがあるから」
「……何」
「データ。精霊との対話で得たデータ。振動数の理論。それに——」
ボクはテオの手を取った。油と涙で汚れた手を、両手で包んだ。
「友達がいるでしょ」
テオの肩から力が抜けた。がくりとうなだれて、それから——泣いた。声を殺して、でも身体を震わせて。
ボクは何も言わずに、テオのそばにいた。
ミランが黙って工房の入り口に立ち、外を見張っていた。その背中が、不器用な優しさで工房を守っていた。
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部屋に戻ったのは深夜だった。
テオは工房に残ると言った。壊れた装置の部品を一つ一つ確認して、再利用できるものを選り分けると。ミランがしばらく付き添うと言ってくれた。
ボクは歯車亭の二階の部屋で、窓辺に座って夜空を見上げていた。
星が多い夜だった。この世界の星座はどんな形をしているのだろう。どんな物語が星に託されているのだろう。いつもなら、そういうことを考えるだけでわくわくするのに——今夜は胸が重かった。
日記帳を開いた。
『テオの工房が荒らされた。装置が壊された。テオが泣いた。ボクは何もできなかった。護身術も精霊術も、こういうときには役に立たない。ボクの力は守るための力で、壊されたものを元に戻す力じゃない。でも——明日、テオが立ち上がるのを手伝うことはできる。ボクにできることを、できるだけやる。それだけだ』
ペンを置いて、彼岸花の髪飾りに触れた。
数万年を生きてきたはずのボクに、記憶がない。数えきれない経験があるはずなのに、今のボクはただの小さなエルフだ。何も知らない、何も覚えていない、力だけが不釣り合いに身体に残っている。
封印を解けば——全てを思い出せば——もっと上手くやれるのだろうか。もっとテオを守れるのだろうか。
でも、ボクはそうしない。そうしないと決めている。理由は分からないけれど、それだけは覚えている。記憶を封じるのには意味がある。今のボクのまま——何も知らないボクのまま——この世界と向き合うことに、意味がある。
「……大丈夫。大丈夫だよ、ボク」
自分に言い聞かせた。
窓の外から、風が吹き込んだ。その風の中に——確かに、精霊の気配があった。
風の精霊が、ボクの頬を撫でた。
昨日まで応えてくれなかった風の精霊が——今夜、初めて、ボクに触れてくれた。
涙が出た。
嬉しかったから。悲しかったから。悔しかったから。全部がいっぺんに込み上げてきて、止められなかった。
でも不思議なことに、泣いたら少し楽になった。
風の精霊が、ボクの涙を乾かしてくれた。
「……ありがとう」
囁いて、目を閉じた。明日のことは、明日考える。今は眠ろう。眠って、力を蓄えて、明日また立ち上がろう。
テオがそうするように。
ボクも、そうするように。
夜の風がカーテンを揺らして、ボクは眠りに落ちた。夢は見なかった。記憶のないボクには、夢の素材すらないのだから。




