1話「見知らぬ空の下で」
目を開けた瞬間、世界は何もなかった。
いや、何もないというのは正確ではない。視界には澄んだ青空が広がっていて、頬には柔らかい草の感触があって、風は甘い花の香りを含んでいた。鳥の声がどこか遠くから聞こえていたし、木漏れ日が瞼の上で踊っていた。
何もなかったのは、ボクの中だ。
名前は——アウレーリエ・リュコーリアス。愛称はアウリィ。ハイエルフ。それは知っている。自分が何者であるかという根本の部分だけは、いつも残している。でもそれ以外のこと——どこから来たのか、何を見てきたのか、誰と出会い誰と別れたのか——そういったものは全て、靄の向こうに沈んでいる。
ボクが自分でそうした。
体を起こすと、指先に草の露が光った。辺りは緩やかな丘陵地帯で、背の低い広葉樹が点々と立ち並んでいる。遠くに山脈の稜線が霞んで見えた。右手の方角には、川があるのだろう、水のせせらぎが微かに聞こえる。
「ん……っと」
身体の状態を確認する。これは覚えている——というより、身体に染みついている。両手を握って開いて、足首を回して、首を左右に傾けて。異常なし。身長が低いのはいつものことだ。多分。いつものこと、という感覚だけがある。
手元を見ると、使い込まれた革のトランクが一つ。腰には二つのポーチ。背中にはミスリルの輝きを放つ聖槍が、革紐で斜めに括りつけられている。マントの裾が風にはためいて、赤龍の皮のベストの下から生成り色のワンピースが覗いた。ブーツの爪先に泥はない。ここに来たばかりだからだろう。
頭に手をやると、髪飾りがある。指先でそっと形をなぞった。花弁が反り返るような——彼岸花だ。なぜこれをつけているのかは分からないけれど、外してはいけないという確信がある。
「新しい世界、かぁ」
声に出してみると、自分の声がひどく懐かしいような、初めて聞くような、不思議な感じがした。これが何度目の旅なのかも分からない。分かっているのは、ボクが色々な世界を渡り歩いてきたということ。そして新しい世界を訪れるたびに、自分の記憶を封じているということ。
なぜそうするのかは——封印した記憶の中にあるのだろう。今のボクには、「そうすることに決めている自分がいる」ということしか分からない。きっと理由があるのだ。きっと大切な理由が。
でも今は考えても仕方がない。
トランクを開けてみた。中は見た目よりもずっと広い——内部拡張の魔法がかかっている。着替えが何着か、保存食、水筒、筆記用具、そして何冊もの日記帳。ぱらぱらとめくってみたが、文字は全てぼやけて読めなかった。封印の一部だろう。旅が終われば読めるようになるはずだ、という直感がある。
新しい日記帳を一冊取り出した。真っ白なページ。これにこの世界のことを書いていく。
最初のページに、ボクは書いた。
『新しい世界に来た。丘の上で目覚めた。空は青く、風は甘い。まだ何も知らない。だからこれから、知りにいく』
ペンを置いて、ふぅと息を吐く。立ち上がって、体の節々を伸ばした。マントの内側に温もりがこもっていて心地いい。
さて、どちらに行こうか。
水音のする方角に目を向けた。川があるなら、川沿いには人の営みがあるかもしれない。この世界に人がいるかどうかも分からないけれど。
「行ってみよう」
歩き出す一歩目が、いつだって一番楽しい。
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丘を下ると、予想通り小さな川があった。水は驚くほど透明で、川底の小石が一つ一つ数えられるほどだった。
「わぁ……綺麗」
思わず膝をついて、水面に指を浸した。冷たい。雪解け水だろうか。上流に目を向けると、山脈の方角から流れてきているようだ。
と、そのとき——何かが動いた。
水面ではない。空気そのものが、ほんの微かに揺れた。ボクの知覚がそれを拾う。これは身体が覚えていることの一つだ。精霊の気配。
「……いるの?」
呟くと、風がふわりとボクの髪を撫でた。三つ編みのおさげが揺れる。精霊はいる。でも、その反応は——少し遠い。この世界の精霊とボクとの相性は、あまり良くないのかもしれない。
試しに、精霊術の基礎——周囲の索敵を試みた。意識を広げて、空気と水と土と光に語りかける。
応えてくれたのは水の精霊だけだった。それもごくごく微かに。川のそばにいるからだろう。風と土と光は、ボクの呼びかけに気づいてはいるようだが、手を伸ばしてはくれない。
「そっかぁ。ちょっと人見知りさんなんだね、この世界の子たちは」
残念だけれど、仕方ない。世界が変われば精霊との関係も一からだ。時間をかけて仲良くなればいい。水の精霊だけでもかすかに応じてくれるなら、川の近くにいれば最低限の索敵はできる。
川沿いを下流へ向かって歩き始めた。
しばらく歩くと、景色が変わってきた。木々の間に石垣のようなものが見え始める。苔に覆われた古い石積みだ。その向こうには、畑の跡らしいものも見える。
「人がいる……いた?」
今も使われているのか放棄されたのかは分からない。でも少なくとも、この世界には文明があるということだ。ボクの胸が高鳴った。
さらに歩くと、川幅が広がり、やがて木造の橋が見えてきた。小さいけれど、しっかりとした造りの橋だ。欄干には装飾が施されている。渦巻き模様と——歯車?
橋のたもとに立って観察した。歯車の意匠が欄干の両端に彫り込まれている。装飾的なものか、それとも何か意味があるのか。歯車ということは、機械技術がある程度発達した文明——。
「おい」
声をかけられて振り返った。
男が一人、立っていた。背が高く、日に焼けた肌をした中年の男で、背中に薪を束ねて背負っている。粗末だが丈夫そうな麻の服を着て、革のブーツを履いていた。腰には手斧を提げている。
男はボクを見て、怪訝そうな顔をした。当然だろう。こんな辺鄙な場所に見慣れない格好の小柄な——しかもエルフ耳の——人物が立っていたら、誰だって警戒する。
「こんにちは!」
ボクは満面の笑みで手を振った。
男の眉が片方だけ上がった。
「……何者だ。見ない顔だが」
言葉が通じた。これはありがたい。世界によっては言語が全く違って、意思疎通に苦労することも——あるのだろう、多分。記憶はないけれど、そういう予感がある。
「ボクはアウリィ。旅をしてるんだ。ここはどこ?」
「どこって……ローデンツの外れだが。旅人か? こんなところに一人で?」
「うん! ボク、この辺りのこと全然知らなくて。ローデンツっていうのは村の名前?」
男は薪の束を背負い直しながら、まだ警戒を解いていない目でボクを観察していた。ボクの装備を——特に背中の聖槍を——ちらりと見る。
「町だ。小さいがな。この橋を渡って北に半刻ほど歩けば着く」
「町! 行ってみたい! ねぇ、この橋の歯車の模様は何? 何か意味があるの?」
矢継ぎ早に質問するボクに、男は面食らったようだった。警戒と困惑が入り混じった表情で頭を掻く。
「……歯車はこの地方の守り紋だ。蒸気機関の恵みに感謝する、まぁ、そういう意味だな」
「蒸気機関! すごい、蒸気で動く機械があるんだ!」
ボクが目を輝かせると、男は奇妙なものを見るように首を傾げた。
「あんた……本当にどこから来たんだ。蒸気機関を知らんなんて、余程の僻地か?」
「うん、余程の僻地だと思う! 本当に何も知らないんだ。でもこれから知っていくよ!」
男は大きくため息をついた。しかしその表情は、もう敵意のあるものではなかった。呆れと、ほんの少しの可笑しさが混じっている。
「……ミラン。ミラン・ホルトだ。木こりをやってる」
「ミラン! よろしくね!」
ボクが差し出した手を、ミランは少し逡巡してから握った。大きくて硬い、働く人の手だった。
「町に行くなら、一緒に歩くか。この先、たまにだが野犬が出る」
「ありがとう! 嬉しい!」
こうして、この世界で最初の同行者ができた。
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ミランは無口な男だった。でも聞けば答えてくれたし、こちらの質問を面倒がる風もなかった。ただ言葉を飾らないだけで、根は親切な人なのだろう。
歩きながら、ボクはたくさんのことを教えてもらった。
この世界——少なくともこの地域——では蒸気機関が広く普及していること。大きな都市では蒸気で動く列車が走り、工場が蒸気の力で動いていること。しかしここローデンツのような辺境の小さな町では、蒸気技術の恩恵はまだ限定的で、簡単な揚水ポンプや製材所の動力に使われている程度だということ。
魔法は存在するが、一般的ではないこと。かつてはもっと盛んだったが、蒸気技術の発展とともに魔法使いの数は減り、今では学問として細々と研究されているに過ぎないこと。
「精霊は? この辺りの人は精霊のことをどう思ってる?」
「精霊? ああ、昔話には出てくるが……信じてる奴はあまりいないな。婆さん連中が井戸に供え物をするくらいか」
「そっかぁ……」
精霊との相性があまり良くないのは、この世界で精霊が忘れられかけているからかもしれない。人々の認識や信仰は、精霊の在り方に影響を与えることがある——と、これも記憶ではなく身体が覚えている知識だった。
「あんたの耳……エルフか?」
ミランが不意に尋ねた。ボクの耳を横目で見ている。
「うん、ハイエルフ。この世界にエルフはいる?」
「いない。伝説にはあるがな。千年前の大戦で滅んだと言われている」
ボクは足を止めた。
「……滅んだ」
「ああ。蒸気文明が興る前の話だ。魔法の時代の終わりと共に、エルフも姿を消したとされている」
ミランはボクの表情を窺うように振り返った。
「気を悪くしたか」
「ううん」ボクは首を振って、また歩き出した。「悲しいけど、でも、ボクがここにいるから。少なくとも一人はいるよ、エルフ」
軽い口調で言ったつもりだったけれど、胸の奥がちくりとした。自分の種族がこの世界で滅んでいるという事実は、記憶のないボクにも何か深いところに触れるものがあった。
でもそれを深く考えるのは、今ではない気がした。
道は次第に広くなり、轍が見え始めた。荷車の跡だろう。木々の合間から煙が見え始める。蒸気機関の煙か、竈の煙か。
「見えてきたぞ」
ミランが指差す先に、ローデンツの町が現れた。
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ローデンツは、温かい色をした町だった。
煉瓦と木材で造られた建物が、緩やかな傾斜に沿って並んでいる。屋根は赤褐色の瓦で、煙突からは白い煙が立ち上っていた。町の中央には時計塔があり、歯車の意匠が掲げられている。通りには石畳が敷かれ、荷車を引くロバが行き交っていた。
そして——町の一角から、しゅうしゅうと蒸気の上がる音が聞こえてくる。製材所だとミランが教えてくれた。
「すごい……!」
ボクは目を見開いて、きょろきょろと辺りを見回した。建物の造り、看板の文字、道行く人々の服装、屋台から漂う食べ物の匂い——全てが新しくて、全てが面白かった。
「そんなに珍しいか」
「珍しいよ! 全部初めて見るもの!」
道行く人々がボクをちらちらと見ていた。小柄な体に長い耳、黄金の髪と黄色い瞳。この世界では珍しいを通り越して有り得ない存在なのだから、当然だろう。でもボクは気にしなかった。見られるのは慣れている——ような気がする。
「宿は必要か」
「うん、泊まるところがあると嬉しい。お金は——」
ボクはポーチを探った。中から出てきたのは、いくつかの金属片と宝石の欠片。通貨ではなさそうだが、価値のあるものではあるだろう。
ミランがそれを見て目を丸くした。
「……それは蒼玉石じゃないか。一欠片で普通の人間の月の稼ぎになるぞ」
「えっ、そうなの? じゃあこれで宿に泊まれる?」
「泊まれるどころか、宿ごと買えるかもしれん。しまえ、あまり見せびらかすな」
慌ててポーチに戻した。過去のボク——記憶を封印する前のボクが、こういう時のために価値のありそうなものを入れておいてくれたのだろう。ありがたいことだ。
ミランは町の中を案内してくれた。中央広場に面した宿屋「歯車亭」が、旅人向けの宿としては一番まともだという。
歯車亭の扉を開けると、カウンターの向こうに丸々とした体格の女性が立っていた。赤い髪を布で包み、エプロンをした中年の女性だ。
「おや、ミラン。珍しいね、こんな時間に」
「客を連れてきた。旅人だそうだ」
女性がカウンター越しに身を乗り出して、ボクを見下ろした。ボクの耳を見て、目を瞬かせる。
「あらまぁ……エルフ? 本物の?」
「本物だよ! ボクはアウリィ。泊めてもらえると嬉しいな」
「あたしはドリー。ドリー・バルト。ここの女将だよ」
ドリーはしばらくボクをまじまじと眺めてから、にっかりと笑った。
「いいよ、泊まりな。二階の角部屋が空いてる。一泊三十ギルだけど、長く泊まるなら少しまけるよ」
ミランに相場を確認すると、良心的な値段だという。蒼玉石の欠片を一つ出したら、ドリーは目を丸くして、それから豪快に笑った。
「こんな大金、お釣りが出せないよ! まぁいいさ、しばらく泊まるならこれで十分だ。食事もつけるよ」
「やった! ありがとう、ドリー!」
ボクが両手を合わせて喜ぶと、ドリーは「可愛いねぇ」と目を細めた。
ミランはカウンターの隅で、ドリーが出してくれた麦酒を一杯だけ飲んで帰っていった。帰り際、不器用に手を挙げて。
「何かあったら製材所の裏手に来い。大体あの辺にいる」
「うん! ミラン、ありがとう! また来るね!」
ミランは何も言わずに出て行ったが、その背中はどことなく照れているように見えた。
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二階の角部屋は、小さいけれど清潔で、窓からは町の通りが見下ろせた。
トランクを開けてベッドの横に置き、マントを脱いで椅子の背にかけた。聖槍はベッドの枕元に立てかける。ポーチは外さない。いつでも手が届くところに置いておく癖がある。
窓を開けると、夕方の風が入ってきた。町の向こうに太陽が沈みかけていて、煉瓦の屋根が橙色に染まっている。蒸気の煙が夕日に照らされて金色に光っていた。
「きれい……」
呟いて、日記帳を取り出した。
『ローデンツという町に着いた。蒸気機関のある世界。エルフはもういないらしい。木こりのミランと、宿の女将のドリーに会った。二人とも良い人。蒸気の煙が夕日で金色になるの、すごく綺麗。明日は町をもっと探検する』
書きながら、ボクは小さく笑った。まだこの世界に来て半日も経っていないのに、もう二人も良い人に会えた。これはきっと良い旅になる。
ペンを置いて窓辺に頬杖をつくと、通りを歩く人々が見えた。仕事帰りの男たち、買い物袋を抱えた女たち、走り回る子どもたち。生活がある。日常がある。ボクの知らない、この世界だけの時間の積み重ねがある。
精霊の気配を探ってみた。町の中では、丘の上よりもさらに精霊の反応が薄い。蒸気機関の稼働が精霊を遠ざけているのかもしれない。あるいは、人々が精霊を忘れたから、精霊もまた人々から離れていったのか。
少しだけ寂しい感じがした。精霊はボクにとって——記憶がなくても——大切な存在だという確信がある。彼らと対話し、彼らの力を借りて周囲を知覚するのは、ボクの在り方の根幹に関わることだ。
「ゆっくりでいいから、仲良くなろうね」
窓から入る風に向かって囁いた。風は応えなかった。でも、ほんの少しだけ、柔らかくなった気がした。気のせいかもしれないけれど。
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夕食はドリーの手料理だった。
一階の食堂に下りると、数人の客が既に食事をしていた。労働者風の男たちが多い。ボクが現れると、全員の視線が集まった。ひそひそと囁き合う声が聞こえる。「エルフ」「本物か」「耳を見ろ」。
気にせずカウンター前の席に座ると、ドリーが大きな皿を運んできてくれた。
「今日は煮込みだよ。根菜と塩漬け肉の。パンもあるよ」
「わぁ、いい匂い! いただきます!」
一口食べて、目を丸くした。素朴な味だけれど、しっかりと出汁が効いていて、体の芯まで温まる美味しさだった。
「美味しい! ドリー、すごいよこれ!」
「あはは、お世辞が上手いねぇ。ただの田舎料理だよ」
「田舎料理が一番美味しいんだよ、きっと!」
記憶はないけれど、この言葉は本心だった。味覚が覚えている。色々な料理を食べてきたはずだけれど、こういう素朴な温かさを持つ料理が、ボクは好きなのだと思う。
パンをちぎって煮込みに浸しながら食べていると、隣の席に誰かが座った。
若い女性だった。ボクより少し——いや、かなり背が高い。亜麻色の髪を無造作に束ね、革のジャケットを着ている。目の下に油汚れがついていて、手は黒ずんでいた。機械いじりをする人の手だ。
「あんたがエルフ?」
挨拶もなしに、単刀直入。でもその目は敵意ではなく、純粋な好奇心に満ちていた。
「うん! ボクはアウリィ。あなたは?」
「テオ。テオドーラ・ヴィント。技師をやってる」
「技師! 蒸気機関の?」
「そう。この町の機関の整備と、まぁ、ちょっとした発明もどきをね」
テオはドリーにエールを注文してから、改めてボクの方を向いた。その瞳は深い灰色で、知性的な光を宿していた。年齢は二十代半ばくらいだろうか。
「正直、エルフが実在するなんて思ってなかった。学術院の連中が聞いたら腰を抜かすよ」
「学術院?」
「ルクシェンブルクにある。この国の首都。蒸気工学と旧魔法学の研究機関さ。あたしもそこにいたんだけど……まぁ、色々あってね」
テオはエールを一口飲んで、苦笑した。「色々あって」の中身を聞きたかったけれど、初対面で踏み込むのは良くないだろう。代わりに別のことを聞いた。
「ねぇテオ、この世界……じゃなくて、この辺りの精霊について何か知ってる?」
「精霊? 旧魔法学の領域だね。あたしの専門は蒸気工学だけど、多少はかじったよ。精霊っていうのは——学術的には『自然界に偏在する意思を持つエーテル集合体』って定義されてる。でも実際に観測された例はここ百年以上ない」
「観測できないのは、精霊が弱くなってるから? それとも観測する方法を忘れたから?」
テオは目を細めた。
「……面白いことを聞くね。学術院では前者が定説だ。蒸気機関の普及によってエーテルの自然循環が乱され、精霊が弱体化した、と」
「後者だったら?」
「後者だったら——つまり人間側の問題だったら——蒸気文明は何も悪くないってことになる。学術院の蒸気工学派にとっては都合が悪いね。旧魔法学派は後者を主張してるけど、少数派だ」
ボクは煮込みの最後の一口を食べながら考えた。この世界の精霊が弱いのは、どちらの理由もあるのかもしれない。蒸気機関の影響と、人々が精霊を忘れたこと。両方が絡み合って。
「ボク、精霊と話せるよ」
さらりと言うと、テオのエールを持つ手が止まった。
「……本気で?」
「うん。でもこの辺りでは、水の精霊がかすかに応えてくれるだけ。他の子たちはまだ距離がある感じ」
テオは長い沈黙の後、カウンターに肘をついて身を乗り出した。
「ねぇアウリィ。あたし、あんたに見せたいものがあるんだけど」
「なに? なになに?」
「明日でいいよ。あたしの工房に来てくれない? ちょっと——相談したいこともあるんだ」
テオの目には、好奇心とは別の何かが宿っていた。切実さ、と呼ぶべきものが。この人は何かに困っている。あるいは何かを探している。
「いいよ! 行く行く!」
ボクは即答した。断る理由がない。知らないことを知れる機会は、いつだって歓迎だ。
テオは安堵したように微笑んで、エールの残りを飲み干した。
「じゃあ明日の朝、ここに迎えに来る。——ありがとう、アウリィ」
「ボクの方こそ! 楽しみだな!」
テオが帰った後、ドリーがカウンター越しに声をかけてきた。
「テオは良い子だよ。ちょっと不器用だけどね。首都からこの町に来て二年になるけど、まだあまり馴染めてなくてね」
「そうなんだ。でもいい人だね。目がきれいだった」
「あんたも人を見る目があるねぇ」
ドリーはにこにこと笑いながら、ボクに温かい蜂蜜湯を出してくれた。甘くて、喉を滑り落ちていく感触が心地よかった。
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部屋に戻って、日記の続きを書いた。
『技師のテオに会った。テオドーラ・ヴィント。蒸気工学の人。首都の学術院にいたことがあるらしい。精霊のことに興味を持ってくれた。明日、工房を見せてくれるって。何を相談したいんだろう。楽しみ。この世界の蒸気機関のこと、もっと知りたい。煮込みが美味しかった。蜂蜜湯も美味しかった』
ペンを置いて、ベッドに寝転がった。天井の木目が、ランプの灯りに照らされて揺れている。
体は疲れていた。新しい世界に来た日は、情報量が多くていつも——いつも?——疲れる。でも心地よい疲労だった。
目を閉じると、今日会った人たちの顔が浮かんだ。ミランの不器用な優しさ。ドリーの朗らかな温かさ。テオの知性的な瞳の奥にあった切実さ。
三人とも、出会ってまだ数時間の人たちだ。それなのに、もう大切に思い始めている自分がいる。
これは——ボクの性質なのだろう。記憶がなくても、この部分は変わらない。人と出会い、話をして、その人の中にある光を見つけると、ボクはすぐにその人を好きになる。
それが旅の終わりに別れを意味することになっても。
ふと、胸がちくりとした。記憶はない。でも身体は覚えているのだ。数えきれない出会いと別れを。忘れているはずなのに、身体の奥底に沈殿した感情の残滓は、ときどきこうして浮かび上がってくる。
彼岸花の髪飾りに指で触れた。
「……ボクは、どれくらい旅をしてきたんだろう」
答える声はない。自分で封じた記憶が答えてくれるはずもない。
でもいい。今は今だ。この世界のことを知りたい。この世界の人たちと話したい。それだけで十分だ。
ランプの灯りを消して、毛布にくるまった。窓の向こうから、蒸気機関が眠るように低く唸る音が聞こえていた。この世界の子守唄みたいだ、と思った。
「おやすみ、新しい世界」
囁いて、目を閉じた。
眠りに落ちる直前、ほんの一瞬——風の精霊が窓辺をすり抜けていったような気がした。
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翌朝、ボクは鳥の声で目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、東の空が紫から橙へと移り変わる途中だった。朝靄がローデンツの町を薄く覆っている。
身支度を整えた。ワンピースの皺を伸ばし、ベストを着直し、マントを羽織る。三つ編みのおさげを結い直す。髪飾りの位置を確認する。聖槍を背負う。ポーチの中身を確認する。ブーツの紐を結び直す。
全て、手が勝手に動いた。何千回——何万回繰り返したか分からない朝の儀式だ。記憶はなくても、身体が覚えている。
一階に下りると、ドリーがもう竈に火を入れていた。
「早いねぇ。パンとスープでいいかい?」
「うん! ありがとうドリー!」
焼きたてのパンと、玉ねぎのスープ。素朴だけど温かい朝食を食べていると、扉が開いてテオが入ってきた。
「おはよう。早いね、あたしと同じタイプか」
「おはよう、テオ! 準備できてるよ!」
テオは昨日と同じ革のジャケットだが、今日は腰に工具用のベルトを巻いていた。スパナやドライバーがじゃらじゃらとぶら下がっている。
ドリーに頼んでテオの分のパンも出してもらい、二人で朝食を食べ終えてから、町に出た。
朝のローデンツは、まだ半分眠っていた。通りには新聞を運ぶ少年の姿があるくらいで、店はまだ開いていない。蒸気機関の唸りだけが、低く街に響いている。
テオの工房は、町の外れにあった。元は納屋だったらしい建物を改装したもので、壁には煤がこびりつき、屋根からは細い煙突が突き出している。
「散らかってるけど、まぁ入って」
扉を開けると、そこは機械と発明品の迷宮だった。
作業台の上には分解された歯車やピストンが並び、壁には設計図が所狭しと貼られている。隅には小型の蒸気機関がどんと据えられていて、かすかに蒸気を吐いていた。棚には瓶に入った様々な液体や鉱石が並んでいる。
「すごい……! これ全部テオが作ったの?」
「作ったのやら壊したのやら。半分は失敗作だよ」
テオは苦笑しながら、工房の奥へとボクを案内した。
奥にあったのは、他の雑然としたスペースとは対照的に、きちんと整理された一角だった。そこには——異質なものがあった。
金属と水晶で出来た装置。機械的でありながら、どこか有機的な曲線を持つ構造体。中央に青い水晶が嵌め込まれ、微かに脈動するように光っている。
「これは……」
ボクの精霊への感覚が、微かに反応した。この装置から、ごくごく薄い精霊の気配がする。
「あたしがここ二年、ずっと取り組んでるもの」テオの声が、少し低くなった。「蒸気機関とエーテルを融合させる装置——理論上は、精霊の力を蒸気機関に取り込むことができるはず、なんだけど」
「動かない?」
「動かない。エーテルの導入に成功しない。水晶がエーテルを捉えても、蒸気機関との接続部分で拡散してしまう。何が足りないのか、二年間ずっと分からなくて」
テオはその装置を見つめる目が、職人のそれではなかった。もっと深い——ほとんど祈りに近い何かが、その灰色の瞳にあった。
「これを完成させたくて学術院を出たの?」
ボクの問いに、テオは少し驚いた顔をした。それから、静かに頷いた。
「学術院では蒸気工学と旧魔法学は完全に分かれてる。融合の研究をしたいと言ったら、両方の派閥から異端扱いされた。特に蒸気工学派の教授には——『魔法に頼るのは技術の退化だ』ってね」
「でもテオは、両方大事だと思ってるんだね」
「だって、そうでしょう? どちらも世界を理解しようとする方法なのに、なんで一方を捨てなきゃいけないの。蒸気には蒸気の美しさがある。魔法には魔法の真理がある。二つが合わされば——」
テオの声が熱を帯びた。それから、はっと我に返ったように口をつぐむ。
「……ごめん。語り過ぎた」
「ううん、全然! テオの話、すごく面白いよ!」
ボクは本心からそう言った。テオの目に宿る光は、ボクが一番好きなものだった。未知を追い求める情熱。分からないことに対する、敬意を持った好奇心。
「ボクにできることがあるなら、手伝いたい。精霊と話せるかもしれないし、何かヒントが見つかるかもしれない」
テオはボクの顔をじっと見て、それから笑った。初めて見る、屈託のない笑顔だった。
「ありがとう。正直、もう一人で行き詰まってたんだ」
ボクもにっこり笑い返した。
「じゃあ二人で行き詰まろう! 二人で行き詰まった方が、突破口も見つけやすいよ、きっと!」
テオは吹き出した。
「なんだそりゃ。でも——うん、そうかもね」
窓から差し込む朝日が、青い水晶に反射してテオの工房を蒼く染めた。その光の中で、ボクは微かに精霊の囁きを聞いた気がした。
まだ言葉にはならない。でも——拒絶ではなかった。
この世界の精霊たちは、忘れられて寂しかったのだ。多分。
ボクが来たことで何かが変わるかどうかは分からない。でも、少なくともボクは——ここにいる間は——彼らのことを忘れない。
日記帳を取り出して、一行だけ書き足した。
『精霊が少し、近づいてきた気がする。テオの装置と関係があるかもしれない。明日はもっと分かるかも。この世界、好きだ』
ペンを置いて、窓の外を見た。ローデンツの町に、朝の活気が戻り始めていた。蒸気の白い煙と、パン屋の煙突から立ち上る煙が、朝空に溶けていく。
新しい一日が始まる。知らないことだらけの、素敵な一日が。




