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4話「朝を知らない街の夜明け」

 蒸気の白さは、視界を奪うくせに、進むべき道だけは教えてくれるときがある。


「左!」


 ボクが叫ぶと、ミラが即座に進路を切った。保守路の分岐をひとつ飛ばし、その先の細い通路へ滑り込む。後ろでは、ハルヴァーが息を切らしながらもついてきていた。トーマは伝令へ走らせた。セヴランの警備が蒸気の向こうで怒鳴っているけれど、いまは振り返っている暇なんてない。


 足元の金属床越しに、終灯都の心臓の鼓動が伝わってくる。


 乱れている。

 苦しんでいる。

 でも、まだ完全には諦めていない。


「こっちの灯路、痛みが薄い。最初に抜くならここ!」


 ボクは壁一面に走る導管の束を指差した。そこだけ、熱の流れがわずかに素直だった。無音釘で押さえつけられてはいるけれど、まだ“戻り方”を覚えている。


 ハルヴァーが目を細める。

「第三副環の整流枝か。たしかにここなら、外縁側へ逃がしやすい」

「抜くなら一本ずつ。いきなり三本はだめ」

「わかっとる!」


 ミラは工具袋から長い抜釘器を取り出し、黒い釘の頭へ差し込んだ。

「アウリィ、順番」

「いちばん奥。次に右。最後に手前」

「理由は」

「奥の子がいちばん我慢してるから。そこ抜くと、右が少しだけ落ち着く」


 ミラが一瞬だけ笑う。

「相変わらず説明が精霊基準だな」

「でもわかるでしょ」

「なんとなくな」


 なんとなくで通じるのが、この人のすごいところだ。


 黒釘が、ぎ、と嫌な音を立てて少し浮く。

 その瞬間、導管の中の熱の子がびくっと跳ねた。暴れる。逃げたがる。叫びたいのを、ずっと無理やり押し込められていたみたいに。


「大丈夫。いま道を作るから」


 ボクは槍の石突きを床へつけた。ミスリルが、かすかに澄んだ音を返す。火を起こすほどの力はない。何かをねじ伏せるほどの圧もない。けれど“流れを揃える”ことなら、たぶんできる。


「風の子、少しだけ。熱の子、急がないで。鉄の子、ひらいて」


 呼びかけると、この街のせわしない精霊たちが、いつもより少しだけ素直に応えた。


 不思議だった。


 最初はあんなに気難しかったのに、いまは“聞いてくれる”。

 仲よくなれた、というほど簡単な話じゃないのだろう。きっと向こうも、この街そのものみたいに切羽詰まっている。だから、嘘をつかずに耳を傾けるやつに、少しだけ道を貸してくれる。


 釘が一本抜けた。


 導管がごう、と低く唸り、熱が奥へ流れる。

 足元の振動が少し変わった。


「よし」

 ハルヴァーが即座に弁を回す。

「副環、逃がせ! 圧を外へ散らせ!」


 少し遅れて、遠くのどこかで補助弁の開く音がした。

 通路の明かりが、一瞬だけふっと落ち、すぐ戻る。


「次」

 ミラが言う。


「右」

 ボクは答える。


 釘が二本、三本と抜かれていくたび、終灯都の中を走る熱の声がわずかに変わった。

 苦鳴だけだったものに、“息を吸う”余地が生まれる。


 でも、これで全部じゃない。

 まだほんの入口だ。


「アウリィ」

 ハルヴァーが短く呼ぶ。

「次はどこだ」

「下じゃない。上。中環の配灯枝のほう」

「中環?」

 ミラが眉をひそめる。

「普通なら外縁から戻すぞ」

「いま中環で詰まってる。そこが塞がったままだと、外へ逃がした熱がまた押し返される」


 ハルヴァーが歯を剥くみたいに笑った。

「耳のいい嬢ちゃんだ」

「褒められた」

「まだ早い」

 ミラが言う。

「ここからが面倒だ」


 その通りだった。


 通路の奥から、今度は別の足音が迫ってくる。

 規則正しい。重い。複数。


 警備ではない。

 もっと慣れた足音だ。


「止まれ!」


 怒鳴り声とともに、警務局の腕章をつけた一団が蒸気の向こうから現れた。その先頭には、見覚えのある大柄な影がある。


「バルド!」


 ボクが呼ぶと、警備主任は顔をしかめたまま近づいてきた。


「説明はあとだ。いま現場の指揮系統が二つに割れている」

「セヴランのほう?」

 ミラが問う。

「そうだ。代灯式を強行しようとしてる」

「当然だろうな」

「だが警務局は、市民保護を優先する」


 バルドの視線が、抜かれた無音釘と、少しだけ安定した計器へ流れる。


「……それで、こっちは何をしている」

「都市を潰さずに灯りを戻す準備」

 ボクが答える。

「少なくとも、そのつもり」

「成功率は」

「わかんない」

「正直でよろしい」

 バルドはひとつ息を吐いた。

「だが、強行代灯の成功率も怪しいなら、選択肢は多いほうがいい」


 彼は部下を振り返る。

「この場は保守班優先だ。補給局の拘束命令は一時保留。何か言われたら私の名を使え」

「えっ、いいの?」

「よくはない」

 バルドは真顔で言う。

「あとで死ぬほど書類が増える」

「それは、うん、がんばって」

「お前が言うな」


 でもその声は、ほんの少しだけ緩んでいた。


「アウリィ」

 ミラが顎で先を示す。

「次の灯路まで走るぞ」

「了解」



      ◇



 一方その頃、トーマは終灯都の外縁二区を走っていた。


 息は上がる。足も重い。夜通しの運行と到着後の対応で、身体はとっくに限界に近い。

 それでも止まれなかった。


 足を止めた瞬間、何か大事なものまで止まりそうだったからだ。


 中央炉塔から外縁へ伸びる伝令線は、灯りだけじゃなく情報も運ぶ。駅務で鍛えた声と、車掌として身につけた手順が、いまほど役に立つときはなかった。


「二区西橋、非常灯準備!」

「不要灯の消灯、携帯灯を玄関へ!」

「灯りが揺れても、逃げる合図じゃない! 戻すための処置です!」


 自分でも驚くくらい、声が通った。


 駅で乗客のざわめきを抑えるときより、もっと必死だったからかもしれない。

 あるいは、相手が“誰かの家”だったからかもしれない。


 戸口が開き、人が顔を出す。

 不安そうな目。疑う目。疲れ切った目。

 でもその中へ、母の姿が見えた瞬間、トーマは少しだけ背中が軽くなるのを感じた。


「母さん」

「言われた通り、近所には伝えたわ」

 ユリアは落ち着いた声で言う。

「ネラは?」

「いるよ!」


 ひょこっと顔を出した妹は、父の形見だという小さな携帯灯を抱えていた。

 弱いけれど、芯のある光だ。


「落とすなよ」

「お兄ちゃんこそ」

「……それはそうだな」


 短く笑い合えたことが、妙にありがたかった。


「トーマ」


 ユリアが真面目な声で言う。


「やるなら、ちゃんと最後までやりなさい」

「うん」

「怖いでしょうけど」

「怖いよ」

「知ってるわ」


 母の手が、息子の肩に一度だけ触れた。


「でも、怖いって言えるなら大丈夫。怖いのに何も感じないふりをするほうが、ずっと危ない」


 その言葉が胸へ落ちる。

 ああ、ほんとうにこの人は強い。


「行ってきます」

「ええ。帰ってきなさい」


 その“帰ってきなさい”を背中に受けて、トーマは再び走り出した。



      ◇



 中環の配灯枝は、第一保守路よりずっと厄介だった。


 無音釘の本数が多い。

 管が太い。

 そして何より、“抵抗”しているのがわかる。


 精霊たちではなく、人間の抵抗だ。


「その釘は抜かせません」


 階段状の足場を上がった先、配灯制御盤の前にセヴランが立っていた。警備は前より多い。さっきまでの余裕ある微笑みは薄れ、代わりに固い決意だけが残っている。


「ここを解けば、中環官区の配灯が乱れます」

「乱れたままよりましだ」

 ミラが即答する。

「いまの配灯は見かけだけだろ」

「見かけでも灯りは灯りです」

「見かけだけの灯りは、人を騙す」

 ボクは言った。

「暗いってことを、わからなくするから」


 セヴランの目が一瞬だけ動く。


「それでも、完全な闇よりはいい」

「そう言って押しつけてきた結果が、いまの終灯都でしょう」

 ハルヴァーが吐き捨てる。

「まだ続ける気か」

「続けるも何も、代案は不確実です」

「不確実じゃないものなんて、どこにもないよ」


 ボクが言うと、セヴランはわずかに眉を寄せた。

 その顔は、怒っているというより、理解できないものを見ている顔だった。


「あなたは旅人だからそう言える」

「そうかな」

「ここに住む者は、失敗の責任を背負う」

「うん」

「だから私は、賭けを嫌う」


 その言い方には重さがあった。

 ただの詭弁じゃない、本当にそう思ってきた人の声だ。


「失敗したこと、あるんだ」

 ボクが言うと、セヴランは少しだけ黙った。


 ミラが舌打ちする。

「そんな昔話をしてる場合じゃない」

「いや、してもらおう」

 ハルヴァーが低く言う。

「いまここで吐かせたほうが、後腐れが少ない」


 セヴランは、しばらく制御盤の灯りを見ていた。

 やがて、静かに口を開く。


「私は終灯都の外れで育ちました」

「……」

「いまでは区画ごと消えた、旧十八区です。炭煙と湿気のひどい場所でしたが、家があった。妹もいた」


 彼の声は相変わらず整っている。

 けれど、整えすぎているからこそ、その下にあるものがわかる気がした。


「冬の終わりに灯路事故が起きた。修繕か、他区からの転送か、あるいは一時撤収か。上では議論が続き、数字が集まり、責任の押しつけ合いがあり……その間に、区画の配灯が落ちた」

「……」

「灰喰いより先に、寒さがきた。妹は朝まで持たなかった」


 通路が静まる。

 蒸気の音だけが遠い。


 セヴランは笑わなかった。

 泣きもしなかった。

 ただ、事実を並べるみたいに続ける。


「だから私は、迷う時間を嫌います。感情や理想は、判断を遅らせる。遅れは死を招く。そう学んだ」

「それで、切り捨てる側に回ったのか」

 ミラが低く言う。

「切り捨てる、ではない。優先するんです」

「言い方を変えても、落ちる灯りは同じだ」

「そうでもしなければ、もっと多くが落ちる」

「たぶん、それも本当」


 ボクは言った。


 セヴランがこちらを見る。


「でもね」

 ボクは続ける。

「本当がひとつだけとは限らないよ」

「……」

「迷うのがだめなんじゃなくて、迷ったまま他人の声を消すのがだめなんだと思う。妹さんの区画は、たぶん『待たされた』んでしょ」

「だから私は待たない」

「うん。でも、黙らせるのも違う」


 壁に打ち込まれた黒釘へ視線を向ける。


「この街の灯りも、大炉も、精霊たちも、ずっと『痛い』って言ってたのに、君たちはそれを聞かないようにした」

「聞いても間に合わないことがある」

「そうだね」

「なら」

「だからって、聞かなくていい理由にはならない」


 言い切ると、胸の内側が少しだけ震えた。


 たぶんこれは、ボク自身にも向けている。

 知らないことを楽しむ旅人でいたい。けれど、知らないままで済ませるのは違う。

 知ったあとで、ちゃんと困ること。

 それをしないと、旅が薄くなる。


「セヴラン」


 ハルヴァーが一歩前へ出た。


「お前さんの妹を朝まで持たせられなかった連中は、たしかにろくでもない。だがな、それと同じことを別のやり方で繰り返してどうする」

「……」

「今日、お前さんが急げば、今夜は持つかもしれん。明日も持つかもしれん。だが次は? その次は? またどこかの炉心を抜くか? またどこかの子どもに寒い夜を渡すか?」


 セヴランは返事をしない。

 その沈黙は、否定ではなかった。


 バルドが前へ出る。

「次席殿。外縁三区から二区にかけて、局所灯路崩落が拡大中だ。強行代灯の準備で人手を吸われ、防灯班が足りん」

「……」

「どのみち、いまのままでは全体統制は崩れる。現場を見ろ」


 ちょうどそのとき、通話管が鳴った。


『中環北、圧跳ね! 副環戻しにより数値変動、ただし外縁南は灰喰い後退!』

『二区西橋、住民側で非常灯維持、被害軽微!』

『旧東配灯枝、圧回復の兆候あり!』


 声が重なる。

 ばらばらな報告。

 でもその全部が、ボクたちが抜いた最初の無音釘と繋がっていた。


 セヴランの視線が揺れた。


「……外縁南が、後退?」

「人が動けば、灯りは持つ」

 バルドが言う。

「それを数字に入れてなかったのは、お前の落ち度だ」


 それは少しだけ厳しい言い方だったけれど、必要な厳しさに聞こえた。


 セヴランは目を閉じ、短く息を吸う。

 そして開いたときには、決意の質が変わっていた。


「副炉クレイドルを開きます」

「何?」

 ハルヴァーが顔を上げる。


「中央大炉の直結ではなく、環状副炉への受け入れ。旧計画で凍結されていたはずだ」

「よく覚えてるね」

 ボクが言うと、セヴランは皮肉みたいに口元を歪めた。


「私は数字だけを見ていたわけではない。予算が下りなかった」

「じゃあ今、下ろすんだ」

「いまなら私の権限で非常解放できます」


 ミラが目を見開く。

「副炉クレイドルが生きてるなら話が変わるぞ」

「完全ではありません。仮設接続になる」

「仮設で十分だ」

 ハルヴァーが言う。

「古炉と新炉を並列で息継ぎさせられる」


 セヴランは制御盤に手を置いた。


「ただし、条件があります。中環の配灯を一呼吸分、落とす」

「一呼吸で済む?」

 ボクが訊く。

「済ませるしかない」

「ならやろう」

「即答だな」

「だって、やるしかないなら」


 ミラがにやっと笑う。

「そういうやつだ」


 セヴランが制御鍵を回す。

 重い錠の解ける音が、通路の奥で連鎖した。


「副炉クレイドル、非常解放。保守権限を炉守長へ一時委譲」

『確認』

「またとない規定違反だな」

 バルドがぼそりと呟く。

「書類、増えるね」

 ボクが言う。

「……増えるな」

 セヴランが初めて、少しだけ疲れた顔で答えた。



      ◇



 そこからは、ひたすら走って、聞いて、決める時間だった。


 終灯都は巨大だ。

 大きすぎる。

 人ひとりが見て回れる範囲なんて、本当はたかが知れている。


 でも、人ひとりが“どこが詰まっているか”を聞き分けることはできる。

 ひとりが聞き、もうひとりが抜き、また別の誰かが弁を回せば、街の中に少しずつ道ができていく。


「第三環、次は北じゃない! 南東!」

「根拠!」

「そっちの灯の子が泣いてる!」

「わかった、南東!」


 ミラが走る。

 ハルヴァーが怒鳴る。

 保守班が弁を開け、抜釘器が黒釘をひとつずつ引き抜く。

 バルドはその周辺を守り、必要なら補給局の強硬派を押し留めた。


 セヴランも、いつの間にか制御盤を離れなくなっていた。

 報告を読み、数値を並べ、必要な開放権限を次々切る。


「副環東、あと一段階絞れ」

「絞ると官区の明度が落ちます」

「落とせ」

 セヴランが言う。

「外縁南へ回す」

「次席?」

「聞こえなかったか。落とせ」


 その声に、前とは違うものが混じっていた。

 迷いが消えたというより、迷い方が変わったのだと思う。

 守る数に、“見えていなかった顔”が加わった。


 トーマからの報告も入る。


『二区西橋、住民側で携帯灯列を形成! 灰喰い抑制!』

『外縁市場、不要灯消灯完了! 余剰導力を南路へ転送します!』

『ネラが子どもたちをまとめてます!』

「最後のは報告としてどうなんだ」

 ミラが呆れる。

「でも大事でしょ」

「まあ……そうだな」


 実際、大事だった。


 都市の灯りは炉だけでできているわけじゃない。

 家々の小さな灯り、通りの手持ち灯、見張り台の火、誰かが守ろうとして持ち寄る小さな明るさ。それらもまた、灰喰いを遠ざけ、人の心を折れにくくする。


 知らなかった。

 いや、ボクは最初から知らないことだらけだったけれど、この街の人たちも、きっと忘れかけていたのだ。


 灯りは上から配られるだけのものじゃない。

 下から支えることもできるのだと。


 そのことが、なんだか少し、うれしかった。



      ◇



 副炉クレイドルは、中央炉塔の基部よりさらに下にあった。


 古い環状炉床。大きな円環の中央に、受け入れ用の座がひとつ。長いあいだ使われていなかったのだろう、煤と埃に覆われている。けれど機構そのものは死んでいなかった。セヴランの非常解放で封鎖扉が開き、保守班が急いで導管を接続している。


「ほんとにあったんだ」

 ボクが見上げると、ハルヴァーが鼻を鳴らした。

「昔の技師は、いまより欲張りだったんだよ。大炉ひとつに全部背負わせる気はなかった」

「じゃあ何で止まってたの」

「金がねえ。手間もねえ。あと、馬鹿が多い」

「最後はわりといつの時代もそうかも」

「否定できんな」


 副炉へ運び込まれた黎明炉心は、防熱布を解かれていた。


 はじめて、ちゃんと見る。


 それは結晶でも金属塊でもなく、光の繭みたいなものだった。透明な耐熱殻の内側で、金色と白がゆっくり脈打っている。熱い。なのに、その熱は攻撃的じゃない。むしろ誰かの手を探すみたいに、かすかに揺れていた。


 ――どこ。


 また聞こえる。


 前よりはっきり。

 前より幼い。


「ここだよ」


 思わず近づいて、殻越しに手を当てる。


「いま、きみの行き先を決めようとしてる」

 ――こわい。

「うん」

 ――いたい?

「痛くしないようにする」

 ――ほんと。

「ボクは嘘つくの苦手」


 そのとき、背後からミラの声が飛んだ。

「アウリィ! 構えとけ! 接続の最初で絶対暴れる!」

「了解!」


 クレイドルの反対側では、アステリオン本体から引かれた古い導管が脈打っていた。

 大炉の熱。

 老いた心臓の鼓動。

 疲れ果てているのに、まだ街を抱えて離さない、巨大な灯り。


 そっちにも手を伸ばす。


 ――重い。

 ――もう、折れそう。

 ――でも、まだ。


「無理しすぎ」

 ボクが小さく言う。

 老いた大炉の声は、返事というより深い吐息みたいだった。

 ――ひとり、では。

「うん」

 ――たりぬ。

「だから、もうひとり呼ぶよ」


 ミスリルの聖槍を、クレイドルの中央へ立てる。

 槍は武器だ。

 でも、それだけじゃない。長い旅のあいだに、たぶん何度も“道”になってきたものだ。いまはその感覚だけが、記憶の代わりに手に馴染んでいる。


「ハルヴァー」

「おう」

「最初の流し込み、少しだけ」

「わかっとる」

「ミラ」

「整流弁はこっちで見る」

「セヴラン」

「……なんです」

「数値、嘘つかないんでしょ」

「ええ」

「じゃあ、怖くてもちゃんと見て」

「……承知しました」


 トーマの声が通話管から響く。


『外縁、準備完了!』

『二区西橋、携帯灯列維持!』

『母さんから、“早くやれ”だそうです!』


 思わず笑いそうになる。

 強いなあ、ほんとに。


「では」

 ハルヴァーが低く言う。

「やるぞ、嬢ちゃん」

「うん」


 街じゅうの灯りが、一呼吸分だけ揺らぐ。


 中環の白金色が、すうっと薄くなった。

 官区の高い窓が暗くなり、外縁では代わりに小さな携帯灯がいくつもいくつも持ち上がる。

 きっと橋の上では、ネラも父の形見を掲げている。


「第一弁、開放!」

「副炉、受ける!」

「圧上昇、許容内!」

「アウリィ!」


 呼ばれて、ボクは両手を槍へ添えた。


 来る。


 熱の波が、二つの方向から一気に押し寄せた。

 古い大炉の重い熱。

 新しい炉心の若い熱。

 性質が違う。速さが違う。息づかいが違う。普通にぶつければ、どちらかが傷つく。


 だから、ぶつけない。


「風の子、道を細く。鉄の子、揺れすぎないで。灯の子、こわがらないで」


 呼ぶ。

 祈るみたいに。

 でも祈るだけじゃだめだから、ずれを読む。


 右が強い。

 左は深い。

 中央が足りない。


「ハルヴァー、左を少し絞って! ミラ、右の整流一段下!」

「了解!」

「絞るぞ!」


 槍が高い音を立てる。

 ミスリルの芯を通って、二つの熱が触れ合う。


 ――こわい。

 ――おもい。


「知ってる」

 ボクは言う。

「でも、きみたちは敵じゃない」


 老いた大炉が低く唸る。

 若い炉心がびくりと震える。


「この街をひとりで抱えなくていい」

「きみも、食べられに来たわけじゃない」

「並んで。少しずつ。話して」


 無茶なことを言ってる自覚はある。

 火と熱に、話せと言っているのだ。

 でも、ボクにはそうとしか聞こえない。


 そして奇妙なことに、この街の精霊たちは、いま、その無茶に乗ってくれていた。


 導管の中の熱の子たちが、ぶつかる波を少しずつずらす。

 灯の子たちが揺れながらも散らずに踏ん張る。

 風の子が熱だまりを薄く広げ、鉄の子が軋みを吸収する。


 忙しくて、せっかちで、最初は仲よくなれそうになかったこの世界の子たちが、いまはボクと一緒に“支える側”に回っていた。


 嬉しい、と思った。

 こんなときでも。


「圧、安定しません!」

 セヴランの声が緊張を帯びる。

「当然だ! 揺れてるほうがまだマシだ!」

 ハルヴァーが怒鳴り返す。

「止まるな、数値を読め!」

「読んでいます!」


 ミラが額に汗を浮かべながら弁を押さえる。

「アウリィ、まだいけるか!」

「いける、けど……」


 胸の奥まで熱い。

 汗が背を伝う。

 ボク自身に火力があるわけじゃない。ただ、流れの真ん中に立ってるだけ。それだけなのに、全身へ重さがのしかかってくる。


 でも、倒れるわけにはいかなかった。

 ここで槍をぶらしたら、道が歪む。


「トーマ!」

 ボクは通話管へ叫ぶ。

「外縁、どう!?」

『揺れてます! でも、消えてない!』

「携帯灯、足りる?」

『みんな持ち寄ってます! ネラが、こっちは朝ごっこだって!』

「……っ」


 その一言に、胸の奥で何かが灯る。


 朝ごっこ。


 朝を知らない子が、灯りを繋ぐための暗がりを、そう呼んだのだ。


 たまらなく、守りたくなった。


「もう少し!」

 ボクは槍へ額を寄せるみたいにして叫ぶ。

「きみ、朝の色だって言われたんだよ」

 ――あさ。

「うん」

 ――しらない。

「ボクも、ちゃんとは知らないかも」

 ――?

「でも、きっと、こわいだけじゃない」


 若い炉心の熱が、ふっと迷いを緩めた。


 老いた大炉の側から、深く低い呼応がある。

 ――ともに。


「そう、それ」


 ハルヴァーが目を見開いた。

「今だ! 副炉座を噛ませろ!」

「噛ませる!」

 ミラが整流弁を押し込み、クレイドルの環が回転をはじめる。

「セヴラン! 副炉名義、どうする!」

「名義?」

「台帳だ! 別系統で立てるには識別が要る!」

「そんなもの今――」


 一瞬だけ言いよどんで、セヴランが制御盤を睨む。

「……暁環灯路」

「え?」

 ボクが思わず聞き返す。

「識別名です! 異論があるなら後で変えろ!」

「ない! すごくいい!」


 円環が噛み合う。

 若い炉心の熱が、中央へ飲み込まれるのではなく、横へ、環へ、外へ、別の道を持って流れはじめた。


 その瞬間、街全体の灯りが変わった。


 中心の白金色だけだった光に、やわらかな黄金が混じる。

 官区から外縁へ。

 高い場所から低い場所へ。

 いままで尖っていた明るさが、少し丸く、少し広くなっていく。


『二区西橋、増灯!』

『外縁南、安定!』

『灰喰い後退、後退!』

『副炉、起動確認!』


 歓声のような報告が重なった。


 クレイドルの中で、若い炉心が新しい座へ落ち着く。

 老いた大炉は、重い息をひとつ吐いて、少しだけ楽になったみたいに鼓動を緩めた。


 そしてボクの耳に、二つの声が重なって届く。


 ――ここ。

 ――よい。


「うん」


 それしか言えなかった。


 気が抜ける。

 膝が笑いそうになる。

 でもまだ終わっていない。最後の整流が残ってる。


「アウリィ!」

 ミラの声。

「最後の合わせ、いけるか!」

「いく!」


 槍を握り直す。

 ここが最後だ。


「外縁へ、もう少し」

「中環、下げすぎない」

「古いほう、休みながら」

「新しいほう、急がない」


 細かい流れを整える。

 支える。

 押しつけない。

 ボクにできるのはそれだけだ。


 でも、それだけで、十分なこともある。


 やがて振動は滑らかになり、警報がひとつ、またひとつと止んでいく。

 最後に残っていた赤い非常灯が消え、代わりに、今まで見たことのない色の灯りがクレイドル全体を包んだ。


 白金と黄金のあいだ。

 曇り空の向こうにあるはずの朝を、誰かが丁寧に混ぜて作ったみたいな色。


「……朝みたい」

 思わず呟くと、すぐそばでミラが笑った。

「この街じゃ最高級の褒め言葉だな」

「そうだね」


 気づけば、ハルヴァーは泣いていた。

「じじい」

 ミラが言う。

「うるさい」

 ハルヴァーは鼻をすすりながら怒鳴る。

「炉が持ったんだから泣いてもいいだろうが」

「いいけど、声はでかい」

「お前もでかい」


 セヴランは制御盤の前で立ち尽くしていた。

 数値を見ているのか、変わった灯りを見ているのか、よくわからない顔だった。


 やがて彼は、静かに言う。

「……官区明度、二段低下。中環、一段低下。外縁二区から三区、二・五段上昇。副炉負荷、許容内。大炉主幹負荷、安定域回帰」


 少しの沈黙のあと、ハルヴァーが鼻を鳴らす。

「ほら見ろ。数字も嘘つかん」

「ええ」

 セヴランは答えた。

「ただ、読み方が足りなかった」


 その声は敗北というより、やっと何かを認めた人の声だった。



      ◇



 副炉起動の余波は、街じゅうにしばらく揺れを残した。


 でもそれは崩れる揺れじゃない。

 眠っていた血流が戻るときの、少しの痺れみたいなものだ。


 保守班が残った無音釘を管理下で段階的に抜き、灯路の再配分が始まる。

 外縁の非常灯は完全には消さず、しばらく併用。

 官区の一部では「暗い」と文句が出たらしいが、ミラは「生きてるだけましだと思え」と一蹴したと後で聞いた。


 ボクはクレイドル脇の床へ座り込み、しばらく動けなかった。


「大丈夫か」

 バルドが紙コップを差し出してくる。

「水だ。熱い茶はやめておけ」

「ありがとう」


 一気に飲むと、喉がやっと自分のものに戻ってくる。


「お前、見た目よりずっと無茶をするな」

「よく言われる」

「それもよく聞く」

「便利な言葉なんだよ」

「だろうな」


 バルドは少しだけ口元を緩め、それから真面目な顔に戻る。


「警務局としては、補給局の強行命令も、反都市集団の妨害も、まとめて洗い直しだ」

「忙しくなるね」

「増えるのは書類だけじゃない。恨みもだ」


 その言葉の重さは、さすがにわかった。


 今夜の成功で、全部が丸く収まるわけじゃない。

 ロシュの問題だって残っている。切り離された街や、捨てられた灯路も。セヴランひとりを責めて終わる話でもない。もっと広く、もっと根深い。


 でも、だからといって、今夜の灯りが無意味になるわけじゃない。


 ボクはクレイドルの中の若い炉心を見る。

 さっきまで怯えていた熱は、いまは静かに脈打っていた。


 ――ここ。

 ――あたたかい。


「よかった」


 ぽつりとそう言うと、背後で足音が止まる。

 振り向けば、セヴランだった。


「……設備に話しかけるのは、まだ理解しがたいですね」

「理解しなくていいよ」

「そうですか」


 彼はしばらく炉心を見てから、低く言う。


「私は処分を受けるでしょう」

「かもね」

「あなたは随分あっさり言う」

「だって、ボクが決めることじゃない」

「……」

「でも、責められるだけで終わらないといいね」

「そう願う資格が、私に?」

「あるんじゃない。だって今日、数え方を増やしたでしょ」


 セヴランは少しだけ目を伏せた。

「あなたは、本当に旅人らしい言い方をする」

「どういう意味?」

「根を下ろさない者の、軽さと強さだ」

「ほめてる?」

「半分」

「じゃあ半分もらっとく」


 彼はほんのわずかに笑った。

 初めて見る、人間らしい笑い方だった。



      ◇



 夜が明ける、という表現はこの街ではたぶん正確じゃない。


 空は相変わらず灰色だし、太陽も見えない。

 でも終灯都には、たしかに“明けた”と思える瞬間があった。


 中央炉塔と暁環灯路が並んで脈を打ち始めたあと、街の灯りは白一色ではなくなった。

 中心の強い光に、外へ向かうあたたかな色が混じる。路地の奥まで、ほんの少しだけ色温度がやさしい。影はまだある。灰霧だってなくならない。けれど、どこか息のしやすい明るさだった。


 外縁二区の橋に立ったネラは、空より先にその色を見て言った。


「朝だ」


 その言葉を聞いたとき、誰も否定しなかった。


 たぶんこの街に必要だったのは、“ほんとうの朝”そのものじゃなくて、それを信じられるだけの灯りだったのだと思う。


「ほら、アウリィ!」

 ネラが橋の欄干から身を乗り出しそうな勢いで手を振る。

「見て! うちの窓まで色が来てる!」

「ほんとだ!」


 ユリアの仕立て屋の窓に、やわらかな金が差していた。

 差す、というのも変かもしれない。空から降っているわけじゃなく、街の中から届いているのだから。

 でも、それでも、たしかに“差している”ように見える光だった。


「母さんが、今日は布かけなくていいかもって」

 ネラがうれしそうに言う。

「ちょっとだけね」

 ユリアが笑う。

「油断はしない。でも、昨夜よりはずっといい」


 トーマはそのやり取りを見ながら、少しだけ疲れた顔で、それでも晴れやかに笑っていた。


「アウリィさん」

「なに?」

「僕、復路便には乗りません」

「お」

「しばらく終灯都に残って、駅務と外縁灯路の連絡役をやろうと思います。ヘリオスで行って戻るだけじゃなく、そのあいだを繋ぐ仕事が必要だってわかったので」

「似合うと思う」

「本当ですか」

「うん。トーマ、繋ぐの向いてる」

「……それ、すごくうれしいです」


 ミラも腕を組んだまま頷く。

「私は半月は残る。ハルヴァーの爺さんだけじゃ配管が泣く」

「誰が爺さんだけじゃだ!」

「実際、人手足りないでしょ」

「足りん」

「ほらな」

「そこで勝ち誇るな」


 相変わらず仲がいいのか悪いのかわからない二人だ。


 バルドはというと、橋の向こうで部下に指示を飛ばしていた。動きに無駄がない。

 忙しそうだけど、その顔色は昨日よりずっとましだ。


 セヴランの姿は見えなかった。

 聞けば、局へ出頭し、緊急調査への対応に追われているらしい。逃げずにそこへ向かったあたり、あの人なりの責任の取り方なのだろう。


「はい、これ」


 ネラが突然、ボクへ何かを差し出した。

 小さな真鍮の灯飾りだった。歯車みたいな輪の中心に、黄色いガラス玉がひとつ埋め込まれている。


「お守り」

「いいの?」

「父さんのじゃないよ。母さんが作った売り物の失敗作」

「失敗なの?」

「ちょっとだけ歪んでる」

「そこがかわいい」

「でしょ」


 ユリアが苦笑する。

「そんなものしかなくて」

「そんなもの、じゃないよ」


 ボクはそれを両手で受け取った。


 小さい。

 軽い。

 でも、ちゃんとこの街の色がする。


「ありがとう。大事にする」

「うん!」


 ネラは満足そうに頷いた。

「次の街でも朝が見えなかったら、それ見て思い出して」

「……そっか」


 思い出して。


 その言葉に、胸の中で何かが柔らかく触れる。


 ボクは次の世界へ行くとき、また記憶を封じる。

 この旅のことも、すぐには思い出せない。

 それはボクが選んでいることだ。変えるつもりもない。


 でも、だからこそ、日記がある。

 こういう小さな灯飾りがある。

 いまのボクが確かに見て、好きになって、悩んだ証が残る。


 たとえ次のボクが真っ白でも、旅のどこかにはちゃんと続いていく。


 そう思えるのが、少しだけ心強かった。



      ◇



 終灯都を発つ日、空はいつもと同じ灰色だった。


 でも街の灯りは、もう前ほど切迫した色をしていなかった。

 暁環灯路の稼働は応急処置にすぎない。切り離された旧灯路の再点検、ロシュを含む放棄区の扱い、補給局の再編、反都市集団との対話の余地、山ほど課題はある。全部がすぐよくなるわけじゃない。


 それでも、人は“これから”を言葉にしていた。


 橋の上で。

 駅の待合で。

 仕立て屋の窓辺で。

 機関室の油汚れた机の上で。


 その“これから”は、たぶん昨夜までよりずっと強い。


 ボクはヘリオス号の見える高架の端に立っていた。

 復路の点検を終えた列車は、もうすぐグレインへ戻るらしい。でもボクはそれには乗らない。


 世界を越える境目は、必ずしも列車の終点にあるわけじゃない。

 この街では、古い支線の果てにそれがあった。


 終灯都のさらに外れ。

 もう使われなくなった灰哭支線の、修復もされず空へ途切れた高架の手前。

 そこだけ風の匂いが薄く、精霊のざわめきが少し違う。


 たぶん、次の一歩で越える。


「ほんとに、ここから行くんですね」

 トーマが隣で言う。

「うん」

「旅人って、やっぱり不思議です」

「よく言われる」


 ミラが少し離れたところで腕を組む。

「今度どこかで会ったら、そのときはちゃんと駅に入れよ」

「今回も入ったよ」

「正門じゃなくて変なところから来た気がする」

「気のせいかも」

「気のせいじゃない顔だな」


 ネラはボクのマントの裾をちょこんと引いた。

「また来る?」

「たぶん、ボクはいろんなところを回るから、約束はできない」

「そっか」

「でも、もし来られたらうれしい」

「うん」


 ユリアがネラの肩へ手を置く。

 その隣でハルヴァーが咳払いした。


「嬢ちゃん」

「なに?」

「日記、ちゃんと書いとけ」

「どうして知ってるの」

「そういう顔をしとる」

「顔で日記書く人みたいなの?」

「みたいだな」


 バルドも来ていた。

「次に別の街で問題を起こすなら、せめて事前に予告しろ」

「起こしてないよ、解決したよ」

「現場の書類量から見れば同罪だ」

「ひどい」

「事実だ」


 そこへ、少し遅れてセヴランが現れた。

 外套は相変わらずきれいだったけれど、目の下にははっきり疲れがある。


「見送りに来たの?」

 ボクが訊くと、彼は少し間を置いて答えた。

「……確認に」

「何を」

「本当に、行ってしまうのかを」

「行くよ」


 セヴランはボクの手元の灯飾りへ視線を落とした。

「旅人には、滞在先の問題など背負う義務はない」

「前にも聞いた」

「ええ」

「でも、背負うかどうかって、義務だけで決めるものでもないよ」

「……そうでしたね」


 彼は一度だけ頭を下げた。

「ありがとうございます、とは言いません」

「言わなくていいよ」

「代わりに、数字の取り方を改めます」

「そっちのほうがずっといい」


 セヴランは小さく息を吐いた。

「あなたのような不確定要素は、最後まで苦手でした」

「でも?」

「必要なこともあると学びました」

「じゃあ大収穫だ」


 誰かが笑う。

 たぶんミラだ。


 ボクはみんなの顔を順番に見た。


 短い旅だった。

 でも、短いってことは薄いって意味じゃない。

 知らない世界で、知らない人たちと出会って、困って、怒って、笑って、ひとつの夜を越えた。

 それだけで十分、好きになれる理由になる。


 日記帳を取り出し、最後の頁を開く。


> 旅日記 終灯都

> この街は朝を知らない。

> でも、朝を欲しがることをやめていなかった。

> 灰色の空の下で、人が灯りを持ち寄ると、夜は少しだけやさしくなる。

> 大きな灯りも、小さな灯りも、どちらかひとつでは足りない。

> 聞かなかった痛みは、いつか別のところを壊す。

> だから、知って、困って、それでも手を伸ばすことは大事。

> ミラはやっぱり怖そうでやさしい。

> トーマはまじめで、これからもっといい意味で苦労しそう。

> ネラは朝を知らないのに、朝の名前をつけるのがうまい。

> ハルヴァーはでっかい声で泣く。

> バルドの書類は多い。

> セヴランは数字の数え方を増やした。

> ボクはこの旅で、灯りが“上から与えられるもの”だけじゃないと知った。

> たぶんそれは、記憶のないボクにとっても同じだ。

> 何も知らないところからでも、誰かにもらった小さな明るさで、次へ進める。


 書き終えて、頁を閉じる。


 そのとき、胸の奥で、ほんのわずかに封じられた記憶の鍵が鳴った気がした。

 まだ開かない。

 でも、旅の終わりが近いと教える音だ。


「じゃあ、行くね」

 ボクは言う。


「おう」

 ハルヴァーが頷く。

「達者でな」

「無茶しすぎるなよ」

 バルドが言う。

「それ、難しいかも」

「だろうな」

「またどこかで」

 トーマが言う。

「うん。もし会えたら」

「会えなくても、灯りは覚えてます」

 ネラが胸を張る。

「ボクも、たぶん」


 ミラは最後まで何も言わなかった。

 ただ、ボクが高架の先へ一歩踏み出す直前に、短く言う。


「アウリィ」

「なに?」

「知らないままで来るのも、悪くないな」

「でしょ」

「でも、知ったあとで逃げるなよ」

「逃げないよ」


 ボクは笑った。

「旅人だからね」


 そうして、途切れたはずの支線の先へ足を出す。


 空気が変わる。

 風の匂いが切り替わる。

 終灯都の灯りが、背中でひとつの景色になる。


 次の瞬間、世界の境目を踏み越えた。


 胸の奥で、静かに封印がほどけはじめる。

 白かったはずの場所へ、遠くて近い、たくさんの旅の手触りが戻ってくる気配。

 でもそれをいま、全部見ようとはしない。


 この旅の終わりは、もうボクひとりのものじゃない。

 統合された“ボクたち”のものになる。

 そして次の旅では、また新しい白紙から始まるのだろう。


 それでいい。


 知らないことは、何度だってはじまりになる。

 知ったことは、何度忘れても、どこかで灯りになる。


 ボクは小さな真鍮の灯飾りを握りしめ、まだ見ぬ次の世界へ足を進めた。


 灰色の街の朝は、もう背中の向こうにある。

 でもその色は、たしかに、次の一歩まで届いていた。

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