2話「灰霧の分岐点」
列車の上から見る夕暮れは、街の中で見上げるそれと少し違った。
灰鐘市グレインの煉瓦屋根が遠ざかっていく。煙突から立ちのぼる煤煙は、地上にいたときよりずっと薄く見えて、その向こうに広がる空は、鉛色というより、くすんだ銀色に近かった。陽はもう低い。雲の裏に隠れて輪郭を曖昧にしているのに、それでも世界の端々には、消えきらない明るさが残っている。
「落ちるなよ」
先頭車両の外側、観測用の狭い足場で、ミラがそう言った。
「落ちそうになったら言うよ」
「落ちそうなやつは大抵、落ちる前にそんな余裕はない」
「それはたしかに」
ボクは手すりに軽く指をかけ、走行風に目を細めた。マントの裾がばたばたとはためく。真下では、巨大な車輪が一定の律動で鉄路を刻んでいる。
速い。
走り出したばかりのときはゆっくりだったのに、気づけばヘリオス号はもう街外れの工業地帯を抜け、煤色の平原へ乗り出していた。遠くに、煤で黒ずんだ塔のようなものが点々と見える。古い換気塔か、枯れた灯台か、その両方かもしれない。
「それで、観測って具体的には何を見ればいいの?」
風に声をさらわれないよう少し大きめに訊くと、ミラは前を見たまま答えた。
「理想を言えば全部だ。風向き、湿り、霧の濃さ、線路脇の導灯の機嫌、前方の圧差、気流の乱れ」
「多いね」
「観測士はそれで飯を食う」
「そっか」
「お前はそこまで完璧じゃなくていい。違和感があったら言え。それだけで助かる」
ぶっきらぼうだけど、嘘をつかない言い方だった。
ボクは頷いて、目を閉じる。
走行中の列車は、停車中より精霊の声がまとまりやすい。ばらばらに騒いでいた蒸気や熱の子たちが、「走る」というひとつの目的に合わせて、少しだけ足並みを揃えるからだ。
……でも、やっぱりこの世界の子たちはせわしない。
風の子が頬を撫でる。
鉄の子が足裏で鳴る。
導灯の小さな火の子たちが、路肩で忙しなく瞬く。
「うん、なるほど」
「何かわかったか」
「前に冷たい層がある」
「距離は」
「三分……ううん、二分半くらい先。右から入る。ちょっと強い」
「……根拠は」
「風の子が嫌がってる」
「その答えに慣れるまで時間がかかりそうだな」
言いつつも、ミラは機関室側へ向き直って短く合図を飛ばした。機関手が弁を少し絞る。ヘリオス号の唸りがわずかに変わった。
そのすぐあとだった。
右手の低地から、冷えた風の塊がぶつかってきた。車体が軽く揺れ、蒸気の白煙が横へ流される。けれど勢いは乱れず、列車はほとんどぶれることなくその風を抜けた。
ミラが横目でボクを見る。
「……本当に聞こえるんだな」
「だから言ったでしょ」
「疑ってたわけじゃない」
「半分くらいは?」
「七割」
「増えてる」
ミラはふっと鼻で笑った。
「いい。次も頼む」
そのたった一言が、なんだかうれしかった。
ボクはこの世界ではよそ者だ。
知らない街に来て、知らない列車に乗って、知らない目的地に向かっている。
なのに、役に立てる場所がある。必要とされる瞬間がある。
それだけで旅は、少しだけ“自分の居場所”みたいになる。
……たぶん、ボクはそういうのに弱い。
記憶がないから、というのもあるのかもしれない。
自分がどこから来たのかは知っていても、どこへ帰るべきなのかは、いまのボクにはわからない。だから、旅の途中で借りる居場所のあたたかさに、つい敏感になる。
「アウリィ」
「なに?」
「ぼんやりするな。次は左の導灯列だ」
「了解」
考えすぎるとミラに叱られる。たぶんそれは、いまは助かった。
◇
観測をひと区切り終えて車内へ戻ると、顔じゅうが風で冷えていた。
トーマが食堂車へ案内してくれる。通路を歩きながら、彼は感心したように言った。
「ミラさんがあそこまで素直に観測結果を採ったの、珍しいですよ」
「そうなの?」
「ええ。腕のない観測士を嫌うので」
「わあ、厳しい」
「命に関わりますからね」
それはもっともだった。
食堂車は思っていたより広く、深い木色の内装に真鍮のランプが並んでいた。走行の揺れに合わせて、吊りランプの光が小さく揺れる。窓の外は、もうすっかり工場街ではない。黒い平地と、時おり線路沿いに立つ導灯塔だけが過ぎていく。
客は多くない。特別列車だからだろう。深い外套を着た商人風の男がひとり、痩せた老婦人とその孫らしい少女が二人、軍人めいた姿勢の護衛がひとり。みんなそれぞれ小声で食事をしている。
「こっちへどうぞ」
トーマが窓際の席を引いてくれる。ほどなくして、湯気の立つスープと黒パン、燻製肉の薄切りが運ばれてきた。
「おいしそう」
「機関車の食事としてはかなり上等ですよ。今日は特別便ですから」
「特別っていい言葉だね」
スープをひと口飲む。濃い。芋と玉ねぎと何か香草の匂い。素朴だけど、冷えた身体にじんわり染みた。
「この列車、客車は少ないけど荷物が多いね」
「後ろの貨車ですか?」
「うん。特に最後尾」
「気づきました?」
「すごく熱い気配がする」
トーマは少しだけ声を落とした。
「黎明炉心です」
「れいめいろしん」
「終灯都の大炉を立て直すための核材です。詳細は機密ですが……簡単に言えば、街じゅうの灯りと防壁を支える心臓みたいなもの、でしょうか」
「それがないと、終灯都は暗くなる」
「はい」
その答え方は、ただの説明じゃなかった。
心配している人の声だった。
「トーマの家族も、終灯都にいるんだよね」
「ええ。母と妹が」
「心配?」
「……それは、もちろん」
トーマは苦笑する。
「でも、もっと正確に言うと、心配している暇があるなら仕事をしろ、と自分に言い聞かせてます」
「まじめだ」
「そうでもしないと不安が勝つんです」
それは少しわかる気がした。
不安って、放っておくとどんどん形を大きくする。まだ起きていないことを、もう起きたみたいに見せてくる。だから、目の前の湯気やパンの硬さみたいな、確かなものをひとつずつ拾っていくのは、案外大事だ。
「トーマは終灯都、好き?」
「好きですよ」
即答だった。だけど、次の言葉は少しだけ遅れた。
「好き、でした……というべきかもしれません」
「でした?」
「昔はもっと、明るい街だったんです」
窓の外へ目を向けながら、トーマは続ける。
「もちろん空はいつだって灰色です。霧もある。でも、灯りがもっと近かった。工房の窓も、市場も、橋の下の茶屋も、みんな遅くまで明るくて、人の声がして……子どもの頃の記憶だから、美化してるだけかもしれませんけど」
「でも、“好きだった”って言い方には理由がある」
「ええ」
トーマはスプーンを置いた。
「ここ数年で、外縁区から順に灯りが減ってるんです。配給も、整備も、全部足りない。だから今回の炉心輸送は、絶対に失敗できない」
「……そっか」
そのとき、近くの席にいた小さな少女が、こちらをじっと見ているのに気づいた。老婦人の孫らしい子だ。目が合うと、ぴっと背筋を伸ばして、恐る恐る訊いてくる。
「おねえちゃん、ほんとに妖精?」
「妖精じゃないよ」
「でも耳が長い」
「ハイエルフ」
「はいえるふ」
少女はその言葉の響きを口の中で転がすみたいに繰り返した。
「じゃあ、つよい?」
「護身術は得意だよ」
「ごしんじゅつ」
「守るほうのやつ」
「すごい」
隣の老婦人が申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみませんねぇ、この子、珍しいものを見るとすぐ」
「ボクも珍しいもの見るの好きだから、おあいこだよ」
「まあ、気立てのいいお嬢さん」
お嬢さん、という呼ばれ方は少しくすぐったい。
「おねえちゃん、終灯都に行くの?」
「行くよ」
「こわくない?」
「ちょっとだけ。でも、楽しみのほうが大きいかな」
「ふしぎ」
「よく言われる」
「またそれだ」
トーマが呆れたように言った。
老婦人が笑う。
「若いってのは、そういうものです」
「若い……うーん」
「違うんですか?」
「たぶん、見た目ほどじゃない」
「?」
自分で言っておいて、ちょっと変な返事だったと思う。
もちろん、詳しく説明する気はない。数万年なんて言っても、たいていの人は冗談か大嘘だと思うだろうし、それで正しい気もする。
いまのボクにとって大事なのは、“どれだけ長く生きたか”じゃなくて、“この一日をどう見るか”のほうだ。
「失礼します」
低い声とともに、護衛らしい男が席の横へ来た。分厚いコートの下に銃帯、首には防霧布。四角い顎に傷が一本入っている。
「警備主任のバルドです。観測補助の方で間違いない?」
「アウリィだよ」
「今夜、灰霧帯に入ります。二十二時以降は不要な移動を控えてください。外扉も勝手に開けないように」
「灰霧帯ってそんなに危ないの?」
「灯りが落ちるとね」
バルドは簡潔に答えた。
「霧そのものが人を食うわけじゃない。だが、視界と方向感覚を奪う。加えて、暗がりに寄るものがいる」
「暗がりに寄るもの?」
「灰喰いだ」
その単語だけで、食堂車の空気が少しだけ硬くなった気がした。老婦人が孫の肩をそっと抱く。
「大きな獣ではありません。霧の中に棲む、灯りに飢えたものです。列車が健全なら問題ない。防灯があるから。ただ、停車が長引けば話は変わる」
「なるほど」
「だから、今夜は何があっても指示に従ってください」
バルドはボクを値踏みするみたいに一瞬だけ見て、それから去っていった。
「怖い人?」
「怖いですけど、いい人ですよ」
トーマが小声で言う。
「いい人は怖くないことも多いけど、怖い人がいい人のこともあるんだね」
「それ、妙に納得します」
窓の外では、最後の明るさがとうとう沈みはじめていた。
◇
食事のあと、ボクは車内を少し歩いた。
旅をするとき、乗り物の“中”を知るのは好きだ。同じ列車でも、機関室と客車と貨車では匂いも音もまるで違う。それぞれの場所に、それぞれの役目がある。
客車の通路は控えめなランプの光で照らされていて、絨毯が足音を吸う。
食堂車は温かい匂いがする。
乗務員室の近くは紙とインクと金属の匂い。
そして後方へ行くほど、熱と警戒の気配が濃くなる。
最後尾近くの手前で、立哨の警備員に止められた。
「ここから先は立入禁止です」
「見学もだめ?」
「だめです」
「そっか」
素直に引き返す、つもりだった。
でも、そのときだった。
貨車の分厚い壁越しに、かすかな“声”がした。
あたたかい。
深い。
なのに、ひどく静かな声。
蒸気の子たちみたいにせわしなくない。火の子たちみたいに怒ってもいない。じっと目を閉じて眠っている誰かが、遠い夢の中で息をしているみたいな気配だった。
「……きみも、乗ってるんだ」
「何か?」
警備員が怪訝そうにする。
「ううん、なんでもない」
そのまま離れたけれど、気になった。
黎明炉心。
終灯都の灯りを支える心臓。
もしあれがただの燃料や機械部品じゃなくて、精霊に近いものなら――。
「考えてもしょうがないか」
ひとりごちて、窓の外を見る。
いつの間にか景色は完全な夜になっていた。だけど、この世界の夜は黒一色ではない。灰色だ。霧が光を飲み込みきれず、薄く広げてしまうから、暗いのに輪郭だけは残る。遠くの導灯が滲んで、ぼんやりと浮かんで見えた。
その曖昧さは、少しだけ、記憶のない自分に似ていると思った。
全部は見えない。
でも何もないわけじゃない。
輪郭だけが、そこにある。
ボクは自分の髪飾りを指先で撫でる。黄色い彼岸花。名前の由来も、選んだ理由も、たぶんいまのボクはちゃんと知らない。それでも、好きだと思う。そう感じるのは、いまのボクの本当だ。
記憶が封じられていることを、ボクは不幸だとは思っていない。
少し不便で、少し寂しくて、でも必要なことなのだと知っている。
……知っている、という言い方も変かもしれない。
“そう決めた自分を、いまの自分が信じている”。
たぶん、それが一番近い。
知らない世界に来るたび、知らない自分からバトンを受け取る。
その先を歩くのは、いまのボクだ。
「だから、ちゃんと見ていかないとね」
独り言に答えるみたいに、車輪が下でからんと鳴った。
◇
二十二時前、ヘリオス号は灰霧帯へ入った。
外の観測足場に出た途端、空気の質が変わるのがわかった。
湿っている。でも雨とは違う。細かな灰が水分を抱いて漂っていて、肌にまとわりつく冷たさがある。導灯の光は半歩先でほぐれてしまい、遠くまで伸びない。世界が丸く狭くなったみたいだった。
「見えにくいね」
「これでも薄い方だ」
ミラが前方を睨む。
機関の鼓動は一定だ。ヘリオス号は順調に走っている。
なのに、霧の中へ入った瞬間から、精霊たちの声がまたばらつきはじめた。
落ち着かない。
せかせかしている。
何かを警戒している。
「導灯の並び、変じゃない?」
ボクがそう言うと、ミラが即座に目を細めた。
「どこが」
「順番ってあるんでしょ、たぶん」
「ある。進路によって色と点滅が違う」
「左前方の二つ目、火の子が嫌がってる。あれ、嘘ついてる」
ミラの表情が変わる。
「トーマ!」
すぐ内側から返事が飛ぶ。「はい!」
「前方導灯列、白梟転轍場のパターンを確認!」
「本来は黄・赤・黄の減速指示です! 灰霧帯通過中なので!」
「いま見えてるのは緑二連だ」
「そんなはずは――」
トーマの声が途切れ、代わりに緊迫した足音が近づいた。
ボクは目を閉じる。霧の向こう、線路脇の導灯たちの小さな火の声が、ぱちぱちと乱れていた。
ちがう。
ちがう。
そっちはいや。
落ちる。
さむい。
背筋が冷えた。
「ミラ、止めて」
「理由は」
「前がだめ。線路じゃないほうへ連れてかれる」
ミラは一瞬もためらわなかった。
「減圧! 総制動!」
汽笛が長く鳴る。
次の瞬間、車体全体が前へつんのめるような強い減速に入った。車輪がきしみ、連結器が悲鳴みたいな音を立てる。客車の中から短い悲鳴と、食器のぶつかる音が聞こえた。
ボクは手すりを握りしめ、足を踏ん張る。
霧の中から、ぼんやりと転轍機の影が浮かんだ。そこから伸びる線路は二本。片方が本線。もう片方は、霧の中へ曲がっていく細い支線。
導灯は、支線のほうへ青白く招くように灯っていた。
「停まれ……!」
ボクが言うのと、ヘリオス号ががくんと最後の制動を噛ませるのは、ほとんど同時だった。
停止位置は分岐の手前、ぎりぎり数十メートル。
沈黙が降りる。
蒸気の吐息だけが白く立ちのぼり、霧と混じっていった。
「助かった、のか」
トーマの掠れた声。
ミラは息を吐き、前方を睨んだまま言った。
「まだわからない。バルドを呼べ」
すぐに警備主任と数人の乗員が集まる。手燈がいくつも灯され、光の輪が霧の中にぼんやり浮かんだ。
バルドが短く指示を飛ばす。
「警備二名は客車の不安を抑えろ。残りは周辺確認。ミラ、転轍の状態は?」
「ここからじゃ見えん」
「なら見るしかないな」
ボクは手を挙げた。
「ボクも行く」
「だめだ」
バルドが即答する。
「お前は民間人だ」
「観測補助でもあるよ」
「だからこそ列車に残れ」
でも、ミラが首を振った。
「いや、来させる」
「ミラ」
「あいつが止めなきゃ、こっちは支線に突っ込んでた。いま一番“違和感”に気づけるのはあいつだ」
バルドは不満そうに眉を寄せたが、最終的には折れた。
「絶対に私の視界から外れるな」
「了解」
「軽く返事するな」
「気をつける」
そうしてボク、ミラ、トーマ、バルド、それに警備員二名で、白梟転轍場へ向かうことになった。
◇
霧の中の線路脇は、列車の上から見るよりずっと不安だった。
足元の砂利は湿り、導灯の明かりはすぐ背後でぼやける。風向きが一定しない。耳を澄ませても、遠くの音が近く聞こえたり、近くの滴る音が急に遠ざかったりする。
「変な感じ」
「灰霧帯は距離感が狂う」
ミラが言う。
「だから観測と信号が要る。目だけで進むと道を食われる」
「道を食われる」
「見失う、って意味だ」
転轍機のそばまで来て、手燈を向ける。
レバーは支線側に倒れていた。
「誰かが切り替えたな」
バルドが低く言う。
「白梟の信号手は常駐一名のはずだ。ミラ、支線は生きてるか?」
「ほぼ死んでる。旧煤哭支線だ。先の高架が二年前に落ちたまま補修もされてない」
「じゃあ、このまま入れば」
「最悪、終点まで行かずに途中で止まる。もっと悪ければ橋脚ごと落ちる」
トーマの顔色が白くなった。
「どうしてそんな支線に……」
「知らん。だが善意じゃないのは確かだ」
ボクは屈んで転轍機の根元を覗き込んだ。
そこに、またあった。
黒い釘。
前に機関室で見つけたのと同じ、鈍い黒の、精霊たちが嫌がる楔。
「これも」
「無音釘か」
ミラが苦々しく呟く。
「やっぱり知ってるんだ」
「噂だけはな。古い工場で、灯精や熱精の調子を無理やり黙らせる違法品だ。保守部じゃとっくに禁止されてる」
「便利だけど、痛そう」
「便利だから余計に質が悪い」
ボクは手袋越しに釘を抜いた。ぞわりと導灯の火が揺れ、弱く悲鳴のような声が戻る。
その瞬間。
風の子が、ばし、と頬を叩いた。
「伏せて!」
叫びながら、いちばん近かったトーマの肩を掴んで押し倒す。
次の刹那、頭上を何かが掠めた。金属音。弾だ。後ろの信号柱に当たって火花が散る。
「狙撃!」
バルドが怒鳴る。
「灯りを下げろ、散開!」
手燈が一斉に伏せられ、霧の中に暗がりが増える。二発目。今度は砂利を弾いた。
「右上、信号小屋の屋根! 二人!」
ボクには見えていない。でも風の乱れが教えてくれる。霧は視界を奪うけれど、動いたものの輪郭は風に残る。
警備員が遮蔽物へ身を寄せ、反対側から威嚇射撃を返す。ミラがトーマの襟首を掴んで引きずり、線路脇の箱の影へ押し込んだ。
「生きてるか!」
「はい! た、たぶん!」
「たぶんじゃなく生きてろ!」
そのやり取りに少しだけ安心して、ボクは地面に低く伏せたまま目を閉じる。
音の数。
呼吸の数。
金属の擦れる気配。
二人……いや、三人。
屋根に二人、地上に一人。地上のほうが動いてる。たぶん小屋へ向かうつもりだ。
「バルド! ひとり下! 小屋の裏に回る!」
「見えるか?」
「聞こえる!」
バルドは迷わなかった。部下へ合図し、一名を右へ回す。銃声がまた霧を裂く。屋根上の一人が姿勢を崩した気配があったが、致命傷ではない。すぐに後退する。
「援護する! ミラ、アウリィ、トーマ、私と来い!」
小屋へ走る。
霧に足を取られないよう、重心を低くして進む。ボクの役目は前に出すぎないことと、出てくる危険を先に拾うことだ。
小屋の扉は半開きだった。
中は真っ暗。油と埃と、うっすら血の匂い。
「待って。罠ある」
足を止める。床板の手前、霧で見えにくい位置に細い針金が張ってあった。トーマが息を呑む。
「よく見えましたね」
「見えたんじゃなくて、空気が引っかかった」
槍の石突きでそっと針金を持ち上げ、横へずらす。扉の上に仕掛けてあった小瓶がからんと揺れただけで済んだ。中身は刺激霧か、発火薬か。どちらにせよ浴びたくはない。
「助かる」
バルドが短く言う。
中へ踏み込むと、信号盤の前に男がひとり倒れていた。制服姿。手足を縛られ、口に布を噛まされている。
「生きてる!」
トーマが駆け寄る。
「イーヴォさん、しっかり!」
そのとき、上から気配。
「上!」
ボクが叫ぶより早く、天井裏から黒い影が落ちてきた。
短棍を振り下ろす。ボクは半歩だけ踏み込みをずらし、槍の柄で受け流す。火花。重い。男だ。近接慣れしてる。
「邪魔だ!」
怒声とともに二撃目。速いけれど、真っ直ぐすぎる。
真正面から叩き合う必要はない。柄の中ほどを滑らせるように相手の手元へ当て、軌道を逸らす。同時に足を差し入れて、膝の外側を軽く払う。相手の重心が浮いた。
そこへ肩口を押す。
「うわっ」
男は派手に転がった。短棍が床を滑る。すかさずバルドが組み伏せる。
「一名確保!」
その瞬間、屋根の方から女の声が響いた。
「やっぱり、いたのね。精霊読み」
小屋の割れた天窓越し、霧の向こうに細い影が立っていた。長い外套、口元を覆う布、片手には信号銃。姿はぼやけて見えるのに、その声だけは妙にはっきり聞こえた。
「ヘリオスを止めたの、あんた?」
ボクは訊いた。
「止めたかったのは列車じゃない。火の独占よ」
女は答える。
ミラが眉を吊り上げた。
「独占だと?」
「終灯都の大炉が咳き込むたび、どこかの小さな炉が止まる。あんたたち、大きな街の灯りだけは守るくせに、他所が暗くなっても見て見ぬふりでしょう」
その言葉に、トーマが息を詰まらせた。
「何を……」
「知らないの? 今回の黎明炉心、どこから来たと思う?」
女の笑いは、愉快そうというより、擦り切れていた。
「燻炭郷ロシュの第二炉心よ。うちの街じゃないけど、似たようなものだわ。小さい街の心臓を抜いて、大きい街へ運ぶ。そうやって“必要なところ”だけ生かしてる」
ボクは思わずミラを見た。
ミラの顔は硬い。知らなかった、とは言い切れない顔だった。
「……証拠は」
バルドが問う。
「貨車の封印番号でも照らしてみれば?」
女は肩をすくめる。
「別に、あたしたちは乗客を殺したいわけじゃない。列車を煤哭支線へ逸らして止めて、荷だけもらうつもりだった。観測士なしでこの霧なら、あなたたちも減速すると思ってた。そこへ精霊読みが紛れ込むなんて計算外だけど」
「ずいぶん勝手だね」
ボクは言った。
「それで誰かが怪我したらどうするの」
「もう、怪我だけじゃ済まない街があるのよ」
女の声が、一瞬だけ揺れた。
怒っている。諦めてもいる。
そのどちらも本物だった。
「名前を」
バルドが言う。
「言う義理はないわ」
彼女が信号銃をこちらへ向ける。赤い光弾。攻撃用じゃない、目くらましか合図だ。
「伏せて!」
炸裂した閃光が小屋の中を真っ赤に染めた。視界が焼かれる。屋根の上で足音が跳ね、すぐに霧へ紛れた。
「追うな!」
バルドが怒鳴る。
「灰霧帯だ、迷う!」
外で数発の銃声が続いたあと、静けさが戻った。捕らえた男ひとり、負傷者ひとり、逃走が少なくとも二名。完全な勝ちとは言いがたい。
でも、列車はまだ無事だ。
「イーヴォさん、大丈夫ですか」
トーマが信号手の布を外す。
「……すまん、油断した」
男は掠れた声で呻いた。
「導灯の点検だと名乗って近づいてきた。無音釘を打たれて……あとは、よく覚えてない」
ミラはすぐに信号盤を確認し、舌打ちする。
「導灯列も書き換えられてる。戻すのに少しかかる」
「何分だ」
「十分……いや、十五」
バルドが低く唸る。
「長いな。灰喰いが寄る」
まるで、その言葉を聞いていたみたいに。
小屋の外の霧が、ざわりと波打った。
いや、霧じゃない。
もっと低い位置。地面すれすれを這う、薄い影の群れ。
「来た」
ボクは呟いた。
暗がりに寄るもの。
灯りに飢えたもの。
導灯が乱れ、列車が止まり、光が一点に集まる。この状況は、たしかに寄ってきたくなるのだろう。
「数は!」
バルドが叫ぶ。
「多い! でも大きくない! 左七、右五、後ろ……まだ増える!」
影は獣というより、霧の塊に歯だけ生えたみたいな形をしていた。輪郭は曖昧で、でも動きだけは異様に素早い。導灯の光へ向かって跳ねる。
「客車へ寄せるな!」
「トーマ、乗員に防灯強化を伝えろ! ミラ、小屋を生かせ!」
バルドが矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「アウリィ!」
ミラが振り返る。
「見えるな?」
「うん!」
「全部言え!」
ボクは頷いて、霧を睨んだ。
「左前、低い! 三つ並んでる!」
「撃て!」
銃声。ひとつ、影が散る。完全に消えたわけじゃない。光の粒になって霧へ散っただけだ。
「右、柱の影! 上じゃない、下!」
「了解!」
バルドの部下が即座に向きを変え、足元へ照準を落とす。灰喰いは撃たれるより、強い光を浴びるほうが嫌らしい。手燈を直に向けられた個体が、じゅっと音を立てて霧へ逃げた。
「なら灯りだ! 客車予備灯を持ってこい!」
トーマがすでに伝令に走っている。早い。
ボクも何もしないわけじゃない。槍を構え、飛び込んできた一体を横から払う。穂先で貫くほどの火力はない。でも、軌道を変えて光の前へ追いやれば十分だ。灰喰いは嫌そうに身をよじり、そのまま散る。
「アウリィ、後ろ!」
ミラの声。
振り向くより先に、風が教えてくれた。低い。速い。
身体を捻る。頬の横を影が掠めた。すれ違いざまに柄尻で叩く。影がよろめいたところへ、バルドの放った手燈が当たり、弾けるように消えた。
「いける!」
「調子に乗るな!」
「はーい!」
霧の中で、ミラは信号盤に向かいながら怒鳴る。
「トーマ! 中央導灯のバルブを全開! 白梟の塔ごと照らす!」
「でも過負荷が――」
「今は灰喰いが先だ!」
「了解!」
やがて、ぎぃん、と高い機械音がして、転轍場中央の導灯塔が一段明るくなった。白青い光が霧を押し返し、群れていた影が一斉に身を引く。
その明るさの中で、逃げ遅れた灰喰いの輪郭がはっきり見えた。
本当に小さい。
犬ほどもない。
それでも、飢えた数が集まれば、人は飲まれる。
最後の数体を散らし終えた頃には、ボクも息が上がっていた。
「……終わった?」
「一旦な」
バルドが周囲を警戒しながら答える。
ミラが信号盤から顔を上げた。
「復旧した! 導灯列、主線へ戻したぞ!」
「よし」
誰かが大きく息を吐く音がした。
そのときになって、やっと自分の手が少し震えていることに気づいた。
怖くなかったわけじゃない。
でも、怖さより先にやることがあったから、後ろへ回っていただけだ。
「アウリィ」
ミラが近づいてくる。
「怪我は」
「ないよ」
「ならいい」
「ミラも」
「私もない」
言ってから、彼女は少しだけ目を伏せた。
「……助かった」
「二回目だね」
「いちいち数えるな」
「うれしいから数える」
「面倒なやつだな」
でも、その声は前ほど刺々しくなかった。
◇
転轍場の導灯が正しい配列に戻り、イーヴォの証言も取れたことで、ヘリオス号は三十分遅れで再出発することになった。
客車へ戻ると、乗客たちは皆、緊張した顔をしていた。老婦人は孫を膝に乗せ、商人風の男は落ち着きなく指を鳴らしている。トーマが丁寧に安全確認を伝えると、ようやくいくつかの肩が下りた。
ボクは自室へ戻る前に、洗面台で頬についた灰を拭った。
鏡の中の自分は、髪が少し乱れている。黄色い瞳だけが妙に明るい。
「すごい顔」
思わず笑ってしまう。
そこで扉が軽く叩かれた。
「入っていい?」
「どうぞ」
ミラだった。いつもの作業コートに、湯気の立つ金属マグを二つ持っている。
「差し入れ。機関室の薄い茶だ」
「やった」
ひとつ受け取る。苦い。でも温かい。
ミラは部屋の壁に軽くもたれ、少しだけ迷うみたいに黙ってから言った。
「さっきの話だが」
「うん」
「燻炭郷ロシュの第二炉心、ってやつ」
彼女はマグの縁を親指でなぞる。
「まったくの嘘じゃないかもしれない」
「ミラは知ってた?」
「確証はなかった。だが、補給局のやり方を考えればありえる」
窓の外では、霧の向こうを導灯が流れていく。
「この国じゃな、全部の街に同じだけ火を回せるほど余裕がない。だから大きい炉を優先する。工業都市、物流都市、軍港、そして終灯都みたいな中枢。理屈としてはわかる」
「でも、小さい街は暗くなる」
「ああ」
ミラは苦い顔で頷いた。
「“全部は救えない”って言葉は、たいてい正しい。正しいから厄介なんだ」
「……うん」
正しいことは、いつも優しいわけじゃない。
それを、ボクは詳しい記憶がなくても知っている気がした。
「トーマは」
「だいぶ効いてる」
ミラが即答する。
「あいつ、根がまっすぐだからな。終灯都を助けることに迷いがなかったぶん、足元の泥を見せられてる」
少しして、ミラはボクのほうを見た。
「お前はどう思う」
「難しい質問だね」
「だから訊いてる」
ボクはマグの温かさを両手で抱えた。
「終灯都の人が暗くなっていいとは思わない」
「うん」
「でも、他の街が暗くなるのもいや」
「子どもの答えみたいだな」
「ボク、こういうとき子どもっぽいの嫌いじゃないよ」
ミラが小さく笑う。
「だろうな」
「だって、いやなものを“いや”って言うの、最初は大事でしょ」
「……まあな」
ボクは少し考えてから続けた。
「それに、知らなかったことを責めるのは簡単だけど、知ったあとでどうするかのほうが大事だと思う」
「知ったあと、か」
「ボク、記憶を封じて旅してるんだ」
「前に少し言ってたな」
「うん。ほとんど記憶喪失みたいなもの。でも、それを自分で選んでる」
ミラは黙って聞いている。
「知らないまま来るのは、ずるいことにも見えるかもしれない。けどボクは、何も知らないところから、ちゃんと見て、ちゃんと好きになったり困ったりしたいんだと思う。で、旅が終わったら全部統合される」
「……妙な生き方だ」
「そうかな」
「普通じゃない」
「それはそう」
ボクは笑って、でも次の言葉は少しだけ静かになった。
「でも、知らないことは終わりじゃないよ。はじまりにできる。たぶんトーマも、これからどうするかを選べる」
「選ぶには、痛いことをたくさん見るぞ」
「旅ってそういうものじゃない?」
「……お前の旅、ずいぶん豪快だな」
ミラはマグを飲み干し、扉へ向かいかけてから振り返った。
「アウリィ」
「なに?」
「さっき、あの女の声を聞いたとき、お前、怒ってたか」
「少し」
「相手の言い分に?」
「ううん。怪我をしていい理由みたいに使ったことに」
「……そうか」
ミラは短く頷いた。
「私もそこは同じだ」
それだけ言って、部屋を出ていった。
◇
眠るには少し早かったので、ボクは通路を歩いた。
車両の揺れは規則正しくて、耳に馴染んでくると心地いい。乗客たちは大半が部屋へ戻っている。ランプの灯りも落とされて、夜の列車は昼よりずっとひそやかだった。
後方へ行く。
立入禁止の手前で、今度はトーマがいた。封印札のついた書類を手にしている。
「あれ、まだ起きてたんだ」
「その言い方、僕が寝る時間みたいじゃないですか」
「少し眠そう」
「それはそうです」
彼は苦笑したが、目の下にはたしかに疲れがあった。
「確認書類?」
「ええ。さっきの転轍場の件で、貨物封印の照合を」
少し迷ってから、トーマは紙の端を見せてくれた。そこには貨車番号と封印番号、積載物の略号が並んでいる。
「……本当に、ロシュから来てる」
「やっぱり」
「はい」
トーマの声は重かった。
「燻炭郷ロシュ。炭鉱と小炉で成り立っていた小さな町です。二年前に本線から切り離されて、いまは半廃棄区扱いだとか」
「その町の炉心を」
「終灯都へ」
彼は紙を閉じた。
「理屈はわかるんです。終灯都には人が多い。防壁が落ちれば被害も大きい。優先順位はある。頭では」
「でも心が追いつかない」
「……ええ」
しばらく二人で、貨車の壁越しの熱を感じていた。
あの中にあるものは、さっきより少しだけはっきりと気配を放っていた。深い眠りの底で、ときどき身じろぎしている。あたたかいのに、どこか寂しい。
「トーマ」
「はい」
「中の子、ひとりぼっちみたい」
「子、ですか」
「たぶん精霊に近いもの。違ったらごめん」
「……アウリィさんがそう言うなら、違わない気がしてくるのが不思議です」
彼は少しだけ壁に手を当てた。
「終灯都では、炉心は“街の心臓”って教わります。誰かのものじゃなく、みんなのためのものだって」
「うん」
「でも、もし本当に他の街から心臓を抜いてきてるなら……それは、誰のためなんでしょうね」
その問いに、すぐ答えられる言葉はなかった。
たぶん、誰かのためであることと、誰かを踏みにじっていることは、同時に成立してしまう。
だから難しい。
「ボクね」
少し考えてから、言う。
「知らないことが多いのは平気なんだ。むしろ楽しい」
「ええ」
「でも、“知りたくない”になったら、たぶん旅がつまらなくなる」
「……」
「トーマが苦しいのは、ちゃんと知ろうとしてるからだよ。だからその苦しさは、たぶん無駄じゃない」
トーマはしばらく黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ笑う。
「慰められてるのか、背中を押されてるのか、わかりません」
「両方かも」
「便利な答えですね」
「便利だよ」
そこで、貨車の向こうからかすかに熱が揺れた。
あたたかい息みたいな気配。
そして、ごく弱く、今度ははっきりと言葉にならない響きがあった。
――さむ、い。
ボクは思わず壁に手をつく。
「聞こえた?」
「何がです?」
「炉心」
「いえ……」
たぶん、ボクにしか聞こえていない。
寒い。
あんなに熱を抱えているのに。
心臓みたいなものなのに。
その矛盾が、妙に胸に引っかかった。
◇
結局その夜、ボクはほとんど眠れなかった。
怖かったからじゃない。
考えたいことが増えたからだ。
終灯都は助けたい。
でも、そのために暗くなる街があるなら、何が正しいんだろう。
さっきの女の言葉は乱暴だった。でも、全部が嘘じゃなかった。
ミラは知っていたかもしれない。トーマは知らなかった。ボクは何も知らないままここへ来て、それでも列車を守る手伝いをした。
それは間違いだったのか。
「……違う」
声に出して、否定した。
誰かを助けること自体は、間違いじゃない。
ただ、それで見えなくなるものがあるなら、見ようとしないのはだめなんだ。
ボクは机の上に日記帳を開く。
> 旅日記 二頁目
> 灰霧は、近くのものと遠くのものの境目を曖昧にする。
> たぶん、それは景色だけじゃない。
> 終灯都の火は必要。でも、その火がどこから来たのかも必要。
> ミラは知っていて黙っていたわけではなく、たぶん知っていて困っていた。
> トーマは知らなくて、知ってしまって、今とても困っている。
> ボクは知らないことに慣れてる。けど、だからこそ、知ったあとで目を逸らさないようにしたい。
> あと、灰喰いは見た目ほど大きくないのに、集まるととても怖い。
> 世の中、そういうものが多い気がする。
書き終えて、少しだけ胸が軽くなる。
言葉にするのは不思議だ。頭の中で渦を巻いていたものが、紙の上に落ちると、輪郭を持つ。輪郭があると、怖さが少しだけ減る。
ボクはペンを置き、窓を見た。
外はまだ灰色の夜。
でも、さっきより霧が薄い。
そのとき、扉が二回、控えめに叩かれた。
「アウリィさん、起きてますか」
「トーマ?」
「はい。……その、もし眠っていないなら」
開けると、トーマが小さな紙袋を持って立っていた。
「これ、食堂車の残りです。夜食にどうぞ。ミラさんが、考えすぎて倒れる前に口へ入れろ、と」
「ミラやさしい」
「言い方はひどかったですけどね。“あのチビは放っておくと悩みながら空腹で倒れそうだ”と」
「ひどい!」
「でも、当たってません?」
「少しだけ」
袋の中には、小さな砂糖菓子が入っていた。歯車の形をしていて、表面に薄く黄色い糖がまぶしてある。
「かわいい」
「グレイン名物らしいです」
「最高だね」
一つ口へ放り込む。しゃり、と甘い。疲れた頭にしみる。
「ありがとう」
「こちらこそ」
トーマは少しだけ恥ずかしそうに目を逸らした。
「さっきの言葉、助かりました」
「どれ?」
「苦しさは無駄じゃない、ってやつです」
「本当だよ」
「ええ。だから、終灯都に着いたらちゃんと見ようと思います。家族のことも、街のことも」
「うん」
いい顔だった。
まだ悩んでいる。でも、逃げる顔じゃない。
「それにしても」
トーマがボクの頭を見て言う。
「灰をかぶっても、その花飾り、目立ちますね」
「でしょ」
「灯りみたいです」
「……そっか」
その言葉は、なんだか少しだけ、胸の奥に残った。
トーマが去ったあと、ボクはもう一つ砂糖菓子を食べた。
甘い。
あたたかい。
ちょっとだけ救われる。
きっと、街の灯りも、本当はそういうものなんだろう。
ただ明るいだけじゃなくて、誰かに“明日まで行こう”と思わせるためのもの。
だったら、その火をどう使うのかを、ちゃんと見なくちゃいけない。
◇
深夜を過ぎる頃、ヘリオス号は灰霧帯の最深部を抜けつつあった。
眠れないまま、ボクはもう一度だけ通路へ出た。車内は静かで、機関の鼓動が床越しに伝わる。立入禁止の手前まで来ると、警備員はいなかった。交代で席を外しているらしい。
貨車の壁の前に立つ。
「起きてる?」
小さく問いかける。
返事があるとは思っていなかった。
でも、じんわりと熱が返ってきた。
最初より近い。
最初より寂しい。
そして、かすかな声。
――どこ、へ。
「終灯都だよ」
ボクも小声で答える。
「たぶん、きみを必要としてる街」
少しの沈黙。
――かえ、る?
その一言に、喉の奥が少し詰まった。
帰る。
誰にとっての。
何にとっての。
「……わからない」
正直に言う。
「でも、わからないなら、見に行こう。ボクも一緒に」
熱が、ほんの少しだけ揺らいだ。
それが安心なのか、不安なのか、まだわからない。
ただ、さっきまで遠かったはずのその声が、いまはたしかに“ひとつの誰か”として感じられた。
機械の部品じゃない。
燃料の塊でもない。
少なくとも、ボクにとっては。
そのとき、先頭側から汽笛が一度、長く鳴った。
灰霧帯の出口を告げる合図かもしれない。
窓の外を見ると、遠くに、霧の向こうの灯りがいくつも滲んでいた。
点じゃない。帯のような、街の灯り。
「終灯都……?」
まだ遠いはずだ。前哨灯台群か、外縁の防壁灯か。
でも、目的地の気配が見えた気がした。
知らない街。
揺れている灯り。
その心臓として運ばれる、帰る場所のわからない火。
旅は、ただ景色を見るだけじゃ終わらない。
たぶんここから、もっと難しくなる。
それでも、ボクは少しだけ口元を上げた。
難しいことを知ってしまったからって、旅がつまらなくなるわけじゃない。
むしろ、目を逸らさずに進めるなら、その旅はきっと深くなる。
「次は、きみのことも知らなきゃね」
貨車の向こうの熱に、そう告げる。
ヘリオス号は灰色の夜を裂いて走る。
霧の先、灯りの街へ。
救いと犠牲、その両方を抱えたまま。
ボクはその振動の中で、次に待つ景色を思った。
楽しみだ、とは、もう前みたいに無邪気にだけは言えない。
でも、それでも。
知りたい、と思った。




