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1話「煤煙の駅で、旅ははじまる」

 世界を越える瞬間は、いつだって静かだ。


 扉が開く音もしないし、眩しい光が走るわけでもない。ただ、次の一歩を踏み出したとき、足の裏に触れる土の感触と、肺に入ってくる空気の匂いが、前の世界のものではなくなっている。それだけで、ああ、また新しい旅のはじまりなんだなってわかる。


 ボクは錆びた信号柱のそばに立ち、ゆっくりと息を吸った。


 乾いた鉄。煤。遠くで焚かれる石炭。霧に濡れた石の匂い。木々や花の甘さは薄くて、その代わり、街そのものが巨大な炉みたいな熱を抱えている。


「うわあ……」


 思わず声が漏れた。


 視界の先、灰色の雲の下に、たくさんの煙突が立っていた。いくつもの橋が空を横切るみたいに伸び、その上を細い鉄路が走っている。街の中心には大きな時計塔があって、四方に真鍮色の配管を張り巡らせていた。ときおり白い蒸気が噴き出し、曇った光の中で雲みたいに膨らんでは流れていく。


 知らない景色だ。


 だから、嬉しい。


 胸の奥が、子どもみたいに跳ねた。


 ――名前は、アウレーリエ・リュコーリアス。愛称はアウリィ。

 ――旅人。

 ――記憶は、自分で封印している。


 そこまでは、ちゃんと覚えている。


 それより前のことは、白い。数万年ぶん積み重なっているはずの時間も、誰かと笑った記憶も、泣いた記憶も、いまのボクには手が届かない。思い出そうとしても、指先が白紙の表面をなぞるばかりだ。


 でも、それでいい。


 いや、たぶん――それがいいから、ボクはそうしている。


 知らない世界を、知らないまま、まっさらな驚きで好きになるために。


「よし」


 ボクは自分の頬を軽く叩いた。


 生成り色のワンピースの上に、赤龍の革でできたベスト。肩から羽織った魔法のマントは、煤けた風を受けて静かに揺れる。足元は歩きやすいブーツ。髪はいつも通りのセミロングで、片側を三つ編みのおさげにしてある。耳元で黄色い彼岸花の髪飾りが小さく揺れた。


 傍らには、内部拡張を施したトランク。

 腰にはポーチが二つ。

 背にはミスリルの聖槍。


 旅支度よし。今日を楽しむ気持ちも、ばっちりだ。


 ボクはポーチから小さな日記帳を取り出し、立ったまま一行書いた。


> 旅日記 一頁目

> 空が灰色で、煙が忙しそう。

> たぶん、すごくおもしろい世界だ。


 書いてから、自分でふふっと笑う。


 毎回はじまりは白紙だ。でも、白紙だからこそ、一行目はいつだって新鮮だった。


 日記をしまい、目を閉じる。


 精霊たちの気配を探った。


 風の流れ。地面の熱。鉄の響き。蒸気の震え。世界ごとに、精霊の癖はぜんぜん違う。この世界の子たちは、とにかくせわしない。森や川にいる精霊みたいなゆったりした息づかいじゃなくて、圧力計の針みたいに忙しく震えている。油と火と鉄の匂いをまとって、休みなく走り回っていた。


「うーん……仲よくなるの、ちょっと時間がかかりそう」


 でも、嫌われてるわけじゃない。警戒されてるだけ。初対面なんだから当然だ。


 ボクは信号柱を振り返った。赤錆びた鉄の表面に指を触れると、その奥にかすかな名残がある。世界の境目を越えてきた痕跡。でも、それもすぐに薄れていくだろう。


 未練はなかった。


 いや、本当は“未練があるかどうか”すら、記憶がないからわからないのかもしれない。


 そう思うと少しだけ胸の奥がひんやりしたけれど、次の瞬間には、遠くから鳴った汽笛がそれをさらっていった。


「行こう」


 ボクは街へ向かって歩きだした。



      ◇



 街の入口には、分厚い鉄の門と、蒸気で動くらしい昇降式の柵があった。門番は二人。灰色の外套に革手袋、腰には短い警棒。どちらもボクを見るなり、ちょっと困った顔をした。


「嬢ちゃん、保護者は?」

「いないよ」

「……迷子か?」

「旅人だよ」


 二人は顔を見合わせた。


 うん、その反応は慣れてる。


 ボクは背筋を伸ばした。伸ばしても身長は百四十七センチだけど、気持ちは大事だ。


「アウレーリエ・リュコーリアス。アウリィでいいよ。怪しいものじゃないです」

「怪しいやつは大抵そう言うんだ」

「わあ、賢い」


 つい感心すると、片方の門番が吹き出した。


「変わった嬢ちゃんだな」

「よく言われる」

「耳が尖ってる……森エルフの類か?」

「ハイエルフ。たぶん」

「たぶん?」


 しまった、って顔をされたので、ボクはにこっと笑ってごまかした。


「細かいことは置いといて、この街、入ってもいい?」

「……武器の持ち込みは申告制だ。槍は見たまんまか?」

「見たまんま、槍だよ」

「ずいぶん上等だな」

「相棒なんだ」


 門番はため息をつきつつも、簡単な記帳だけで通してくれた。旅人は珍しくないらしい。ただし、面倒事を起こすなよ、と念を押された。


「もし宿を探すなら時計塔の北側だ。あと、今日は中央駅が騒がしい。近づくなら気をつけろ」

「中央駅?」

「特別列車が止まってる。機関トラブルだか何だかでな」


 駅。


 その単語だけで、心がぱっと明るくなった。


「ありがとう!」


 ボクは軽く手を振って、街の中へ駆け込んだ。


 石畳の道の両脇には、背の高い煉瓦造りの建物が並んでいる。壁面には真鍮の配管が這い、ところどころに青白い灯りがともっていた。ガラス張りの店先には歯車や時計、銅の小物がずらりと並び、路地の上には蒸気を逃がす白い煙が流れていく。


 面白い。


 あっちを見てもこっちを見ても、知らないものだらけだ。


 ボクはつい立ち止まって、店の軒先でくるくる回る風見鶏みたいな機械細工を眺めた。羽の代わりに薄い真鍮板がついていて、一定の風向きになると小さな鈴の音を鳴らすらしい。隣の店先には、ゼンマイ仕掛けの鳩が数羽、カタカタと足を鳴らして歩いている。


「お姉ちゃん、その花、火みたい」


 呼びかけられて振り返ると、パン屋の前にいた小さな女の子が、ボクの髪飾りを見上げていた。


「これ? 彼岸花っていうんだ」

「ひがんばな」

「黄色いのは珍しいでしょ」

「うん。きれい」


 女の子はにこっと笑って、すぐに母親に呼ばれて走っていく。その笑顔が、煤けた街の色の中で、妙に鮮やかだった。


 ボクは髪飾りに触れた。


 何かを思い出せそうで、思い出せない。黄色い花。追想。陽気。元気な心。深い思いやり。

 ――そんな言葉が、ふっと浮かんで消える。


「……不思議」


 でも、寂しくはなかった。

 いま見た笑顔は、ちゃんと“いまのボク”のものだから。


 大通りに出ると、人の流れが一気に増えた。皆、同じ方向へ急いでいる。蒸気自動車みたいなものが道路脇を唸って通り過ぎ、上空の鉄橋では列車が重い音を響かせていた。


 中央駅は、すぐにわかった。


 巨大だったから。


 半円形のガラス屋根。その下にいくつものホーム。時計塔と一体になった正面玄関の上では、大きな歯車が幾重にも噛み合って回っている。建物そのものがひとつの機械みたいだ。


「わああ……!」


 もう、楽しくないわけがなかった。


 ボクが目を輝かせて玄関ホールへ入った、そのときだった。


「どけろ! ブレーキが利かねえ!」


 怒鳴り声。


 振り向くと、荷物用の蒸気台車が白煙を噴きながら坂を下ってきていた。真鍮の車輪が石床を火花散らして滑り、その進路の先には、転んだ少年がひとり、腰を抜かして動けなくなっている。


 考えるより先に体が動いた。


 ボクは聖槍を抜き、石床を蹴る。


 低い姿勢で滑り込み、槍の柄を台車の前輪と床の隙間に差し込む。真正面から止めるんじゃなく、軸をずらして進行方向を切る。ガン、と鈍い衝撃。腕に重さが走る。同時に左足で少年の襟を掴み、横へ引き倒した。


 台車は進路を変え、そのまま柱へ突っ込んで止まった。


 蒸気がしゅうしゅうと漏れる。


 しん、と一瞬だけ静まり返ってから、周囲がざわめいた。


「無事?」

「あ、う、うん……」

「よかった」


 少年を立たせると、近くにいた駅員が青い顔で駆け寄ってきた。


「き、君、いまのをひとりで?」

「たまたまだよ。角度がよかったから」

「たまたまで済ませる動きじゃないだろ……」


 息を切らせた若い男が、帽子を押さえながら立ち止まった。濃紺の制服に真鍮のボタン、胸元には車掌章。まだ年は若そうだけど、きっちり背筋を伸ばしている。


「ありがとうございます、助かりました。怪我は?」

「ボクは平気。そっちは?」

「こちらも。……本当に、ありがとうございます」


 律儀に頭を下げる彼の向こうから、別の声が飛んできた。


「トーマ、礼はあと! 六番ホームの圧がまた跳ねた!」


 現れたのは、煤で汚れた作業コートにゴーグルを頭へ引っかけた女性だった。背が高い。腕まくりした前腕には油汚れが筋になってついていて、髪は銅色をした短髪。鋭い目つきで周囲を見回し、台車とボクをひと目で確認すると、眉を寄せた。


「……その子が止めたのか?」

「子じゃないよ」

「そういう問題じゃない」


 女性はあきれたように言ってから、トーマと呼ばれた青年へ向き直った。


「駅長に伝えて。ヘリオスはこのままじゃ出せない。今度こそ本気で爆ぜる」

「でも、ミラさん、終灯都への到着が一刻遅れれば――」

「わかってる!」


 ミラ、と呼ばれた女性の声には苛立ちが滲んでいた。でもそれは誰かに八つ当たりする種類のものじゃなくて、焦りを無理やり押し込めてる音だった。


 ボクはその先を、耳じゃなくて別のところで聞いた。


 六番ホームの方角から、落ち着かない精霊のざわめきが流れてくる。火の子、蒸気の子、鉄を巡る細い振動の子。怯えたり怒ったりして、ひどく忙しない。


「……泣いてる」


「え?」

 トーマが聞き返す。


「列車」


 ボクがそう言うと、ミラの目が細くなった。


「占いは間に合ってる」

「占いじゃないよ。ボク、ちょっとだけ精霊と話せるんだ」

「この街でその台詞は、詐欺師と酔っ払いがよく使う」

「じゃあボクは三番目かな」

「何だそれは」

「旅人」


 トーマが困ったようにボクとミラを見比べる。


「ミラさん、でも……この方、さっきの動きを見たでしょう。少なくとも普通ではありません」

「普通じゃないのは認める」


 そのとき、六番ホームの方から大きな蒸気音が響いた。遠巻きにしていた客たちが悲鳴を上げて散る。


 ミラが舌打ちした。


「くそ……」

「十分だけ、見せて」


 ボクは言った。


「ボク、壊れたものを派手に直すのは苦手。でも、どこが苦しいのか見つけるのは得意なんだ」

「……」

「だめなら、すぐ帰る」


 ミラはしばらく黙っていた。疑っているのがよくわかる顔だった。だけど次の蒸気音がさっきより不穏に響くと、彼女は乱暴にゴーグルを額まで上げた。


「十分だ。それ以上邪魔したら放り出す」

「やった」

「トーマ、お前がつけ」

「はい!」


 そうしてボクは、灰鐘市グレイン中央駅六番ホーム、長距離機関列車《ヘリオス号》のもとへ案内されることになった。



      ◇



 近くで見る《ヘリオス号》は、まるで黒鉄の獣だった。


 丸みを帯びた機関車の胴体に、金の縁取り。前面には太陽を模した紋章がついていて、車輪は人の背丈ほどもある。何両もの客車と貨物車を繋ぎ、その最後尾には厳重な警備がついた特殊貨車が連結されていた。車体の隙間から熱が伝わってきて、空気がじりじりと揺れている。


「すごい……」

「見惚れてる暇があるなら乗れ」


 ミラに急かされ、ボクは機関室へ足を踏み入れた。


 瞬間、世界が音で埋まった。


 金属の打音。蒸気の噴き出す高い悲鳴。ピストンの往復。歯車の唸り。そこに精霊たちのざわめきが重なって、頭の中まで振動する。


「っ……」


 思わず目を細める。


 この世界の精霊たちは、自然の静けさじゃなく機械の律動に寄り添っている。だから声の出し方が違う。森の精霊なら葉擦れや水音に言葉を乗せるけれど、ここの子たちは圧力と熱と回転のリズムでしか話さない。


 つまり、とても騒がしい。


「大丈夫ですか?」

 トーマが心配そうに覗き込む。

「大丈夫。ちょっとだけ、耳がいっぱいなだけ」

「耳がいっぱい……?」

「うん、そんな感じ」


 ボクは深呼吸した。焦るな。相性が悪い世界は珍しくない。聞こえにくいなら、聞き方を変えればいい。


 槍の石突きを床につけ、そっと目を閉じる。


「風の子、少しだけ。熱の子、怒らないで。鉄の子、道を教えて」


 小さな精霊術。攻撃には向かない、索敵と補助のためのささやかな呼びかけ。ボクの周囲の空気が薄く震え、雑音の中からいくつかの輪郭だけが浮かび上がる。


 熱い。苦しい。うるさい。刺さってる。嫌だ。


 断片的な訴え。


 それだけで十分だった。


「……こっち」


 ボクは機関の横を回り込み、配管が集中している細い足場へ向かった。ミラがすぐ後ろについてくる。


「何が見える」

「見えるんじゃなくて、聞こえる。たぶん、痛いのはあの辺」


 指差した先は、人がひとり通るのがやっとの隙間だった。普通なら点検しづらい場所だ。けれどボクの背丈なら、無理なく潜り込める。


「待て、そこは高温だ」

「平気。マントに守りがあるから」


 ひらりと足場を移り、配管の束の奥へ顔を寄せる。蒸気が肌を刺す。でも、その熱の向こうに、妙な“無音”があった。


 この機関室にはうるさいほど精霊がいるのに、そこだけぽっかり、気配が途切れている。


「いた」


 真鍮管の継ぎ目に、黒い釘みたいなものが打ち込まれていた。長さは指ほど。表面に細かい溝が刻まれていて、見ているだけで精霊が嫌がるのがわかる。鉄でも真鍮でもない、鈍い黒。


「ミラ、あれ、何?」

「……知らない。少なくとも純正部品じゃない」

「だよね」


 ボクは槍の穂先を反転させ、柄でそっとそれに触れた。


 ぞ、と空気が冷えた。


 嫌なものだ。精霊を遠ざけ、機械の“機嫌”を無理やり黙らせるための楔みたいだった。


「抜くよ」

「待て。圧の流れが読めない」

「抜いた瞬間、右の赤い弁を開けて。三つ並んでるうちの真ん中」

「は?」

「いま起きてる子たちが、そこから逃げたがってる」

「子って……精霊のことか?」

「うん」


 ミラは一瞬だけ眉をしかめ、それでもすぐに位置を確認した。迷いのない動きはさすが技師だ。


「……いい。やれ」


 ボクは頷き、呼吸を整えた。


 力任せじゃだめだ。ここで必要なのは、傷口から棘を抜くみたいな繊細さ。


 槍の柄先を釘の頭に滑り込ませ、てこの要領でごくわずかに浮かせる。精霊たちが一斉にざわついた。黒釘がきしむ。


「いま!」


 抜いた。


 同時に、機関車全体が獣みたいに唸りを上げた。


「開けた!」


 ミラが真ん中の弁を回す。轟、と赤熱した蒸気が横へ抜け、機関室の空気が激しく揺れた。熱風が襲い、足場が軋む。


 でも、さっきまで悲鳴みたいだった音が変わる。


 苦鳴じゃなく、深く息を吐く音へ。


 針が跳ね、やがて落ち着いていく。振動が整う。熱の流れが滑らかになる。


 ボクは無意識に笑っていた。


「よかったあ」

「……本当に、何なんだあんたは」


 足場の向こうでミラが呆然と呟く。黒い釘はボクの掌の中でじわりと冷たく、嫌な気配を放っていた。


「これを打ち込んだ誰かがいるってことだね」

「ああ。しかも機関の癖を知ってるやつだ」


 その瞬間、風の子がひとつ、ボクの頬をかすめた。


 焦げた油の匂い。硬い靴音。急ぎ足。逃げる気配。


「トーマ!」

「はい!」

「左後方、整備員通路! 今、走ってる!」


 トーマが反射的に振り向いた。でも彼の視界からは見えないらしい。


「見えません!」

「じゃあボクが行く!」


 足場から飛び降りる。着地の衝撃を膝で殺し、そのまま機関室を抜けてホームへ。人々のざわめきの中、ボクにはひとつだけ異質な足音が聞こえていた。焦っているくせに、足運びが訓練されてる。荷役人の歩き方じゃない。


 灰色の作業服の背中が見えた。


「止まって!」


 叫んでも当然止まらない。男は振り返りもせず、工具をひとつ投げつけてきた。レンチが回転しながら飛ぶ。


 ボクは半歩だけ身体をずらして避けた。


 大きな術で吹き飛ばすのは苦手だ。火力はない。けれど、距離と重心を奪うなら話は別。


 床を蹴って一気に間合いへ入る。男が腰の短い空気銃に手を伸ばすより早く、槍の柄尻で手首を跳ね上げ、二撃目で膝裏を払った。男の体勢が崩れる。そこへ肩口を軽く押すだけで、重心が前へ流れた。


「うわっ」


 男は派手に転んだ。空気銃が床を滑る。


 追いついたトーマがすぐに組みつき、周囲の駅員も駆け寄る。


「確保しました!」

「ふう」


 ボクは槍をくるりと回して背に戻した。いまのくらいなら、攻撃力が低くても十分だ。痛めつける必要なんてない。転ばせて、動けなくすればいい。


 男は歯を食いしばり、ボクを睨みつけた。


「ガキが……」

「ガキじゃないよ」

「その訂正、今じゃなくてよくないですか」

 トーマが息を切らしながら言う。


 そこへミラと、白髭の駅長らしい老人がやってきた。老人は倒れた男と、ボクの手の中の黒釘を見るなり顔色を変えた。


「ラド……お前か」

「駅長、違う、俺はただ頼まれただけだ!」

「誰に」

「知らねえ、顔も見てない! 金を置いていきやがっただけだ! ヘリオスを今日中に出すなって、終灯都にもう火は要らねえって……!」


 そこで男は口をつぐんだ。言いすぎたと思ったのだろう。でも、もう遅い。


 ミラの目が、氷みたいに冷えた。


「連れていけ」

「待っ――」

「トーマ」

「はい」


 トーマは他の駅員たちと協力して男を立たせ、そのまま詰所へ引きずっていった。男はなおも喚いていたけれど、ホームの喧噪の中にすぐ溶けた。


 残ったのは、熱を吐く機関車と、重い沈黙だった。


「終灯都に火は要らない、か」


 駅長が低く呟く。


 ミラが鼻で笑った。


「だったらあいつら、自分で灰霧の中に住んでみればいい」


 ボクは首を傾げた。


「終灯都って、そんなに大事なところなの?」

「大事だよ」


 答えたのは、いつの間にか戻ってきていたトーマだった。まだ呼吸は少し乱れているけれど、さっきより落ち着いている。


「この路線の終着都市です。街を守る大炉が弱っていて、新しい黎明炉心を届けないと、外縁区から順に灯りが落ちる。灰霧は夜になると濃くなるから……灯りと防壁がなければ、人は暮らせません」

「それを運ぶのがヘリオス号」

「ええ」


 トーマの視線が、最後尾の厳重な貨車へ向く。


「本当なら昨日の夜に出るはずだったんです。でも観測士が事故で負傷して、機関にも不調が続いて……」

「事故じゃないな。十中八九、同じ手合いだ」


 ミラが吐き捨てる。


 それから、じっとボクを見た。


「……助かった」

「どういたしまして」


 素直に礼を言われるとは思っていなかったので、ちょっと嬉しい。


「でも、まだ問題は残ってる」

 ミラは腕を組んだ。

「観測士がいない。灰霧帯を抜けるには、線路の先の気流と灯精の乱れを読む人間が必要だ。勘のいい機関士だけじゃ足りない」

「代わりの人は?」

「この駅に都合よくいれば苦労しない」


 そこで、三人の視線が揃ってボクに向いた。


 え、という顔をしたのはたぶんボクだけだったと思う。


「いや、ボク?」

「精霊の気配を読むんだろ」

 ミラが言う。

「この世界の流儀と違っても、いまの機関を立て直した腕は本物だ」

「いやあ、腕っていうか耳っていうか……」

「どっちでもいい」


 トーマが一歩進み出る。


「お願いします、アウリィさん。報酬は出します。終灯都までの乗車と宿、食事、それに正式な依頼料も」

「報酬より旅が進むのがうれしいけど」

「じゃあ、なおさら好都合だ」


 ミラはまだ完全には信用していない顔だった。でも、さっきよりずっとましだ。少なくとも“子どもがふざけてる”扱いは消えている。


「条件がある」

 ミラが言う。

「勝手な行動はするな。危ないと思ったらすぐ言え。機関室では私の指示に従え。それから――」

「それから?」

「寝坊するな。ヘリオスは夜明け前から動く」

「がんばる」


 ボクが即答すると、トーマが吹き出しそうな顔で咳払いした。


「決まり、ですか?」

「……ああ」


 ミラは諦めたように肩をすくめた。


「乗れ、アウリィ。終灯都まで、ヘリオス号はお前を観測補助として雇う」

「やった!」


 思わず両手を上げると、ミラが少しだけ目を丸くした。次いで、ほんのわずかに口元が緩む。


「本当に変なやつだな」

「よく言われる」

「それ、さっきも聞いた気がする」

 トーマが言った。



      ◇



 出発準備が再開されたホームは、さっきまでの混乱が嘘みたいに慌ただしかった。


 駅員たちが走り回り、整備班が最終点検をし、乗客の案内放送が響く。ボクはトーマに連れられて乗務員用の小さな客室へ案内された。窓は丸く、ベッドと机がひとつずつついた簡素な部屋だけど、旅人には十分すぎる。


「荷物はここへ」

「ありがとう」


 ボクがトランクを置くと、トーマがその大きさを見て首をかしげた。


「思ったより小さいですね」

「中は広いよ」

「え?」

「秘密」

「……深く聞かないことにします」


 賢明だね、とは言わないでおいた。


 トーマは部屋の備品や非常用の鈴、食堂車の場所、消灯時間まできっちり説明してくれた。真面目な人だ。たぶん、しっかり者。きっと損をしやすい。


「トーマって、ずっとこの路線の人なの?」

「ええ。生まれは終灯都です。訓練のためにグレインへ出て、いまは車掌補として戻る途中というか……本当はもっと平和な再会になるはずだったんですが」

「そっか」


 家に帰る途中。

 その言葉に、胸の奥が少しだけ空いた気がした。


 ボクには、“帰る”の輪郭がない。


 あるのかもしれない。どこかに。誰かが待っている記憶も、きっと封じられてる。でも、いまのボクにはそれがわからない。


 わからないことは、たまに寂しい。


 でも、寂しさと引き換えに、ボクはこの世界を初めての目で見られる。

 それを手放したくないと思っている自分も、確かにいた。


「アウリィさん?」

「あ、ごめん。ちょっと考えごと」

「もし不安なら、出発前に降りることも――」

「ないない」


 ボクは笑って首を振った。


「ボク、不安も好きなんだ。知らないってことは、そのぶん楽しみがあるから」

「……すごい考え方ですね」

「トーマは違う?」

「僕は、ちゃんと知ってから乗りたい派です」

「なるほど。じゃあ相性は補い合えるね」

「補い合える、ですか」

「ボクが先に飛び込んで、トーマがあとで説明してくれる」

「それ、僕がずっと苦労する役回りでは?」

「うん」

「否定してくれません?」


 そこで二人で笑った。


 ノックもなく扉が開き、ミラが顔を出した。


「笑ってるところ悪いが、アウリィ。ひとつ確認だ」

「なに?」

「さっきみたいに精霊の流れを読むの、走行中もできるか」

「たぶん。近いほうが聞きやすいけど、風が通ってれば外の乱れも拾えると思う」

「“たぶん”が多いな」

「だって初めての世界だもん」

「……それもそうか」


 ミラは腕を組んでドア枠にもたれた。


「この世界の精霊は、気難しい。機関に組み込まれて働くのが当たり前で、人の都合に慣れすぎてる。自然の連中みたいに優しくない」

「うん、さっき感じた。せっかちで、忙しくて、ちょっと怒りっぽい」

「言い得て妙だな」


 彼女は少しだけ感心したように頷く。


「相性が悪ければ無理はするな。観測が抜けたら抜けたで、別の手を考える」

「大丈夫。仲よくなる努力はするよ」

「努力、か」


 ミラは視線を窓の外へ向けた。夕方の煤色の光が、彼女の横顔を少しだけ柔らかく見せる。


「機械も人も精霊も、わかり合うには手間がいる。手間を惜しむと、こういうことになる」


 たぶんそれは、黒釘のことだけを言っているんじゃない。


 ボクはこくりと頷いた。


「じゃあ手間をかけよう。旅はそのための時間がいっぱいあるから」

「……変な慰め方をするな、お前」

「慰めたつもりはないよ」

「なお悪い」


 でも、ミラは少しだけ笑った。


「十分後に発車だ。来い。機関車の外側から風を見る」

「了解、技師長」

「誰が技師長だ」

「違うの?」

「違わないが、そう呼ばれると妙にくすぐったい」


 それは新しい発見だったので、ボクはしっかり覚えることにした。



      ◇



 発車の汽笛は、胸の奥まで震わせる音だった。


 ホームの縁、先頭車両の横。ボクはマントの裾を押さえながら、走り始める前の風を感じていた。石炭の燃える匂い。温められた鉄の匂い。そこに遠く、街の外から流れ込んでくる冷たい灰霧の気配が混じる。


 見送りの人々が手を振っている。

 駅員たちが最後の確認を終え、旗が上がる。

 時計塔の大きな針が、ちょうどの時刻を指した。


「ヘリオス号、発車!」


 トーマの声が通る。


 がちゃん、と連結器が鳴り、車輪がゆっくりと回りはじめた。巨体が軋み、重さを引き連れて前へ進む。その瞬間、機関の中の精霊たちがいっせいに息を合わせたのがわかった。


 まだ完全に仲よくはなれていない。

 でもさっきよりずっと、声が聞こえる。


 走るよ。

 行こう。

 火はある。

 道は前。


 そんな断片が、振動に混じって伝わってきた。


「うん、行こう」


 誰にともなく答えると、隣のミラがちらりとこちらを見る。


「聞こえたのか」

「ちょっとだけ」

「便利だな」

「たまに騒がしすぎるけどね」

「それは機関室の全員が同意する」


 列車はゆっくり速度を上げ、ホームを離れていく。大きなガラス屋根が後ろへ流れ、煤けた街並みが窓の外に広がった。煉瓦の建物、煙突、橋梁、細い路地、青白い灯り。灰色の世界なのに、どこを見ても生きている気配がする。


 いい世界だ、と思った。


 まだ何も知らない。

 だからこそ、たくさん知りたい。


 ボクはポーチから日記帳を取り出し、揺れる車内で膝を机代わりにして書きつけた。


> 旅日記 一頁目、追記

> この世界の列車は、泣いたあとでちゃんと走る。

> 灰色の街はにぎやかで、蒸気の精霊はせっかち。

> ミラは怖そうでやさしい。トーマはまじめで苦労性。

> ボクはまだ何も知らない。

> でも、知らないことは、こわいだけじゃなくて、うれしい。

> だからきっと、この旅も好きになれる。


 書き終えたところで、扉の外からミラの声がした。


「アウリィ、あと五分で最初の観測だ。寝るなよ」

「まだ寝ないよ!」

「その背丈で眠そうな顔をすると説得力がない」

「背丈は関係ないでしょ!」

「大いにある」

「ひどい!」


 扉の向こうで、トーマの笑いをこらえる気配がする。


 ボクは頬を膨らませてから、結局、自分でも笑ってしまった。


 列車は灰色の夕暮れを裂いて走る。

 知らない世界の、知らない道を。


 ボクの記憶は白いままだ。

 それでも、車輪の振動と同じ速さで、新しい今日がちゃんと積み重なっていく。


 それが少し、うれしかった。


 窓の外、遠くに濃い霧の帯が見える。

 きっとあれが、これから越えていく境界線だ。


 ボクは日記を閉じ、立ち上がった。


「よし。次は、外の声を聞きに行こう」


 そうして、蒸気と煤煙の旅の第一歩は、本当の意味で走りだした。

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