4話「彼岸の花、空に咲く」
翌朝、フェンの研究室に四人が集まった。
フェン、ルーシェ、ナディア、そしてアウリィ。狭い部屋に本の山と人が犇めき合い、窓から差し込む朝の光が埃の粒子を金色に照らしている。
アウリィは調査の全てを報告した。カラン礁域の黒い渦。ヴェーラの涙で見た、より大きな裂け目。渦の奥に垣間見た反転世界。下の世界の崩壊が上の世界の精霊力を吸い上げ、連鎖的に島を呑んでいくという構造。
フェンは黙って聞いていた。机の上に広げた群島の地図に、アウリィの報告に合わせて新たな書き込みを加えていく。消えた島の位置。渦の大きさ。精霊共鳴器が示した反応。全てを丹念に記録してから、老精霊学者は深い溜息をついた。
「……反転世界、か」
「フェンは知ってた? 下の世界のこと」
「仮説としてはあった。古文書に『鏡面天球』という記述がある。蒼穹群島の下に、もう一つの群島が存在するという古代の世界観だ。しかし実証はされていなかった。──お前さんが見たものが正しければ、古代の学者たちは正しかったということになる」
「で、爺さん」ルーシェが腕を組んで壁にもたれながら言った。「どうすんだ。下の世界が崩壊してるなら、このままだと上の世界もいずれ同じ道を辿る。穴を塞ぐ方法はないのか」
「穴を塞ぐだけでは根本的な解決にならん」
フェンは地図の上に指を置いた。消えた島の位置を順になぞっていく。辺境から、少しずつ中心へ。
「下の世界が崩壊を続ける限り、新たな穴は開き続ける。塞いでも塞いでも追いつかん。必要なのは──下の世界の精霊力を回復させることだ。ただし」
「ただし?」
「上の世界の精霊力を割いて下に送れば、今度は上が弱る。共倒れになる」
沈黙が落ちた。ナディアが腕を組み、眉を寄せている。
「じゃあどうすればいいの。八方塞がりじゃないの」
「一つだけ、方法がある」
フェンの深緑の目が、アウリィを見た。
「境界の安定化だ。上と下の世界の間にある境界──雲海と呼んでおるが、あの層は本来、二つの世界の精霊力の均衡によって保たれている。均衡が崩れたから穴が開く。ならば、境界そのものに精霊力を注ぎ込み、安定させれば、少なくともこれ以上穴が開くのを防ぐことはできる」
「境界に精霊力を……」
アウリィは考えた。境界とは雲海のこと。あの白い雲の層が、二つの世界を隔てている。そこに精霊の力を注ぐ。
「でもフェン、それって結局、上の世界の精霊力を使うことになるんじゃ」
「通常の精霊術ではな。だが──」
フェンは椅子から立ち上がり、本棚の奥から一冊の古びた書物を引き出した。金の箔押しがされた革表紙。開いたページには、古代の文字と、精密な術式図が描かれていた。
「精霊の大循環。古代の術者たちが行ったとされる大規模精霊術だ。上の世界と下の世界の精霊力を、境界を介して循環させる。水が蒸発して雲になり、雨になって海に戻るように。精霊力もまた、循環する仕組みがかつてはあった」
「その循環が止まったから、均衡が崩れた?」
「おそらくは。何百年、何千年という時をかけて、ゆっくりと循環が弱まっていった。下の世界の精霊力が先に枯渇し始め、上から吸い上げるようになった。それが深淵嵐の正体だ」
「循環を再起動できれば……」
「理論上は、そうだ。ただし」
フェンは術式図を指差した。
「これを行うには、精霊と直接対話し、上下両方の世界の精霊に同時に働きかけることのできる術者が必要だ。風精石を介した通常の精霊術では到底不可能な──」
全員の目が、アウリィに向いた。
「──ボク?」
「お前さんしかおらん」
アウリィはぱちぱちと瞬きした。それから、術式図に目を落とした。複雑な図形。古代の文字。精霊力の流れを示す矢印が、幾重にも重なり合って渦を描いている。
「……これ、読める。なんでだろう。この文字、知ってる」
「知っている?」
「うん。古い古い文字だ。精霊語の一種。ボクの記憶にはないけど、身体が知ってる。数万年分の身体が」
指先が、無意識に術式図をなぞっていた。流れを読み、構造を理解し、必要な力の質と量を計算する。記憶はなくとも、数万年の歳月で培った術者としての勘が、回路のように機能する。
「……できると思う。ただ、一人じゃ無理。精霊さんたちの協力がいる。それも、この世界の精霊さんたち全体の」
「全体?」
「循環を再起動するには、世界中の精霊が同時に動く必要がある。ボクが起点になって、呼びかけを広げて、精霊さんたちに循環の流れを思い出してもらう。かつてそうだったように、力を巡らせることを」
「思い出してもらう……精霊にも記憶があるのか?」
「あるよ。精霊は世界そのものだから。世界の記憶が精霊の記憶。かつて循環していた頃のことを、精霊さんたちの身体は覚えているはずだよ」
フェンが目を細めた。
「記憶を封印された者が、精霊の記憶について語るか。皮肉なものだ」
「あはは、そうだね。でも、ボクは自分で封印してるだけで、精霊さんたちは封印してるわけじゃないから。きっと大丈夫」
「場所は」ルーシェが切り込んだ。「どこでやるんだ」
「境界に最も近い場所。つまり──」
アウリィは地図を見た。群島の地図の端、雲海の低い場所を示す等高線がある。
「雲海に降りる必要がある」
全員が息を呑んだ。
「雲の下に降りていった者は戻ってこなかったって言ったの、忘れたわけじゃないよな」ルーシェの声が硬い。
「雲の中まで。下まで降りるわけじゃないよ。境界層──上と下の世界の接点になっている雲の層の中で術を行う。そこが一番精霊力の流れが集まる場所だから」
「それでも危険だ。雲の中は視界がゼロになる。気流も読めない。リンデ号の操船は──」
「あたしがやる」
ルーシェが即答した。
「あたしがリンデ号を操る。雲の中だろうが嵐の中だろうが、操船はあたしの仕事だ。あんたは術に集中しろ」
「ルーシェ……」
「言っただろ。一緒に探すって。答えを。この世界を救う方法を。見つけたなら、やるだけだ」
ルーシェの目はまっすぐだった。灰色がかった青い瞳に、迷いはなかった。
「あたしも手伝えることがあるわ」ナディアが手を挙げた。「食料の準備と、港の人たちへの周知。何が起きるかわからないんだから、住民にも知らせておくべきでしょう」
「わしは術式の最終確認と調整を行う。今日中に準備を整えよう」
フェンがそう言って、全員が動き始めた。
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準備は一日がかりだった。
ルーシェはリンデ号の整備に没頭した。雲海への降下に耐えられるよう、船体の防水処理を強化し、風導器の出力を最大限に引き上げる調整を行った。新しい風精石をはめ込み、さらにアウリィの精霊術による直接供給を併用できるよう、接続口を二系統に増設した。
アウリィはフェンの研究室で、術式の詳細を詰めていた。古代の術式図を前に、精霊たちと対話しながら、手順を一つ一つ確認していく。
「ここで精霊力を左回りに巡らせて──いや、逆だ。上の世界から見て左回りだから、境界では……」
「時計回りになる。そうだ。上下で回転方向が反転するのが循環の要だ」
フェンとアウリィの二人で、何度も何度もシミュレーションを繰り返した。精霊たちにも協力してもらい、小規模な力の循環を実験的に起こしてみる。研究室の中で、微かな風が渦を巻いた。
「いける。この手順で合ってる」
「所要時間は」
「精霊さんたちの反応次第だけど──おそらく一刻ほど。その間、ボクは術に集中し続けなきゃいけない」
「一刻か。お前さんの精霊力の持続量で足りるか?」
「……正直、ぎりぎりだと思う。昨日の消耗もまだ完全には回復してないし」
「無理なら──」
「無理じゃないよ」
アウリィは笑った。自信があるわけではない。ただ、やると決めたからやる。それだけのことだ。
「でもね、フェン。一つ気になることがある」
「何だ」
「この術を行ったら──多分、ボクのこの世界での旅は終わる」
フェンが眉を上げた。
「旅が終わる?」
「世界を渡るボクの旅には、いつも終わりがある。その世界でボクがやるべきことが終わったとき、次の世界への道が開く。そういう仕組みになってるみたい。身体がそう言ってる」
「……つまり、この術が成功すれば、お前さんはこの世界から去るということか」
「うん」
静かに、しかし明確に頷いた。
フェンは長い間黙っていた。老いた目が、アウリィの顔を見つめている。黄金の髪。黄色い瞳。彼岸花の髪飾り。小さな身体に宿る、底知れない精霊術の才。そしてその奥に横たわる、数万年の時の重み。
「寂しくなるな」
フェンがぽつりと言った。老精霊学者の声が、わずかに震えていた。
「フェン──」
「いや、いい。お前さんの旅を引き留める権利は誰にもない。……ただ、一つだけ」
「なに?」
「いつか記憶が統合されて、この世界のことを思い出したら──わしらのことを、少しだけ思い出してくれ。老いぼれの精霊学者と、おせっかいな食堂の女将と、空を愛する整備士の女の子がいたことを」
「忘れないよ。絶対に」
アウリィの声は明るかった。でも、その目の奥に、かすかな湿り気があった。
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夕暮れ。港にて。
リンデ号の整備を終えたルーシェが、甲板に座って夕焼けを見ていた。アウリィがそっと隣に座る。二人の間に、沈黙が横たわった。
言うべきかどうか、アウリィは迷った。この術が終われば旅が終わる。ルーシェには──まだ言っていない。
「ルーシェ」
「ん」
「明日の術が終わったら──」
「わかってる」
アウリィが言い終わる前に、ルーシェが遮った。
「あんたが行っちまうんだろ。次の世界に」
「……気づいてたの」
「あんたの顔見てりゃわかるよ。昨日あたりから、時々すごく遠くを見る目をしてる。ここじゃないどこかを見てる目」
アウリィは言葉に詰まった。自分では気づいていなかった。でもルーシェは気づいていた。整備士の目は、細かい変化を見逃さない。
「引き留めないよ」
ルーシェの声は穏やかだった。穏やかすぎるほどに。
「あんたの旅を止める気はない。最初から知ってた。あんたはこの世界の人間じゃない。通り過ぎていく人だ。それは──初めて会った時からわかってた」
「ルーシェ……」
「でもさ」
ルーシェが空を見上げた。茜色に染まった蒼穹。浮遊島のシルエット。風に流れる雲。何一つ変わらない、この世界の空。
「あんたがここにいた時間は、あたしにとって嘘じゃない。通り過ぎていく人でも、一緒に空を飛んだのは本当だ。一緒に怖い思いをしたのも、一緒に笑ったのも。全部本当だ」
「うん。全部本当だよ」
「なら、それでいい」
ルーシェが笑った。いつもの、少し不器用な笑い方。口角の片方だけが上がる、ぶっきらぼうな笑顔。アウリィはその笑顔が好きだと思った。この世界で見た中で、一番好きな景色かもしれない。
「ルーシェ、ボクのトランクに赤い花の種があるの」
「花の種?」
アウリィはポーチから小さな袋を取り出した。中には、黒くて小さな種が数粒入っている。
「彼岸花っていうの。ボクの髪飾りと同じ花。赤くて、綺麗で、強い花だよ。咲いたら見てみてほしいな」
「なんで種なんか持ってるんだよ」
「わかんない。でも、ボクのトランクに入ってたから、きっと大事なものなんだと思う」
ルーシェは種の袋を受け取って、ポケットにしまった。
「空の上で咲くかわかんないけど、植えてみるよ」
「ありがとう」
二人は並んで夕焼けを見た。同じ夕焼けは二度とない。この夕焼けは、今この瞬間だけのもの。アウリィは目に焼き付けるように、一秒一秒を見つめ続けた。
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翌日の早朝。
空は快晴だった。あの日、アウリィが目覚めた朝と同じように、蒼穹がどこまでも広がっている。
港にはフェンとナディアが見送りに来ていた。ナディアは食料の包みを渡しながら、アウリィをぎゅっと抱きしめた。
「気をつけてね。絶対帰ってくるのよ」
「うん。──ナディアさん、空麦のパン、本当に美味しかったよ。ありがとう」
「またいつでも食べにいらっしゃい」
ナディアの声がかすれた。アウリィはもう一度ぎゅっと抱きしめ返してから、身体を離した。
フェンが、一枚の紙を差し出した。術式の最終版だ。
「最後の確認だ。術の起点は雲海の境界層。アウリィが精霊たちに呼びかけ、循環の流れを再構築する。完了まで一刻。その間、ルーシェが操船を維持する。──いいな」
「完璧だよ、フェン」
「完璧なものなどない。だが、お前さんたちなら出来る。わしはそう信じておる」
フェンの深緑の目が、静かな確信を湛えていた。
リンデ号が港を離れた。
今日のアウリィは、甲板の中央に立っていた。風導器の上に掌をかざし、精霊たちとの接続を維持しながら、もう片方の手で精霊共鳴器を握っている。背中のミスリルの聖槍が、朝日を受けて銀白に輝いている。
赤龍の皮のベストの鱗が、風を受けてかすかに鳴った。
「方角はまっすぐ下だ」ルーシェが操舵輪を握りながら言った。「ハルシュタットの真下の雲海に降りる。ここが精霊鉱脈の集積点に近いから、境界層へのアクセスが最も良い」
「うん」
リンデ号が降下を始めた。ゆっくりと高度を下げていく。ハルシュタットの島が頭上に遠ざかり、代わりに雲海が近づいてくる。白い雲の表面が、まるで海原のように波打っている。
「雲海まで五百メートル。三百。百──突入する!」
白い霧が視界を覆った。
一瞬で世界が消えた。上も下も右も左もない。白い闇。音が吸い込まれ、体感温度が急激に下がる。アウリィのマントが魔法の温かさで身体を守り、ルーシェは歯を食いしばって計器だけを頼りに操船を続けた。
「精霊共鳴器の反応は!」
「緑──まだ安全域。もう少し深く」
降下を続ける。雲の中は均一ではなかった。薄い層と濃い層が交互に現れ、時折ぽっかりと空洞のような空間が開ける。そのたびにリンデ号は揺れ、船体が軋んだ。
「ルーシェ、大丈夫?」
「余裕だよ。リンデ号はばあちゃんが設計した船だ。このくらいで壊れるようには作ってない」
強がりだとわかった。でも、その強がりが頼もしかった。
さらに降下すること数分。精霊共鳴器の光が変わった。緑から──虹色に。
「ここだ。境界層」
雲の濃度が急に変わった。白い霧が薄れ、代わりに空気そのものが光を帯び始めた。淡い虹色の光が霧の中に漂い、幻想的な空間が広がっている。上の世界の精霊力と下の世界の精霊力が混ざり合う場所。二つの世界の接点。
「きれい……」
思わず声が漏れた。こんな場所が、雲の中に隠れていた。
「ここで術を行う。ルーシェ、船を静止させて」
「了解。ホバリングに入る」
リンデ号が停止した。エンジンが低い唸りを上げ、船体を空中に保持する。風導器への精霊力供給を安定させたまま、アウリィは甲板の中央に正座した。
精霊共鳴器を前に置き、両手を膝の上に置く。目を閉じる。
深呼吸。
──始めるよ。
意識を広げた。今までで、最も深く、最も広く。
自分の身体という殻を超えて、意識が風になった。リンデ号を離れ、雲の中を泳ぐ。境界層の虹色の光の中を、精霊たちの波動をたどって拡がっていく。
上の世界の精霊に触れた。ハルシュタットの風の精霊たち。元気で、人懐こくて、でも少しだけ怯えている仲間たち。
──みんな、聞いて。
さらに意識を伸ばす。ハルシュタットだけではない。周辺の島々へ。もっと遠くへ。蒼穹群島の隅々まで。
精霊たちが応え始めた。一つ、また一つと、意識の網に気配が加わっていく。十。百。千。万。数えきれない精霊たちの存在が、アウリィの意識の中で光の点として灯っていく。まるで夜空に星が一つずつ現れるように。
同時に──下の世界にも意識を伸ばした。境界層の向こう側。反転した空の精霊たち。こちらは──弱っていた。力を失い、散逸しかけ、世界を支えることに疲弊しきった精霊たちの、掠れた気配。
──大丈夫。ボクが繋ぐから。上と下を。もう一度、巡らせるから。
下の世界の精霊たちが、おずおずと応えた。怯えながら、疑いながら、それでも──希望を捨てきれずに。
術式を起動した。
身体が覚えている手順。意識が覚えている構造。数万年の経験が、記憶の封印を超えて、魂の奥底から浮かび上がってくる。言葉にできない。理屈でもない。ただ、身体が動く。意識が流れる。精霊力が循環する。
上の世界の精霊力が、境界層を通じてゆっくりと下に流れ始めた。同時に、下の世界に残された微かな精霊力が、上に向かって昇り始めた。二つの流れが境界層で交差し、螺旋を描いて巡る。
循環が、動き出した。
──もっと。もっと広く。もっと深く。
精霊たちの呼応が加速した。一つの精霊が循環に加わると、隣の精霊も誘われるように動き出す。連鎖反応のように、循環の輪が広がっていく。島から島へ。空域から空域へ。
アウリィの身体から精霊力が流れ出していた。自分の力を使っているわけではない。自分は導管だ。上と下の精霊力が自分の中を通過し、行き先を見つけて流れていく。だが、導管にも負荷はかかる。身体が熱い。手が震える。意識がぼやける。
──まだ。まだ足りない。もう少し。
循環は拡大を続けていた。だが、完全に安定するまであと一歩が足りない。下の世界の精霊が弱りすぎていて、循環に自力で加わるだけの力が残っていないのだ。背中を押すもう一手が必要だった。
何かが、アウリィの意識の底で動いた。
封印されているはずの記憶の、そのさらに奥。数万年の歳月の底に沈んでいる、最も古い記憶の欠片が──振動した。記憶そのものは浮かび上がってこない。ただ、感情だけが。
──ああ、ボクはこれを知っている。
世界が壊れかけるのを見るのは、初めてではない。
誰かのために手を伸ばすのも、初めてではない。
そして──手を伸ばした先で、何かを失ったことも。
数万年の旅の中で、どれだけの世界を見てきたのだろう。どれだけの人と出会い、どれだけの別れを重ねてきたのだろう。そのすべてが封印の向こうにあって、今の自分には触れられない。
でも。
身体は覚えている。魂は覚えている。どの世界でも、どの時代でも、アウレーリエ・リュコーリアスは同じことをしてきた。手を伸ばした。知ろうとした。守ろうとした。そして──別れても、忘れても、また手を伸ばした。
──それがボクだ。
身体の奥から、温かな光が湧き上がった。記憶ではない。記憶よりもっと深いところにある、存在の核。数万年の歳月が磨き上げた、純粋な意志の結晶。
その光を、下の世界の精霊たちに送った。
──大丈夫。一人じゃないよ。上の世界の精霊さんたちも、ボクも、一緒にいるから。思い出して。巡ること。流れること。生きること。
下の世界の精霊たちが——応えた。
弱々しかった気配が、一斉に輝きを取り戻した。循環の流れに自ら加わり、力を送り、力を受け取り、巡る。上から下へ。下から上へ。螺旋は太さを増し、回転は安定し、二つの世界を貫く精霊力の大循環が——完成した。
境界層全体が虹色に輝いた。
リンデ号の船体が光に包まれ、雲の中が真昼のように明るくなった。ルーシェが計器から顔を上げ、窓の外の光景に目を見張った。
「何だこれ……」
美しかった。言葉を失うほどに。虹色の光の奔流が、雲の中を上下に流れている。精霊たちの歓喜の波動が空気を震わせ、まるで世界全体が歌っているようだった。
アウリィは目を開けた。
視界がにじんでいた。涙だ。いつの間にか泣いていた。嬉しいのか、悲しいのか、自分でもわからない。ただ、胸がいっぱいだった。
「……できた」
声がかすれていた。身体に力が入らない。精霊力を使い果たした反動で、指先の感覚すら曖昧になっている。
「アウリィ!」
ルーシェが操舵輪を離して駆け寄ってきた。倒れそうになるアウリィの身体を支える。大きな手。温かい手。
「できたよ、ルーシェ。循環が……動いた。もう、穴は開かない。深淵嵐は……止まる」
「わかった、わかったから。もう喋るな。帰るぞ」
ルーシェがアウリィを抱え上げた。百四十七センチの小さな身体は、ルーシェの腕の中に軽々と収まった。マントの裾がはためき、彼岸花の髪飾りが光の中で揺れた。
リンデ号は上昇を始めた。虹色の境界層を抜け、白い雲の中を昇り、やがて──青空に飛び出した。
太陽の光が眩しかった。
蒼穹群島の空が、いつもより青く見えた。
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ハルシュタットの港に帰還したのは、正午過ぎだった。
港には人だかりができていた。雲海が虹色に光る現象は地上からも見えたらしく、住民たちが驚きと歓声をもって二人を迎えた。フェンが精霊共鳴器で循環の安定を確認し、深い安堵の息を漏らした。ナディアはアウリィの顔を見るなり泣き出した。
風見鶏亭のベッドに寝かされたアウリィは、数時間ほど眠った。
目覚めたとき、窓から差し込む光が橙色だった。夕暮れだ。何度目の夕暮れだろう。この世界に来てから。
「起きたか」
ベッドの横に、ルーシェが座っていた。椅子に腰かけて、壁にもたれている。
「うん。……どのくらい寝てた?」
「五時間くらい。フェン爺さんが言ってた。循環は完全に安定したって。深淵嵐の危険は去ったって」
「そっか。よかった」
アウリィは微笑んだ。身体はまだ重いが、精霊力は少しずつ回復している。風の精霊たちが寄り添ってくれていて、その温かさが身体を癒してくれている。
「ルーシェ」
「ん」
「そろそろだと思う」
ルーシェは何も言わなかった。ただ、唇を引き結んで、まっすぐにアウリィを見つめた。わかっていたのだ。最初から。
アウリィは身体を起こした。ベッドの端に足を下ろし、ブーツを履く。赤龍の皮のベスト。生成り色のワンピース。魔法のマント。腰のポーチ。背中の聖槍。内部拡張のトランク。全て揃っている。旅人の装備。
ポーチから日記帳を取り出した。新しいページを開いて、ペンを取る。
『蒼穹群島の旅が終わる。深淵嵐の原因を見つけて、精霊の大循環を再起動した。この世界はもう大丈夫。ボクがいなくても、精霊たちが循環を維持してくれる。ルーシェが空を飛び続けてくれる。フェンが研究を続けてくれる。ナディアがみんなの胃袋を満たしてくれる。──この世界で出会った全ての人と精霊に、ありがとう。ボクはまた新しい世界に行く。また記憶を封印する。でもこの日記には、全部残っている。ルーシェの不器用な笑顔も、フェンの優しい目も、ナディアの温かい手も、空魚のグリルの味も、朝焼けの空の色も。全部、全部ここにある。──未来のボクへ。この世界は美しかった。ここで過ごした時間は、宝物だった。忘れても、いつかまた思い出して。そして笑って。ボクはいつだって笑っていたいから』
ペンを置いた。インクが乾くのを待って、日記帳を閉じた。
食堂に降りると、フェンとナディアがいた。言わなくても、二人とも察していた。アウリィの纏う空気が変わったことを。旅人が旅立つ時の、あの独特な静けさを。
「もう行くのね」
ナディアが言った。目が赤い。
「うん。ありがとう、ナディアさん。ご飯、すっごく美味しかった」
「いつでも食べにいらっしゃいって言ったのに……」
「あはは、ごめんね」
フェンが前に出た。皺だらけの手がアウリィの手を取る。
「世界を渡る旅人よ。お前さんのおかげで、この空は救われた。礼を言う」
「フェンのおかげだよ。術式を見つけてくれたのはフェンだし、精霊のことを教えてくれたのもフェンだ」
「いや。お前さんがいなければ、わしの知識は宝の持ち腐れだった。──感謝しておる。心から」
フェンが頭を下げた。長い白髪がさらりと揺れた。
アウリィは食堂の扉を開けた。夕暮れの風が吹き込んでくる。ハルシュタットの風灯が、一つ、また一つと灯り始めている。
「外、出よう。ルーシェ」
「ああ」
二人は港まで歩いた。リンデ号が係留された桟橋の先端で、並んで空を見上げた。
夕焼けだった。
橙と紅と金が混ざり合い、空全体が燃えている。浮遊島のシルエットが黒い影絵のように浮かび上がり、雲海の表面が夕日を反射してどこまでも輝いている。遠くで風燕の群れが飛んでいく。白い体と青い翼が、茜色の空に一筋の線を描く。
「きれいだね」
「ああ。きれいだ」
二人は同じ空を見ていた。同じ夕焼けを。同じ風を感じていた。
「ルーシェ」
「ん」
「ボクね、この世界に来てよかった」
「……あたしも。あんたに会えてよかった」
「泣きそう?」
「泣かないっつの」
「ボクは泣きそうだよ」
「……泣くなよ。あたしまで泣くだろ」
「えへへ。──ねえ、一つだけお願いしていい?」
「何だよ」
「空を、飛び続けて。ボクがいなくなっても。リンデ号で、この空を」
「当たり前だろ。あたしは飛空艇乗りだ。空を飛ぶのがあたしの仕事だ。あんたに言われるまでもない」
「うん。知ってる」
アウリィの足元が、淡く光り始めた。
光は石畳の隙間から湧き上がるように広がり、アウリィの身体を包んでいく。温かくて、優しい光。次の世界への扉が開こうとしている。
「──来た。行かなきゃ」
「ああ」
ルーシェが一歩前に出て、アウリィの前に片膝をついた。視線の高さが、ようやく同じになる。
「あんたのこと、忘れないよ。あたしは記憶を封印したりしないからな」
「うん」
「あんたがどこの世界にいても──この空の下で、あたしは飛んでる。それだけは覚えておけ」
「覚えてる。日記にも書いたから、忘れても思い出せる」
ルーシェが手を伸ばした。アウリィの手を握る。最後の握手。
「またな、アウリィ」
「またね、ルーシェ」
光が強くなった。アウリィの身体の輪郭が淡く溶けていく。風の精霊たちが、別れを惜しむようにアウリィの周りをぐるぐると巡った。アウリィは精霊たちに微笑みかけた。
「ありがとう、精霊さんたち。元気でね」
ルーシェの手から、アウリィの手が離れた。触れていたはずの指先が、光に溶けていく。
「──ルーシェ」
光の中から、最後の声が聞こえた。
「彼岸花、ちゃんと咲かせてね」
「……ああ。約束する」
光が、弾けた。
アウリィの姿が消えた。
桟橋の上には、風だけが残った。夕暮れの風。精霊たちの残り香のような、花の匂いがする風。
ルーシェは立ち上がり、空を見上げた。目が赤い。でも、泣いてはいない。泣かないと決めたのだから。
ポケットに手を入れると、彼岸花の種が指先に触れた。
「……馬鹿。泣くなって言っただろ」
誰もいない桟橋で、ルーシェはそう呟いた。
空を、風燕が飛んでいく。
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◇
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目を開けると、空があった。
青い空ではなかった。赤い空だ。二つの太陽が地平線に並んで沈んでいく、見たことのない空。足元には金色の砂が広がり、遠くに尖塔の並ぶ都市の影が見える。乾いた風が頬を撫でて、砂の粒子をきらきらと舞い上げた。
「……あは」
アウレーリエ・リュコーリアスは笑った。
何も覚えていない。名前と、種族と、身体に刻まれた技術以外は。記憶を封印している。自分でそうした。理由はわからないが、そうするべきだと決めた過去の自分がいる。
ポーチから日記帳を取り出した。最後のページを開く。
『新しい世界へ行く。記憶は封印する。いつものことだ。大丈夫。ボクは何度だって、新しい景色に感動できる。それがボクの選んだ旅の形。──楽しんでおいで、次のボク』
おなじみの伝言。過去の自分から、今の自分への手紙。
その手紙の下に、小さな文字が一行だけ加えられていた。前のページにあったものとは違うインクの色。ごく最近書かれたものだ。
『P.S. ルーシェという名前を覚えていなくても、空を見上げたとき胸が温かくなったら、それはきっと──大切な人がどこかの空を飛んでいるから』
「……ルーシェ?」
知らない名前だ。覚えていない。でも──。
アウリィは赤い空を見上げた。
胸が、温かかった。
「えへへ。なんだろう、この気持ち」
理由はわからない。でも、嬉しい。この嬉しさに名前はなくても、ここにある。胸の奥で確かに灯っている。
アウリィは日記帳を閉じ、トランクを持ち上げ、金色の砂漠に一歩を踏み出した。
「さあ、新しい世界だ! 何があるかな!」
赤い空の下、小さな旅人の影が歩いていく。
黄金の髪が風になびき、彼岸花の髪飾りが──追想の花が、新しい世界の光の中で、静かに揺れていた。




